そして、夜が明ける
体中虫刺されになった。
まあよく考えれば当然のことである。草をしきつめただけの穴ぐらに虫がいないと考えるほうがおかしい。毒蜘蛛や蠍がいなかっただけマシと考えるべきだろう。それでもよく眠れたのは昨日あれだけ動いたからに違いない。
しかし、代償はそれだけではなかった。
(体が……動かない……)
筋肉痛だ。
これまでの不摂生を考えれば当然だろう。ここ数年は原付でコンビニか弁当屋に行くくらいで、歩くことなどめったになかった。重たい買い物などは通販ですませていたし、最近はカップラーメンすら通販で買っていた。
「あ、ラーメン食いたい……」
わずか一日で現世の飯が恋しくなっていた。
体は動かないが腹はへっている。朝の日差しが格子の隙間から差し込む。どれくらい時間が経ったかはわからない。
あらためて穴ぐらの中を見渡す。夜はわからなかったが意外と中は広い。12畳くらいの自然洞窟だろうか、奥の方がやや緩やかに下っている。最奥では岩の裂け目からちょろちょろと水がわき出ていた。飲み水になるかもしれない。
ふと、影が差す。寝転んだまま首のみかしげて見上げれば、昨日のエルフの少女がいた。腕を組んで見下ろしている。
昨日のことが思い出される。後ろから蹴られてこの穴に落とされたのだ。そう思うと可愛らしい顔が急に憎たらしく見えてくる。
「何の用だよ」
言葉が通じないことはわかってるが思わず口に出す。だがそれに対する応えは意外なものであった。
指輪のようなものを投げられた。緑色の蔦が絡まったような、不思議な指輪である。それを指にはめろというジェスチャーをされる。動かない体を引きずり、指輪を拾い、はめる。それを見たエルフの少女が不快そうな顔をしたように見えたが、おそらく気のせいだろう。ずっと不機嫌な顔をしているのも気のせいのはずだ。
「出ろ。沙汰がある」
はっきりとした日本語が聞こえてきた。いや、なにやら別の言語とダブって聞こえる。副音声のような、だがあまり違和感はない。まさかこれが世に聞く翻訳アイテムというやつか。ようやく運が回ってきたらしい。そう思うと心に余裕が出てくる。
「何をぐずぐずしている。さっさと来い」
余裕は一瞬で打ち砕かれた。
見上げればもう穴の入り口は開いていた。体を起こそうとするが筋肉痛でまともに動かない。ようよう這い出すが彼女の視線は冷たい。せめて弁解は必要だ。
「こっちは筋肉痛なんだ。もっと優しくしてくれ」
「ヒト風情が余計な口を叩くな」
けんもほろろだった。悲鳴をあげる体に鞭うって彼女についていく。しかしあらためて光の中で見ると美しい。柔らかく長い髪が風に揺れている。白磁のような肌は、しかし若々しく血色がよく健康的だ。これで口の悪さがなければいいのだが。
(いや、ツンデレツンデレ。そう思おう)
じろりとにらまれた。ちょっと怖い。
ついて行った先は昨晩見た一番大きなドームであった。蔦の絡みあったドームには隙間があり、そこから中に入る。中は予想外に広く明るかった。天井から蔦ごしに光が入っているせいだ。窓らしいものはないが空気によどみはない。自分の部屋とは大違いだ。カーテンのような仕切りがあるが、それ以外の調度品、どころか家具すらない。その割りに殺風景な印象を受けないのが不思議だ。
ぼうっとしていると、目の前のカーテンが引かれ、エルフの女性が現れた。
それは今まで見た中で一番美しい女性だった。長くウェーブのかかった髪は月の光を清流ですすいだように清廉な金。こちらを見る優しげな瞳は空をまるまるひとつ閉じ込めたような深みと神秘性を秘めた青。透明感のある白く艶やかな肌は傷ひとつなく、まるで触れるのもおこがましい芸術品を思わせた。それでいてその身体は確かに生命の息吹を感じさせる。ともすれば下品になりかねない寸前の肉をまとった、しかし古代の芸術品を思わせるボディラインが薄緑の柔らかなドレス越しに浮かぶ。年齢は二十台とも四十台ともとれるが、その気品のあるたたずまいは齢九十近い某国の女王陛下を思い起こさせた。
「我が女王。咎人を連れてまいりました」
いつの間にかとなりの美少女エルフかかしづいていた。しかしこうして見比べると同じエルフでも全然違う。たしかに美しさはかなわないが、それとひきかえにみずみずしさ、若々しさがあふれている。
「そこなヒトよ」
その声には聞くものを思わずひれ伏させるような威厳が含まれていた。そしてこちらに向けられた目にはまるで心の中を見透かされているような印象すら浮かべる。アッハイ、若さだけが全てではありません。
ちょっと視線がやわらいだ気がした。
女王と呼ばれたエルフが続ける。
「あなたはヒトとエルフの約定をやぶり我らが森に入り、あまつさえ恵みを屠りました。申し開きがあるのならこの場で述べなさい」
はあ。
どうやらこの世界では人間とエルフに不可侵条約みたいなものが結ばれているらしい。で、それを俺がやぶったというわけだ。それで少女エルフの方は怒ってるわけか。だいたい理解した。それならやりようがある。ひとつ咳払いをし話し始める。
「女王様、俺はこの世界の人間ではありません。ですからその約定というものも知りませんでした。ですので、どうにか勘弁してもらえないでしょうか」
よし、完璧だ。
「ほう、そのほうはこの世界のヒトではないと」
一瞬空気が変わった気がした。
「なれば我らの、古代よりの法に則りその罪を裁こう。森の枝を手折った者にはその骨をもって、森の実を盗んだ者にはその肉をもって贖いとする。この者の罪状は?」
「はい。おそれながら我が女王。この者は六つの枝を折り、四つの森の実を盗みました」
全然完璧じゃなかった。
「いやいや!確かに悪かったのは俺だけど!あくまで過失であってそこまでのことをされるいわれは」
女王の冷ややかな視線が突き刺さり、思わず口ごもる。まるで豚を見ているような目であった。
それだけで理解してしまった。ここで俺が何を言っても無駄なのだ。
急に気力が萎えていく。力が抜けてへたりこむ。そういえば全身筋肉痛っだたということを忘れていた。体中の痛みがぶり返してくる。目の前が真っ暗になった。
そこからどうされたかは覚えていない。気がついたら例の穴ぐらの中にいた。
幸い刑はまだ執行されていないらしい。だがそれがどうしたというのだ。最早逃げる手段はない。あそこで追いかけるという選択肢さえ選ばなければよかったのだ。そもそも森にさえ来なければ。いやそもそも……。
ぐるぐると思考が回り続ける。だが、最後まで結論はでなかった。