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熱感

 昔誰かが言っていた。

 一人暮らしでは病気が一番怖い、と言っていた。

 重い風邪をひけば死ぬ、と言っていた。


 眠り過ぎた所為か、酒を浴びる様に飲んだ所為か、泣き明かした所為か、風邪の所為か。理由は分からないが、意識が重たくはっきりしない。起きる事すらままならず布団で寝ていたが、窓の外から傍若無人にやって来る熱気の所為で頬の辺りがむかむかとする。上の階か下の階かはたまた隣の部屋か分からないけれど、何処からか子供の鳴き声が聞こえてきて妙に心が落ち着かない。落ち着かない心が落ち着かないままに、はっきりとしない意識の中で動き回るので、手足がむずむずと心地悪い。

 顔を捻じ曲げて頭の向こうの窓に目をやると、ベランダに鉢植えがあった。鉢植えには夏休みの宿題でミニトマトが生えている。けれど水気の足りない所為で枯れ始めている。枯れた葉の合間に向かいのマンションの一室が見えた。窓もカーテンも開け放たれ、部屋の中が良く見えた。同じ団地の、時たま顔を合わせる間柄とはいえ、妙に無用心で不快だった。

 向かいの部屋には子供が一人だけで遊んでいた。陰った部屋の隅でひっそりと積み木を積み上げて塔を作っている。

 そこに白い女がやって来た。向かいの部屋の人間では無く、この辺りでは見ない女だった。見知らぬ女だなと思っている内に、子供を抱き上げてベランダに出てきた。何だか危ない気がしたが、かと言って閉まった窓越しに注意を呼びかける訳にもいかない。ましてその白い女はまるで知らない女で、この辺りで顔も見た事の無い余所者に、わざわざ注意すれば面倒で恥ずかしく、恨みを買えば恐ろしくて、私は何も出来ずに見守るしかなかった。白い女が俯きがちで居る為、こちらと目の合わない事が幸いだった。

 白い女は片手で子供を抱きながら、身軽にベランダの手摺に上り、そうしてぴょんと前に出て、軽々と足を踏み出し落ちていった。その一瞬、女と目があって、妙に見開かれた真ん丸とした目を恐ろしく感じた。肌が粟立つ程だった。粟立ちが起こった時には、女と子供は視界の外に消えてしまって、もう見えなかった。

 なんだかはっきりと理解できなかったが、不思議な事もあるものだと思い、あまりこの辺りでは起こらない事だと考えるとそれが不気味な事の様に思われだした。隣の部屋で子供が遊んでいる事を思い出して、妻はしっかりと子供を見ているのだろうかと気になった。

 おーいと呼びかけるが返事は無い。隣の部屋からは子供の笑い声が聞こえてくる。それがまた不安を大きくした。妻の居る様子は無い。不安に思って、寝返りを打って、子供の居る部屋に顔を向けると、襖の間から赤子の足が見えた。ぱたぱたと交互に足を上げ下げしている。もこもこと水色のベビー服が妙に暑そうだった。時折笑い声が聞こえてくる。

 もう一度、おーいと呼びかけるが返事は無い。赤子の妙に楽しそうな声だけが渦を巻く様に聞こえてくる。

 もう一度声を掛けようか逡巡していると、突然赤子の足が摺り動いて隠れ始めた。

 するするとコンベアに運ばれる荷物の様に、抵抗も無く流れて見えなくなる。完全に見えなくなった時、赤子の笑いが一際大きく鳴った。

 その瞬間、赤子の足が見えていた場所に、急に女の顔が飛び出してきた。大きく見開かれた真ん丸な目がこちらを見て、にやりと笑うと、大きな口を開けて、赤子の笑い声を上げながら、赤子の足と同じ様にするすると消えていった。あまりに唐突だったので、一瞬心臓が破裂したかと思う程跳ねて、それからしばらく押し上がりそうな程激しく動いていたが、やがて鼓動が収まる内に今のは何だったのだろうと不思議に思った。

 今の女と赤子は誰だったのかと考えてみても覚えがない。その癖、何かを思い出せそうな予感がある。けれど鳴り響く声が思考を塞ぐ。

 子供の泣き声がぐわーんわーんと渦巻いている。渦を巻いて満ちている。既に妻は居ない。手を伸ばすが子供もまた沈んでいった。ぐわーんわーんと頭が揺れる。水底に泥が満ちている。川岸で河童が笑っている。テントを張っている。自転車に乗っている。ぐわーんわーんと騒がしい。ぼうぼうと煙たい部屋の中に人々が犇めいてがちゃめいている。女と子供が笑っている。何かを思い出せそうだが、口から漏れる泣き声が全ての邪魔をする。


 ふと全てが止まった。唐突にまるっきりの静寂が訪れた。何か思い出せそうでじっと考える内に思い出した。

 昔誰かが言っていた。

 一人暮らしは病気が怖いと言っていた。

 重い風邪を引けば死ぬと言っていた。

 窓を見ると、目を見開いた女がへばりついて、部屋の中を覗き込んでいた。

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