駒鳥を殺したのは誰が駒鳥か
「
「
「
「ああ、そっか。世界史の授業中だからミイラが落ちたんだなと思った。」
「そんな訳あるかと心の中で突っ込みを入れて、もう一度よく窓を見た。窓の向こうには薄らと空が広がっていて電線と電信柱が下からひょこりと顔を出している。」
「いつもと変わらない景色だ。二階の教室の自分の席から、授業に飽きて窓を眺めた時の晴れ空だった。」
「だがほんの数瞬前は違った。確かに窓の外をミイラが逆さになって下へ落ちて行ったのだ。長い茶髪が足にまで巻きついた干からびた顔のミイラが上から下へ一瞬だけ通り過ぎたのだ。確かにその時それを見て、私の背中に寒気が走ったのだ。」
「見間違いだとは思う。もしかしたら眠ってしまっていたのかもしれない。けれどどうしても気になった。今すぐにベランダに出て下を覗いてみたくてたまらなかった。もしかしたら地面にミイラがへばりついているかもしれないのだ。怖くて、興味深くて、見たくて見たくて仕方が無かった。」
「だがまだ授業中で、黒板にチョークを叩きつけながら文字を書く先生は怖いと評判の先生で、時計を見ると授業の終わりまで後二分で、私は仕方なしに席に座って授業の終わりをじっと待った。」
「何だか胸がどきどきしていた。怖いのもそうだし、楽しみなのもあった。もしも見つけてしまったらどうしようと考えた。」
「鐘が鳴ったのと同時に、私は脇目も振らずにベランダに出て下を覗き込んだ。」
「ベランダの下を確認して、私は即座にやっぱりと思う。」
「やっぱり。」
「下には何も無かった。誰も居ない侘しい校庭がどんよりと太陽に照らされていて、覗き込んだ真下にはコンクリートで出来た通路があって陽の光を照り返して白くくすんでいた。」
「見間違いだったのか。」
「安堵しつつ残念に思って、踵を返して教室に入ろうとして、」
「私の足が止まった。」
「何の意味も無く、何の根拠も無く、何の理由も無く、教室の中に入ってはいけない気がした。いきなり呼吸が止まって、手足の先が痺れて動かなくなった。」
「じっと教室の中を見つめていると、今度は教室の中をこれ以上見ていてはいけないと思う様になった。体が強張って動かない。けれどそんな私の異常なんか気付かずに教室のみんなは騒いでいる。まるで私の居るベランダとみんなの居る教室が別世界になった様。その違和感がどんどんと肥大化して、それが猜疑心に変わっていった。これ以上見ていると、私と教室の隔たりが更に広がって、足元が瓦解して、奈落の底へ落ちてしまう気がして、足元がおぼつかなくなった。」
「見てはいけない。見てはいけない。」
「心の中で何度もそう念じるのだが、どうしても視線を逸らす事が出来ない。段々と不安な心は増長して、息苦しさが募った。息が出来なくなって、体中から冷や汗が頭へと上ってきて、私は、来る、と思った。」
「来る。」
「その瞬間、教室の天井から床へミイラが逆さまに落ちていった。長い茶髪が足にまで巻きついた干からびた顔のミイラが重力に引かれて床へと突っ込んで、そのまますり抜けて消えた。」
「恐怖に総毛だって怯えて竦んで動けなかった。呼吸どころか思考すらできない。だが、私が動けずに凍り付いているのに、教室の中はいつも通りの騒がしさで休み時間を消費している。騒がしさが一瞬一瞬をどんどんと上書きしていく。教室の中は喧騒と共に混ぜ返されて、一瞬前のミイラの残滓は跡形も無く消え去っていた。」
「誰にも見えなかったんだ。」
「それが分かった瞬間、体が動く様になって、私が恐る恐る教室の中に戻ると、スピーカーから鐘が鳴った。授業が始まる。」
「先生の声が朗々と響く。いつも通りの日常だ。周りを見渡すと皆暇そうに前を向いたり、下を向いたり、横を向いたりしている。いつも通り。何も変わりが無い。さっき見たミイラなんてまるで無かった様に。いや、きっと実際に無かったんだ。そう自分を奮って私は板書を取ろうと黒板を見つめて目を見張った。」
「黒板の上の縁から小さなミイラが逆さに現れ、黒板伝いに落ちて行って、下の縁に辿り着くと消えた。かと思うと、再びミイラが上縁から下縁へ落ちた。今度は一人ではなく流れる様に何人も、黒板の横端から横端へ、黒板を埋め尽くす勢いでミイラの滝が出来上がった。目を疑う光景だった。」
「冗談の様な光景に呆然としていると、ある瞬間を境にミイラはぷっつり止まって、後は平生通りの授業風景が残った。教室で騒ぎが起こる気配はまるで無い。」
「やっぱり誰もミイラなんか見てない。」
「私にはあんなにはっきり見えるのに、みんなには見えてないんだ。私はちらりと横に座るクラスメイトを見た。クラスメイトは暇そうにして前を向いている。その向こう、クラスメイトの頭を幾つか飛び越えた先の廊下に面した壁、その一番上の明り取りの窓に一瞬だけミイラの姿が映った。」
「そこら中にミイラが居る事に気が付いて、私は俯いた。授業中、私はずっと俯いて決して顔を上げなかった。」
「ミイラは何処にでも現れた。天井や黒板、空からも落ちてくる。トイレに入って用を足している時に目の前にミイラが落ちてきた時は心臓が止まるかと思った。机の中を覗き込んだら、その引き出しの中の狭い隙間をミイラが落ちていった。人と目を突き合わせると、その人の瞼の間を爪の先位のミイラが落ちていった。給食の時に料理の中へ次々とミイラが飛び込んでいくのを見た時は吐き気を覚え、結局給食を食べられなかった。ミイラは何処にでも現れた。」
「私はその日出来るだけ下を向いて過ごした。とにかくミイラを見たくなかった。出来るだけ下を向いて過ごし続け、学校が終わった時にはほっとした。ようやくミイラが飛び降りる学校から離れられる。」
「帰り支度をしている間にも、視界の端をミイラが落ちていく。それが怖くて、目を瞑りたくなる。教室を出た時にも、廊下の向こうにミイラが落ちた気がした。私は更に下を向く。」
「そうして正門を抜けて、私は晴れ晴れとした心地で、前を向いた。」
「その視界の先の空の彼方を、ミイラが逆さまになって落ちていった。」
「私は愕然として、辺りを見回した。見回してみれば、そこら中でミイラが落ちていた。
長い茶髪が足にまで巻きついた干からびた顔のミイラは学校を出ても消えなかった。」
「私は怖くなって走った。とにかくミイラから逃れたい一心で駆けに駆けた。目からは涙が溢れてきて、自分の心が掴み所の無い位にぼろぼろになっている事にようやく気が付いた。」
「とにかくミイラの居ない所へ。ミイラの見えない所へ。」
「そう願って懸命に走ったが、突然目の前に逆さのミイラが現れ、すぐに下へと消えた。驚いて立ち止った私はもう走れなくなって、その場に座り込む。」
「蹲って、腕で目を覆って、絶対にミイラを見ない様にする。けれど目を瞑った闇の中に、何だかミイラが見える気がしてくる。能々辺りに気を配ると、私の体を取り巻く闇の中をどんどんとミイラが落ちている気がする。そう思うと怖くなって、このままこの場でへたり込んでいて良いものかどうか迷う心が生まれた。」
「その時、急に口の中に違和感を覚えた。どうにも舌の座りが悪い気がする。だがすぐに違うのだと分かって、戦慄した。私の口の中にも、長い茶髪が足にまで巻きついた干からびた顔のミイラが落ちているんだ。」
「自分の体の中をよく意識すると、口の中だけでない、お腹の中や胸の中や目の奥でもミイラが落ちていた。」
「咄嗟に気持ち悪さが込み上げてきて、私は地面に手を突いて、死にたい気持ちを感じながら、口を開いて、地面のごつごつとしたコンクリートを見つめながら、えずいた。」
「コンクリートに影が差した。人の影だった。またミイラかと私は体を固くする。」
「「どうしたの? 気分でも悪い?」」
「生温い湿り気のある声が聞こえた。しっかりと発音すれば良い声なのに、わざと崩して間延びさせた様な声だった。」
「私が顔を上げると、私と同じか少し年上の女が私の事を覗き込んでいた。黒髪のショートボブに不健康な白い肌、整った顔立ちに倦み疲れた様な表情をしていた。腐り落ちていく途中の林檎の様だと思った。」
「私が突然の出現に戸惑ってただ見上げていると、女は一度首を傾げてから、私に手を差し伸べてきた。」
「「私の名前は山上愛実。貴方のお名前は?」」
「私が尚も呆として見上げていると、愛実と名乗った女は笑みを向けてきた。何だか人を誘い込む為の怪しい笑顔に見えた。」
「「そんなに警戒しないでよ。ただ気分が悪いんじゃないかって心配しているだけなんだから」」
「確かにその通りで、親切にしてもらっているのに、何か勘ぐる様な、失礼な事を考えてしまっていた。」
「愛実が再度手を差し伸べてくる。私は迷ったが、その手を取った。手が引かれる。微弱な力が伝わってくる。」
「「早く立ち上がってよ」」
「引き上げてもらえる訳じゃないんだと幾分の期待外れを感じつつ、もう片方の手を地面に突いて立ち上がった。」
「立ち上がると、愛実はまだ私の手を掴んで離さず、私の事をじっと見つめている。何だろうと疑問に思う。」
「「それで?」」
「愛実が言った。その言葉の意味が分からずにいると、愛実が笑う」
「「何かあったんでしょ? 話してみて」」
「いきなりそう言われた。」
「「何だか座り込む時の様子がおかしかったし、単純に気分が悪くなった訳じゃないんでしょ?」」
「私は頷いた。」
「愛実の笑みが深くなる。」
「「何か不思議な事でもあったの?」」
「問いを聞いて、私は愛実の事を思い出した。閃いたと言った方が良いかもしれない。少し前に丘の上のお金持ちの家が燃えた事がある。その燃えた家の名前が山上だった。確か女の子が一人と使用人が一人助かったのだと聞いた。それが目の前の愛実の事なのかもしれない。助かった女の子は頭が変になっておかしな事を口走る様になったのだと聞いている。何となく愛実の醸す雰囲気がその噂と重なった。」
「私は学校で起きた事を話そうと思った。誰にも信じてもらえそうにない笑い話だが、目の前の妖しい女なら本気で相談にのってくれそうな気がした。そんな事を考える位に、私の心は追い詰められていた。」
「私はしばらく迷ったけれど語る事にした。私が語る間、愛実の目が段々と興味の色を強くして爛々と輝き始めた。」
「語り終えると愛実はくふふと小さく笑った。」
「何か理解の及んだ様な様子だったので、私は尋ねてみた。」
「「あの、何か分かったんですか?」」
「愛実は笑みを浮かべたまま、私の手を放して、背を向けた。」
「「とりあえず家へ行きましょう。立ち話も何だから」」
「私は今すぐにでも答えを聞きたかったのだけれど、愛実がさっさと歩いていってしまうので、仕方なしに後を追った。愛実の家はすぐ近くで、背の高いマンションだった。マンションの中に足を踏み入れた瞬間、空気が違った様に静謐な冷たさを感じた。外の空気よりも暖かいのに、不思議と鳥肌が立った。」
「エレベーターに乗り込んだ愛実は躊躇なく最上階のボタンを押す。しばらくすると扉が閉まる。閉まる瞬間、私は気が付いた。そういえば、愛実と出会ってからミイラを見ていない。」
「最上階に出て、私は驚いた。長い廊下があるのに、扉はエレベーターの正面にある一つだけだった。私が不思議に思っていると、愛実が親戚の好意だと言った。それ以上聞いても答えてはくれなかった。」
「扉を開けると、玄関に女の人が立っていた。大学生位の、明るいブラウンの髪を腰まで伸ばして快活な笑顔を見せるお姉さん然とした女の人だった。」
「「お帰り、愛実」」
「女の人は嬉しそうにそう言ってから、愛実の後ろに居る私を見つけて、途端に驚いた表情になった。」
「「お友達?」」
「「うーん、まだ分かんない」」
「「すぐにお茶のお用意をするから」」
「そうして慌ただしく何処かへ駆けて行った。」
「「上がって」」
「女の人を見送る私に、愛実が言った。促されて私は靴を脱ぐ。脱ぎながら残念に思った。噂が本当で、それが愛実の事であるなら、姉など居ないはずだ。だが居たという事は、愛実と噂は別物で、つまり愛実の神秘のベールが取り剥がされた様なものである。」
「愛実と目が合った。」
「「今の? 友達兼家事手伝い」」
「まるで私の考えを見透かした様な事を言って、一つ笑うと、愛実はそのままさっさと歩いて行ってしまった。靴を脱ぎかけていた私は慌ててその後を追った。」
「愛実の部屋に通されて、出されたクッションの上に座った私はその広い部屋を見渡した。少なくとも私の部屋の三倍はある。私が愛実に抱いている何処か人と違った印象と違って、可愛らしい家具やぬいぐるみや小物に溢れている。それが綺麗に整頓されている。雑然とした私の部屋と大違いだ。何より良いのが、外国のお城にでもありそうな、天蓋付きの彫刻が入った高そうなベッドで、自分の部屋にあれば浮く事は間違いないのだけれど、それがこの部屋だと妙にしっくりと馴染んでいた。羨ましいなぁと思って部屋中を見渡してから、愛実の事を見上げた。愛実は部屋に似合わない安物の回転椅子に座りながらくるくると回っている。偶にこちらの事を見下ろしてくるのが何となくおかしかった。」
「私が愛実を見上げていると部屋の扉が開いて、大きな声が響いた。」
「「ちょっと、何やってるんですか!」」
「私が振り返ると、先程の女の人がお盆を持ちながら怒っていた。」
「「折角出来たお友達になって事を!」」
「そうしてお盆を置いて何処かへ消えて、戻ってきた時には片手にテーブル、もう片方の手にシングルのソファを二つ持って、鼻息を荒くしていた。」
「女の人は物凄い足取りで歩んできて、私の近くにテーブルとソファを置いた。酷い音が響いた。」
「「どうぞ」」
「女の人が笑う。その息急いた笑いに圧倒されて、私はソファに座った。」
「「さ、愛実お嬢様も」」
「女の人に促されて愛実は椅子から立ち上がり、
「光」
そう呼んだ。」
「「はい、何でしょう?」」
「「私、あなた、友達」」
「何故だか愛実のイントネーションは外国の人が喋るみたいだった。」
「光と呼ばれた女の人は不服そうな顔をしながらも同意する。」
「「分かった。でも、良い? 折角、本当に珍しく、なんだから、絶対に逃がさない様に、捕らえて放さない様にしないと」」
「何だか怖い事を言っている気がした。」
「「どっちでも良い」」
「「絶対に逃がしちゃ駄目」」
「愛実が面倒くさそうに手を振って払う仕草をした。光さんはにんまりと笑って退いた。」
「「それではごゆっくり」」
「光さんは私に笑みをくれてから部屋を出て行った。」
「「さて」」
「愛実が言った。」
「「それじゃあ、さっきの話の続きだけど」」
「忘れていた。そういえば、私は相談をしに来ていたんだ。」
「「今の時点では何とも言えないわ」」
「それを聞いても残念な気持ちは湧かなかった。愛実と出会ってからミイラを見なくなっていた。もしかしたらあのミイラの恐怖はもう過ぎ去ったのではないかと思い始めていた。もう二度と出てこない気がしていた。だから別にミイラの事はもうどうでも良くなっていた。」
「「それに私は、オカルトだとか精神医学だとかの専門家でもないから、適切な対処法なんて教えてあげられない」」
「それならどうして相談にのってくれたのか。」
「「興味本位」」
「まるで私の考えを見透かした様にそう言った。そうしてテーブルに置かれたお茶に口を付けてから「茶柱」と残念そうに呟いて、私の湯飲みの中を覗き込み、そうして呆然とした表情で私の顔を見つめてきてから、また自分の湯飲みの中を見つめ、一瞬悔しそうな表情をして、そっと湯飲みをテーブルの上に置いた。」
「「今、私はこの町で起こる不思議な事を調べてる」」
「「不思議な事ですか?」」
「私の問いに愛実がいつの間にか持っていたペンを指の間に挟んで回し始めた。」
「「そう。不思議な事。現実では、起こる可能性が無視できる位に珍しい物事が沢山起こってる」」
「気が付かなかった。」
「「調べようとしないから。調べればすぐに見つかる。現にもうあなたは体験しているのだし」」
「私の見た事が不思議な事? いまいちしっくりこなかった。」
「「でも、あんなのただの幻覚じゃ」」
「私は試しに反論してみた。」
「「そうかもね」」
「あっさりと同意された。」
「「それを調べるのがこれからの課題」」
「そう言われても分からない。あれは何だったのか。どうして突然現れたのか。授業中に見える様になった。ならあの授業中に何かあったのだろうか。特別な事は何もなかったけれど。やっぱり世界史の授業を受けたからなのか。」
「私が悩んでいると、愛実はノートを取ってきて私の前に置いた。」
「「だから、とりあえず今日あった事を書いてきて」」
「「今日あった事を?」」
「「そう。原因はあなたが忘れている事かもしれないし、気付かない位にほんの些細な事かもしれない。だから今日あった事を書いてきて。書くのは何でも良い。今日一日の事をずらっと書いても良いし、印象に残った事を書いても良いし。とにかく何か書いてきて。そうしたら何かの糸口が見つかるかもしれない」」
「私はしばらくどうして良いのか迷っていたが、やがて頷いた。何となく面白そうだと思った。」
「それじゃあよろしく、と言って手を振られた。帰れという事らしい。出来ればもうしばらくソファの心地を楽しんでいたかったけれど、仕方なく立ち上がる。」
「部屋の扉を開けた時、背後から愛実の声が投げられた。」
「「あ、そうだ。どうせなら虚構も混ぜてみて。どんなのでも良いから。混ぜる割合は任せる」」
「私は良く分からなかったが、頷いて、さよならを言って、部屋を出た。玄関へ向かう途中、光さんに出会った。」
「もう帰っちゃうんですか? と酷く残念そうに言われたので、明日もまた来ると言うと、是非来てくださいと喜ばれた。手をしっかりと握りしめられた。放して欲しいなと思う位の長い間、固く握られていたので何だか怖かった。」
「マンションを出ると陽が暮れかかっていた。もうミイラは見えない。やはりほんの一時の、何か幻覚の様なものだったみたいだ。それでも何だか迫る闇が怖くて、私は急いで家に帰った。」
「帰ってすぐに今日の事を書いた。印象に残っている事を書きだしていった。意外と印象に残らない事は忘れてしまって思い出せない事に気が付いた。書いている内に、ふと、つい最近飛び降りて死んだ友達の事を思い出した。すっかり忘れていた。それが思い出せたという事は、どうやら早速書き出した効果があったらしい。」
「飛び降りて死んだ友達の事を書こうか迷ったけれど、今日の事では無いので書くのを止めた。明日愛実に出会ったらその事を話そうと思った。」
「翌日、学校終わりに愛実の家に行って、書いた文章を見せると、愛実が言った。」
「「友達の飛び降りね」」
「考え込む様な素振りで回転椅子に座って回っている。私はソファの上でその様子をじっと眺めた。」
「「確かに原因としては分かりやすい位に分かりやすい」」
「愛実はしばらく私の書いた文章をぱらぱらとめくって眺めていたが、やがて顔を上げると頷いた。」
「「他に原因が見当たらないし、その線で行きましょう。友達の飛び降りっていうのはいつ見たの?」」
「「一週間位前」」
「「一週間前か。それは学校で?」」
「「学校の体育館」」
「愛実が怪訝な顔をした。」
「「体育館? あなたが飛び降りを見た場所が? それとも友達が飛び降りたのが?」」
「「両方」」
「愛実が益々訝しむ。」
「「どういう事?」」
「私がその時の状況を話そうとすると愛実がそれを制した。」
「「待って。それも書いてみて。私のパソコンを貸すから」」
「私の前にノートパソコンが置かれる。」
「「前と同じ様に虚構を交えても良い。それに書きたくない事は書かなくても良い。けど書こうと思いついた事はどんな些細な事でも書いてみて」」
「私は頷いて、友達が跳び降りた時の状況を書き出した。」
「目の前で愛実が呟いている。」
「「それならどうしてミイラに? それじゃあ飛び降りたのは、」」
」
「「
「愛実はそれを読み始めるとしばらく笑いを堪える様に肩を震わせていたけれど、段々と肩の震えが落ち着いていって、最後のページまで言った時には、真顔を上げた。」
「「うん。笑えた」」
「笑わせるつもりは全くなかったんだけど。愛実が妙に無表情で言い切ったので、言い返せなかった。」
「「そんなに面白かった?」」
「「このミイラが沢山出てくる所が面白い」」
「「そうかな?」」
「「授業中に友達の幽霊が飛び降りるのを目撃したっていう話を、その目撃者本人がここまで変てこに出来るのは凄い」」
「褒められているんだか、良く分からない。」
「「後、完全に私事だけど、他人から自分がどう見られているのか分かったのも面白い」」
「確かに、本人に見せる物なのに、大分失礼な事を書いてしまったかもしれない。」
「愛実はまたぱらぱらと紙を捲ってからそれを私へ突き返してきた。」
「「ちょこちょこ現実と違う所があったけど、大きなのは、死んだはずの友達が飛び降りるのを授業中に一度だけ見たっていう話が、文章の中だと干からびたミイラが飛び降りるのを色んな所で何度も見た事。それから私との出会いが、先輩から噂を聞いて会ったのに、文章だと偶然出会っている事の二つかな」」
「私は頷いた。そう、私の書いた文章の中には幾つか嘘が紛れている。特に顕著なのが今愛実が上げた二つ。」
「一つは飛び降り。創作だとかなり劇的にしてしまったけれど、現実だとミイラではなく、死んだはずの友達が落下していくのを(これも劇的だけど)授業中に一度見ただけだ。私の体の中をミイラが落ちたりなんかしていない。っていうか、そんな事が合ったら多分私は気持ち悪すぎて自殺してる。」
「もう一つが愛実との出会い。飛び降りを見てから一週間、まるで祟りの様な事が起こって途方に暮れていた私は、内容が内容だけに相談出来る人もおらずに困り果てていた。恥を忍び、怒られる事も覚悟して、何とか相談した先輩に、そういう事なら詳しい人が居ると聞いて、愛実を訪ねたのだ。訪ねた当初は愛実から物凄い拒絶を受け、他人と関わるなんて絶対に嫌だと門前払いだったのだが、創作の中にも出てきた光さんがとりなして(というより愛実を怒ってくれて)何とか相談に乗ってもらえる様になったのだ。そうして相談をして、文章を書いてくる様に言われて、実際に書いてきた所まで本当の事だ。文章を読んだ後の反応は、そもそも愛実が文章を読み終わったのがたった今なので、当然嘘。」
「「うーん」」
「愛実が唸ってから私を見た。」
「「一応聞いておくけど、どうしてこの部分を虚構にしたの?」」
「「どうしてって言われても、何となく。思いついたから」」
「そうとしか言えない。」
「途端に愛実は笑顔になった。」
「「うん、それで良し。思いついた事をどんどんと書いていってくれればそれで良いから」」
「「良いんだ」」
「「うん。あ、ただ、昨日の事じゃないから友達の飛び降りを書かないってここにあるけど、書いちゃって。とにかく思いついた事は何でも書いていって良いから」」
「何となく愛実のやりたい事が分かった。ただそれなら初めから、思いついた事は何でも書いて良いって言ってくれれば良かったのに。」
「「だってそれじゃあ、書きづらいでしょ? ある程度、方向性を決めないと」」
「また心を見透かした様な事を言う。」
「愛実は指の中のペンを回しながら言った。
「「さて、それじゃあ、現実でもその飛び降りた友達について聞きましょうか」」
「そうしてにやりと笑う。」
「「あ、でも、文章中の私みたいに、文章にしろなんて言わないわよ。語ってくれればそれで良い。虚構を混ぜても良いし、言いたくない事は言わなくて良いし、思いついた事はどんどん言って良いのは、同じだけどね」」
「私は愛実に促されて、友達が飛び降りた時の事を語った。」
」
「
「何故だか記憶に靄が掛った様にはっきりしない。かなり不鮮明だ。思い出そうとすると、まるで絵画が次々と現れる様に、幾つかの切り取られた一瞬が浮かんでは消える。しかもそれ等は私を含めた客観的な構図で出来ている。例えば友達が飛び降りる寸前であろう場面は、舞台の正反対に位置する一番大きな出入り口から覗く様な視点で、体育館の中央で飛び降りる友達とそれを見上げる私達を映している。だからそれは現実それ自身を映したものではなく、例え現実を元にしたにしても私の中で再構成された記憶なのだと思う。それでもとにかくそれが本当であるという事を前提にする。そうしないと始まらない。」
「まず状況から。場所は体育館。その場に居たのは六人。私と飛び降りた友達とその他に四人。いつも仲良くしていた六人。それ以外には誰も居なかった。全員学校の制服を着ていたので、多分平日。冬服なので少なくとも夏ではない。というより一週間前の事だから、間違いなく冬の事だ。時間は正確には思い出せない。天窓から差し込む日がまだ高かったので、放課後の遅くではないし、寒くて震えていた覚えも無いから朝の早くでもない。」
「一番はっきりした場面は、最初にも言った飛び降りる寸前の場面。友達は飛び降りようとして、体育館のキャットウォークの更に人二つ分程高い場所に張られた鉄骨の上に立っている。私達はそれを見上げている。飛び降りようとしている友達は真っ直ぐ手を下に伸ばして気を付けの姿勢で下を見ている。それを見ている私達は飛び降りる友達と同じ姿勢で上を見ている。どちらも顔がぼやけていて、どんな表情をしているのかは分からない。だから飛び降りる手前の場面だろうというのは何となく分かるのだけれど、その時どんな状況だったのかは思い出せない。」
「次に思い出せるのは、友達が落ちる場面。友達はゆっくりと傾いでいって、鉄骨よりも体が下になったところで足が完全に離れてそのまま私達の元へ向かう。長い茶髪が足にまで巻きついている。」
「落ちる友達の顔が至近距離で映る。ぼやけていて良く見えないが、目を瞑っている様な雰囲気がある。」
「落ちてくる友達を見ている私が見える。まるで友達の視線に乗り移った様に、茫洋として目を見開いた私が見える。」
「そこまで。後は友達が飛び降りる前に幾つかの場面がおぼろげながらに思い浮かぶ。体育館に入ってきた私達、何も無い天井を見上げる私達、鉄骨を渡ろうとしている私達。」
」
」
「愛実は読み終えると楽しそうにふふんと笑った。」
「「成程ね。今回、私がはっきりと分かる嘘は、あなたを飛び降りについて語った事だけかな。実際にはこうして書いて見せてもらっている訳だけど、文章中だと語った事になっている。他にも嘘があるのかな? 飛び降りた時の事は真偽の判別が付かないなぁ。私はその場面を見てないし」」
「それは私にも付かない。書いた通り、飛び降りの記憶はどうにも曖昧だから。」
「「ところで、なんだけど」」
「愛実が私に向かって紙を突き付けてきた。何だろうと思って覗き込むと、愛実は文章の一番初めの文頭を指さした。」
「「この段落初めに必ず鉤括弧を入れるのは何で?」」
「「どうしてって。何となく」」
「「何となく?」」
「「何となく一文字空けるのって気持ち悪くて」」
「「空白不安症?」」
「別にそんな不安症だとかではなくて、ただ単に何となく収まりが悪い気がするから。っていうか、どっちでも良いじゃん。そんな重要な事でも無い気がするけれど。」
「愛実はしばらく黙って紙を眺めてから、しばらくして笑った。」
「「うん、分からない」」
「「え?」」
「まさかお手上げ?」
「「流石にまだまだ分からないわね。もっと情報が無いと」」
「そう言って、何故かとても嬉しそうな顔をした。」
「私は解決にまだかかりそうでがっかりする。何となく相談にのってもらえればすぐに解決する気がしていた。」
「私が不満そうにしている事に気が付いたのか、愛実が口を尖らせた。」
「「本気で解決したいなら、精神科に行くか、拝み屋にでも頼んでよ。もしくは名探偵にでも。最初にも言った通り、私は素人で、あくまで別視点を提供するだけよ」」
「確かにそれは、相談する前に言われた事だ。そう言われると、何も言い返せないので、私は黙り込む。」
「「ま、そんな訳でまた、次はそうね、学校で飛び降りについて調べてみてよ。知っている人に話を聞いても良いし、体育館を調べてみても良いから。とにかく何か」」
「私が頷いて、お茶を飲み干して立ち上って、さよならを言って、部屋を出ようとすると、声を掛けられた。」
「「あ、ちょっと」」
「何か忘れ物でもあったのかと振り返ると、愛実は何か言いたそうにしていたが、やがて手を振って言った。」
「「ううん、何でもない。じゃあね」」
「家に帰って次の日にやる事を練っている間、私はわくわくしていた。自分が失った記憶を探す。お話みたいだ。何となく物語の中の出来事を自分が体験している様な気がして、何だか自信に似た良く分からない温かい感情が胸の中に湧いた。何だか眠れない気持ちだった。」
「気が付くとあっさりと朝になっていて、いつもと同じ様に朝の準備をしている自分に何だか不思議な違和感を抱いた。」
「学校に行くといつも通りの日常が待っていた。さて、と気合を入れる。まずは聞き込みからだと、私はドラマの刑事になりきって、人を待った。」
「待つ人は私の友達。元、と言った方が良いかもしれない。友達が飛び降りてから何故だかみんな突然よそよそしくなって、今ではもうほとんど話さなくなっていた。」
「それでも話さなくてはならない。待っていると、やがて一人やって来た。」
「日野実秋というその友達はグループの中でも一番仲が良かった。だから疎遠になったとはいえ、少しは話しやすくてほっとする。けれど私が近寄るとあからさまに嫌そうな顔をしてきた。一気に心が委縮する。」
「「何?」」
「険のある声に益々怖くなる。だが逃げ出す事は出来ない。」
「「話があるんだけど」」
「「良いけど、何?」」
「「一週間前に体育館で」」
「いきなり実秋が私の口を塞いできた。」
「「ちょっと来て。黙って付いてきて」」
「実秋の表情はまるで鬼気迫る様な恐ろしさがあった。それが恐ろしくて、私は黙って従った。実秋に手を引かれ、非常階段の一番上にまで連れ込まれた。鉄門を挟んで屋上と繋がっている踊り場に私は立たされる。目の前に実秋が立つ。」
「「あんた、正気? 何であんなみんな居る中でそんな事言おうとしてんの?」」
「そんな事と言われても、私は覚えていない。だからそれを教えて欲しい。」
「体育館の記憶がほとんどない事、授業中に飛び降りたミイラの事を伝えると、実秋は不承不承といった様子で階段を一段降りて段差に腰掛け、口を開いた。」
「「記憶が無いねぇ。確かに忘れてた方が幸せだね。羨ましい」」
「でも知りたい。」
「「一応聞くけどさ、何処まで覚えてるの?」」
「「ほとんど。体育館で何かあったっていう事位」」
「「そっか」」
「実秋は一瞬だけ笑みを浮かべた。」
「「事故があったんだよ。事故。頭をぶつけて死んじゃって。その場に私達も居て、私達が悪い事になっちゃうでしょ? だからみんなで隠して。それだけ」」
「実秋はそう言って、立ち上がった。階段を下りて行く。」
「いまいち納得がいかない。何だか嘘の様に聞こえた。だから追究しようと実秋に声をかけようとして、実秋の表情が凍り付いている事に驚いた。」
「「違う」」
「実秋は手すりを乗り出して、階段の下を眺めながら呟いた。」
「何だろうと、実秋の傍によって、私も同じ様に下を覗く。階段が角ばった螺旋を描きながら眩惑する様に下に続いている。だが目立つものは何もない。」
「足音が響いた。見ると、実秋が慌てた様子で階段を駆け下りていくところで、体が消え、なびく黒髪も消え、最後には足音も消え去った。私はぼんやりとそれを見送った。」
」
「
「愛実がくつくつと笑った。」
「「これ、ここ。この僕の台詞」」
「そう言って、愛実が紙を指さした。」
「「確かにその通り。本気で解決したいなら、専門家の所に行くべきだね。架空の僕なのに良い事言うじゃん」」
「そう言って、またくつくつと笑った。」
「私は不満に思う。別にそこは重要じゃない。重要なのは、実秋に話を聞いた所なのだ。」
「「んー、でも要は、友達の一人が事故と言った。けれど嘘を吐いている様に思った。けれど追究しようとしたら何かあって逃げられた。って事でしょ? まだまだ情報が足りないなぁ」」
「私は残念に思う。まだ駄目なのか。早く、早く解決してもらいたい。」
「「ねー、何か勘違いしてない?」」
「勘違い?」
「「そりゃあ、僕も考えるけどさ、この出来事を書き出す一番の理由は、記憶の連環を引きずり出す事だよ? だから君が解決したと思わない限り、情報はずっと足りないまま。逆に言えば、もう答えは君の中にあるんだよ? 実際見たんだから」」
「分かっている。分かっているけれど、思い出せない。」
「「ま、気長にやろうよ。どうせもう害は無いんでしょ?」」
「「確かにそれはそうだけれど」」
「事実、一週間前に幽霊を見たきり、特に何も無いのだから、気にする事なんて無いのかもしれない。ただの見間違いだったのかもしれない。でも何だかそうは思えなかった。何か悪い予感が胸を占めていた。」
「「そうだなぁ。ちょっと僕の話をさせてよ」」
「愛実の話? 興味があった。」
「「僕が不思議を集める理由。それはね、お姉ちゃんが死んだ理由を突き止める事」」
「「お姉さんが居たんだ」」
「だとすれば、きっと火事の時に死んでしまったに違いない。」
「「火事で亡くなったの?」」
「愛実がにこにこと語る。」
「「違う。ううん、そうかもしれない。けれど分からない。とにかく何が何だか分からない事が起きてた。僕達の常識じゃ絶対に測れない事が。だから不思議な事を集めて、自分の常識を広げて、あの時に何が起こったのかを知りたいんだ」」
「愛実はにこにことしていた表情を、突然に一変させた。酷く自嘲した笑みに。」
「「でもね。分かってるんだ。何が起こったのか何て絶対に分からない。この世の中で分かる事なんか何も無いって分かってるんだ」」
「私には愛実の言っている事が分からない。」
「「んー、そうだなー、例え話。ある所にお爺さんが居ました。お爺さんは山へ芝刈りに行く途中突然死んでしまいました。お腹に刺し傷があります。何があったのでしょう?」」
「何だか分からないが、少し考えて、答えた。」
「「分かんないけど、誰かに刺されたの? 恨みを買ったとか?」」
「「ぶー、外れです。唐突に空間にナイフが生まれて、それが偶然集まった電磁気力によって加速してお爺さんに突き刺さったのでした。自然現象です」」
「「馬鹿じゃないの」」
「真面目に考えた事を後悔した。」
「「でも起こりえないとは言い切れない」」
「「ありえない」」
「「ありえないのは君の認識する世界の中での話。僕達の認識する世界は、原因と結果という制約の中の、しかも日常生活が営めるレベルにまで簡略に落とし込められたモデルの世界でしかないんだよ。ま、普段から全物質の動きを計算しながら生きている人なんて居ないしね。っていうか出来ないし」」
「「馬鹿?」」
「「うん、馬鹿。つまり、結局それが本当かどうかじゃなくて、自分で納得する答えを出せるかどうかが大事なの。でもね、僕はきっと納得出来ない。きっとお姉ちゃんから直接聞くでもしないと絶対納得しない。僕と光はお姉ちゃんが死んじゃった時、完全に蚊帳の外だったから」」
「愛実がにっと笑う。」
「「だから君が羨ましいんだ」」
「「羨ましい?」」
「「だってさ、君は友達が飛び降りた現場に居た訳でしょ? ただ忘れてるだけ。それを思い出したら自分の記憶だからきっと納得出来る。だから羨ましい」」
「そういうものだろうか。と、そこでふと気が付いた。もしやこれは愛実流の励ましなんじゃないだろうか。どうにもそんな気がする。そう考えると、何となく愉快になった。」
「「分かった。ありがとう」」
「愛実が不思議そうに首を傾げる。やっぱり違ったのかもしれない。」
「「まあ、良いや。そう言えば、そっちにも兄弟居るの?」」
「「うん、妹が一人」」
「「大切?」」
「「……うん」」
「「そっか」」
「愛実が何だか嬉しそうに笑った。まるで自分の事の様に。だから罪悪感が胸を突いた。本当は大切なんかじゃなかった。愛実はしばらく嬉しそうに微笑んで、湯飲みのお茶を啜っていたけれど、やがて手を振って言った。」
「「じゃあ、明日もよろしくね」」
「「うん」」
「私が部屋の外に出ると、光さんが見計らった様に走ってきた。」
「「あ、お帰りですか?」」
「「うん」」
「「ちょっとその前に良いですか?」」
「「良いけど?」」
「光さんが箱を取り出して、私に見せてきた。花の絵や市松模様や二重同心円など、様々な模様が描かれている。」
「「これ、私が作ったんですけど、開けてみません?」」
「私は箱を受け取った。」
「「からくり箱っていうんですけど、手順通りに開けないと開かないんです」」
「へえと思いつつ、箱を触ると、市松模様の一部がスライドした。」
「「この箱は六つの開け方があって、立方体のそれぞれの面が開く様に対応しているんです」」
「光さんが説明している間にも、私はどんどんと箱を弄り回す。開け方なんて分からないので、とにかく適当だ。」
「「で、ですね。六つの面それぞれ別の物が入れられる様になっていて、今回試しにおみくじを入れてみました」」
「光さんの言葉が終わったのと同時に、箱が開いた。」
「開けると中に薄気味の悪い子鬼の人形が入っていた。これがおみくじ? 少なくとも良い運勢ではなさそうだ。」
「この人形はどんな運勢を示しているのか聞こうと光さんを見上げると、居なかった。代わりに部屋の中から怒鳴り声が聞こえた。」
「「愛実様! 何であんな事するんですか!」」
「「え? 何が?」」
「「箱ですよ! からくり箱!」」
「「ああ、あのパズル? さっき見つけてちょっとやってみてさ、とりあえず六面共開けて全クリアしたから満足しかけたんだけど、気付いちゃってさ」」
「「そこで満足しといてください!」」
「「あれ、一面だけ物凄く簡単に出来てたでしょ? で、その中にだけ何かストラップが入ってたからさ。ああ、そういう事ねと思って、どうせならって私がもっと良い人形を」」
「「馬鹿ですか! そんなんじゃ嫌われちゃいますよ!」」
「「あからさまな好意の方が嫌だな、僕」」
「二人のやり取りを部屋の外で聞きながら、賑やかだなぁと思った。光さんがお姉さん、もしくはお母さんの様だ。仲が良さそうで、少し羨ましかった。」
「何だか長引きそうなので、私はその場を後にして、家に戻った。」
「家に帰って寝る時に何か夢を見た。私は箱の中に居た。」
「学校に行くと、目当ての一人である新郷春菜が机に突っ伏して眠っていた。セミショートの黒髪が口元にかかって光っている。涎だ。汚い。」
「私が声をかけると、春菜は顔を上げ、寝ぼけた表情で私をじっと見つめてから、片手を上げた。」
「「よ」」
「私も片手を上げ返す。」
「「ちょっと良い?」」
「「何?」」
「「一週間前の体育館の」」
「春菜が人差し指を立てて黙れのジェスチャーをしてきた。」
「「どうしても、それ、話さなくちゃいけない事?」」
「私が頷くと、春菜は分かったと言った。」
「「じゃあ、放課後裏庭で」」
「そう言って、春菜はまた寝始めた。私はすごすごと自分の席に引き下がって放課後を待った。」
「放課後になって、言われた通り裏庭に行った。春菜は既に待っていて、私が近寄ると手を取って私を引っ張り、繁みの奥に連れ込まれた。大きな木の下に着くと、春菜は木に寄りかかって、睨む様な視線をくれた。」
「「で、何で今になってあの時の話がしたいの?」」
「私が事情を説明すると、春菜はつまらなそうに言った。」
「「なら忘れときなよ」」
「「でも」」
「「思い出したって仕方が無い」」
「それでも真実を知りたかった。」
「春菜はしばらく私の事を見つめていたが、私が譲らない事を見て取ったのか、やがて溜め息交じりに言った。」
「「何てことないよ。ただの、自殺だ。私達の所為じゃない」」
「春菜がじっと私の事を見つめてくる。」
「春菜の話振りはいかにも平坦で抑揚が無く、私には嘘にしか聞こえなかったが、春菜が引くつもりの無い事を見て取って、諦めた。」
「「もう良い?」」
「「うん」」
「「じゃ」」
「春菜が木から体を離す。そうして私の横を通り過ぎようとして、足を止めた。」
「「あ」」
「春菜がぼんやりとした声を出したので、私がどうしたのと尋ねると、春菜は薄らと笑って私を見た。」
「「何でもない。気を付けなよ、あんたも」」
「そう言って、去って行った。私にはどういう意味か分からなかった。」
」
「
「愛実が難しい顔をして、紙をテーブルの上に放った。」
「「別に良いんだけどさぁ」」
「全然良くなさそうな声音でそんな事を言う。」
「「何で私の一人称が僕になってるの?」」
「「何となく」」
「別に意味は無い。何となく思い浮かんだからだ。」
「「愛実が何でも思いついた事は書けって言ったんじゃん」」
「「まあそうだけど。あ、それで気になったんだけど」」
「「何?」」
「何か解決の手がかりだろうか。」
「「彼氏居ないの?」」
「私の飲んでいたジュースが途端に不味くなる。」
「「居ないけど。何でいきなり」」
「「いや、読んでても全然色気が無いから」」
「何だ色気って。」
「「仕方ないでしょ。女子高なんだから」」
「「それ多分全然言い訳になってないよ」」
「言い返せない。周りには彼氏を作っている人が事実居るのである。私と同じレベルの人達にまで。私に何か問題があるのだろうと思うのだけれど、それが分かれば苦労しない。自分の事すら分からないなんて、世の中ままならないなと思う。」
「ふふー、と愛実が憎たらしい笑いをした。」
「「そんなに彼氏いないのがおかしい?」」
「「え? ああ、そうじゃなくてね、女子高だからって言い訳、お姉ちゃんの友達も良くしてたなって」」
「「へえ。今度会わせてよ。話が合いそうだから」」
「「うん、でも、火事の時に死んじゃったから」」
「途端に私の胸が詰まった。」
「「ごめん」」
「「良いよ。私が振った話題だし。そういえば、お姉ちゃんが死んだのは丁度彼氏さんと別れた頃だったなぁ」」
「懐かしむ様に愛実が言う。私はその話題の重さに口が挟めない。」
「「お姉ちゃん、別れた後に言ってたんだ。良い奴そうだったのに、無茶苦茶やな奴だったって。人なんて外見だけじゃわからないんだって。良い奴そうな奴に限って悪い奴なんだって」」
「愛実はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながら懐かしむ様に言ってから、私に向けていかにも親身に気遣う様な顔をした。」
「「だからね、良い人そうな人には気を付けなくちゃ駄目だよ」
」
「
「「何? 私への当てつけ?」」
「いきなり声を掛けられて、私が驚いて横を見ると、愛実が物凄く冷めた目つきでパソコンのモニターを覗き込んでいた。」
「「っていうか、女子高って何? いつあなた女子高に通ったの?」」
「「ちょっと勝手に見ないでよ!」」
「私は慌ててノートパソコンの画面を隠す。」
「「別に良いけど、どうせ後で私に見せるんでしょう?」」
「そうだけど、書いている途中は嫌だ。」
「「何でも良いけれど、今、何時だと思ってるの?」」
「言われて、壁にかかった時計を見て、針が一時を示しているので、考えた。一時。学校が終わったのが三時頃。どうして時間が巻き戻る? 不思議だ。」
「不思議じゃねえよ。もうすぐ短針が一周しちゃうよ。」
「自分で自分に突っ込みを入れると、愛実があくびをしながら言った。」
「「今日はもう遅いし、泊まって行ったら?」」
「「え? 良いの?」」
「私が尋ねると、何故か愛実が驚いた顔をした。」
「「良いけど。貴方、泊まっても良いの?」」
「「明日休みだし。それに夜道怖いし。泊まれるなら泊まりたいけど」」
「あ、そういえば、電話しなくちゃ。」
「「じゃ、じゃあ、泊まれば?」」
「「ありがとう」」
「家に電話をすると留守番電話の音声が聞こえてきたので、友達の家に泊まる事を伝えた。何だか新鮮な気分だった。」
「伝言を残した私は人心地ついて、そこで泊まる段になって、何の用意も無い事に気が付いた。コンビニで買ってこなくてはいけないが、お金は足りるだろうか。」
「今から外に行くのは嫌だなと扉を見ると、光さんが顔をのぞかせてにやついていた。何だろう。何だか怖い。」
「「んふふ、ご安心を。準備は万端です」」
「そんな事を言われた。その言葉通り、お風呂に入ってから寝るまでの間、不自由はしなかった。歯磨き粉の味がミント系だったのだけは少し気になった。」
「翌朝、起きてまずそのベッドのふんわりとした心地良さに感動して、うつらうつらと暖かさに塗れそのまま眠りに落ちた。もう一度起きた時には光さんがまるでお母さんの様に私の事を優しく揺り起こしてくれた。起き上がると既に着替えも何も準備されていて、何だかお姫様になった様な気分だった。光さんの笑顔を見ていると、何だか涙が出た。」
「ダイニングルームに行くと、既に愛実が座っていた。」
「「遅い」」
「不機嫌そうだった。」
「「こら、何て事言うの。ごめんなさい。愛実も嬉しがってるんだけど、素直じゃないから」」
「「うるさい」」
「やっぱり光さんはお母さんみたいだなと思った。まだ若いのに苦労しているのかなとつまらない事を考えた。」
「食事はすぐに運ばれてきて、三人で朝食を摂った。」
「「今日はお休みなんでしょう? ごゆっくりしていって下さい」」
「光さんがそう言った。確かに、この豪勢な家でもう少しお姫様気分を味わいたかったけれど、それよりもやる事がある。」
「「今日は学校に行かないと」」
「「学校休みなんじゃなかったの?」」
「愛実が不思議そうに言った。」
「「うん、むしろ休みだから。こっそり調べたくて。テスト期間前だから部活も休みで多分体育館に人居ないし」」
「「なら、愛実も一緒に連れて行ってください」」
「光さんが嬉しそうに言った。」
「「ちょっと、何で私が」」
「「珠代様の通っていた学校に行くんでしょう? ならどんな所か見てみるのも良いじゃない。もしかしたら来年から通うかもしれないし」」
「「通わない。っていうか、通えない」」
「光さんは少し悲しそうな顔をしたが、再び笑みを見せた。」
「「それに珠代様の通っていた学校、見てみたいでしょ?」」
「愛実が光さんを睨む。」
「「良く平気で傷を抉れるわね」」
「光さんは済ましている。喧嘩している様なのに仲が良さそうに見える。こんな姉が欲しかった。光さんが重ねて言った。」
「「そんな訳で、愛実も一緒に連れて行ってあげてください。お願いします」」
「お願いまでされては断れない。」
「「まあ、私も実地で調査してみたいし、行っても良いわ」」
「愛実が偉そうに言った。それで決まった。愛実は何だか嬉しそうにご飯を食べ始めた。きっと高校に行くのが楽しみなのだろう。そういえば前に、火事があってから人に会うのが怖くなって、中学校に行けなくなったと言っていた。でもその方が気楽だから良いと言っていた。お金はあるから遊んで暮らすんだと。今、同い年の人達は受験勉強で忙しいみたいだけど、自分は遊んでいられてみんなより幸せなんだと。けれど実際はきっと学校に通いたいのだ。今見せている弾む様な態度から見てもそれが分かる。」
「私は悲しく思うと同時に、微笑ましくも思った。口で何と言っても態度に出ている。きっと愛実はきっととても素直な人なんだろうと思う。愛実と同い年の妹の存在を思って、もしも妹が愛実位に素直だったら、きっと幸せだったろうになと思った。胸が締め付けられる様に苦しかった。」
「二人で学校に行くと、まばらに人影があった。何しに来ているんだろうと気になったけれど、考えてみれば自分もその一人で、それぞれに別々のドラマがあるんだろうなと妙に納得してしまう。」
「体育館の鍵はかかっていた。」
「「どうするの?」」
「愛実が聞いてくるので、私は少し得意になって、側溝の蓋の裏に取り付けた合鍵を取って愛実の前に掲げて見せた。」
「「秘密の鍵」」
「「意外と悪い奴ね」」
「愛実が楽しそうな顔をした。」
「「体育館に入る。いつも通りの体育館である。奥に舞台がある。ひっそりとしている。珍しくもない。でも今までよりも広く感じた。騒がしい時と静まり返った時で、広さの感覚が変わるのは不思議だ。どうにも人間の感覚はいい加減だなと思った。」」
「私は靴を脱いで、愛実と共に、記憶の中で自分が立っていた場所へ向かった。丁度体育館の中央だ。ぺぺぺと靴下で減じた足音が辺りに響くのが不気味だった。」
「記憶の中の場所に立って上を見上げると鉄骨の中でも特に太い鉄骨が走っていた。鉄骨は左右の壁際まで届いている。壁際に届いた鉄骨の端の少し下に天窓が備わっている。天窓は鉄骨に直行する形でずっと連なっている。その天窓に沿って二階相当の高さにキャットウォークが据え付けられている。何もかも記憶の通りだ。当たり前と言えば、当たり前だけど。」
「「あそこにはどう行けばいいの?」」
「愛実が左右のキャットウォークを指さした。私が手招きして、最前の舞台に上がり、舞台裏の階段を上ってキャットウォークに入った。愛実が私の前に出て、キャットウォークを小走りに進み、真ん中の所に辿り着くと、上を見上げた。丁度頭上に鉄骨が張り出している。手を伸ばしているが、大分届いていない。」
「私が愛実に近寄る間にも、愛実は辺りを見回して、私が辿り着くと、愛実が天窓の枠と束ねられたカーテンを指さした。」
「「この枠とカーテンを使えば鉄骨まで登れる。しかも妙な形に埃が無い。間違いなく最近誰かが上った。」」
「確かにその通りだが、それは私も分かっていた事だ。私も何度か上った事があるから。」
「試しに上ってみる。天窓の格子枠に足を掛けながら、カーテンをよじ登っていく。あっさりと鉄骨の上に上れた。そこから鉄骨を伝って見る。鉄骨を渡る視界は記憶と同じ光景だ。」
「「危ないよ」」
「愛実の声が聞こえた。大丈夫と私は答える。」
「鉄骨を渡って中央に辿り着く。丁度下にバスケットコートの中央を示すマークがある。目の眩む様な高さ。膝の震えるのが分かった。戻ろうと思った時、鉄骨に何か跡があるのを見つけた。帯状にこすれた様な跡がある。そこだけ埃が無くなっている。紐の様な物を結んだんだろうと見当付けた。そうとしか思えなかった。」
「私が戻って、鉄骨から降りると、愛実は安堵した様子を浮かべた。私が笑みを返すと、愛実はたちまち仏頂面になって、しばらく辺りを見回した後、興味を無くした様に、来た道を戻り始めた。私はその後を追う。」
「「鉄骨に上ってみないの?」」
「「危ないからやだ。っていうか、筋力が無い私じゃ上れない」」
「どうだろう。天窓の格子枠に足を掛けながら、カーテンをよじ登っていくだけだから、出来ない事は無いと思う。けれど愛実は細いから、本当に力が足りないという事があるかもしれない。例えば愛実の力が私の半分だとしたら、無理だ。私と同じ重さの荷物を背負いながら上る様なものだと考えれば、不可能であると分かる。実際は重心やら何やらでもと上り辛いに違いない。」
「愛実は階段を下りて、舞台を下りて、再び中央に立って上を見上げた。私も同じ様にしてから尋ねた。」
「「何か分かった?」」
「「全然」」
「愛実があっさりと答えた。」
「ちょっと期待していただけに肩透かしを食らった。」
「愛実はまた勝手に歩き出して、靴を履いて外に出て行く。私もそれを追って外に出る。」
「「何やってるの?」」
「突然、そんな声が聞こえた。」
「驚いて声のした方を見ると、日須賀音萌という私の先輩が立っていた。いつも仲良くしていた六人の一人で、あの時体育館に居た一人だ。それに私に愛実の事を教えてくれた先輩でもあった。先輩は腰に手を当てて快活に笑っていた。」
「いきなり声を掛けられた所為で、まだ心臓がどきどきしていて、苦しくて仕方ない。」
「「いけないんだぞー。勝手に学校に入っちゃ」」
「先輩がそう言って近寄ってきた。私はすみませんと笑って、冷や汗を拭った。」
「「それで何してるの?」」
「先輩が嬉しそうに笑う。髪の短い先輩が晴れやかに笑うと、まさに快活そのものになる。普段ならその快活さに、こちらも思わず笑みが漏れてしまうのだが、今だけは恥ずかしくて体が縮こまった。私の顔に血が上るのが分かる。幽霊の原因を突き止める為とは言いづらかった。」
「「もしかして悪い事? 先生呼んじゃおっかな」」
「冗談とは分かっていたが、私は慌てて事情を伝えた。」
「恥ずかしかった。先輩は私が幽霊を見た事を知っている。愛実の事を教えてもらった時に言ったのだから。それでも恥ずかしい。私はまた汗を拭った。」
「「ふーん。そういえば、あの霊感少女はどうだったの?」」
「私は愛実の事を見る。そしてまた先輩に向き直る。」
「「その、まだ」」
「「そっか。さっさと解決しちゃった方が良いよ」」
「解決できるなら解決したい。」
「「そういえば、先輩はどうしてここに?」」
「「ん? ちょっと練習に」」
「そう言って、バスケットボールのシュートの真似をした。」
「「あ、じゃあ、鍵使います?」」
「私は鍵を渡すと、先輩は受け取り、けれど首を横に振った。」
「「やっぱり良いや。テストも心配だしね」」
「そう言って、鍵を掲げた。」
「「これは私が返しておくよ」」
「先輩がそういうのでお願いして、私は分かれた。」
「「危なかった」」
「私はほっと息を吐く。愛実がおかしそうに尋ねてくる。」
「「先生だったらどうなってた?」」
「「うーん、どうなるんだろう。退学は無いと思うけど」」
「私はそれから屋上に行こうと思って非常階段に向かった。幽霊が上から落ちてきたのなら、飛び降りたのは屋上だろうと思ったのだ。非常階段を上ると、この前実秋と話した踊り場までたどり着き、そこから屋上に繋がる門を強引に乗り越えて、屋上に入った。愛実が門を危なっかしく上るので手伝ってあげた。」
「「死ぬかと思った」」
「愛実が言った。実際冗談ではなかった。」
「踊り場の囲いは胸の高さで、その外側に後付けのフェンスが備え付けられている。後付けのフェンスは籠の様に、頭上まですっぽりと踊り場を覆っている。けれど屋上に面した面だけフェンスが無い。屋上の面には屋上をぐるりと囲う高いフェンスがあるから。二つのフェンスはぴったりとくっついていて、僅かの隙間もないから落ちる心配はない。屋上のフェンスはぐるりと屋上を囲っているが、一か所だけ切れ目がある。それが踊り場の部分で、その切れ目に屋上と踊り場を結ぶ胸の高さの鉄門がある。鉄門の上にはフェンスとの間に隙間が空いている。屋上フェンスの切れ目である二辺と、鉄門の上辺、踊り場の頭上のフェンスと屋上のフェンスがくっつく辺、この四辺で踊り場と屋上の境となる面に四角い隙間が作られている。そこから屋上へ入り込める。当然鉄門は乗り越える用に作られていない。乗り越える為には、まず踊り場の囲い越しに屋上のフェンスを掴んで、囲いの僅かな凹凸に足をかけて、何とか囲いの上によじ登る。そして足の幅ほども無い囲いの上に立って、足を斜め前に一歩出して鉄門の上に足を掛け、そのまま屋上側に飛び降りる。飛び降りた先はコンクリートで危ない。帰る時にはフェンスをよじ登って、鉄門に乗り、踊り場に飛び降りるのである。踊り場の床もコンクリートで出来ている上に、踊り場は狭い。帰る方が段違いに危険だ。しかも踊り場の着地地点のすぐ近くに階段が待っている。そちらに態勢を崩せば、怪我では済まない。はっきり言って危険極まりない。だからやる馬鹿は居ない。私達位しか。」
「危険を冒して忍び込んだ割に、収穫は無かった。幽霊も居なかったし、そもそも屋上には何も無かった。仕方なしに戻ろうと屋上から鉄門によじ登ると、非常階段を先輩が上ってきた。心臓が止まるかと思った。」
「先輩は私を見かけると笑顔を浮かべた。」
「「だからさー、そう危ない事しない方が良いよ? っていうか、非常階段上ってるの下から見えてたよ? 先生に見つかったらやばいでしょ?」」
「確かにその通りで、自分の迂闊さを呪った。」
「鉄門から飛び降りて、踊り場に着地する。愛実がやっぱり難儀しているので、手伝って何とか引き込んだ。」
「愛実が踊り場に無事戻ってこれた事に安堵する。それから私は先輩に向いた。」
「「それで、先輩はどうしてここに?」」
「「それを注意しに来ただけだよ」」
「ありがたい様な、迷惑な様な。私はそそくさと先輩の横を通って、下へ向かった。通り過ぎた瞬間、声を掛けられた。」
「「そうだ。飛び降りた時ってどんな顔してたの?」」
「幽霊が? 何でそんな事を? 不思議に思って振り返る。先輩はとてもまじめな顔をしていた。」
「とりあえず見た事を答えた。」
「「何だかミイラみたいな。っていうか、完全にミイラだったんですけど」」
「先輩は難しそうな顔をして何も答えなかったので、私は先輩に一礼して下へ向かった。」
」
「
「「知識とは闇と知るべし。欲すれば深まり、抜け出る事は叶わじ」」
「読み終わった途端、愛実はそんな事を言った。」
「「何それ?」」
「「前に読んだ小説の一説」」
「「何が言いたいの?」」
「「何となく思いついただけ」」
「愛実は何か考える様に上を向いた。何だか意味ありげだった。」
「「何か分かったの?」」
「私が身を乗り出して聞くと、愛実は私を見つめ、私の書いた文章を見て、再び虚空を見つめ、何か悩む様だった。」
「「何? 分かったなら教えて!」」
「私が更に身を乗り出すと、愛実は文章に目を落とした。」
「「まだ全然」」
「力なく答える愛実の言葉は嘘にしか聞こえない。」
「「何か分かったんでしょ? 教えてよ!」」
「私が怒鳴ると、愛実は上目遣いに私を見てから溜息を吐いた。」
「「本当に何にも分かってないから。でも」」
「「でも?」」
「愛実が文章を机の上に放って指さした。」
「「自分で読んで変な感じしない」」
「変な感じ? 全く感じなかった。てにをはがおかしいとかそういう事だろうか。それとも内容に矛盾でもあったのか」
「「感じないなら良いんだけど」」
「「全然良くない! 何なの教えてよ!」」
「「ああ、もう! うるさい! だからまだよく分かってないんだって」」
「その時扉が開いて、光さんが声をかけてきた。」
「「ただいま帰りました」」
「光さんが扉から顔をのぞかせた瞬間、愛実は立ち上がって光さんを迎えた。」
「「丁度良かった」」
「「丁度良かったって何の事?」」
「愛実に手を引かれ、光さんは困惑しながら部屋に入ってくる。」
「「調査の結果、早速教えてよ」」
「愛実が急いた様子で光さんを促す。だが光さんは机の上の私が書いた文章に目を落として動かない。」
「「あの、私にもちょっと読ませていただけませんか?」」
「光さんがそう言ったので、私は頷いた。愛実が不満の声を上げたが、私も光さんもそれを無視した。」
」
「
「安宅夏芽が教室に入ってきた。急いで話しかけようと思ったが、夏芽の隣に人が居るので止まった。春菜と実秋の反応を見るに、周りに知られては不味い様であったから。」
「仕方なしに話しかける機会を待ったのだが、中々巡ってこなかった。それもそのはずで夏芽は交友関係が広い。複数のグループを渡り歩く八方美人で、広く浅くの友人関係を築いている。中々心の許せない友達で、私と夏芽の間で胸襟を開いて話をした覚えがない。もしかしたら分厚い眼鏡にお互いの感情が遮断されているんじゃないかと思う事がある。無造作に伸ばした黒く重苦しい髪の毛の中に、埋もれる様にして備わっている野暮ったい眼鏡をかけた夏芽の顔が私を拒絶している。」
「そんな訳で、夏芽が休み時間の度に話す相手を変えて休まない様子を眺めながら、私は早く話を聞きたいという思いと出来れば話しかけたくないという二つの想いがじんわりと胸を塞いでいた。」
「そうこうしている内に放課後がやってきて、夏芽はさっさと教室を出て行ってしまった。駄目だったかと、何となくほっとした気持ちで私は帰路についた。」
「帰り道の途中、打ち捨てられた廃墟のビルの傍を通った時、声がした。何か微かな囁く様な声だった。道の先には誰も居ないし、道の後ろにも人は居ない。空耳かと思っていると、また囁き声が聞こえた。」
「囁き声のする方、廃墟のビルを見ると、扉が外されたビルの入り口の壁に半身を隠す夏芽が居た。手だけを大きく出して、ビルの中から私の事を手招いていた。」
「私がビルに足を向けると夏芽は手を引っ込めビルの中に隠れてしまった。幽霊でも追っている様な奇妙な寒気を感じながら、私は夏芽を追ってビルに入った。ビルの中に入ると入り口のすぐ横手に夏芽が立っていて、私が入ったのを見計らってやはり囁き声で言った。」
「「この前の事、みんなに聞いて回ってるんだって?」」
「私が頷くと、夏芽は悲しそうな顔を作った。」
「「どうして? 良いじゃん、忘れちゃえば。どうして今更蒸し返そうとするの?」」
「それは、強いて言うならそれは、思い出したいからだ。空白となった記憶が気持ち悪いからそこに思い出を敷き詰めたい。そう思う。」
「「どうして? どうして? だって、そんな事しても意味ないじゃん。時計は巻き戻らないのに。どうして? どうして?」」
「「それでも私は」」
「「私、関係ない。関係ないよ。殺したのはあなたじゃない」」
「夏芽はそう言ってふらふらとビルを出た。私は後を追ったが、夏芽が一瞬前の事など無かった様に素知らぬ顔をして言ってしまうので、それ以上追いかけるのは止めた。」
」
「
「そこまで読んで愛実は顔を上げ、くふふと笑った。心底楽しそうな笑顔だった。」
「「良いんじゃない? 自殺なのか、事故なのか、殺人なのか。殺人なら面白いのにね。Who killed Cock Robin?」」
「私がむっとしていると、愛実は私の表情に気が付いて、機嫌を取る様に両手を小さく上げ下げした。」
「「まあまあ。だって、本当に面白いんだから。とっても私好み。死者の証言なんていよいよ空想らしくなってきたんだし」」
「「どういう意味?」」
「愛実はまた小さく笑った。馬鹿にする様な笑いだった。」
「「まあまあ。まだ書いた文章は残ってるんだし。それを読み終わってからでも良いでしょう?」」
「「ちょっと待って! 死者の証言て、どういう意味よ!」」
「私が愛実に食って掛かろうとするも、愛実は既にパソコンの画面に向かって、私の文章を読み始めていた。聞く耳を持たない様子だ。私は仕方なく、愛実の後頭部越しにディスプレイに映る文章に意識を向けた。」
」
「
「「なあ、マジで、何、いかれた事やってんだよ」」
「怖い。夏芽の去る背を見送っていると背後から声を掛けられた。応じた途端にこんな言葉を吐かれた。怖い。私はこの雑賀南冬という人間が心底苦手だった。いつもいつも私の事を上から見下してくる。それは仕方のない事なのかもしれないけれど、それでもそのあまりの高圧的な態度をいつもいつも不満に思っていた。」
「「ホント、マジ、ああもう! 勘弁してくんないかな?」」
「南冬が脱色に失敗したとしか思えない、汚らしい黄色の頭をがりがりと書いて私の事を睨みつける。」
「「あたし、関係ないから」」
「「え?」」
「「あんたの所為だから。あたし関係ないから。全部、全部あんたが悪いんだからな。あんたがやったんだ。あたし関係ない! あたしは関係ない!」」
「突然南冬は背を向けて走り出した。訳が分からない。だが聞き捨てのならない言葉を聞いて、私はその背を掴んだ。しかし思いっきりふり払われ、私が倒れ、起き上がる間に、南冬は駆け去って居なくなってしまった。」」
」
「
「読みながら愛実が、良いわねぇ死者死者、と呟くので気になって仕方なかった。」
「「ねえ、だから何なの死者って」」
「私が尋ねると、愛実はディスプレイから私へ顔を移し、そして表情の削げ落ちた顔で問いかけてきた。」
「「そんなに知りたいの?」」
「考えるまでも無い。」
「「知りたい」」
「「ふーん」」
「愛実は再びディスプレイに視線を戻して、マウスを握った。画面がスクロールしていく。文章が巻き戻っていく。過去に遡っていく。」
「「誰が駒鳥を殺したの? ううん、そうじゃない。さしずめ、who’s killed cock robin? ってところかしら」」
「呟きながら、愛実はどんどんと過去を遡っていく。それを見つめる私もまた過去に戻ってしまう。」
「「ちなみにこの小説の主人公は誰?」」
「突然愛実がディスプレイを指さしながらそんな事を言った。」
「「私だけど」」
「言ってて、ちょっと恥ずかしい。別に小説じゃない。強いて言うなら日記だ。」
「愛実が笑う。ちょっと腹が立つ。」
「「それじゃあ、あなたのお名前は?」」
「知っている癖に。更に腹が立って、私は力強く自分の名前を言った。」
「「細野目優月!」」
「愛実がちらりと私を流し見る。またディスプレイに目を戻す。愛実の顔が青白く輝いている。」
「「じゃあ、光、お願い」」
「「はい」」
「振り返ると光さんが居た。光さんは憐れむ様な目をしていた。」
「「六日前にビルの屋上から安宅夏芽が、五日前に校舎裏の木から新郷春菜が、同日に高校の非常階段の上から日野実秋が、三日前に安宅夏芽と同じビルから雑賀南冬が、そして二日前に日野実秋と同じ高校の非常階段の段差から日須賀音萌と細野目優月が」」
「何だろう。何の事を言っているのか分からない。何故だか掌にべっとりと汗をかいていた。心臓の鼓動が速く強く掻き鳴って、どんどんと視界が狭く暗くなっていく。どうして私の名前がそこに出てくるんだろう。」
「愛実が笑っている。」
「「自分の名前が出てきてびっくりした? 墜落死した人間の中に自分の名前が入っていてびっくりした?」」
「耳が、音がどんどんと遠のいていく。頭が、意識がどんどんとぐちゃぐちゃになっていく。」
「「昨日」」
「何が何だか分からない。死んでいる? 私が? 細野目優月が? どうして?? なんで??? 死んでいるなら???? どうして????? 私は??????? こうして???????? ものを考えているの?????????」
「ミイラが見える。ミイラが落ちる。ミイラが逆さになっている。」
「干からびた顔のミイラが私の前で落ちている。足には命綱が付いている。制服を着ている。顔がミイラではない。その顔を確かめようとしたが、確かめる前に落ちて消える。新しいミイラが落ちてくる。ミイラはミイラの顔をしている。ミイラの顔を見ている内に、私の中に突然閃きが走った。」
「そのミイラは」
「「どう? 落ちるミイラの正体は分かった?」」
「そのミイラは」
「「お母さん!」」
「「え?」」
「「お母さん! ミイラはお母さんだったんだ!」」
「「ちょっとどういう事? 私の考えだとミイラは」」
「「お母さんだったんだ!」」
」
「
「私はペンを落とした。もう力が出ない。せめてもの遺言すら満足に最後まで書けなかった。もう何日何も口にしていないんだろう。」
「私は深く呼吸する。空気を吸い込めば少し位は栄養になるんじゃないかと思って。当然お腹は膨れない。」
「目の前にはお母さんが居る。逆さになったお母さんの真っ黒な目が私の事を見つめている。もう何年もそうしているお母さんは干からびていて不味そうだ。けれどお腹の減った今は食べたくて仕方が無い。けれど食べられない。両手と両足を縛られて動けない私は、宙に浮いているお母さんに手が届かない。食べられても、きっとお腹は膨れない。お母さんは空っぽだから。空っぽなお母さんが異常だと気が付いたのは最近だ。だから色々と物を詰めてみたのだけれど、お母さんは空っぽなままだった。空っぽ。空っぽ。吐き気が込み上げてきた。けれど私のお腹も空っぽだから大丈夫。何も出てこない。」
「私は朦朧とした意識の中、さっきまで私は何を考えていたんだろうと考えた。何か昔の事を思い出していた気がする。けれど、思い出せない。」
「私の手が遺書に触れた。もうそれ以上、続きを書く気力は無かった。」
」
「
「その紙に目を通し終えた愛実さんは楽しそうにくふふと笑った。理解の及んだ風でもあった。」
「「あの、何か分かったんですか?」」
「「いいえ。ただ一晩でこれを書いてくるなんて感心しちゃって。ちゃんと学校には行ってる?」」
「私はがっかりとして項垂れる。もしかしたらすぐにでも真相が判明するんじゃないかという期待があったのに。」
「「逃げてちゃ駄目よ。もうしばらくは匿ってあげても良いけど」」
「愛実さんが良く分からない事を言う。」
「「何か分からないんですか?」」
「「んー、そうねー、少しはあるけれど」」
「愛実さんの言葉に私は急いで顔を上げた。」
「「でも、これを書いたあなたなら、もう何が起こったのか粗方思い出したんじゃないからしら?」」
「私が首を横に振った。書いている途中は何か閃きかけていた。けれど、風に舞う薄絹を捉えようと手を振り回す様に掴み所が無く、必死で書き上げてみるともう絹の切れ端も見えなくなっていた。読み返しても何で自分がこんなものを書いたのか思い出せない位だった。」
「「そう。それならそれで、ゆっくりと思い出していけばいいじゃない」」
「「でも」」
「「だってもうその、落ちるミイラ、だったかしら? それはもう見えないんでしょう?」」
「「はい。でも」」
「「無理に真相を知ろうとしたって駄目よ。結局何だか収まりの悪い、歪な事実が見えるだけなんだから。この中にも書いてあるでしょう? 納得する答えが出せるかどうかが大事なんだって。ふふ、何だか物語の中の私になったみたい」」
「愛実さんが夢見る様に天井を見上げた。私もつられて見上げると、白い天井が広がっている。部屋が広い分、天井も広い。真っ直ぐ上を見上げると、視界一杯が白で埋まってまるで何処までも続いている様だった。」
「「ま、良いわ。私はあなたの言う、祟り? なんて無いと思ってる。その知り合いが何人も飛び降りたのにはきっと現実的な原因がある。それを調べて上げる」」
「私が天井から愛実さんに視線を移すと、愛実さんがじっと私の事を見つめていた。」
「「けれどね、私の見立てでは、あなたが飛び降る可能性は低いと思ってる。だからね、結局私のする事はあなたが納得出来る為のお手伝い。最終的にはあなたが答えを出さなくちゃいけないし、私はあなたが答えを出す様に結果を持っていく。それでも構わないなら」」
「「構いません」」
「私は愛実さんの言葉を遮って答えた。愛実さんが無表情で私の事をしばらく見つめ、やがて嫣然と笑った。」
「「分かったわ。それじゃあ、どうして駒鳥が射られたのか一緒に考えて上げる」」
「愛実さんは棚からノートを取ってきて、私に寄越した。」
「「そこに思い浮かんだ事をどんどんと書き出して行って。どんな無意味な物でも構わない。私が物語の聞き手よろしく」」
「くふふという笑いが漏れた。」
「「無意味に意味を与えて上げる」」
」
「
「「どう? 誰が駒鳥か分かった?」」
「愛実の問いに私は答える。」
「「私以外の全員が駒鳥だったんでしょう?」」
「愛実はくふふと笑って、首を横に振った。」
」
」