表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

壁の向こうに

 日が天頂から落ち始めた暑い盛り、私が暇に飽かして近所をぶらついていると、女物のワンピースを着た男が壁に張り付いていた。

 大学の夏休みも中盤に差し掛かり、休みボケと言うか、休み疲れと言うか、何だかのんびりと日に当たっている事が堪らなく嬉しく、けれどそうして居る事が勿体無い様な、良く分からない浮ついた心地に浸っていた時で、そこに突然現れた白いワンピースの男は、温かい日常に飽いた心を引き締めてくれる冷たい雪であり、同時に日常にしがみ続けようとする意識を切り離す白刃であり、実の所、気味の悪いただの白虫の様なものであった。

 男は何やら壁の向こうを覗こうとしている様で、時折ぴょこんぴょこんと飛び跳ねては大げさに首を傾げていた。どうやら自分の背の二倍ある遥かに高い壁を覗けない事が不思議で堪らないらしい。ワンピースの前面が壁に擦れ過ぎて黒く汚れてしまっている。能々見れば壁に擦れて男の鼻から血が流れている。

 私は出来るだけ男を見ぬ様に通り過ぎ、曲がり角まで歩き、ちょっと気になって振り返って見ると、男はまたぴょこんと跳んで、着地し、また首を傾げていた。

 日が暮れる頃に気になってまた同じ通りに行ってみると、男は尚もぴょこんぴょこんと飛び跳ねていた。ただ日中と違うのは、その足元に小さな木の箱が置かれている事だった。箱の分だけ男の到達点は上がっていたが、やはり壁に比べるとまだまだ足りない。男が覗こうとしている家はつい近頃、どういう訳か世間並みだった塀をもう半分高くしたばかりであって、覗く者にとっては一際堅固な家だった。けれど男は諦める事無くぴょこんぴょこんと飛び跳ねていた。私はすぐその場を離れたのだが、何だか不安な気持ちが胸の底に沈んでいた。

 次の日の朝にも気になって男を見に行った。意外にもと言うか、案の定と言うか、男は飛び跳ねていた。けれど一晩中跳び続けていた訳ではないらしい。男の着ているワンピースは綺麗に白くなっていた。それを見て、私は何だか安心した。延々と同じ事を続けている様子はまるで人間で無いように思えて、何か薄暗い沼の底に潜んでいる異形を見てしまった様な不思議な罪悪感を覚えていたのだが、それが男にも人間らしい所があるのだと分かった途端に、一息に滑稽なおかしさに変わってしまった。不安に思っていた自分もまた滑稽で、顔がにやついているのが自分でも分かった。誰かに見られたら男を笑っているのだと思われるだろうと、慌てて顔を撫でさすって、男の傍を通り過ぎた。曲がり角を曲がる時に一瞬だけ男を見ると、男はまだ飛び跳ねて止まなかった。

 更に次の日になって、再び男を見に行くと、飛び跳ねる男の足元に箱が三箱置かれていた。ピラミッドの様に下段二箱、上段一箱。男の到達点がまた上がっていた。だんだんだんと男が飛び跳ねる度に、みじみじみじと箱が鳴っている。だがまだ届きそうにない。男が壁の向こうを覗くのに後何日かかるのだろう。かなりの日数かかりそうだ。そして覗いた先に何があるのだろう。向こうは普通の家である。覗いた所で気味の悪い顔をされる以外に何の意味も無い。労力に似合わぬ報酬がどうにもおかしく思えた。せめて向こう側にカナンでもあればと、私は笑った。

 飛び跳ねる音が消えた。

 見れば、男はこちらを見て、笑っていた。歯を見せつける様な大きく快活な笑顔だった。その顔が、お前は信じていないだろうが向こう側にエデンがあるんだぞ、と誇っている気がしておかしかった。もし本当にそうなら素晴らしい事だ。その時は負けを認めて、お詫びをしよう。

 男が再び壁を向いて、また飛び跳ね始めた。私がその後ろを通り過ぎる。だんだんだん、みじみじみじと音がする。少しうるさい。

「あー!」

 突然声が聞こえた。男が覗こうとする家の門から女の子が大きな瞳を更に大きくして、男の事を指差していた。どうやら男の飛び跳ねる音に気が付いて出て来たらしい。家の前で見知らぬ人が飛び跳ねてたらそれは驚くだろうな、とまたおかしくなった。

「お母さん! また来てる!」

 そう言って、女の子が引っ込んだ。女の子が引っ込んだ先から女の子とは別の、怒鳴る様な声が聞こえた。そうしてすぐ可愛らしい女の子の代わりに、鬼気迫る様な恐れと怒りの入り混じった顔をした女性が飛び出してきて、そうして男に近寄りながら怒鳴りつけた。

「また来たんですか? 止めてくださいって言ってるでしょう!」

 どうやら男は常連で、壁の向こうと顔見知りだったらしい。

 初めの内は大変だなぁとぼんやり思っていたのだが、女性の嘆願する様な声音が段々と湿り気を帯びてきて、何だか私は怖くなった。どうやら壁を高くしたのも、男に覗かれていた為らしい。男は一体どれだけの間、この家に執着しているのだろう。今更ながらというか、改めてというか、とにかく突然に男の異常さに気が付いて、私の心に段々と男を嫌悪する心が湧いた。

 女性は懇願し続けているが、男は聞く様子の無い様で、首を傾げて、空を見つめ、かと思うと壁の前で飛び跳ね、それから女性に目をやって、ふいと逸らす。私にはその行為の意図が分からなかった。ただ男が壁の向こうを覗きたい事だけは良く分かった。

 恐らくこれからも男は壁の向こうを覗こうとするだろう。そうして覗けたら、それからずっと覗き続けるだろう。そうしてずっとずっと覗き続けるのだろう。私が死んだ後も覗き続けるのだろう。果てが無い。男は何の為に壁向こうを覗こうとしているのか。男はどうしてずっと壁向こうを覗こうとしているのか。分からない。分からなくて、恐ろしかった。男を見ていると男の不気味さが伝染してくる気がして、男を見る事すら怖くなった。

 もうこの通りには来ない事にしようと思った。曲がり角を曲がって通りを離れる時、気になって、最後だからと訳の分からない言い訳をしつつ、未だ聞こえる女の怒鳴り泣きに目を向けた。

 泣きながら怒鳴る女の前で、男が笑いながら私の事を見つめていた。

 何だか寒気を覚えて、私は急いで通りから離れた。

 男が今見せた笑いは、少し前に見せた快活な笑みと同じである。それなのに何故だか怖く感じた。どうして男が私の事を見ていたのか分からなかった。

 とにかくあの男の居る通りへは行かない様にしようと再度自分に言い聞かせた。

 それからは心に定めた通りに、二度と男を見に行く事は無かった。

 そして夏休みの終わり。私は寮に戻る為に大量の荷物を持って、母親に車を出してもらい、最寄りの駅へ向かった。日は落ちて暗かった。圧し掛かってくる様な夜の闇があった。大きな月の光がはっきりとその重さを照らし出していた。隣の運転席には母親が居て、これからまたしばらく会えなくなるのだと考えると、実家でのんびりしていた時には決して湧かなかった後悔が湧いた。いずれ会えなくなってしまう。もっと時がたてば、本当の意味で二度と。そう考えると寂しくて、何だか闇に喉を閉められている様な心地がした。

 母親はしきりに最近の就職難に付いて話している。来年からあんたも就職活動をするんだからと心配してくれる。いざとなったら永久就職しちゃえばいいんだからと励ましてくれる。実家でのんびりしていた時には煩わしく思っていたそんな話題でさえ、私の中に悲しみを湧かせた。

 母の運転する車のライトが道の先を照らしている。ライトに照らされた狭い視界を無為に眺めつつ、ここはあの男が飛び跳ねていた通りだなと思った。

 ライトが男を照らし出した。

 壁際に木箱を重ねに重ね、壁と同じ高さになった歪なピラミッドを男はよじ登っていた。

 車が男の傍を通り過ぎる。その一瞬、男がこちらを見た気がした。目が合った気がした。だがそれを確かめる前に車は通り過ぎ、男は後方へ流れていった。

 気になって、窓を下げて、身を捩じって乗り出すと、月と街灯の光を弱々しく受けておぼろげに見える男が、昆虫の様に筋張った動きで木箱によじ登り、四つん這いで壁に手をかけ、そうして頭から壁を越えて、向こうに落ちて行った。

 後には森閑とした闇と薄明りの照らす積み上げられた木箱だけが残って、動かなかった。

「何してんの、危ないから窓閉めなさい」

 母親の言葉で急に我に返り、私ははっとして乗り出していた身を戻し、窓を上げ閉めた。閉め切ると、母親がどうしたのと尋ねてきたので、私は何でも無いと返した。今、私が見た事は決して言ってはならない事の様に思えた。言えば、私や母親に何か悪い事が起こる気がした。言えばそれをきっかけに、私達の家の壁の向こうで見知らぬ人間が跳び始める気がした。

 努めて忘れようと心構えて、母親と懸命に話し、駅に着いてからは出来るだけ足元だけを見ながら電車に乗り、寮の近くでは決して壁際を見ない様にして帰った。

 それから半年程して、ふとした拍子に母親から、男が入り込んだ家の話を聞いた。何でもつい最近首を括って一家心中したらしい。母親の話によると、一家心中の理由は夫の会社が倒産して多額の負債を抱えた為というありきたりな物だった。けれど私はきっとあの男がやったに違いないと思った。

 旦那さんが何でか奥さんのワンピースを着てたみたいよ。母親がそう言った。人間て死ぬ前になると良く分からない事するのね。そんな母親の言葉でその話題は途切れた。

 更に半年経った今年の夏に、私は一年ぶりの帰省をした。何とか就職も決まり、太平の心地での帰省だ。一か月前に少し遅めの内定が出て、それを喜んでくれた両親に対して、細やかな贈り物も持参した。

 そうして家の前まで来たのだが、中に入れない。というのも、門が一新されて鍵が掛けられ堅固に侵入を阻んでいたからで、不思議に思ってインターフォンを鳴らすと、門の隙間から見える玄関の戸が開いた。

 母親が出てくる。

「どちら様でしょうか?」

 母がそう言う。

 更にその後ろから、私と同じ年頃の見た事も無い女が現れる。

「誰? 親戚の人?」

「ううん、知らない人」

 そこでようやっと私の胸の内に、嫌な予感が灯った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ