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森林夜行

 月の明るい夜だった。森を分ける様に何処までも続く道は、白く浮き上がって進む先を示している。森は呼吸を止めていた。しじまはへどろの如くねばねばと蔓延している。

 森には陰があった。例えば視界の端に月明かりに浮かされた白い草叢がある。落ちた枯れ葉を踏みしだけばすぐにその草叢へ辿り着ける。だが私はそこへ行く事が出来ない。間に邪魔するものなど何も無い。けれど行く事が出来ない。何故ならその草叢は陰にあたるから。陰の中に私は行けない。私はそれを知っていた。

 私は妙に背後が気になって仕方が無かった。とは言っても、何かが追いかけてくるだとか、何かを名残惜しんでいるだとか、そういう訳では決してないのだけれど、振り返ると何か恐ろしい目に遭う気がして、何があっても後ろを見ない様にしようと心に決めていた。後ろを見ないというのは普段意識していない時であれば、それ程難しい事ではないのに、見てはいけないと意識するとどうにもむず痒い違和感が全身を撫で上げて来るので、酷く難儀した。何度振り返ろうと思ったか分からない。何とか振り返らずに、全身を走り回る痒みを伴う違和感に耐えながら、私は明るい夜の森を歩いていた。

 しばらく歩いていると、右手が崖になっていた。崖に寄り添う形で民家も立っている。崖と言っても大人の背丈位の高さで、丁度民家の窓にかかる位であった。私の足元に窓があり、膝の辺りから屋根瓦が組まれ、目の高さで屋根は終わっていた。窓の向こうからは灯りが漏れていた。私はその灯りを知っていたが、その灯りは私の知っている灯りとは違っていた。その白熱電球の光は非常に弱々しいものであるはずなのに、何故だか今日に限っては昼間の太陽よりも尚明るい。その拭いがたい違和感が不吉に感ぜられ、その不吉さに私は思わず身をすくませた。場にそぐわないというか、人工的すぎるというか、形容しがたいが、とにかくその光は不気味な感じがした。身がすくみ、不気味さを意識させられると、突然尿意が込み上げてきた。

 民家の中からは灯りの他に人の話し声も漏れていた。

「今日はお供えが少ないねぇ」

「仕方ないさ。なんせほら」

「あっちの都合じゃないか。あたし達には関係ないよ、馬鹿馬鹿しい」

「明日にはきっと増えるさ」

「増えてくれないと困るよ」

 漏れる灯りが少しだけ強くなった。反対に話し声は薄くのっぺりと小さくなった。どうやら外で盗み聞きしている私に気が付き始めた様だった。これ以上灯りを見ていると大変な事になる気がした。私は気付かれない様に体を屈めて、灯りへと目を向けそうになるのを堪えながらその場を離れた。

 灯りから逃げ切ると私はほっとして、また背筋を伸ばしてほの白い月の森を散策した。

 しばらく歩くと道端に白い影が居た。男だった。男は地面まで届く大きな白い布を被っていて姿は全く見えない。どうやら信仰の結果らしい。あまり褒められた格好ではない。関わり合いたくないので、私は足早にその横を通り過ぎようとした。

 けれど男は私の横に並んで歩き──背は私の腰程だった──男とも女ともつかない半端な声で私に尋ねてきた。

「あなたは時間を知っていますか?」

 関わり合いを持ちたくない私は、何とか男に消えてもらおうと興味の無い返事をしてみた。

「さあ」

 男は少し驚いた表情を布の下で浮かべてから、また尋ねてきた。

「あなたは時間をどの様にお考えですか?」

 私はとにかく何か答えを返さなければならないと思った。男の機嫌を取ってやり過ごそうと思ったのだ。けれど男の話に興味を持っている等と勘違いされない様に、僅かでも色を見せぬ様に、出来るだけ簡潔に平坦に答えた。

「繋がりだと思っています」

 私の答えに男は忍び笑いを漏らした。

「因果という事ですか?」

「ええ、まあ」

 男が私の返答に食いつき始めている。しまったなと思った。どうやら誤った返答をしてしまったらしい。となれば、面倒な事になりそうだ。

 男は尚も布越しに忍び笑いを響かせている。

 私が黙っていると、男は少し怒りを覗かせた。

「違うんですよ。時間はそんなものじゃないんです」

 男はまた驚いた表情を浮かべた。

「いえいえ、そういう訳ではありません。そうではないんです」

 私は何も言っていない。

「ではご説明いたしましょう。時間とはですね、向こうからやって来るものなのです。私達の足元は常に後ろへ流れていて、そしてその上に時間がある。私達は動く地面の上を流されない様に歩きながら、流れて来る時間を読んで暮らしているのです」

 男の話を聞いている内に、私は何だか不安になって来た。もし疲れて歩けなくなってしまったら、そうして後ろに流されて行ったら、人はどうなるのだろう。

「それが死です。後ろに待ち構えている沼に溺れ、記憶と一緒に腐ります」

 私の中に再び背後を恐ろしく思う気持ちが湧いてきた。決して振り返ってはいけない。そして足を止めてもいけない。そう思うと急に疲れてきて、疲れは気力を挫けさせ、立ち止まって引き返したくなった。けれど砕かれてはたまらないと私は懸命に足を動かした。歩く内に疲労は更に溜まっていく。歩かなければならない恐れと立ち止まってしまいたい諦めとが押し合いへし合いして私を悩ませる。

 私は心細くなって、隣の男を意識したのだけれど男は居なくなっていた。私の遥か後ろで、元の花に戻って、また次の出番を待つ様子だった。その時、男の顔に見覚えがあった気がしてきて、よくよく考えてみれば毎日会っていた様な覚えもあった。だが誰なのかと深く考えてみても、赤の他人だとしか思えなかった。

 息を切らしながら更に歩くと、左手に石段があった。苔むした石段には所々朱い塗装がこびりついていて、その何百段かを登りきると稲荷の神社がある。私が茫洋として石段を下から眺めていると、何処からか金属の打ち合う甲高い音が聞こえてきた。音は反響していて何処から鳴り響いてくるのか判別がつかなかったけれど、私は直ぐに石段の上の神社から響いてくるのだろうと当たりをつけた。子供達が剣を作っているのだ。

 子供達が居並んで剣を打っている神社の様子を想像すると連想が働いて、この辺りにきっと川があるに違いないと思った。耳を澄ませると、微かに小川の流れる音が道の先から聞こえてきた。涼やかなその音は何だか私をこの森の中から救ってくれる気がして、早速川へと向かってみた。

 ところが、向かうまでも無く、川はいつの間にか道に沿って脇を流れていた。川の流れは月の灯りを照り返して、水面に細かな光が幾重にも点いては消えていた。闇の幕に覆われてはっきりとした輪郭は見えないが、そこここで見える光の粒とちろちろと遠慮がちに響くせせらぎが川の小ささを主張していた。子供の膝をようやく隠す事が出来る位の浅さで、溺れる事等、万に一つも無い様な川だった。川の向こう岸には河童が居た。河童は巻き煙草を咥え、立ち上る煙に透かして、何か過去の事を憧憬していた。傍には子供用の小さな自転車が転がっていた。錆びてくすんだ青色は、丁度曇りがちの空の色に似ていた。

 私が近付いてみても、河童はこちらを見向きもせずに、虚空を見続けていた。

 近くで見ると、河童の着る背広は酷く縒れていて汚れも目立った。背広の皺が月明かりで影を作り、まるで河童の全身に川深くの水草が絡まり付いている様に見えた。河童のどす黒く汚れた褐色の肌は死人のそれに似ていた。

 河童は巻き煙草の煙を吐きながら時折傍らの自転車を撫でている。その様子を見ていると、何だか哀れに、そして悲しくなったので、私は声を掛ける事を諦めて、元の道に戻る事にした。

 その一瞬、河童がこちらを見上げてにたりと笑った気がした。

 それは私が河童から目を離した一瞬の事で、慌てて河童を見返したが、河童は出会った時と同じ様に巻き煙草を吸いながら何処か彼方を見つめていた。気の所為だったのか。良く分からない。考えても仕方が無い事だと思った。

 顔を上げると、道はまだまだ先へ続いていた。月が白く照らす道は真っ直ぐと伸びている。道は何処までも何処までも伸びていて、地平線まで途切れることなく続いている。この道に終わりはあるのか、道の先に何が待っているのか。見当もつかなかった。道の脇は影になっていて道を逸れる事は出来ない。振り返れば恐ろしい目に遭うので戻る事も出来ず、立ち止まればいずれ沼に沈むので前に進むしかない。

 仕方なしに、私は月明かりに照らされた道を進んだ。


 目を覚ますと、私寝ている隣に誰も居ない空虚な布団が並べられていた。

 苔むした渓流の運ぶ森の匂いが漂っていた。

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