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箱庭の炎

 扉の向こうの廊下から音が聞こえた。こつりこつりと、何か硬質な音が。


「お姉ちゃん」珠代が足を止めて振り返ると、妹の愛実が居た。掛け並ぶランタンと敷かれた絨毯、西洋屋敷の廊下に袢纏を着たおかっぱの少女が、口に手を当てて不安げな表情をして立っていた。愛実は中学生だが、体を縮こまらせているその姿は実際よりも幼く見えた。珠代が一歩踏み出すと、愛実は目を見開き蒼白となって、背を向けて走り去ってしまった。


 扉の向こうから聞こえてくるのは靴音だと珠代は思った。けれど思い直す。厚手の絨毯が敷かれた廊下に靴音の響く訳が無い。鳴ったとしてもこんな硬質な音を立てる訳が無い。


「ねえ、お母様」扉が開いて、珠代がひょいと顔を覗かせた。長い黒髪をいじりながら身を縮めている。「あのね、今年、やっぱりうちでクリスマスパーティーしたいんだけど。二十四日と二十五日」白色の蛍光に照らされた、いつも以上に白い珠代の顔。「うちでするのは良いけど、料理は? こっちで作れば良い? それともそっちで用意するの?」


 靴音な訳が無いと珠代はもう一度廊下の音を注意深く聞いてみた。だがこつこつという音はやっぱり靴音に思えた。何かが近付いてきている。珠代は扉に耳をそばだてて廊下の音を窺った。こつこつと規則正しい音だけが聞こえてくる。少し規則的過ぎるように思えた。人間の足音にしては。


 何だか眠れなくて、珠代は雨音を聞きながらベッドの上で寝転がっていた。外を見れば黒一色に染まったガラス窓の向こうから雨が吹き付けている。天井を見上げれば有機ELの淡い乳白色の光が部屋を絶え間なく満たしている。寝返りを打てば机の上に置かれた犬の人形が茫とした表情をしている。窓の外の雨も、人口の光も、感情の籠っていない人形の視線も、何か恐ろしい事の予兆に思えた。


 音を響かせているのは悪いものだと直感した。何か黒っぽい影が輪郭を揺らめかせながら近付いてきている。そう思った。音はこつこつと歩んでくる。


「どうなさいました?」聞き覚えのある声に珠代が顔を上げると、家の使用人が冷めた目付きで珠代の事を見つめていた。「お飲み物を持ってきました」液体の入ったコップを差し出され、珠代はそれを手に取った。


 扉の向こうから音が聞こえてくる。珠代はそれに聞き入っていた。その時、背後で物凄い音がした。雷だった。空気を劈くその音に、珠代が慌てて振り返ると、丁度稲光が窓一杯に映じた。そこを黒い何かがよぎって消えた。すぐにまた雷鳴が辺りを轟音で染め上げる。


 寝転がって、先程使用人に渡された本を開く。

 物語の中の雨が現実の雨と重なって、珠代は本の中に入り込んだような気がした。ふいに現実感が消失して、周囲が茫洋とまるで夢の中の様に感じられた。


 窓に映った影に怯えて扉に背を預けていると、扉の向こうの音が一際高く鳴って、珠代の部屋の前で止まった。珠代が驚いて、扉から離れる。だが逃げようにも部屋の中、壁に行きつき逃げられない。


 疑問に思った。

 さっき飲み物と本を持って来たあの人は誰? 名前が思い出せなかった。声は辛うじて思い出せる。服装もこの家の制服だ。顔もぼんやりと思い浮かぶ。だが全く見知らぬ人だった。少なくとも五人の使用人の誰とも違う。何故知らない人だと気が付かなかった?

「あれは誰?」


 布団に座り込んで枕を抱きしめて、扉の向こうから聞こえてくる衣擦れの音に対して入って来るなと祈りつつ、もしも入って来られたらどうすれば良い? と自問する。答えは出ない。ノックの音が響く。


 ずっと昔に貰ったライターを探し当て、可燃性のスプレーを手にして、部屋を出た。廊下には両親と二人の使用人が居た。皆、珠代が部屋から出て来た事に驚き、すぐに顔を綻ばせて、珠代へと歩み寄った。茫洋とした殺意を抱く珠代へ。機嫌を取ろうとする父の早口に向けて、珠代はライターを着火してスプレーを吹き付けた。一気に炎が燃え上がって、父の顔を包み揚げた。

「たまよ」

 呆けた様子の母がそう呟いた。途端に珠代は涙を流して嗚咽を漏らし始めた。堪えきれない何かが身の内から溢れ出てきていた。胸が熱くて耐えられなかった。珠代が母に手を伸ばして近付くと、その両横から二人の使用人が庇うように母の前に出た。それ等へ二度ずつ炎を吹き付ける。

「どうしたの? 何で。何が悪かったの? お母さん達、何かした?」

 母が力強く珠代を抱きしめる。珠代が流す涙を母の胸に擦り付ける。そうしてライターを着火し、その火に噴霧口を当てて母の足に向けてスプレーを吹き付けた。燃え上がった母にもう何度か、炎を吹き付ける。


 扉からノックの音が響いた。珠代は恐怖に染まった表情を隠す様に枕へ押しつける。枕に隠された暗い視界の中で扉がゆっくりと開く音が聞こえてくる。


 愛実は部屋に居た。珠代は愛実の傍まで歩み、寝息を立てる頬にそっと手を当てる。残りは愛実一人。


 扉の開いた音の後に、電灯のスイッチを入れる音も聞こえる。


 珠代は自室へ戻った。これ以上苛まれるのが嫌で、珠代は台所から持ってきた包丁を机の上に固定して、思いっきり走って自分の腹を突き刺した。机の上に置いてあったボールペンを手に取り、一呼吸おいて、眼球へと突き刺した。ボールペンは眼を突き破って脳に達して止まった。絶命には至らなかったが、珠代の全身から力が抜けて、やがて死んだ。


 そこに一人の使用人が水を持って立っていた。



 目を開くと薄暗い部屋に居た。カーテンの隙間から光が漏れている。

 一瞬前まで見ていた酷い夢の所為で頭が上手く働かない。暗がりの中、薄らと輪郭の見える家具調度を見渡して、自分の部屋だと気が付くまでに時間が掛かった。夢の内容は思い出せない。とにかく嫌な夢だった。感触だけが残っている。カーテンを開くと一気に光と冷気が差し込んできた。寒さに震えつつ、時計を見ると十時を少し過ぎていた。

 学校! 既に登校の時間は過ぎている。これは完全に遅刻だ、と考えた所で、今日が休みな事に珠代は気が付いた。クリスマスイブ、世間では三連休の真ん中だ。珠代にとっては冬休みの二日目である。

 欠伸をして今日は何をしようかと考えて、友達とクリスマスパーティーの約束をしていた事を思い出した。珠代の家で。時間は十時から。

 ベッドの傍に放られた犬のストラップの付いたスマートフォンが点灯していた。慌てて内容を確認すると、メールに「誰も門を開けてくれない」という愚痴が入っていた。窓に駆け寄ると、眼下の向こうの門に人影があった。

 慌てて身だしなみを整えようと鏡を覗きこむと、爆発した頭髪が乗っかっていた。燃え盛る火炎の様な髪の毛に何度か手櫛を入れて、すぐにまともに相手をするのは無理だと悟る。門の前で待っている友達を思ったが、流石にこの髪では出会えないと、仕方なくお風呂に入る事にした。浴室は部屋に付いている。服を脱いで浴室へ入る。何か心に引っかかった。起きてから浴室に入るまでの間に何か重要な物事を見逃した気がした。だが分からなかった。

 出来るだけ急いで何とか支度を済ませて三十分で部屋を出た。厚手の絨毯が敷かれた廊下を急ぎ足で進んでいく。朝だというのに未だ灯りの点いたランタンが並んでいる。家の者が消し忘れたらしい。家の中はとても静かだった。朝の引き締まった空気と相まって、静謐だと感じた。廊下の窓から差し込む朝日の温かさが心地良く、のんびりと揺らめいて溶け崩れてしまいたいと思ったが、外では友達が待っている、珠代は急いで階段を駆け降りた。

 一階に下りるとやはり静寂が立ち込めていた。あまりにも静かなので空間に限界を感じる事が出来ない。屋敷の中が果てしなく広がっている様なそんな気分になった。広すぎて、もう外には出られない。そんな背筋を震わせる様な思いが湧いた。家の者は何処に居る?

 そんな考えとは裏腹に階段を降りた珠代は四辻を抜けてそのまま正面の玄関までたどり着き観音開きの扉を開いた。外から冷たい空気が流れ込んで来た。

 珠代が庭の先を見ると、誰かが門に張り付いた。珠代が出てきた事に、珠代の友達は気付いた様だ。友達は門扉の作る縦じまの陰に体を幾筋かに分断されて、尚もふんぞり返っていた。そして門を揺らし始めた。

「遅い!」

 そんな事を叫んだ。

「ごめんごめん!」

 珠代も叫び返して、門へ駆け寄る。門の向こうには四人の女友達が居た。

「リアルに一時間待ったんだけど」

「だからごめんて」

「山ん中に取り残されて遭難するかと思った」

「そんな高くないでしょ。丘だよ丘。町から歩いて十分じゃん。もうほんと悪かったからさ、ほら入って入って」

 アルコールの臭いが漂ってきた。もう飲んでいるのかと珠代は呆れる。

 先程門を揺らしていた長谷川が偉そうに先頭を歩きながら、バギーパンツに隠れるスニーカーで地面の石ころを蹴り飛ばし、屋敷を見上げ皮肉気に笑った。

「こんなでっかい屋敷であったかい物食べてる間に、あたし達は寒空の下で凍えてたのかぁ」

「好い加減しつこいよ」

 本気で腹が立ち始めた珠代だったが、その意識が他へ移る。

「あれ? 南美も?」

「何、私もって。居ちゃ悪い?」

 南美は物凄く不機嫌な様子で鋭い目付きを珠代へ刺した。明るいブラウンに染め上げた髪は染め直したばかりなのか、綺麗にむらが無い。だがその反面酷くぼさついている。

「全然悪くないけど」

 悪くないけど、気になるのだ。一昨日の二十二日、終業式の帰り際に南美は二十三日にある他校との飲みで彼氏を作ると豪語していた。今年のクリスマスこそ彼氏と過ごすのだと。結果は二十四日の今日ここに来ている事と今の南美の様子で丸わかりではあったが、何があったのか気になった。

「何? 私の顔に何か付いてる?」

 じっと見つめてくる珠代に向かって、南美がまた不機嫌そうな声で牽制した。

 珠代は、今無理に聞かなくても、後でお酒を入れて聞き出せばいいか、とほくそ笑んで、

「何でもないです」

視線を外した。

 五人で屋敷の中に入る。やはり中は静まり返っている。

「今、誰も居ないの?」

 長谷川が隠しきれない喜悦を滾らせつつ、珠代に尋ねた。

「うーん、特にそういう事は聞いてないけど。出掛けたのかな?」

「うるさくして良い?」

「良いよ。折角だし」

 その瞬間、長谷川が屋敷の中の停滞した空気を切り裂いた。

「よっしゃー! 今日はとことん飲むぞー!」

「ちょっと。人の家だってこと忘れないでよ」

 口ではそう言ったが、珠代もまたどんちゃん騒ぎを期待している。

「分かってるって」

 分かっていない顔をして、長谷川は嬉しそうに言った。

「今日ぐらい良いじゃない」

 背後から聞こえた声に珠代が振り返ると、箱がひょっこひょっこと左右に揺れていた。

「熊隠しです。よろしくねー」

 箱の後ろからまるで箱から発せられた様な台詞が聞こえた。

 箱の向こうには赤く染まった顔があった。その顔はいつでも優しそうな笑顔を浮かべているが、今日に至ってはアルコールの所為で破顔と言うにふさわしい表情をしている。

「留奈、相当飲んでる?」

「大分飲んでまーす。珠代ちゃんが開けてくれないからとっても飲んじゃいましたー」

 留奈がとても嬉しそうに箱を振る。

 珠代は苦笑いを返した。

「はいはい、すみませんね。ほんと」

「っていうか、飲まなきゃやってらんないよ!」

 突然留奈が声を大きくした。

「今日、家を出る時に家族に何て言ったか分かる?」

 珠代に分かる訳が無い。

「彼氏と遊んで来るって言ったんだよ! 見栄を張って! それっぽい気合の入った格好までして! 悲しいよ!」

 珠代が視線を下ろすと、確かに留奈はかなりめかしこんでいた。珠代が視線を上げると、また目の前に箱があった。

「そんな訳で今日はこれを呑みましょー」

 留奈が箱を掲げ、溶け崩れた笑顔を浮かべる。

「そのお酒、何?」

「これ? この子はアルコール度数四十五パーセントのー、日本酒なのに日本酒じゃない、みんなのアイドル熊隠しちゃんでーす! 拍手ー」

 珠代の横で長谷川が拍手をした。留奈の背後では南美ともう一人が同じ様に拍手をしていた。まばらな拍手は直ぐに止んだ。

「そんなの何処で買ったの?」

「これは、叔父さんが持ってきたのを貰って来たの。今日の為に」

「豪い!」

 長谷川が相槌を打った。

 珠代が呆れて溜息を吐いた。

「そんな強いのどうすんの?」

「勿論、飲みます! ハルちゃんが」

「え? 私? 私、そんな強いの飲めないよ」

 突然名前を出されたハルが怯えた表情で留奈の持つ箱を一瞬だけ見つめてから、長谷川へ助けを求める様な視線を送り始めた。

 長谷川は笑いながら留奈に加勢した。

「いっつもカシスばっかりなんだから、たまにはこういうのも飲まなくちゃ。彼氏いらないのメンバーなら」

 聞き捨てならない言葉が聞こえて、珠代が口を挟む。

「あんた等、いつの間にそんな怪しげな組織に入ったの?」

「何言ってんだ。珠代もメンバーだろ。今日だって彼氏いらないの第一回会議で集まったんじゃん」

「初耳なんだけど。今日はクリスマスパーティーじゃないの?」

 突然、長谷川は目を見開き、肩を怒らせて、鋭い声を上げた。

「クリスマスなんて無い!」

「いや、無いってあんた」

 珠代が呆れていると、暗い声が響いた。

「そうだよ」

 声のした方を見ると、南美が自嘲気味に笑っていた。

「彼氏の居ないクリスマスなんてクリスマスじゃないんだよ」

 そうして鬱々と笑い声を上げ始めた。その姿は惨めで恐ろしく見えた。一体飲み会で何があったのかと気になる反面、聞けば取り込まれてしまう様な怖さがあった。

「怖い」

「流石にああはなりたくないなぁ」

 珠代と長谷川が南美から一歩退いた時、辺りにかつりと硬質な音が響いた。五人全員が音のした方を向くと、一人の使用人が厚手の絨毯の敷かれた階段を降りてきた。

「用意は出来ておりますよ。そこでは寒いでしょう」

 長い黒髪を後ろで縛った使用人は、腫れぼったい三白眼で一同を見回した。無表情でとっつき辛そうな固い印象がある。けれど実は優しい事を珠代は知っていた。

「あ、逸見さん」

 珠代の旧知で、何度も家に来た事のある南美もまたその使用人の事を知っている。

「皆様、私は使用人の逸見と申します。よろしくお願いいたします」

 そうして礼をした逸見は五人を促してから歩き出した。五人が続く。五人が付いてくる事を確認した逸見は、南美へ向けてあっさりと言ってのけた。

「南美様、お変わり無い様ですね」

「うん」

「合コンでも彼氏が出来なかった様で」

「ちょっと。何でそれを」

「合コンの事は珠代お嬢様から。何でもクリスマス前に突然焦りだして我武者羅に追い求めたけれど、どうせ彼氏が出来る訳の無い初合コンだったとか」

「たーまーよー」

 南美が珠代の事を睨みつけた。けれど先程までの本気で気落ちしていた時に比べれば、幾分険が取れている。それに対して珠代が大げさにすくみ上って見せる。

 南美が笑いの入った怒り顔で珠代に詰め寄った。

「あんた、良くもまあそんな言い方を」

「いやー、でも実際その通りになったんだし。南美が男子と飲むなんて似合わないよ」

「あんた!」

 怒鳴る南美だがその表情には更に笑みが強くなった。他の四人も笑っている。一人だけいつも通りの無表情をした逸見が振り返って言った。

「そうですね。確かに南美様に合コンなんて似合いません」

「ちょっと逸見さんまで」

 逸見がその場に居た全員へ言葉を浴びせる。

「無理に作った彼氏なんて皆様に似合いませんよ」

 矢にでも刺さった様に五人の顔が強張った。

「でも無理にでも作らないと。女子高だから周りに男居ないし」

「いつだって作れます。まだ十代なんですから。それよりも高校生活は人生に一度しかありません。自由に出来る学生の時間は大学も含めて後六年。それより先は自由の利かない社会人です。結婚すればもっと束縛される。結婚すると男共は妻を自分の物にした気になりますからね。束縛厳しいですよ」

 無表情に言い切る逸見の言葉に全員が聞き入っていた。全てにおいて軽い長谷川に至っては早速多大な感銘を受けた様で神から啓示でも受けた様な顔をしている。

「流石、逸見さんです!」

 逸見が感激している長谷川を見つめた。

「よろしければお名前を教えていただけますか?」

「あ、長谷川蛍です!」

「そうですか。長谷川様。私は無理して彼氏を作る必要が無いと言ったのです。彼氏を作らなくて良いとは言っていませんよ」

「うぐ」

 笑いが起こる。

「でもそれならやっぱり無理にでも作らないと」

 弱々しく言った長谷川を逸見が断じた。

「目的を見失わないで欲しいのです。恋に恋するのもよろしいですが、理想に酔って無理して作った関係など持って三か月。大切な高校生活を犠牲にしてまで無理して作る程の事でもないでしょう」

「そうですか?」

「今は無理にベストな相手を見つけようとするのではなく、気ままに生きて欲しいのです。男が寄ってきたら少しくらい付き合ってやっても良いか位の心持で」

 全くの無表情で言い切った逸見は最後にほんの僅かの笑いを覗かせた。

「皆様の通う高校は彼氏が出来ると有名でしょう。大丈夫ですよ」

 その言葉を聞いて、それぞれ思う所があって黙り込んだ。静寂。屋敷の中はとても静かだった。家の者は誰も居ないのか?

 やがてその無音に耐え切れなくなった様に、ハルがおずおずと口を出した。

「あの、私のお姉、私達と同じ学校だったんだけど、結局彼氏が出来なかったんですけど」

 長谷川が声を荒げる。

「お前なー、折角逸見さんが良い事を言ってくれたのに」

 言い争い始めた二人を見て、逸見はまた微かな笑みの気配を見せてから、立ち止まった。

「私はお料理をお持ちしますので、皆様は先にお部屋の方へ」

 逸見が去っていく。五人はそのまま珠代の部屋へ向かった。

「逸見さんて何か良いね」

 留奈が喧嘩する長谷川とハルを尻目に、南美へ向けてそう言った。それに南美が頷いた。

「でしょ? いつも相談とか乗ってくれて、私と珠代にとってはお姉さんみたいな人なんだ」

「へえ。良いねー」

「ねえ、ちょっと良い?」

 珠代が突然口を挟んできた。何事かと留奈と南美が珠代を見ると、半笑いの様な顔をした珠代が困惑気味に言った。

「あの人って逸見って名前だったっけ?」

「は?」

「え? 珠代ちゃんの家の人じゃないの?」

 二人が不思議そうに珠代を見た。

「そうなんだけど。逸見って名前じゃなかった気がするんだけど」

「気がするって……逸見って名前じゃん」

「うん、さっきそう名乗ってたよ」

 二人の表情が不思議から不安へ変わり始めた。珠代の表情は引きつりが更に強くなって、強張ったまま固まっている。

「何か、最初は確かに逸見って名前な気がしてたんだけど。それにあの人も逸見って名乗ってたけど。でも途中から逸見じゃない様な気に」

「意味分かんないんだけど」

「そうだよね。ごめん。私も良く分かってなくて」

「だって逸見さん、ずっと昔から居るでしょ」

「うん」

「それこそ珠代が生まれる前から居たんじゃなかった。いつも一緒に居てさ、私も一緒に良く」

 そこで南美の言葉が途切れた。考え込む様に視線を落とし、やがて恐怖に変じた表情を持ち上げた。

「あれ? どんな事してたっけ。あれ?」

「うん、私もさっきからずっとあの人と一緒に居た時の事を思い出そうとしてるんだけど、どうしても思い出せないの。確かに一緒に居た筈なのに。ねえ、あれは誰だっけ?」

 珠代は泣き出しそうな顔で南美を見つめている。その剣呑な雰囲気に釣られた留奈も泣きそうになっていた。

「ちょっとやめてよ、二人共。冗談でしょ?」

 だが二人共答えない。珠代が無言のまま、蒼白の表情で部屋へと向かう。

「うわ、何これ! 何かここ焦げてる」

 背後から聞こえてくる長谷川の声も聞こえない。

「この黒いの何だろう」

 同じく後ろから聞こえるハルの声も聞こえない。

「ねえ、冗談だよね?」

 留奈の言葉を無視して、珠代が部屋の中に入り込んだ。そうして扉が閉まった。南美と留奈が扉の前に立つ。留奈は扉に手をかけ──開ける事が出来なかった。鍵が掛かっている訳ではない。手が動かせなかった。不安なのだ。さっきの珠代の態度から何か不吉な予感が導かれた。

 何の違和感も無かった使用人。普通に接していた珠代と南美。けれど後になって二人は使用人が誰だか分からないと言う。さっきまで楽しそうにしていた二人が取り乱している。留奈は、さっきまでの日常に見えない異物が入り込んだ様なそんな気がした。そして自分を取り巻く世界が目の前の扉を開ける事で決定的に変質してしまう予感があった。開ければ、何か取り返しのつかない事になってしまう気がした。

「早く開けてよ」

 横から南美が焦れた様に言った。けれど留奈の体は強張って扉を開ける事が出来ない。開けてはいけないと体中が叫んでやまなかった。

 それを押し退けて南美が扉のノブを掴んだ。転んだ留奈の手から熊隠しが離れ、床に転がった。箱はすぐに炎を上げ、誰も見ていない間に一瞬で中の瓶ごと燃え消えた。

「開けちゃ駄目!」

 押し飛ばされた留奈がそう叫んで南美に縋りつく。開ければきっと恐ろしい事が起こる。

「何言ってんだよ!」

 南美がまた留奈を突き飛ばす。留奈がへたり込む。恐怖の表情を浮かべて南美を見つめる。南美と目が合う。南美もまた怯えた目をしている。だが扉を開く意志は変わらない様で、ドアノブをゆっくりと捻り始める。恐怖で声の出ない留奈が首を振る。南美は一瞬泣き出しそうに顔を歪め、ドアノブを離そうとしたが、すぐに顔を引き締めてドアノブを思いっきり掴み、捻って引く。

 そして扉が開かれた。

 中で珠代が死んでいた。

 窓から差し込む日の光に照らされた珠代はうつ伏せになって床に倒れていた。珠代の周りの床が陽光を照らし返して、まるで赤水晶を散りばめたように煌めいていた。床と上半身を隠す様に自慢の黒髪が被さり広がっている。麗らかな光によって淡く映し出された部屋の真ん中に、粘り付く様な赤と黒の異様があった。

「は」

 南美が声とも息ともつかない音を出す。留奈は慌てて珠代へ駆けより抱え起こそうと珠代の体をひっくり返して、その顔にボールペンを見つけて悲鳴を上げる。ボールペンは珠代の目に突き刺さり折れている。目から流れでた血は筋を作って頬で一気に広がり、更に進んで服を大量の血で汚している。

 はっはっと荒く息を吐きながら留奈は珠代の顔を見つめた。冷たく変色した顔。ボールペンの突き刺さった顔。それがぼんやりと留奈の事を見上げている。留奈はその顔をそっと手で支える。氷で冷やした様にとても冷たい。留奈は珠代と見つめ合う。何も考えず、何も考えられず、ただ見つめ合う。

 留奈の手から力が完全に抜けて、珠代の首が安定を失い倒れた。見つめ合っていた視線が外れた。その瞬間、魔法が解けた様に留奈の中の時間が動き出して、留奈は再び悲鳴を上げて、部屋の中から這い出した。

 部屋の外で呆然としていた南美に留奈が縋りつく。南美もそれで正気付いて、思いっき

り部屋の扉を閉めた。

 そこへ、長谷川とハルが呑気に尋ねてきた。

「二人共どうしたの?」

 留奈はそれに応えられない。起こった事象に頭が追い付いていないという事もあるが、それ以上に長谷川とハルが恐ろしかった。留奈の傍には部屋がある。その中では珠代が酷い有様で死んでいる。それなのに部屋の扉のすぐ前で呑気にしている長谷川とハルが異質なものに感じられた。この屋敷で出会った何の変哲も無い使用人が次の瞬間に全く見知らぬ何かに変わってしまった様に、長谷川やハルもまた突然恐ろしい何かになってしまう気がした。

 恐ろしさで固まる留奈の横で、南美が震えを抑えながら二人に言った。

「珠代が死んでた」

 長谷川が馬鹿にしたような顔をする。

「はぁ? 何言ってんの?」

「死んでたんだよ。部屋の中で。中に入って、それですぐに開けたのに、いつの間にか血で一杯になって、死んでたんだ」

「いや、意味分からんし。馬鹿?」

「本当に死んでたんだよ。なら開けてみなよ!」

 南美が扉を指差した。

 留奈は駄目だと止めようとするが、体が動かない。駄目。そこを開けたら中の悪いものが外に出てきちゃう。留奈の想像の中では、部屋の中の珠代の死体が醜い化け物になっていて、扉が開くのを今か今かと待っている。

 長谷川が呆れた様子で扉に手をかけた。

 駄目! 開けちゃ駄目!

 留奈の思いは届かず、長谷川は思いっきり扉を開けた。

 留奈の中で時間が凍る。息も出来ずに開かれた扉を凝視する。

「で? この部屋が何なの?」

 長谷川が呆れた調子を崩さずに、南美と留奈へ問いかけた。

 南美が驚いて、部屋の中を覗き込み、そして呆然として固まった。留奈も這いつくばって覗き込む。

 戸枠の額縁の中には陽光によって淡く色付いた部屋がある。温かみのある光景には汚れ一つ無い。確かにそこにあったはずの赤黒い染みは何処にもなくなっていた。

 訳が分からず留奈は傍の二人を見上げた。南美は相変わらず呆然として動かない。長谷川は疑わしそうに留奈を見下ろしていた。

「で? 珠代は?」

 留奈には分からない。ここで何が起こっているのか全く分からなかった。けれど何か異常な事が起きている事は確かだ。手にはまだ冷たい珠代の感触が残っている。両手を目の前に掲げてみれば、爪の間に血の欠片が挟まっていた。

「逃げよう。逃げようよ」

 留奈が震える声でそう言った。南美が同意する。

「うん、そうだね。とにかく外に出て警察を呼ぼう」

「本気で言ってんの? あんた等」

 長谷川が訝し気に二人を眺め、そして携帯を取り出した。

「ホントに連絡するよ?」

 南美がそれに飛びついた。

 長谷川の携帯を奪い取り、画面を開く。留奈も立ち上がって覗き込んだ。

 圏外になっていた。

 留奈が慌てて自分の携帯を取り出す。

 やはり圏外だった。

 自分のスマートフォンを手に持って青ざめている南美と目が合った。

「ちょっと、返せって」

 力の抜けた南美から長谷川が携帯を奪い取る。

「あれ? 電波悪い? ねえ、ハル! 携帯繋がる?」

 一歩離れた場所で三人の動向を窺っていたハルは自分の携帯を確認して首を振った。

 留奈は再び泣き出しそうになりながら南美と長谷川に縋りつく。

「ねえ、逃げよう! ホントに、早く、ここから早く逃げよう」

 南美が頷いて、倒れそうな留奈を支えて歩き出した。長谷川は不思議そうに、二人を見て、部屋の中を確認し、納得のいかない様子で二人を追った。それにハルが続いた。

 四人がその場を離れた後、部屋の扉が静かに開いた。鍵のデッドボルトが溶け崩れていた。部屋の中にはボールペンの突き刺さった炭の塊が転がっていた。そうしてまた扉が閉まった。

 四人は一言も話さず消沈した様子で廊下を進んだ。留奈はずっと震えていた。怖くて怖くて仕方が無かった。今にも左右の壁が押し迫って自分を何か別の物に変えてしまう気がして早く逃げたかった。けれど足が中々前に進まない。南美に支えてもらわなければ歩けない。上手く動かない自分の足が憎くて仕方が無かった。後ろの長谷川やハルも、隣の南美も、いつまた珠代や逸見の様になってしまうのか分からず恐ろしかった。

 廊下の先に蹲る人が居た。二人。一人はこの屋敷の制服を着ていた。もう一人は袢纏を着ていた。顔は見えない。留奈は逸見かと思って逃げようとした。だが南美がそれを許さない。留奈は南美に引かれ、為すがままに蹲る人影へ近付いていく。

「愛実ちゃん! 光さん!」

 南美が叫んだ。

 人影が振り向いた。恐ろしげな表情が一瞬で晴れやかな顔に変わった。

「みな姉」

 袢纏を着た愛実が立ち上がって、南美の元へ駆け寄ってくる。その後ろから使用人の光がよろめきながら続いた。

「南美様、それに他の方々も、一体どうしてここに?」

「助けに来てくれたの?」

「遊びに来たんだ。けど、何かおかしな事が起こってて。とにかく逃げないと」

「やっぱり泥棒が……」

「泥棒?」

「はい、起きたら私と愛実お嬢様が縛られていて。他にも二人、使用人が居たんですが、こちらは怪我をしてて……亡くなっていました」

 光は悲しげに目を伏せてから、涙の浮かんだ目を開いた。

「恐らく泥棒が入ったんだと思います。何とか抜け出して、とにかく逃げようと。けど体が思う様に動かなくて」

 そう言う間にも、光はよろめいていた。

 留奈には光のよろめきが、内から吹き出そうとする不気味な何かを抑えつけている様に見えた。不気味だった。

「そうだ。皆さん、電話、持ってませんか? 屋敷の電話が不通だったんです」

 また光の体が揺れ、倒れそうになる。長谷川が光の傍に寄って、身を支えた。長谷川の顔からはいつものふざけた様子が抜けていた。泥棒という現実的な事態に直面して、危機感を煽られた様だった。光の身を支えながら、長谷川が言った。

「圏外で使えないです」

 光が遠慮がちに長谷川へ寄りかかりながら、南美へ尋ねる。

「こちらの方々はお友達ですか?」

「うん」

「それで、珠代お嬢様の姿が見えませんけど」

 南美は答えかねて、口ごもった。

 代わりに長谷川が答えた。

「居なくなりました」

 光はそれ以上聞けずに黙り込んだ。

 留奈は交わされる会話が作り物めいて感じられた。周囲の人々がまるで演技をしている様に思えた。人形達が人間を演じている。そしてその中でただ一人の人間である自分はいずれ殺されてしまう。そんな気がして、留奈は触れている南美の肌に嫌悪を持って、体に泡が立った。

 再び全員で歩き始めた。角を曲がると、向こうに突き当たりが見えた。観音開きの扉が付いている。

 留奈は助かったと信じて、南美の手を離れ駆け出した。

 助かった。外だ。これでようやく逃げられる。あの扉を開ければ、こんな不気味な世界から逃げられる。そう信じて、留奈は皆から離れ、絨毯を踏み締め、階段の傍を通り過ぎて、扉へ向かった。

 留奈以外の者達は、一階へ降りる階段ではなく扉へ向かっている留奈の行動が理解出来ずに、ただ見送る。

 そんな中、ハルだけは留奈を追いかけながら叫んだ。

「待ってよ! そんな所に扉無かったよ!」

 誰の耳にも不吉に響いたハルの言葉は留奈の耳に届かなかった。留奈は止まる事無く扉へ向かう。

 あるはずの無い扉を開け、留奈は扉の向こうへ駆ける。ハルが何とか追い縋ろうとするも、目の前で扉が音を立てて閉まる。ハルは何度か留奈の名前を呼びながら扉を叩く。反応が無い。嫌な予感がもたげてハルは黙り込む。後ろから追いかけてきた皆も、また同じ。誰も彼もが何となく扉の向こうの結果を予想していた。どうしてか扉の向こうで留奈が生きているとは思えなかった。

 ハルは扉を目の前にして荒く息を吐きながら、取っ手に手をかけた。見てはいけないという思いが頭の中で木霊していた。けれど理性は早く留奈を追いかけなくちゃと語りかけてくる。あるはずの無い扉を目の前にして、その向こうに留奈が消えてしまった現実に直面して、一気に恐れが吹き出してきた。

 息を短く何度も吐き出しながら、恐怖で目を見開きながら、ハルはそっと扉を開く。少しだけ開かれた扉の隙間から、宙を揺れる布が見えた。留奈の服と同じ布だった。

 まだ無事だ。ちゃんと扉の向こうに居る。

 ハルは勢いよく扉を開けた。

 扉の向こうでは、留奈が首を吊って揺れていた。

 ハルに背を向ける留奈はだらりと手を垂れ下げて右へ左へ揺れていた。首と胴が常よりも離れている。力が抜けて体が伸びきった留奈はストラップの付いた人形の様だった。何だか現実だとは思えなかった。凄惨な光景のはずなのに可愛らしく思えた。向こうを向いた留奈の顔はいつも通りの笑顔を浮かべているんだろうなぁとハルは見惚れた。

 ふと異臭が漂ってきた。それが何の臭いかを確認しようとする前に、ハルは長谷川に腕を引かれる。振り返ると、既に皆逃げようとしていた。長谷川がいつにない真面目な面持ちをしている。眉根に皺が寄っている。数瞬前まで、留奈の人形の様な可愛らしい格好に見惚れていたハルには、長谷川の人間臭い醜い表情が何だか場にそぐわない気がした。

 転びそうになりながら、階段を駆け降りるみんなを見て、ハルは何だかおかしくて、笑いたくなった。そんな事を考えていたハルは自分自身が足を踏み外してよろめいた。

 よろめいたハルを長谷川が抱きとめて、再び手を引いて走り出した。けれどその足がすぐに止まる。体の自由が利かない光や精神的に疲弊して動くのが辛そうな愛実を追い越してしまったからだ。愛実はゆっくりと一段一段、光は南美の手を借りて辛うじて一段一段、遅々として降りてくる。そんな二人を待つ為に、踊り場で足を止めた。

 長谷川は隣のハルが笑顔を浮かべている事を訝った。友達の死を前にしておかしくなってしまったのではないかと心配する長谷川にとって、ハルは幼い頃から一緒に遊んできた親友、というより妹分の様な存在だ。絶対に失いたくは無かった。留奈の死を見て恐怖と、それ以上に友達を失う不安に苛まれる長谷川は、ハルの手を強く握った。ハルが握り返して来たので、少しだけ安心した。

 愛実と光と南美はまだ降りてくる最中だ。長谷川が手を貸そうかと階段を上ろうとした時、突然ハルの手を握っていた長谷川の手に痛みが走った。思わずハルの手を離して、振り返るとハルが不思議そうな顔をして手を突きだしていた。

 その手の先に炎が揺らめいていた。今にも消えそうな程、儚い炎がハルの指先に灯っていた。火は少しずつ大きくなりながら、揺らめき続けている。長谷川の視線が火の灯る指先から腕を伝ってハルの顔に移動する。ハルは自分の指先を不思議そうに見つめていた。痛みも熱さも感じていない様だった。

「大丈夫なの?」

 大丈夫な訳無いと分かりつつも長谷川が聞いた。

 ハルははっと顔を上げると長谷川と目を合わせて、その目を見開いた。

「分かんない」

 炎は少しずつ大きくなっていく。指先から指を伝って掌へ、掌を包み揚げて手首を越し、腕へ。段々と浸食していく。その内、初めに火の灯っていた指先がぽろりと落ちた。長谷川の視線がそれを追う。指先の火は宙で消え、絨毯に落ちた時には黒い炭の塊となった。

 長谷川が顔を上げると、ハルも一拍遅れて顔を上げた。ハルは涙を流しながら、眉根を寄せた。

「何、これ?」

 既に炎はハルの肩まで辿り着いている。

 長谷川が火を消そうと辺りを見回した。水も消火器も見当たらない。

「やだ、やだ」

 ハルは胸にかかる炎を掃いながら地団太を踏み始めた、長谷川は何とかハルを助けたくて策も何も無くただ手を伸ばす。ハルがそれを掴む。ハルの手を焼け焦がす炎は長谷川の手も焼いた。あまりの熱さに思わず長谷川はハルの手を振りほどく。突き飛ばされる形となったハルは床に倒れ込んだ。そして信じられないという目をして長谷川を見つめてきた。長谷川は何も出来ずにその場で立ち竦む。既に火はハルの体を強く燃していて、水も何も無い今、どうする事も出来ない。ハルの顔にもじわりと炎が及び始めた。

 涙を浮かべた目が長谷川に助けを求めている。だがどうする事も出来ない。炎に焼かれるハルが長谷川に縋り付こうと這い寄ってきた。長谷川は恐ろしくて後ろに下がった。

 ハルが見上げてくる。長谷川はその瞳から目を逸らせない。ハルの口が何かを言った。だが炎に取り巻かれた口からは何の声も出て来ない。

 炎はやがてハルを燃やし尽くすと、役目を終えたとばかりにふっと消えた。燃えていたのはハルだけ。絨毯には焦げ跡一つなかった。

 長谷川は自失して、炭化したハルの傍らに座り、そっと手を振れた。熱さに手の表皮が焼ける。焼けた自分の肌を見ると、綺麗な肌のままだった。それを長谷川はぼんやりと見つめた。

 そこへようやく愛実と光と南美が階段を降りてきた。長谷川が顔を上げる。感情の抜け落ちた表情で、じっと南美を見つめた。南美も長谷川と同じ様に感情の抜け落ちた表情で長谷川を見つめ返した。しばし見つめ合い、やがて我に返った南美は長谷川から目を背け、その下に倒れているハルだった物を見つめた。炭化して、間接を折り曲げて固まった人型の炭から生前の面影は全く感じられない。それがハルだとはとても思えなかった。南美はそれを見て悲しむよりも安心した。もしもそれをハルだと感じてしまったら、自分の気が狂ってしまう気がした。ハルだと信じられない事で、逆に冷静になった。

 南美が再び長谷川に目を向ける。長谷川はまだハルを見下ろして自失していた。

「行こう」

 南美が声を掛けても反応は無い。南美は仕方なしに、長谷川へ近付いて肩に手をかけた。その瞬間、長谷川は立ち上がり、恐慌をきたした表情で南美を睨みつけ、壁際へと退いた。壁に張り付き、少しでも南美から逃げようとするかの様に、横へずり下がる。かと思うと、長谷川を囲む様に壁に切れ目が入り、壁の一部が横回りにひっくり返って、表と裏を逆にした。壁に張り付いていた長谷川もまた向こう側へ消えた。

 一瞬の出来事だった。

「え?」

 疑問符を浮かべて南美は壁に駆け寄った。切れ目は消えていた。押しても壁はひっくり返らない。

 南美は何歩か震えながら後ずさった後、立ち竦んでいる愛実と光の手を取った。誰かに触れていないと心が壊れてしまいそうだった。二人に手を貸して、出口へ向かう。とにかく外に出なければならない。

 踏みしむ絨毯の柔らかさが妙に気になった。いつも以上に足が沈む気がした。絨毯の毛が絡みついてくる気がした。急ごうと早足になりかけたが愛実と光は早く歩けそうにない。南美は走り出したくなる衝動を抑えて二人の歩調に合わせた。

 階段を降り切って前を向くと、その先に外に繋がる玄関があった。南美の胸の内に安堵に似た疲労が行き亘った。もうすぐで外に出られる。外に出さえすれば助かる。

 でもまだ油断できない。そう自分を戒めて、南美は愛実と光を助けながら歩み始めた。よくよく見てみると、何だか違和感があった。屋敷が小さくなっている気がした。小さくと言うよりは狭くと言った方が正確だ。屋敷のそこら中が狭まって、迫って来ている気がした。

 それは目に見えてはっきりとした変化ではなく、それどころかただの気の所為かもしれなかったが、南美は信じて疑わなかった。早く外に出なければ危険だと、心の中の警鐘が一段と高く鳴り響く。

 屋敷の壁が、何の変哲も無い物影が、取り巻く静寂が、何もかもが不吉な予感に思える。自分達を引きこもうとしている。早く出ないと自分が自分でなくなってしまう。早く外へ。早く早く。

 南美は気が急いて早足になった。光がバランスを崩して、倒れそうになる。南美がそれを慌てて支えた。

 光を支え、愛実を気遣ってから、再び出口を見据えた。あともう少し。もう少しで外に出られる。

 と、玄関の扉の横の広く取られた壁に四角く亀裂が入った。さっき踊り場で同じ現象を見た。

 嫌な予感がした。見てはいけないと、顔を背けようとしたが、どうしても気になって見てしまった。

 くるりと壁の表と裏がひっくり返る。

 恐怖に固まる南美の前で、壁に張り付いた長谷川が現れた。

 南美は駆け寄る事も心配する事も安堵する事も出来なかった。張り付いていたのは長谷川の腰から上だけだった。半分の長谷川は壁に張り付いたまま、目を閉じて、二度と目覚めそうになかった。回転する壁は勢いを減じずに長谷川の張り付く裏はひっくり返って再び表になった。長谷川の上半身が消えた。かと思うと、今回転した壁の直下に四角い亀裂が走り、ひっくり返った。下半身が張り付いていた。バギーパンツとスニーカーが長谷川の物だった。壁が再び表になり、長谷川の下半身を隠す。再び上の壁が回転し、長谷川の上半身が現れる。血は出ていない。血色も良い。瞼も閉じている。気絶しているか寝ているかと思える様な様子だった。けれどそれが生きている等とは間違っても思えなかった。下の壁が回転し、下半身が現れる。上の壁よりも早く回転している。丁度正面で追いつき、長谷川がパズルの様に組み合わさった。組み合わさった一瞬、瞼が動いた気がした。けれどすぐに下半身と上半身は分かたれ、長谷川の目は閉じたまま、下半身に遅れて壁の向こうに消えた。

 それで終わらず、また上半身と下半身が現れる。

 余りのおぞましさに愛実は助けを求めて南美に抱き付いた。

「ひっひっ」

 頭上から声が聞こえて、見上げると、目を見開いた南美が正気の失せた瞳で回転する長谷川を見つめながら笑みを浮かべていた。愛実は驚いて南美から離れる。南美はしばらく「ひっひっ」と息とも悲鳴とも泣き声ともつかない音を出し続けていたが、突然光を投げ出すと、走り出し、玄関を乱暴に開けて、居なくなった。

 後に残された愛実は、回転している長谷川を見ない様に注意しながら、光を助け起こし、二人でお互いを支え合いながら、屋敷の外に出た。

 外に出ても南美の姿は見当たらなかった。もう敷地を出て町に向かっているのかもしれない。愛実は何だか、閉ざされた正門の向こうに、振り返りもせずに走り去る南美の姿が見える様な気がした。

 背後から物凄い音がした。振り返ると、屋敷が火炎を天に伸ばして倒壊し始めていた。ほんの十数秒前に居た場所が猛焔に塗れて崩れ落ちていた。熱と煙が二人を襲った。二人は懸命にその場を離れた。

 愛実が転ぶ。ポケットの中に入っていたスマートフォンが地面に放られた。犬のストラップが付いた姉とお揃いのスマートフォン。拾おうと近付くと、画面が灯っていた。15:23 12/25 という白文字の下に仲良く寄り添う珠代と愛実が映っていた。それを見て、愛実の目から、堪えていた涙が絶え間なく溢れ始めた。姉がどうなったのかは分からない。けれど屋敷の炎と共に消えてしまった。そうとしか思えなかった。そう思うと、後から後から涙が湧き出てきた。

 愛実と光が何とか正門までたどり着いた時、轟音が響き、二人は地響きに揺れた。振り返ると、屋敷の姿を失った瓦礫がなお激しく燃え盛っていた。全てを飲み込んだ炎はしばらく消えそうになかった。

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