さよなら ありがと こんにちわ
陣痛だという自覚のせいなのか、なんとなく痛みが激しくなってきた気がする。
ただ、痛みのくる感覚には間があって、小休止のような痛みの引く時間がとてもありがたい。
私は痛みが引くや、今しかないとばかりに身なりも気にせず、急ぎ家を出ることにした。
いまだ混乱の極みにあるメイドさんの横を通り抜け、ぎゃんぎゃん泣いてるミモザちゃんを置きざりにする。
こう言ってはなんだけど、今の私に彼女達を気遣うだけの余裕はない。脂汗と冷や汗の入り混じった嫌な悪寒を我慢するのが精一杯なのだ。
正直、シスターなり産婆さんなりに来て貰うのも考えないではないけれど、出産は出来るだけ安心確実な場所でしたいものです。
だから少々辛くても、ここは頑張って歩かなきゃ……
「はぁ……はぁ……」
と声に出る程大きく息を吐く。
とにかく冷静にならないとダメだ。
ある意味メイドさんやミモザちゃんのおかげで冷静なような気がしないでもないけれど、それは湖に張った薄氷の上でスケートしているみたいなものでして。
何がしかの切欠さえあれば、あっという間に容易く氷は割れてしまい、私は深い水底に沈んでしまうのだろう。
そうなれば私はお終いだ。
なんせ、私は『幼い』のだ。
間違いなく通常の出産よりも母体にかかるダメージが大きいはず。
もうこればかりはどうしようもない。
だから、せめて心だけでも落ち付かせないと。
私は苦痛と不安を抑え────心の中で、私を孕ませたあのロリコン王を何度も口汚く罵り、心の平衡を保ちつつ────必死の形相で教会を目指した。
靴を履き、外に出る頃には、流石にメイドさんとミモザちゃんも再起動し、私の手を握って勇気づけようとしてくれてるみたいだ。
ミモザちゃんはともかく、メイドさんには先に教会までひとっ走りし、私の出産の準備をしてもらいたいのだけど……一度引いた痛みが再燃し、途切れそうになる意識を繋いでおくので精一杯。
とてもじゃないけどお願いするだけの元気がなかった。
「ねーさまっ! しっかりっ! もうすぐ教会だよっ!!」
「ああああああああのおっ! だだだだれかぁっ!! ああ赤ちゃん産まれそうなんです! ししシスターを呼んできてくださーいいいっ!!」
ミモザちゃんとメイドさんが何か言ってるみたい。
でも、歯を食いしばり、苦痛を堪えてるだけの私には、なにを言ってるのかさっぱりだ。というか、気にするだけの余裕もない。
それでも私の手を包む、その私の手よりも小さいミモザちゃんの手は、確かに私を勇気づけてくれていた。
私は殊更身体をぴったり寄せ、この年下の可愛い友人に少し甘える。
身体が触れて、ミモザちゃんの体温を感じる。小さな手以上にとても暖かく、なんだか苦痛が楽になる感じがした。でもそれが情けなくもある。
外見年齢こそ変わらない。しかし中身の経験年数は段違いである。
それはメイドさんもそうだけど、彼女は現在の実年齢差を考えれば、ダメだこの人使えないって思っても仕方ない。
だけどミモザちゃんは違う。前世を抜きにしても私の方が年上です。
それが本当に情けなく、一度そう思ってしまえば、楽になった気も何処かへ飛んでいってしまい、さっき以上に苦痛を感じた。
ずくん ずくん
と襲う痛みが、私の目に涙をためる。
「い゛だい゛……いだいよぉ……」
思わずこぼれた言葉は、掛け値なしに私の本心である。
だって、とにかくつらかった。泣き喚きたかった。
男は出産痛みに耐えられないという俗説が、まったくの事実に思えた。
前世が男で、男のメンタリティを持ってる私です。
もしかして、耐えられないかも────着ている服が脂汗で濡れ、苦痛に視界が歪み、恐怖に膝が崩れそうで足元がグラグラする。
弱気になる。もう、ダメなんじゃないかって。そう思いそうになった瞬間、ガリっと唇を噛んだ。
ピリリとした痛みが、私を正気に返し、感じる鉄の味が、私に闘志を蘇らせる。
だって私は────
「弱気になってごめんね? だいじょうぶ……だよ。きちんと、産んで……みせるから……応援し、てね……わた、しの……あかちゃ……ん……」
ひとりじゃ、ない。
お腹の子供がいる。
私が潰れれば、この子も一緒に終わってしまう。
冗談ではない! ふざけんな!
私は膝に力を入れ直し、しっかと大地を踏みしめる。
がんばれ! がんばれ!
何度も自分を応援する。
がんばれ! がんばれ!
ミモザちゃんに支えられながら、足を一歩、前に出す。
百里の道も、一歩から。
この痛みに喘ぐ、辛い道のりも、こうやっていれば、いつかは終わる。
そうやって、いっぽいっぽ、確実に足を前に出す。すると、いつしか大きく白い建物が見えてきた。
この世界における唯一の宗教、シノビス教団の教会であり、あのケリーナ聖堂王国の出先機関みたいな場所である。
傍には井戸があり、この町の水源をこっそり支配してたりもする欲望高い教会ではあるが、この街の住民の憩いの場所でもあった。
ってか気付こうよ。宗教に水源握られるとか、後々面倒しか起きないよ?
そんな教会の中から、一人の年配の女性が飛び出して来た。その女性は、ケリーナ聖堂王国からこの街に派遣されているシスターである。
彼女は私を見るなり慌てて駆け付けて来ると、
「本番はこれからよ?」
私に笑いかけながらそう言った。
「だからね? 今は、少し休みなさい」
ポワッと、シスターの手が青白く光る。
なにこれ? そう思う間もなく、青白い光のあまりの心地好さに、強張った身体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
そんな私を優しく抱きとめるシスター。ふわりと、母さんを思わせるいい匂いがした。
私は心地好さから大きく息を吸い、その息を今度はゆっくりと吐き出す。
ソレを何度か繰り返す内に、気づけば目蓋が重くなり、自然と落ちた。
意識が途切れ、私は求め続けた大切な存在との……夢を見る。
ちりん ちりん
風鈴の音が聞こえる。
「なつかしいなぁ」
私は小さく呟くと、自然と頬が緩む。
音のする方を見れば、懐かしい家が見えた。
足が自然とその家の裏庭を目指して動き出す。
当然の話ですが、『私』になって以来、初めて目にする日本的な建売住宅だ。
私は堂々と庭からベランダに侵入し、問答無用に家の中に足を踏み入れる。
家の中に入るなり、鼻をくすぐる、その家の『香り』。
「なつかしいなぁ」
もう一度、そう呟く。
今来たばかりの外から入って来る生温く、やたらと湿度の高い風は、まさに日本の夏を思わせて。
ツンと鼻の奥にくる不快で身体に悪そうな臭いは、現代社会に付き物の排気ガス。
そう、身体に悪そうなのに、どこか心地よく感じてしまう不思議。
ああ、これが郷愁ってやつか。
心の奥底で、想い、願い、求め続けた何かを、私は確かに────感じていた。
「どうぞ」
背中から聞こえたその声に、逸る気持ちを抑えて殊更ゆっくりと振り返る。
だって、想いのまま振り返ってしまえば、泣いてしまうかもしれない。
心に余裕を持たせ、少し時間をかけて声のした方をむく。
四角いテーブルの上に、キンキンに冷えてコップの外側に水滴が滴るこげ茶色の飲み物を置く、一人の老境に差しかかった女性がいた。
彼女は私を見て柔らかく微笑んだ。
そして自分の分のこげ茶色の飲み物────麦茶を、私の座るだろう対面に置き、座布団の上に姿勢正しく座ると、視線で私にも座るように促してくる。
私は素直に彼女の対面に座り、麦茶の入ったコップを手に取って口をつけます。
コクン、と喉を通る麦茶。とても冷たく、香ばしく、何より、とても……
「おいしい」
「そう? 100円ショップで買った安物の麦茶よ?」
なんだか呆れた口調ですね。
でも私は首を振って、
「それでも、おいしいよ」
そう言って笑った。
彼女に、こんな笑顔を見せるのは、いつ以来のことだろう?
少なくても、中学に入る頃には、こんな風に笑いかけたことはなかったはず。
なんとも親不孝な私です。
「父さんはどうしたの?」
「定年退職してからねぇ、なにがそんなに面白いのか、パークゴルフにハマっちゃったみたいでさ。暇を見つけてはコソコソと行ってんのよ、あのバカ」
年甲斐もなく、ツンと唇を尖らせる彼女は、どことなく可愛く思えました。
これも、前世では思えなかった。
多分だけど、女になってみてはじめて分かる部分なんじゃないでしょうか?
「こ~んなに可愛くなったアンタが、せっかくこうやって顔を見せに来てくれったていうのにねぇ」
笑いの衝動を堪えてる彼女に、
「好きでこうなったんじゃないもん」
今度は私が唇を尖らせる番です。
姿形は似ていなくても、こうした仕草はソックリだ。と、誰かが見てたら笑って突っ込むに違いない。
そんな私を見た彼女は、ふふふと笑いの衝動を更に深くし、
「ごめんごめん、おかわりいる?」
私の答えが返るよりもはやく、すっかりカラになったコップに麦茶を注いだ。
氷がカランと音を立てる。なみなみに注がれた麦茶は、窓から差し込む日差しを反射した。
まばゆく感じる光に目を細めながら、私はおかわりの麦茶に口をつける。
その時にはもう、尖った唇は上機嫌に緩んだ。やっぱり彼女には勝てない。
彼女に勝つには、自分も同じように『親』にならないと無理くさい。
……違うかも。彼女の子供であった『俺』が死んでしまった以上、永遠に勝つことは出来ないのだ。
それが少しだけ悔しく思え────私は半ば以上飲んだ麦茶の入ったコップをテーブルに置き、
「ごめんなさい、かあさん」
そう言って、私は頭を下げた。
「なぁに急に?」
柔らかく、でも、彼女────かあさんはどこまでも強く私を捕らえる。
誤魔化しはいらない。言いたいことがあるなら全部言いなさい。
はっきりとそう言ってる、強い眼差し。
だから私はもう一度、たっぷり5秒ほど深々と頭を下げる。
私は、両親に謝りたかったのだ。
自分勝手な思いだというのは分かっていた。
だけども、
「さっさと死んじゃって……ごめん……」
私は『母』になる。
母になるからこそ、
「今度ね、私、ママになるんだ。だから……」
子に置いて逝かれる親の気持ちが分かる気がした。
母さんは、『俺』が死んで、どれだけ悲しんでくれたんだろうな?
『俺』が生きていた頃に比べ、皺が深い。
それは年月による物だけじゃないのだと、私には分かった。分かって、しまった。
「謝りたかったんだ」
どこか呆れたようにため息を吐く母は、とても私が心配そうだった。
でもね、私はもうアナタの『息子』ではない。
アナタの心配を受ける資格なんて……
「まあ、確かに私の息子ではないわね。私の息子は、こんな美少女なんかじゃなかったし」
かあさんはおどけてそう言ったのだけれど、
「でもね、誰の腹から産まれ、どんな姿になっても、あんたが私の子供だった事実は変わんないのよ」
2人の間にあるテーブルを乗り越え、私の頭をかき抱き、
「だから、ごめんなんて言わないで」
とても、悲しそうだった。
ああ、そうだね。
自分の子供に、そんな風に言われたら悲しいよね?
まったく私ときたら、本当に親不孝者ですね。
私は思わずもう一度、『ごめんなさい』と口にしかけるも、その言葉が口から出るのを押しとどめた。
そして、目一杯の感謝の思いを込めて、こう言うのです。
「『俺』さ、途中で死んじまったけど、母さんと父さんの子供に産まれて良かったよ。だからさ、ありがとう」
でも、流石はかあさん。私よりも役者が上であった。
「こっちは文句ばっかだけどね。なんせアンタにかけた投資が、ぜーんぶ無駄になっちまったんだし」
「ひっでー! んな言い方ありかよっ!」
ああ、久しぶりだ。
こんな乱暴な口調で喋るのは、ほんとうに、ひさしぶりで、涙が出そう……
「でもま、元気そうでよかったよ」
泣きそうな私に、再びおどけてそういう母。
私はその小さな気遣いに感謝し、
「元気って……死んだことには変わんねーし」
微かに震える声でそれだけ言うと、ぱし、ぱし、と速いまばたきを数回して、涙を無理矢理奥に引っ込めた。
「それに、これでも妊婦なんだよ? 陣痛で苦しんでたんだよ? 元気なんかじゃないもん」
「……ないもんって……まあ、今のあんたには似合ってるし可愛いけどねぇ……元のあんたを知ってる身としちゃあ、なんか不気味だよ」
「不気味って……この姿になってから初めて言われた言葉なんですが……?」
ジト目で唇を尖らせる私。
母は「あははは」と楽しそうに声を上げる。
だけど、すぐに顔を引き締めた。
「にしてもねぇ……そんな小さいのに母親になるなんて……」
「あ、ははは……」
今度は私が笑う番だ。
ただし、苦い笑いだけど。
「い、色々あったんだよ」
「色々って……その相手、イイ人なのかい?」
「イイ人っつーか……拉致監禁犯でロリコンの変態?」
「なによそれ!? あんた大丈夫なの!」
「大丈夫だよ。逃げだしたからね」
「だったらいいんだけど……って、孕まされたんだからよくないわ!」
「いいんだって、もう終わったことだよ。それよりも、あんがと、心配してくれてさ」
最後はとても自然な『俺』の口調。
そして、もう二度とはしないだろう『私』がいる。
『俺』の時間はとっくの間に終わり、今はもう『私』の時間、なのだから。
この、もう二度とはない時間。
とてもとても楽しく、出産を控えて溜まりに溜まったストレスが、雪が解けるように消えていくのを、私は感じていた。
私はたくさんしゃべる。『今』の『家族』の話。
逃げ出してからあった色々な出会いの話。
ようやく出来た年下のお友達の話。
いっぱい、いっぱい、たくさんしゃべる。
こんな時間、まるで『奇跡』だ。
もしも神さまってヤツが本当にいるのなら、なんて粋なことをしてくれたんだろう。
純正日本人だった私にとって、神さまなんて神さま(笑)なんだけど、少しは信心が芽生えそう。今なら素直に『ありがとう☆』ってしなを作って可愛く言えそうです。
……やっぱウソです。だって……視界が歪んできた。
目に水がたまってるから?
……違う、私という存在が揺らいでいる。そんな気がした。
もっと、ここにいたいのに……ね……
「……時間なんだねぇ」
残念そうにそう言うと、私の小さな手を引きよせ、包み込む。
皺くちゃの、老人の手だ。
その老人の手に、ポタっと水滴が落ちた。
ポタ、ポタ、ポタタ……
目から水が大量に流れ落ちた。けして涙なんかじゃない。
自分にそう言い聞かせ、スンっと鼻をすすった。
「もう守ってやれないっていうのに、あんたって子は……本当にいつまでも私を心配させるんだから……」
いらないよ、そんなの。子供じゃないんだし……って、今の私は子供か。
お腹の中の『あーちゃん』が大きくなるにつれ、親としての認識が出来てきていたのか、自分が11才の美少女☆だという意識が希薄になってました。
「せめてこれだけでも持っておいき」
手の中に押し込まれる何か。
私が何だろうと見てみれば……まったく。いつの間にこんな物を用意してたんだか。
ってか、なんだってこんなもんあるの?
「むかーしね。あんたが産まれてくる前に、お義母さん……あんたのお婆ちゃんが私にくれたのよ。本当だったら、神社にお返しするなりなんなりしなきゃいけないのに、なんでかしらね? 母子手帳と一緒に大切に持っていたのよ。有効期限があるなら切れてるでしょうけど、ないよりマシよ。持っておいき」
有効期限って……そんなのあるんだ。
でも、嬉しくて、嬉しくて。
「あり……がと……大切に……す、る……」
こんなの、一生の宝物です。絶対に、大切にするよ、かあさん……
でも、これで……もう……
私はしゃくり上げながら、
「さよ……な、ら。もう……ここには、来ませ、ん……」
「……そう……そうね。あんたは、母親になるんだもの。もう、親に甘える時間は終わりだわ」
「うん、わかってる。だから……『ばいばい』」
貴族の娘リフィルディードアとして産まれ、王さまに拉致られ側妃フレアになり、そしてただのリィアになった『私』が、もう何度も告げた言葉。『ばいばい』
母さんから貰った物は大切に胸にやり、残った手を大きく開いて手を振った。そして、認めよう。っていうか、いいじゃんもう。
前世の『俺』だと恥だけど、『私』であるリィアにとっては恥じゃない。
私は、我慢したり強がるのを一切やめて、『涙』をぼろぼろこぼし、泣いた。だけども、
「最後なんだから、笑いなさいっ」
母さんの叱咤に、私は泣きながらばいばいするのをやめ、乱暴にグイッと目の辺りをこすった。
そして一杯の笑顔で、私は私の世界に……還った。
最後に見た母さんは……私と同じ、泣き笑いだった。
ちりんちりんと、風鈴の音がやたらと煩い。
季節の風物詩だかなんだか知らないけど、本気でウザいったらありゃしない。
こんなのが好きだった息子の気が知れない。と、実はこっそり思ってた。
それにしても、
「なんなのよもう……せっかくいい夢見てたってのにさ」
気づけば外は夕焼け小焼け。
窓から差し込む光は真っ赤っか。
なんとまあ、しょうもない一日の過ごし方である。
そんな自分に少し呆れる。
女は「はぁ」と重い息を吐き出すと、バキゴキ骨を鳴らして身体をウンッと伸ばす。
いい年した婆が、昼から夕までテーブルに突っ伏して寝ていたら、そりゃ腰も痛くなるってものである。
最後にトントンと腰を数度叩いてから「よいしょっ」と声を出して立ち上がる。
年を取ると、どうでもいい部分で声が出る。そんな自分に苦笑い。
と、その時だった。チカッと夕日が反射したのは。女はまぶしさから目を細め、なんとなく光の出所を目で追った。
テーブルの上に、コップが2つ。
そのコップの中は、氷が溶け、水になって底に溜まっていた。
ひゅうっと息を大きく吸い込み、そして、驚きに呼吸を止めた。
女は少し茫然とするも、すぐに気づいたのか、慌ててタンスの奥にしまっていたはずの物を捜しにいく。
物は、すぐに見つかった。
より正確に言うなら、『ない』という事実に繋がる母子手帳が見つかった。
そして、なくなったと分かった物は、女が子供を産む際に、旦那の母親から贈られた物である。
それを母子手帳と一緒に大切に保管していたのだが、母子手帳はあれど、肝心の物はきれいさっぱりなくなっていた。
ああ、だったら、私はキチンと渡すことが出来たのか……
本当だったら、墓の中まで持ってくつもりだったんだけどねぇ。
有効期限なんてもんがないなら、あの子の嫁に……って手もあったんだけど。
まあ、あの子はあんまりモテナイから、どの道私と一緒にお墓行きだったのかもしれない。
にしても、まさかあの子が銀髪美少女になるなんて。
こんなの神さまだって分かるまい。
そう思いながら、女は自分が使っていたのと対面に置いてあるコップを手に取り、あの子の唇の跡が生々しいその部分をそっと撫でた。
死んだはずの息子が、娘になって会いに来てくれた。
それは正しく奇跡と呼べるもので、信心深いとは到底言えない彼女にしても、流石に感謝するというものだ。
いっちょ手を合わせて祈ってやろうかと思えるぐらいである。
しかし、何に対して手を合わせればいいものか。
仏壇のご先祖様か仏様? それとも教会行ってイエス・キリストか聖母マリア?
女は少し考え、
「やっぱ日本人だしねぇ」
と神棚に向かってパンパンと2度手を叩いた。
生まれて初めて、心の底からの思いで頭を下げる。
「あのくたらさんみゃくさんぼだい」
……間違いなく、女は何か勘違いしている。
いい年こいて、流石にこれはないだろう。
転生して娘になった息子が見てたら、確実にツッコミが入るレベルである。
だがまあ、これがこの女の真骨頂。間違いなく『アレ』の母親だ。
しばし頭を下げていた女は、「これぐらいでいいかしらね?」と頭を上げると、もう一度コップを愛おしげに撫でた。
どれくらいそうしていたのか、夕日の紅が完全に消え去り、夜の帳が落ちていた。
そして、ようやくコップから手を離すと、
「……アホ旦那が帰ってきたら、たーっぷり自慢してやろうかね」
少し間を置いてから、楽しげにつぶやく。
日が完全に落ちた暗がりの家は、いつもだったら寂しく思った。
大切な子は親を差し置きさっさと逝って、いずれは夫か自分のどちらか……残される者、一人だけの家になる。そんな場所だから。
でも、今日からは違うと女は思った。
自分の子は、どこか遠い別の世界で、別の存在となりはしたけど、それでも必死に生きていたのだ。
幸福かどうかは分からない。けれど、きっと、今度こそ……
だったら、自分も残りの生を幸福に生きてやらないと勿体ないではないか。
女はクスクスと小さく笑い声を漏らす。
「なんだい。死ねば会えるって思ってたのにさ、どうやら死んでも会えないみたいだねぇ」
だったら精々楽しく長生きをしてやろうというものだ。
女はこの後すぐ、夫に先立たれ独りになった。
でも、不思議と寂しくはなかった。
『あの日』から始めた様々な行動が、女を孤独や寂しさといった物からは遠くしたのだ。
女の周りには、自然と人が多く集まり、騒々しくも楽しい日常。
「さて、今日は何をしようかねぇ」
そう、女は、楽しく、生きていく。
楽しい夢を見て、嬉しい気持ちでいられたのは、ほんの僅かな時だった。
痛みはどんどん酷くなる。意識も何度も飛びそうになった。っていうか飛んだ。
しかも痛みの引く感覚が狭くなり、もう苦しくて苦しくて仕方ない。
「いだいいだいだいだいだいだいだいだい゛い゛い゛~~~~~っ!!」
教会中に反響しまくる私の泣き叫ぶ声。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ。ほら、力を抜いて。ゆっくり落ち着いて息を吸うのっ」
そんなん言ったって、あまりの痛みで呼吸がうまく出来ない。
ああ、なるほど。これが男には耐えられないと噂のアレか。
年相応にただでさえ未熟な産道を、無理矢理広げて押し出ようとする、わたしのあーちゃん。
確かにこれは『死んだ方がマシ』クラスの痛みである。
ぶっちゃけ、お腹を裂いた方が苦痛も少なく産めるんじゃなかろうか?
こんなときこそあれですよ、帝王切開!帝王切開!帝王!切開っ!!
実際にそんなんやられたら、麻酔技術があるんだかないんだか分からんこの世界ではショック死するけど。すんごく死んじゃうけど!
それでもそっちの方が楽に思える不思議。
「ん゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛~~~っ!?」
……いや、全然不思議じゃないし。いっそ殺して。
それにしてもなんだろう? さっきまで幸せな気持ちだったっていうのに。
意識がはっきりした途端、死んだ方がマシクラスな痛みに悶え苦しむとか……助けを請いたくなっちゃうじゃないか。
もう、あの人の下から完全に巣立ったというのに。
でもこの痛み、恥も外聞も関係なく、口走ってしまう。
「も……やだ、よぉ……かーさ……たすけ、て……」
う゛~う゛~言いながら、マジ泣きし始めた私。
なんて……なんて情けない。
痛みだけじゃない。情けなさからも涙が止まらない。
どうしていいのか分からなかった。
楽になるにはどうしたらいいのか分からないと、誰かに教えを請いたかった。
いっそ舌を噛めばいいのだろうか?
それとも殺してくださいと懇願してみようか?
目には涙がいっぱいで、痛みが走るたびに、そこに星がいっぱい瞬いた。
もう訳が分からなく、どうしてかその星に手を伸ばす。
だけど、途中で気づいた。伸ばそうとしたその手の中に、何かある。
四角く、少し硬い布の感触で、紐がついてる。
私は必死になった。
痛みで細かく痙攣を繰り返す手を、自分の目の前に持ってくるのに。
すると、涙でぼやけた向こうに見えた。
かあさんの言う、有効期限切れの……この世界で唯一の日本語……『安産』と書かれたお守り。
夢じゃ……なかったんだ。
苦痛からの逃避……妄想じゃなかったんだ。
私はそのお守りを、大切に両手で包み、おでこの辺りに押し付けた。
「は、ぁ……」
大きく、大きく、息を吐く。力が……抜けた。
よくよく考えてみたらアレだよね?
前田利家さんの奥さん、松が子供産んだ年齢、私と変わんないじゃん。
なんて感じで、文末に沢山の草を脳内でいっぱい生やした私、リィアちゃん。
いい感じに自分を取り戻し。
「今よ! リィアちゃんっ! いきんでっ!!」
シスターの声に奮起一発!
「う゛んにゃあーっ!!」
安産祈願なお守りを、いっぱいの力で握り締め、咆哮した。
「……ねこさん?」
なんだかミモザちゃんの場違いなまでの可愛い声が聞こえたが、きっと気のせいだろう。
それから、これを何度も繰り返し、気づけばごうごうと酷い耳鳴りを吹き飛ばす、赤ん坊の甲高い泣き声が聞こえた。
「おわ……た……」
疲れ切った、けれどやり遂げた満足感でいっぱいの声で、そう呟く。
でも同時に思った。
私は、ここで終わりだ……
産まれてきたばかりの赤ちゃんは、私の血に塗れて真っ赤だった。
感覚の無い下半身は、裂けて肉が見えた。
もう一度言おう。
私は、ここで終わった。
赤ちゃんの今後が心配だけど、もうどうしようもない。
うまくすればミモザちゃんがみてくれるかもしれないと期待しよう。
でもこの子、まだ10歳にもならないし。期待薄です。
さて……だったらどうしようか……と思う力も抜けていく。
一度した、死の感覚に良く似ていた。
ああ、せめて。せめて一度でも私の子に触れたい。
私は震える手を伸ばし……その瞬間、視界が碧く染まった。とても心地好かった。
……この光、教会に着いてすぐに浴びたあの光に似ている。なんだろうこれ?
頭の中に、?マークがくるくる回った。
でも、死に瀕した脳みそが、これ以上考えるのを放棄させる。
ってかダルイ。もう寝る。
そのまま私は、眠る様に意識を閉じ……
「つかれ、た……」
眠る様にじゃなくって、ホントに眠った。
次回、エピローグ。
投下は明日です。