ばいばい
眩しい日の光りに反射する銀糸の髪が、海から吹く風に揺られてフワリとなびく。
少女は風にあおられ、おさまりの悪くなった髪など気にせずに、ただただ眼前の光景に、目を輝かせて見入ってしまった。
空よりも青く、どこまでも続く水平線。
砂浜に打ち寄せる波は白く泡立ち、潮騒に混じる海鳥の鳴き声が心を和ませる。
「これが……海、なのですね……」
初めて見る海は、とても美しく壮大で。
こんな風景の中にいるだけで、決意を強く出来る。そんな気がした。
少女は、うん、と力強く頷くと、膝まで届く銀糸の髪をまとめた。
そして小刀を束ねた髪の根に当て、瞳を閉じる。
まぶたの裏に思い描かれる。
私が愛し、私を愛してくれたあの人の笑顔。
でも、私は……
さようなら、愛おしい人。
リフィルディードアは……貴方のフレアは、ここに置いていきます。
キリ……、キリ、キリリリ……
少しづつ、少しづつ。
母様に優しく梳いて貰った髪が。
あの人に美しいと褒めて貰った私の髪が。
最後にプツンと糸が切れる様な甲高い音を立て、キラキラ光りながら四方に舞い散った。
その内の何本かは、ふわりと海風にのって天高く舞い上がる。
風よ 風よ
私の想いを あの人のもとへと届けてください
そう、願い……少女は閉じたまぶたを開いた。
まぶたを開いた瞬間から、少女はもう少女ではなく、母であった。
少女……いや、『彼女』は慈母の表情でお腹を数回撫で、決意の灯った意志ある瞳で前を見る。
もう、後ろは見ない。想わない。
だって、
「私はリィア。ただのリィア。この子の母であり、それ以外の何者でもない、ただのリィア……」
王に愛されたフレアと言う名の少女は消え去り、
近い将来、聖母と詠われるリィアと言う名のひとりの母が、この日、生まれた。
≪伝記 聖母リィア より≫
私が竜車に揺られること一ヶ月。
勇者国マクガイアと自由都市国家、ついでにケリーナ聖堂王国。
この3ヶ国の国境線になっているエルーデ内海に面した港町へと到着した。
カタコトと振動するのに何度も酔って、ゲーゲー吐いたこの一ヶ月という期間で、私のお腹も微妙に膨らみを帯び始めた。
悪阻も一時期に比べたら大分マシで、ようよう治まり始めてきたかな?ってところで港町にある終点駅に到着です。
この港町は外海と内海の境に存在し、内海を渡り対岸に行けばケリーナ聖堂王国。内海沿いに東へ進めば自由都市国家と、マクガイアにおける交易の中心点である。
いわばここは、マクガイアの玄関口だ。
私は長い竜車の旅で萎えている足に力を込めて、ゆっくりと外へと降りる。
ここまで一緒に同乗した方々の心配そうな視線に、大丈夫です、と微笑み返し、ひとりの身体ではないのだからと、慎重に、慎重に、階段を降りた。
でも、階段の最後の一歩で、トンッて小さくジャンプ。
周囲から「ヒッ!?」と息を呑むような悲鳴がいくつも聞こえたけれど、私はそんなん気にしない。
だって、今の私は11才……いや、もうすぐ12才になるんだっけ?
とにかく、今はただの子供であるリィアです。
少しくらいは無謀な面もあるのが当然。
……うん、決して長い竜車の旅にストレス溜まってたわけじゃない。
というか、みなさん心配しすぎなのだ。
そう、思っていたんだけども……
「リィアちゃん、あなたの身体はあなた一人の物じゃないのよ? 転んでお腹の子に何かあったらどうするの? 妊婦さんは進んで危ない真似をしてはいけません!」
いつもの親切なお婆さんではなく、途中からご一緒してる中年のシスターさんの一喝に、確かに軽率だったかも、と少し反省。
まあ、みなさん過保護すぎではあるのだけれど、客観的に11才の妊婦なんて心配するのは当たり前。
だから、
「ごめんなさい……」
私は素直に頭を下げた。
にしても、この世界は堕胎という選択肢が始めからないのか、誰も彼もが、11才の少女の私が、子供を産むという選択をしたのを当たり前だと思ってる。
まあ、それはいい。
最初から産むつもりなんだし、外野からどうこう言われたくはないから。
ああ、そういえばそうか……
4ヶ月。
この子が、私の中に宿って、もう4ヶ月だ。
妊娠を知ってからは、一ヶ月ちょいってトコかな?
段々と、自分が子供を出産するのだという現実感が出てきた今日この頃。
正直な話、少し怖くなってきた。
もちろん、子供をおろそうなんて思ったことはない。
……違うか。正直になろう。
今、こうして考えること自体、少なからず思ってる証拠だよね。
でも、それ以上に待ち遠しい気持ちもある。
私は待っているのだ。
私を救ってくれたこの子が生まれてきてくれるのを……
そう思いながら、私は足元にやってた視線を前にした。
最初に目に飛び込んできたのは、青 青 青……
消化しきれない感情を持て余していた私は、壮大な光景に目を細めた。
どこまでも続く青い海。
まるで星が降って来たような白い砂浜。
そして、耳をくすぐる穏やかな潮騒。
今生の私は海を知らない。
なのにどれも懐かしく思え、でも、だからこそ本当は知らない物だ。
前世の俺は、海の傍の町で育った。
今、目の前に広がる、いかにも南の海!って感じの海ではなく、青というよりは紺、もしくは黒に近い深い海の色で。
砂浜も黒く冷たく、暖かさの欠片どころか、うら淋しさ感じた物である。
肌に刺すような冷たい海風と、やたらとうるさいカモメの群れ。
港の近くでは皺枯れ、腰の曲がった老婆が、今日獲れたばかりの魚が入った発泡スチロールの箱を持って忙しなく働く。
その老婆の隙を覗う様に、猫が売り物の魚を狙い。
漁師がそんな猫をうっとーしそうに石を投げて追い払い、漁の疲れをいやす為、各々贔屓の酒場を目指して歩き出す。
夢も希望もない、ただの日常の光景。
これが俺の知る海であり、私が前世の知識で識る港町の情景である。
そんな私、リフィルディードア……もといリィアちゃん。
エメラルドグリーンに近い遠浅の海なんてテレビでしか知らなく、でも、このやたらと鼻につく磯の香りは懐かしい。
ああ……
ほんとうに、ほんとうに……
この磯の香りは、
えろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろ
えろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろ
えろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろ
えろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろえろ
気持ち悪いわ……
悪阻の酷い今の私にとって、本当に致命傷ですよ。
……うっぷ。
「リィアちゃん、大丈夫かい?」
「は、はひ……」
涙、鼻水、脂汗。
終わりの見えなかった嘔吐のせいで、色んな意味でぐちゃぐちゃな私。
どれだけ吐いたんだろう?
……確認するのは絶対イヤ。
見たら、多分また吐く自信あるし。
にしても本当に港町ってのは辛い。
普通の体調だったら、
「これが、海……なんて、きれい……潮の香りも潮騒も、心を穏やかにしてくれる……うーみーっ、わたしはうみが、だいすきだぁーっ!」
なんてお嬢様っぽく(?)言えたんだろうけど、今の状況じゃ、ただ生臭いとしか思えない。
……うん、こんな生臭い街、さっさと出てってやる!
そう思いながら、王都近辺からずっと竜車で一緒だった親切なお婆さんの差し出す水に、遠慮なく手を伸ばす。
木製のカップに入った水は、どこから汲んできたのだろう?
とても冷たくさわやかだ。
少なくても、ここ数日、竜車で飲んでた革袋の水ではない。
あれは思ってたよりヒンヤリだけど、むっちゃ皮臭くて、口をつけるだけで吐き気がする時もあったし。
なのにこの水、すんごくおいしい……
嚥下したことで、不快な喉に冷たく清涼な水が通っていく。
それがサァと胸を通り、熱くなった身体が芯から冷えるようで快感だ。
とても、心地好い……
私は一息にカップに注がれた水を飲み干し、
「次はゆっくり飲みなさいね?」
そう言って今度は中年のシスターが差し出した2杯目の水を、言われた通り、ゆっくりと飲み干していく。
唇から零れた冷たい水が顎を通り、地面にポタリと落ちた時、ようやく私は人心地がつき、はふぅ、と息を漏らした。
そして、
「ありがとうございます」
と礼を言って、空になった2つのカップを、心配そうに私を見ていたいつもの親切なお婆さんと中年のシスターに返す。
するとお婆さんが、
「大丈夫かい?」
そう聞いてきたので、私は、
「はい、お陰さまで……」
と笑顔で返した。
嘔吐してる時にかいた脂汗が肌に気持ち悪く、更には髪の毛が張り付いて気持ち悪さが倍率ドン。
でも、冷たい水のおかげか気分も上向きに。
「本当は冷たい水ってのは良くないのよ? これからはぬる~い水で我慢なさいね?」
そう言ってきたのは、先程のシスターさん。
私は、
「はい、気をつけます」
と言いながら、視線を再び海に戻し、ぼーっと海を眺めた。
ああ、こんな青い海、前世の内に来たかった……
……でもなあ、前世の俺は貧弱な坊や。
こんな素晴らしくナンパ出来そうな海でも、きっとモテはしなかったろう。
前世の自分のモテなさっぷりに心で泣きながら、今度は竜車の時刻表に目をやる。
どうやら自由都市国家へと向かう竜車が走るのは4日後らしい。
うん、思いがけない時間ができた。どうしよう……?
って実は考えるまでもなく決まっていたりする。
この長く鬱陶しい髪を売り払うのだ!
どうせこの先手入れなんて出来ないのだし、少しでも状態が良い内に売った方がお金になるしっ!
って、親切なお婆さんに勧められた私。
言われてみたらその通りだよねっ?
こんなの、さっさと売っぱらった方がお金にもなるし、何より手入れがすんごい楽だしね。
「じゃあリィアちゃん、案内するわね?」
「うんっ。ありがとう、お婆ちゃんっ」
「いいえ、どういたしまして。ああ、そうだ。言ってなかったけど、次の竜車が出るまでは、うちに来なさいな。歓迎するわよ?」
「えと、ご迷惑じゃありませんか……?」
「なに言ってるんだい。迷惑なんかじゃありゃせんよ。リィアちゃんさえ良かったら、うちの子になって欲しいくらいさね!」
本当に親切なお婆さんだなぁ。
と言うか、この竜車に乗り合わせた人達、御者さん、みんな、みんな、いい人達だった。
私はコクリと小さく頷き……たたた、と数歩小走り。
ここまでお世話になった人達、全員が視界に入る距離まで離れると、
「みなさん、今日まで本当にありがとうございましたっ」
いっぱいの笑顔で、心からのお礼を言ったのでした。
さてと、今日は久々にベッドで寝れるかも~。やっふ~っ!
しかも宿代にご飯代がロハだよ、きゃっほーっ!
なんてウキウキ気分を隠しきれず、一杯の笑みで、ばいばい、と手を振った。
「ばいばい、リィアちゃん」
「じゃあな、リィア」
「元気な子を産むんだぞー!」
「はい、みなさん、ばいばい。元気な子供、産みますねっ」
ばいばい やさしいひとたち
この一ヶ月あまり、ずっと面倒みてきた娘のような存在になった少女が、同じく一緒に過ごした老婆に手を引かれながら港町の喧騒の中に入っていった。
その光景を、どこか寂しく思いつつ、彼は口を開いた。
「さてと、どうする?」
ぶしつけな、主語の抜かれた問いかけだ。
だが、その問いかけの意味を知らない者はいないだろう。
この駅に貼られていた一枚の捜索願いには、姿絵に描かれた少女と、その少女のプロフィールが書かれていた。
マディレード子爵令嬢
リフィルディードア・キアル・マディレード
愛称 フレア
身長 134
透き通る白い肌
腰まで届く銀糸の髪
貴色といっていいほどの紺碧の瞳
カナリアのような澄んだ声を出す小さな唇
間違いない。自分達の知る少女だ。
だからこそ問いかける。
どうしたらいいのだろうか?
届け出たら莫大な報奨金が貰えるだろう。
なんせ捜索しているのはマディレード子爵だけではない。
国王、その人である。
だからだ。
むしろ、届け出なければならないのだ。
でも……
「なに言ってんの、お前?」
「……はぁ?」
「俺らはリフィルなんたらいう貴族の嬢ちゃんなんか知らねぇだろうが。俺らが知ってるんは……」
「可愛いリィアちゃん。どっかのバカ貴族に浚われ、孕まされ、そして追い出された可哀そうな少女でしょ?」
「……だよな~?」
あはは、うふふ、と大笑い。
それでも、あれだけ目立つ容姿である。
今すぐでなくとも、そう遠くない内に見つかってしまう。
だけども、その辺りも大丈夫。
あの目立つ綺麗な銀糸の髪は、あの老婆が何とかするだろう。
だから、きっと大丈夫……
何があったのかは知らないが、少女は……リィアは、彼女の願いどおりに、この国を出て、幸福を掴むのだから……
「それにしてもさぁ、わたし幻滅しちゃった~」
「まったくだぜっ!」
「この手配書だか捜索願いだか見たら、あの子を孕ませたのって……」
「やべぇから口に出すな!」
「……でもねぇ、ほんと、幻滅しない?」
「勇者国ね……本当なのかね? 王家が勇者の一族ってさ?」
「だから口にすんなってっ!」
この日、彼ら彼女らが感じた疑問は、ジワリ、ジワリ、と国を冒し……
20年後、その発端となった少女の息子の扇動により爆発する。
勇者アレイド。
この日まで、彼らと共に竜車で旅した少女のお腹にいた、その子供の手によって……