十二の約束と十五の誓い
露南が十二歳になったら、将軍は露南と結婚するのよ! 約束よ! 絶対よ!
っ、ああああああああああ!!!
そう叫んだ六歳の自分を埋めてしまいたい! 穴を掘って念入りに、念入りに。
思い出しただけで憤死できるんだものっ。
……それから、あれも。
驚いた様な困った様な将軍のあの顔も、一緒に、埋めてしまいたい……。
幼い頃の自分の台詞を思い出して、十五歳になった露南は赤面した。自室の窓辺で顔を突っ伏して、袖と髪の間から覗く耳も真っ赤だった。
今から九年前、国王の側近であった父に連れられて王宮に行った時の事だ。
露南は、当時十八歳、最年少で将軍に就任した白鏻と出会った。
ちっちゃな少女は、嫌な顔一つせずに遊んでくれたこの青年がすっかり好きになってしまった。
最高の愛情表現として、お茶会の開かれた庭園で彼に前述の台詞を言い放ったのだ。
それも、国王陛下や王太后陛下の御前で。
彼女のその宣言の後には、父のお茶を噴き出す音と、陛下のどでかい笑い声が辺りに響き渡った。
九年も経てば、自分の言った言葉の意味も理解出来る。
忘れたい思い出に順位付けをするとしたら、露南にとってこれは燦然と輝く第一位の思い出であった。
何故今日この日に露南がこの事を思い出したかと言えば、明日、王宮で国王陛下の誕生祭が開かれるからだ。
勿論国中で様々な行事が開かれるのだが、王宮には主立った家臣やその家族が招かれている。
当然、露南も行かなくてはいけない。
衣装も装飾品も、乳母が完璧に準備を終えていた。
露南がやることと言ったら、早く寝ること位になってしまったのだ。
そういう余暇というものはかなり考えもので、余計な事を考える隙が生まれてしまう。
まず彼女が考えたのは、久方ぶりに会う友人の事だった。
それから、彼女の父親も来ているだろうから、
明日はご挨拶できるかしら。
と、思う。
それから、彼女の父親は軍の高官なので、
軍の関係者はどのくらい招かれているのかしら?
ときて、
当然将軍位の方は全員いらっしゃるわよね。
と続く。
露南にとって『将軍』とつく役職者で思い浮かぶのは、白鏻だけだった。
怒濤の様に脳裏に蘇る恥ずかしすぎる思い出に、露南が悶え苦しむのは自然な流れであった。
ところで、露南は十一歳の時から将軍には会っていない。
何故かと言うと、良家の子女の例に漏れず、彼女も成長するに従って家から出ずに過ごすようになったからだ。
父が九年前に彼女を王宮に連れて行ったのも、やがて来る娘の定めを知っているからこそ思い出を作ってやろうと気遣ったからかもしれなかった。
余計な思い出ができたものだ……。
ともかくその思い出の日から六年、露南が十二歳になった時、将軍は特にこれと言って何も言ってこなかった。
当時の彼女はそれを酷く不満に思った。
将軍は約束を忘れてしまったのだと不貞腐れ、絶対会ったりしないと家に閉じこもった。
時期が時期だっただけに、彼女はそのまま乳母の『露南様深窓の令嬢化計画』の餌食となってしまったのだ。
露南の母の乳姉妹であった乳母は、お転婆で父親似の容姿を持つ少女にいつもこう言っていた。
「露南様。十二歳になられたら、きっとお母様に似てお美しい淑女になれますよ」
周囲の者にはこうも聞こえた。「必ずや淑女にしてみせますとも!」という決意表明に。
乳母の思惑は脇に置くとして、露南はこのいい聞かせによって、大人とは十二歳からなのだと思いこんだ。それが将軍に「十二歳になったら」と言うことになった大きな要因だ。
そうして成長した露南は段々と自分の台詞に恥じらいを覚え、将軍が何も言ってこないことが寧ろ幸いだと思い始めた。
幼子の戯れ言をいつまでも覚えている事は無いだろう。
それでも時折発作のように羞恥心の波に襲われる。
そんな波に襲われ続けながら、空は闇に覆われ、やがて陽光が燦々と輝く朝が来てしまった。
「さあ、髪には藤の生花を飾りましょうね〜」
上機嫌の乳母に、理想の淑女に仕立て上げられながら、露南は「行きたくなーい」の大合唱を内心で行っていた。
行きたくなーい
行きたくなーい
行きたくなーい
しかし遅刻は許されない。
溜め息を堪える事数十回。
乗り込んだ馬車は王宮の門をくぐり、賑やかな祭典の場へと露南を押し込んだ。
「露南!」
馬車から降り、先に王宮に行っている父を捜しながら進んでいると、名前を呼ばれた。
振り向けば、友人の朱珠がいた。
黄色い藻裾の上に赤い外衣を来た同い年の少女は、露南の前で立ち止まる。
「久しぶりね、朱珠」
声を掛けると、彼女はにやりと笑った。
「ホント、久しぶり。ずっと聞きたかったのよ。将軍閣下とはどうなったの?」
好奇心にまみれた瞳が露南のそれを覗き込んでくる。
みるみるうちに露南の顔は不機嫌そのものになっていった。
この友人は例の思い出を聞き出した時、国王陛下並みの大笑いを見せたのだ。完全に娯楽か何かと勘違いしている。
「あら。その顔だと進展無し、かしら?」
「進展なんてする訳無いでしょう? もう四年も会ってないんだから。向こうだって綺麗に忘れているわよ!」
藤色の領布を揺らして露南が腕組みをすれば、友人は唇を尖らせた。
「つまんない!」
「つまんなくて結構よ!」
お互いしかめっ面を合わせていたが、どちらとも無く気がついた。
祝いの祭典でこんな顔をしていては陛下に失礼だと。
「止めましょう。今日は喧嘩は無しね」
「仕方が無いから、同意してあげるわ」
穏便に事を済まそうとする露南に対して、いつも一言余計なのが朱珠であった。
再びにやりと笑うと、友人はふと視線を露南から外した。
ある一点に釘付けになったその瞳に好奇心の輝きが灯ったような気がして、露南は一歩後ずさる。
ところが、朱珠は警戒心丸出しの友人の腕をがっちり掴んで耳元で囁いた。
「ふふふふふ……。結果はきちんと報告して頂戴ね」
何の事やらと露南が首を傾げると、朱珠はすんなり手を離す。
「じゃあ、私は遠慮してあ、げ、る」
そう言って立ち去って行った。
訳が分からない露南は一人首を傾げる。
その背後から声が掛けられた。
「……露南姫」
かちーん、と彼女は固まった。
どうにも聞き覚えのある声だった。
動かない露南に、声の主は正面まで回り込んで来てくれた。
恐る恐る顔を上げると、そこに立っていたのは二十七歳となった白鏻将軍、その人であった。
「……将軍」
呟いた露南に、将軍は小さく会釈した。
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
不貞腐れたり、顔に色々塗ったくられたり(化粧の訓練)、衣装を沢山着せ変えられたり(成長期と乳母の趣味)していたが、まあ、元気は元気だろう。
こくん、と頷く。
頷いてしまってから、これは淑女にあるまじき行為だと気がついた。
まるで、子どもの様では無いか。それこそ、彼に求婚した時のような……。
ああああああああああ!!!!!
叫んで走り出したい衝動を露南は必死で押さえ込んだ。
「お、お久しぶりです、将軍。えと、私はずっと元気でした。将軍もお元気そうで……」
何とか言葉を捻り出すも、たどたどしさは隠せない。
もちろん彼の顔を見上げる勇気なんて出てこないから、俯いたままだ。
こ、この後、どうしろってのよ……。
ずり落ちた領布を直して間をもたせようと試みるが、そんなものはすぐに終わってしまった。
「姫…………」
将軍が何事か彼女に話しかけようとしたその瞬間、再び少女の名が呼ばれた。
「露南!」
二人揃って声の方に顔を向ければ、そこにいたのは官服を身にまとった露南の父、瑛槇だった。
「父様!」
父の姿に安堵を覚えた露南は、彼がこちらに着くのを待てず、自分から歩み寄って行った。
「無事に来たのだな。中々会いにこないから、どうしたかと思ったぞ」
瑛槇は相好を崩して娘に向かい合った。
それから、一体誰と一緒にいたのかと彼女の背後を見やって、「おや」と眉を上げた。
「白将軍。早々と娘に会っていたのですな」
「いえ、今そこでたまたま会えただけですよ」
軍人にしては珍しく穏やかな顔立ちをした彼は、今も静かな微笑みを浮かべていた。
淑女らしく長い袖で口元を隠しながら、露南は横目でその笑みを見た。
花を採りたいと我が侭を言ったちっちゃな露南を抱き上げた時の笑みとは違う種類である事が、少し残念に感じた。
それから父と将軍は宮廷では付き物の世間話を始めてしまった。勿論家にこもりっきりの露南に分かる話では無い。
それになにより、彼女は彼らの口からうっかり九年前の話が出やしないかとひやひやしていた。
逃げ口を探して視線はうろうろと周囲を探る。
「あ」
見知った顔を見つけた露南は声を上げてしまった。
父親と将軍が話を中断してこちらを向く。
父のものはともかく、将軍の視線にどきりと心臓が脈打った。
「あ、あの……。申し訳ありません、将軍、父様。友人を見つけたので失礼させて頂きます」
将軍の瞳が余計に露南の心を追い立てて、彼女は逃げの一手を打った。
しとやかに一礼して、そそくさとその場を立ち去った。
その背中を見ながら、露南の父はぽりぽりと頬を掻いた。
「私が言う事では無い気もするが、……逃げられたんじゃないかい?」
上背のある白鏻をちらりと見上げると、彼は露南の背中を見つめながら唇の端を引き上げた。
「ご冗談を」
その後に続く言葉なんだろうと瑛槇は考えてみた。
ご冗談を言わないで下さい。
とかだと、多分困ったような笑いになるだろう。この表情とは合致しない。
では、「ご」を抜いてみたらどうだろう?
冗談では無い。
わーお。この笑顔にぴったり。
見当がついてしまった事を後悔し始めた彼に、白将軍は笑みを引っ込めて会釈した。
「私も失礼させて頂きます」
露南の向かった方向へと足を向ける彼に、瑛槇は言った。
「あ〜……。娘はまだ十五歳だと言う事を忘れずに頼むよ、将軍」
振り返った白鏻は薄く微笑む。
「いいえ。ようやく十五ですよ」
それだけ言って立ち去って行った。
「そう、だよね〜……」
気の削がれた様に、諦めた様に、瑛槇は言った。
友人の陰を探して人混みを歩いていた露南だったが、中々見つからない。
ここから抜けてもっと別の場所に行ったのかも知れないと思い至り、踵を返す。
そこで、とんっと肩をぶつけてしまった。
「大丈夫ですか?」
そう声を掛けて来たのは、白鏻将軍であった。
「しょ、将軍……」
何故ここに!
内心叫ぶも、露南は懸命にそれを口にすまいと飲み込んだ。
「ご友人はどうされました?」
至極普通の事を聞かれて、彼女はそのまま答えてしまった。
「あ、いえ、見つからなくって。もっと別の場所に行ってしまったかもしれないので、他の会場を探そうと思ったんです」
露南の言葉に真剣に頷いた将軍は、「ああ」と何かに気がついた様子を見せた。
視線を横の方に移すと、小さく指差した。
「もしかしたら庭園の方に行かれたのかもしれませんよ」
その指先につられて顔を動かした露南は、整然と木々の生い茂る庭園を見て、まさしくそうかもしれないと思った。
「ああ! きっとそうですね」
両手を打ち合わせて、露南は微笑んだ。
何故だか絶対庭園にいるのだと思ってしまったのだ。
「探してみます。有り難うございました、将軍」
いそいそとそちらに向かおうとした露南の目の前に、大きな手が立ち塞がった。
きょとんと瞬いてからその手を辿ると、将軍から伸びている。
「私も一緒に探しましょう。一人より二人の方が早く見つかりますよ」
「ですが、将軍もお忙しいのでは?」
「いいえ。今日は警備の任からも離れているので、時間は有り余っていますよ」
静かな笑みと広い庭園を順に見て、露南は決断した。
「では、宜しくお願いします……」
生け垣に沿って歩んで行くと、やがて人々の作り出す喧噪は遠のいていった。
東屋や池の畔で目を凝らすが、やはり友人はいない。
それどころか、人っ子一人いやしない。
「………………」
祭典の真っ最中だ。流石にこんなところまで来ないだろうと思い至った時には、露南は自分が今何処にいるのかわからなくなっていた。
将軍が一緒でなければ確実に迷子だ。
「将軍……。ここまで来ていないという事は、きっとここでは無かったんですね」
「そうかもしれませんね」
傍らの彼を見上げて露南が言えば、将軍も同意を示してくれた。
「では、そろそろ会場に戻りましょう」
少し道を外れた生け垣の奥を覗きに来ていたから、小道に戻ろうと足を動かす。
ところが、露南の目の前に大きな壁が立ち塞がった。
急に壁が出てくる訳が無いから、これは将軍の体だろうと予想がつく。
ち、近い……。
本当に目の前、顔の前に彼の胸があるのだ。このまま顔を上げてしまう事が躊躇われる。
沈黙する露南の頭上から穏やかな声が聞こえた。
「ここは、貴女が隠れていた所に似ていますね」
びっくりして、距離など忘れて露南は顔を振り上げた。
その事に気がついた将軍は、辺りを見ていた顔をゆっくりと露南の方に向けた。
「それ、は……、その……」
「九年前の事ですよ」
そう。露南が十一歳になるまで会っていたとは言え、彼は将軍職だ。会えた時も挨拶程度しか出来ず、かくれんぼをして遊んだのは六歳のあの時だけなのだ。
「覚えていらっしゃるんですか?」
沢山遊んでもらったから、かくれんぼの事まで覚えているとは思わなかった。
露南の驚きに満ちた声に、彼は微笑んで答えた。
「もちろん。忘れたりはしませんよ」
それじゃあ、やっぱり……。あの、求婚の事も覚えてる!?
駆け上がってくる羞恥心に、思わず問い質したくなるが堪える。巨大な墓穴を掘るだけだ。
「そ、そうなんですね……」
「私には姉も妹もいなかったので、貴女と遊んだ事はとても新鮮でしたよ」
ずきりと胸が痛む。
そうか、将軍は妹の様に思っていたんだ……。
良かったじゃない。それなら余計にあの求婚の事なんか本気にしてないわよ。もう忘れちゃってるわよ。
そう、内側で自分が言う。
でも一方で悲しみがじわじわと胸に広がっていく。
瞳に涙が浮かびそうになって、さりげなく顔を逸らした。
ところが、次の将軍の言葉で、すっかり涙は吹き飛んだ。
「お茶会の席で求婚された時も、本当に驚きました。なにせ、初めて……」
言いかけの言葉を断ち切って、露南は叫んだ。
「覚えていたの!?」
涙と一緒に敬語も吹き飛んだようだ。
将軍の胸ぐらを掴む様に身を乗り出していた。
呆気にとられたような顔をした将軍だったが、すぐに元の笑顔に戻った。いや、少し困った色が混じっている。
「当然です。なにせ、初めて女性から求婚されたのですよ」
この国では男性からの求婚が一般的だ。
だから露南の様な行動は常識外れと言える。子どもだから笑って許された所行と言えよう。
「それなら、……」
言いかけて、唇を震わせた露南はひゅっと息を吸い込んだ。
「それならどうして十二歳になった時、何も言ってくれなかったの! !」
叫んでから気がついた。
露南はもうずっとずっと将軍が好きだったのだと。
子どものした事なんだから本気にされなくて当然なのだ、そう思い込む事でこの想いを誤魔化して来たのだと。
飛んでいったはずの涙が戻ってくる前に、露南は逃げ出そうとした。彼の胸を掴んでいた両手を外して後ずさりする。
けれどそれ以上下がる事を思いとどまらせたのは、将軍の一言だった。
「待って下さい、姫」
露南の体を捕まえた訳では無い。
けれどその真摯な声音は彼女の動きを止める力を持っていた。
その場で俯いて、顔を上げようともしない露南に、彼は静かに話しかけた。
「どうか、言い訳をさせて下さい」
「……言い訳?」
ちらりと彼を見上げる露南に、真剣な眼差しを送りながら将軍は頷いた。
「ええ。そうです」
露南は不承不承頷いた。
体の脇に垂らした右手の袖の下で、その手の甲に左手を添える。動揺を静めようという時の彼女の癖だ。
「ありがとうございます」
ほっとした様に言う将軍に、上げそうになる顔を必死で押さえながら露南はもう一度頷いた。
「まず、十二歳は若すぎました」
その言葉に、露南はぎゅっと肩を竦めた。
この国の初婚の平均年齢は十五歳。だから、若すぎると言う彼の言は正しい。
でも露南には年齢差を指摘された様に聞こえた。子どもは相手に出来ないと言っているみたいだ。
「私はこれでも国王陛下の遠戚である白家の当主です。貴女の心が変わった場合、私との結婚が決まっていては取り消す事など不可能でしょう?」
「………………?」
握りしめた右手はそのままで、露南は首を傾げた。
おかしい。これでは、彼は露南の将来を思ってわざと何も言ってこなかったみたいでは無いか。
「ですから、貴女のお父君と相談をして、十五歳になるまでは婚約はしない事にしたのです。我慢をするのはかなり大変でした」
「こ、こんやく……? がまん……?」
なにか、おかしい。聞き慣れない言葉が出てきた。
露南は分からなすぎて片言で彼の言葉を繰り返した。
「ええ。結婚する前に婚約しなくてはいけないですからね。いえ、いきなり結婚は嫌だと言われてしまいまして」
「……父様に?」
そろそろと上目遣いで彼を見上げると、白将軍は目尻を下げた。
「そうですよ」
その微笑みに勇気づけられて、露南は肝心な事を聞く事にした。
「あの、将軍は、私と結婚する気があるのですか……?」
目を見開いたその顔が、何を答えるというのか。怖くなった露南はすぐに顔を下に向けてしまった。
彼女の首筋に、重苦しい溜め息が掛かった。
ひえっと肩を跳ね上げる彼女に向かって、白将軍は何だか情けない声で言った。
「今の話の流れでそう思って頂けなかったら、私は自信を喪失してしまいますね……」
その後は沈黙が続いた。
よもや、どっぷり落ち込ませてしまったのかと露南は慌てた。
顔を上げて、斜め下を見下ろす将軍に必死で言った。
「あ、あの、別に将軍の言う事を信じてないとかでは無くてですね。その、これまで放っておかれたから信じられなくって、……あれ? 信じてない事になっちゃう。そ、そうじゃなくってですね、えっとですね」
言い募れば募る程、掘ってはいけない穴を掘り進んでいた。
将軍の顔はどんどん暗ーくなっていく。
「ああ、いえ、あのっ! ちゃんと信じます! 今からしっかり信じます!」
良く晴れた空の下で暗雲さえ背負い込みそうな彼に、露南は決断した。
かなり勢い任せだったし、その後どうなるかなんて欠片も考えていなかったが、それでも露南は将軍に向かって宣言した。
胸の前でしっかりと拳を握って身を乗り出す彼女を、将軍はじーっと見つめてきた。
その目は言っている。「本当に信じてくれますか?」と。
だから露南も視線を外さずに、こくんと頷いた。
自然と拳はほどけ、祈る様にお腹の前辺りで組んでいた。
しばし二人は見つめ合っていたが、白将軍は落ちていた肩をきちんと元の位置に戻して、再び微笑みを浮かべた。
その時、ほっとした露南の手に、こつんと何かがあたった。
見下ろしたその瞳に映ったのは将軍の手だった。露南の手より大きく、軍人らしい無骨な指だった。
大きくて、長い……。
そんな感想を抱いていると、その手が動き出した。
ん?
露南が首を傾げている間に、何故か彼女の組んでいた手が解かれて、指が組まれていた。
それも手の甲と甲を合わせた状態で。
これは一体全体どういう事かっ。
首を勢い良く振り上げたところで、将軍の満面の笑みとかち合った。
「私が、貴女との結婚を望んでいると、信じて頂けるんですよね?」
ひくり、と露南の頬が引きつった。
まさしく自分はさっきそう言ったのだ。
「は、はい……」
自分の言動を思い出して赤面する露南に、けれど将軍は憂い顔を見せた。
「嬉しいです。……ああ、でも」
「で、でも?」
「やはり、少し自信が無いです」
「……自信、ですか?」
おろおろと露南は視線を彷徨わせる。
自信、自信。さっきも言っていたが、やはりそれは露南が彼の言う事を信じている云々の事だろうか。
それにしても、組まれた指のせいで離れる事も出来ない。
「勿論、貴女に信じて頂けているかどうかと言う事ですよ」
心の中を読んだ様に彼は言う。
露南は思わず叫んだ。
「信じました!」
「……本当に?」
「本当です!」
「じゃあ、証明して下さい」
にっこりとした笑みで言われて、露南は「は?」と間抜けな顔を晒してしまった。
「貴女が、私の事を信じていると言う事を証明して欲しいんです。……ダメですか?」
最後は眉尻を少し下げた表情で付け加えられた。
証明、証明……。どうやって?
困惑する露南を他所に、将軍は穏やかな表情でいた。
朱珠あたりなら「おいおい」と突っ込む様な展開だが、経験不足な露南は流されるので精一杯だ。
だから、流されるままに証明方法を考える。
助け舟とおぼしきものが将軍から発せられる。
「貴女が、ご家族に親愛の情を伝える時と同じ方法で結構ですよ」
父親とはどうしているだろうと考える。
小さい頃はぎゅっと抱きついたりしたが、そんな事だろうか。
いやいや、手が組まれている以上それは無理だった。
それ以前に恥ずかしくって無理!
再び頬を染めて俯いた露南の脳裏に、ぱっと閃くものがあった。
友人が言っていたのだ。「男なんてこれで満足しちゃうわよ!」って。その時に朱珠が呆れ顔をしていたことを思い出せれば良かったのだが、露南はこれに飛びついた。
これしか無い、と思った。
「あ、あの、目を瞑って、屈んで下さい!」
将軍はとても素直に露南の指示に従う。
瞳を閉じて、ゆっくり彼女の方へと屈んで来た。のだが、
「ち、違います! ちょっとです! ちょっとでいいです!!」
どんどん近づいてくるその顔に恐れを成して露南は悲鳴じみた声を上げた。
そこでようやく将軍は動きを止めてくれた。
露南は深呼吸をして、覚悟を決める。
少しだけ背伸びをして、彼の顔の方へと首を伸ばした。
もう少しで触れる、というところで、ぱちりと将軍の瞳が開いた。
近づく動きを止められない露南を良い事に、彼は自分の顔の位置をほんの少し修正した。
「ふっ……、ん」
唇が重なって、露南の体に震えが走った。
そっと離されても、彼女は呆然と目を見開いていた。
流石にまずかったかと、将軍は露南に向かって軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。その、少し悪ふざけが……」
言い訳は途切れた。
露南が背伸びをして彼の頬に口づけたからだ。
「……本当は、こうしようと思ったんです」
頬を膨らませて言うと、将軍は神妙な顔で再度謝罪をくれた。
その真実申し訳無いと思っている表情に、露南は少し仕返しが出来た気がして微笑んだ。
それに微笑みを返した白将軍は、組んでいた指を解いた。
自分の大きな手で露南の両手を包み込んで、その場に膝をつく。
「瑛家ご息女、露南姫。どうか私と結婚して頂けないでしょうか。この生涯を掛けて貴女を守り、愛し続ける事を誓います」
嬉しくて、嬉しくて。露南の胸はぎゅうぎゅうに締め付けられるように、甘く痛んだ。
こくんと、やはり子どもの様に頷いてしまって。でも、将軍のその真摯な表情は崩れなかった。露南にやり直しを許してくれている。
頑張って背筋を伸ばして、ぎこちなくも可憐な微笑みをその顔に浮かべた。
「はい。喜んでお受け致します」
白鏻の表情は緩やかに柔らかなものに変わっていく。
懐かしい、いっぱい遊んでくれたあの青年の面影に背中を押されて、露南は言った。
「大好き」
淑女のする物言いでは無かったが、それでも露南の本当の心だ。
一瞬驚いた顔をした将軍も、酷く嬉しそうに微笑んで、立ち上がるや否や、ぎゅっと露南を抱き締めた。
「露南と、そう呼んでも構いませんか?」
将軍の胸に頬を押し付けられた露南は、「姫」と他人行儀に呼ばれるのが好きでは無かったから、一も二もなく頷いた。
すると将軍は露南の肩をそっと離して、上から覗きんで来た。
「では、私の事も名前で呼んで下さい」
「……鏻様」
僅かに首を振って、将軍は言い直す。
「鏻、と」
男の人の名を呼び捨てた事等無い露南は、本当にそう呼んで良いのかと戸惑った。
けれど将軍は前言を翻さない。
「…………鏻」
小さな声でそう呼べば、嬉しそうに笑うから、露南はほっとした。
「では、そろそろ陛下にご挨拶にいかないといけませんね」
その台詞に露南は飛び上がりそうな程驚いた。
「まだ行ってらっしゃら無かったの?!」
将軍の様に重職についているものは、登城したらまず真っ先に国王陛下に挨拶をしなくてはいけないと言うのに、まだ行っていなかったとこの人は言うのだ。
焦る露南に、将軍は悠々と言った。
「一緒に行こうと思ったんです」
その一言で、露南はみるみるうちに真っ赤になった。
しばらく肩を震わせていたが、やがて囁くように言った。
「あ、赤いのが治まるまで、もう少し、待って下さい……」
「ええ、勿論」
彼は露南の耳元でそっと囁く。
「我至福待你」
……貴女を待つ事こそ私の幸いです。