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沈丁花  作者: 季美
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完結編

 次の日、満瑠は、仕事が終わった後、軽い食事をしてからダンス教室に行った。教室に入ると、昨日よりたくさんの生徒と先生が教室にいるのが見えた。昨日は昼間だったせいか女性の生徒ばかりだったが、今は、男性の生徒も来ていて、1人で腕をあげる格好をし、まるで女性と一緒に動いているような動作を見せている男性もいた。

(皆、上手だわ。)

 何もわからない満瑠にとって、音楽に合わせてどんどん踊っている生徒達が、とても眩しかった。そして生徒達は皆、満瑠と違い、この教室にしっかりと馴染んでいるように見えた。

 まず、満瑠は服装が皆と違っていた。普段運動もしていないし、かといって、ひらひらした服も持っていなかったので、ただのTシャツとジーパンに着替えていた。女性でズボンをはいている人は誰もいなかったので、満瑠は居心地が悪い気がした。

 8時になると、満瑠の前に満瑠の担当教師となった林田がやってきて挨拶をした。

「こんばんは。今日からよろしくお願いします。」

 林田は、笑顔で満瑠を迎えた。服装が皆と違う事で少し場違いな感じを持った満瑠は、かなり緊張していたが、林田の笑顔で救われた気がした。

「こちらこそ、よろしくお願いします。何もわからないので、色々教えてください。」

 満瑠はこの日、「ジルバ」という踊りを教わった。男性にぴったりくっついて踊るのではなく、二人で手をつないで軽快な音楽に合わせ、前後・左右に動いたり回ったりする楽しい踊りだった。この踊りはパーティなどで踊る簡単な種目で、正式な社交ダンスの種目には無いらしい。でも、満瑠には、この簡単な踊りだという「ジルバ」でも、かなり大変な思いをしていた。「踊る」と言うより「動く」という動作にしかなっていなかったと思う。

「初めてにしては、良く動けていますね。やっぱり若いと違うな。」

 満瑠をやさしく褒めてくれた林田の意外な言葉に、満瑠は、びっくりし、

(今の言葉は、お世辞? それとも、本心?)と心の中で考えながらも、

「本当ですか?」と、うれしくて思わず声に出してしまっていた。

 しかし、履いている靴は、7センチもヒールがあり、転んでしまうのではないかと冷や冷やしながら動くものだから、どうもドタバタとしてしまう。

 たった25分のレッスンだったが、汗をびっしょりとかいてしまった。

「皆さん、きれいな服装でレッスンをしていらっしゃいますが、私みたいな服装は、変ですか?」

 1人だけ浮いてしまっているように感じていたので、思い切って林田に聞いてみた。

「特にレッスンに何を着なければいけないという決まりはないです。でも、足を開く事ができないタイトスカートなどは踊れなくて困っちゃうから、裾が開いたスカートにしてね。勿論、ズボンでもいいです。もし、皆が着ているような服が欲しかったら、ダンス用品専門店に売っているから、見てきたらいいね。」

(ダンス用品専門店があるのね。)

 満瑠は、もう少し続けて習うようだったら、そんなお店に行ってみるのもいいなと思った。


 満瑠は、1週間に2回のペースで個人レッスンを受けることにした。最初に教わった「ジルバ」が踊れるようになると、次は男性とぴったり身体をくっつけて踊る「ブルース」という種目が始まった。まだ良く知らない先生と顔を近づけることは、最初、少し抵抗があった。周りを見ると、他の生徒達は全然気にする様子もない。

(慣れてしまうと平気なものなのかしら?)

 そんなところも、ジャズダンスなどとは違ったところの1つだと満瑠は思った。

「ブルース」も「ジルバ」と同じで、正式な社交ダンスの種目ではないとのことだった。3回めのレッスンで満瑠は、慣れてくるとこれらのステップはそれほど難しくはないと感じるようになった。そして、4回めからはこの2種目は卒業し、正式な社交ダンスの種目を教わることになった。

「今日から、ワルツを踊りましょう。」

 林田先生は少しうれしそうに4回めのレッスンを始めた。

 満瑠は、やっと少し出来るようになったのにもう次の種目を始めると聞いて、もう少しゆっくりやって欲しいなと思ったが、「ワルツ」という種目は、前からやってみたいと思っていたので、

「はい、是非、教えてください。」と言っていた。


 満瑠は、ダンスを習い始めて2カ月経った頃から、今までのジーパンにTシャツだった服装をやめて、皆が着ているようなレッスン着を専門店で購入し、着るようになった。

 専門店ではダンス教室以外ではとても着るには恥ずかしいような服がたくさん売っていたが、その中ではシンプルな淡い青色の綺麗なワンピースを選んだ。そして靴も自分に合うスタンダード用のダンスシューズを買いそろえた。

 社交ダンスには、スタンダード種目とラテン種目があり、ワルツやタンゴなど男性と女性がぴったりくっついて踊る踊りをスタンダード種目といい、手をつないで少し離れて踊るルンバやチャチャチャという踊りをラテン種目と言うと教わった。靴は、スタンダード種目とラテン種目では少し形が違う。まずワルツを習う事になったので、満瑠はスタンダード種目用のダンスシューズを買うことにした。

 ダンス用品専門店には、様々なダンス用品が売られている。1番満瑠の目をひいたのは、ドレスだった。レッスン着もひらひらして派手だと思ったが、それどころではないきらびやかなドレスがたくさん売られていたのを見た時、満瑠は、思わず立ち止まって、

「わあ!」と叫んでいた。

 近くでドレスを試着している女性がいた。真っ赤なドレスで、金のラメや光る石がたくさんついている。しかも着ている女性の年齢は、かなり上ではないかと思われる。

(この世界では、年齢なんか関係なくなっているんだわ。)

 満瑠は、益々不思議な世界だと思い、とても元気がでてくると思った。


 ダンスを始めて2カ月が経った5月のゴールデンウイークに入った初日。満瑠は、見田に振られた直後にレストランで出会ったあの安田と、恵比寿駅近くの喫茶店で再会していた。安田との出会いは、恵比寿だったので自然と恵比寿で会う約束に決まった。

 1週間前に満瑠から初めてメールを送ったのだ。ダンスのお陰か、見田に振られた事を少しずつ忘れかけていた満瑠は、携帯電話のメールリストを見て、ふと安田のことを思い出した。ダンスを始めて、身体を動かし汗をかくようになったせいか、身体の調子も良くご飯がおいしい。仕事の方も、もしかしたらうまくいかなくなるのではないかとあの時は心配だったが、そんな事もなく、かえって新しい仕事を任され、それがうまく運んできている。もしかしたら彼との出会いが、幸運を招いているのかもしれないという考えが頭によぎり、また会ってみたくなったのだ。

 殆ど同時に、二人は喫茶店に到着した。ゴールデンウイークだったので、どこも混んでいる。この喫茶店も、店内はとても広いが、かなりの人で賑わっていた。わいわいとしているので、大きな声で話さないとお互いの声が聞こえなくなるくらいだった。

「秋山さんからメールが来たときは、飛び上るほどうれしかったよ。」

 安田は、本当にうれしそうに言ってくれた。

「2か月経ってもメールが無かったから、もう来ないと思っていた。」

「私も実は、メールはしないつもりだった……あの時はね。あれから私、もうひとつの修行をやっているの。それが、楽しくて……そうしたら、急に安田さんに会いたくなってしまったと言うわけ。」

 満瑠は、また「修行」という言葉を話す自分を楽しんでいた。あの時の満瑠が「修行」と口にしていた時と違って、今は、こんなにも楽しい。同じ言葉を言うのに、こんなに違いがあるということを、満瑠は深く身にしみて感じていた。

「楽しい修行かい? それじゃ、修行にならないんじゃない?」

「最初は、大変だったのよ。でも、今はとても楽しい。そうだわ、そういうのを本当の修行っていうのかもしれない。」

「何だかよくわからないけど、この前とまるっきり違って見えるね。よかったよ、見違えるように元気になって。あの時は、別れてからも心配だったよ。でも、こちらからメールはしないって言ったから……。」

「あの後ね、社交ダンスを習い始めたの。すぐよ、安田さんと別れてからすぐ。」

「社交ダンス?」

「驚いたでしょう? 池袋にある『ヤスダダンススクール』っていう教室で習っているの。あれから2カ月、結構真面目に通っているのよ。」

「えー、ほ、本当?」

 安田は、満瑠が想像するよりもはるかにオーバーに驚いた反応を示した。あまりにもそのジェスチャーが大袈裟だったので、ちょっとムッとしたくらいだ。

 安田は、水をごくっと飲みこんでから、1息ついて言った。

「『ヤスダダンススクール』の経営者は、僕の叔父なんだ。」

「えー!」

 今度は、満瑠が驚く番だった。頭の中がぐるぐる回ってきそうだった。そういえば、あの日も、ダンス教室の名前が同じだったから、「おもしろい、これも縁だ」と思って入会する事にしたのを思い出す。

「僕、実はあの日までダンス教師としてあの教室で働いていたんだ。入れ違いに君が習い始めるとは夢にも思わなかったよ。」

「えっ? ダンス教師? 安田さんはダンスの先生をしていたの? 今は辞めてしまったの? どうして?」

 安田がダンス教師をしていたという事にも驚いたが、それを満瑠が振られた日に辞めてしまったという事も不思議に思った。満瑠は、次々に疑問が湧き上がってきたので、段々身体が前のめりになっていく。

「あの日、僕が振られた相手というのが僕のダンスのパートナーをしていた女性だったんだ。彼女もダンス教師をしていて一緒にカップルを組んでいた。でも、喧嘩が元でカップルを解消してしまった。僕は、彼女と別れた事をきっかけにダンス教師もやめることにしたんだよ。」

「それじゃ、今は何をしているの?」

「父が小さな会社を経営していてね、その手伝いをしている。ずっと、父は僕がダンスをやっていることに反対していたけれど、どうしても彼女とダンスを続けたくて頑張っていたんだ。でも、振られてしまったからもうダンスを続ける気持ちも無くなってしまった。ダンスにこだわっていたのではなく、彼女と一緒だからダンスをしていたかったんだとわかった。だから父の会社を手伝う事にしたんだ。それがずっと父の希望だったし。父はとても喜んでいるよ。僕もこれでよかったと思っている。」

 あの時、安田がそんな境遇にいてそんな展開になっていたとは、満瑠には思いもよらない事であった。それなら、安田だって満瑠以上に辛かったに違いないと思うが、今の安田を見ると案外元気そうに見えた。

「そんなに辛い目にあったというのに、今は随分元気そう。」

 満瑠は、そんな安田の事が不思議に思えてそう尋ねた。

「そう見えるかな? あの時は結構ショックで僕も悩んだよ。だから、あの時、君と出会えた事で少し救われた気もする。そんな君ともう一度会えた事は、本当にうれしいよ。今は、新しい仕事を覚える事で1生懸命の毎日だから、くよくよしている暇もないしね。」

 満瑠は、この2カ月を自分と事情が違うにせよ、よくも似ている日をお互いに過ごしたものだと、安田との出会いに「運命」を感じずにはいられなかった。

「ところで、個人レッスンを受けている訳だね。それじゃ、レッスン代も大変でしょう?」

「そうね、その通り……。思ったより費用がかかるからびっくりした。でも、楽しくなってきたから、もう少し続けるつもり。」

「ダンスを習うのは、全く初めてなんでしょ? それじゃ、ステップを覚えるだけでも費用が大変だ。失礼だけど、まだ若いから給料だって安いだろうし。個人レッスンだけでうまくなろうとしたら、給料が飛んじゃうよ。」

 安田に言われると、そうかもしれないと思った。まだ、ワルツを始めたばかりだけれど、聞けば、社交ダンスの種目は1種目もあると言う。それを全部覚えるまでにどれくらいレッスンに通わなければならないかを考えると、確かに怖い気がする。

「僕でよかったら、ステップだけでも教えるよ。」

 安田の意外な申し出に、またまた満瑠は驚いた。今日は、驚く展開ばかりだと思った。

「会社の倉庫に空いたスペースがあるから、そんなところで良かったら少しずつ教えるよ。僕にはこんな事ぐらいしか君に出来る事はなさそうだし。」

 満瑠にとって、「こんな事」どころじゃない申し出であったから、断る理由もない。

「いいの? 本当に?」

 満瑠と安田は、本当にひょんなめぐり合わせで出会い、そしてこれからは、ダンスを教えてもらうという理由で、これからも会う事になった。

 この日、二人は喫茶店でダンスの話で盛り上がった。満瑠が初めてダンス教室に足を踏み入れて、少し変わった世界だと感じた事を話すと、安田は笑って言った。

「僕は、ずっと叔父のダンス教室を小さいころから見ていて、大学時代から踊っていたから普通だと思っている事だけど。そうだね、確かに初めて見る人にとっては、少し、いや、かなり変わった世界かもしれないね。でも満瑠さんも、そんな世界が好きになったっていうこと?」

「満瑠さん」と、急に名前で呼ばれて、満瑠は、「ドキッ」とした。

「うん、何だか、私にとっては、いるべき場所だったような気がする。」

 少し顔が赤くなったかもしれないと意識しながら、満瑠はそう答えた。そんなことは、今まで考えてもいなかったが、今突然そんな気がしたからだ。

「随分派手なドレスを見た時は、ちょっと驚いたけれど、それもいいかもしれないと思ったわ。」


 満瑠が安田からダンスを教わるのが「毎週土曜日の夕方」と決まり、次の土曜日、満瑠は、安田が勤める会社の倉庫に出かけた。

 会社の倉庫は板橋区にあり、静かな住宅街の中だった。夕方からにしたのは、昼間は会社が休みであっても人が出入りする事もあるからだ。

 駅で待ち合わせをして、二人で倉庫へ歩いて行った。練習の場所は倉庫だから、ダンスシューズはいらないと言われた。教室のような床とは違うので、靴が傷んでしまうからだ。

 倉庫に着いて、満瑠は「なるほど」と思った。あまり広くない倉庫の隅が空いていたが、「ダンスをする」というような場所ではなかった。床はコンクリートがむき出しだったし、周りにはたくさんの荷物や機械が並んでいた。

「こんなところだけど、公園かどこかのような外で踊る訳にもいかないし、レッスン場を借りたらそれもお金がかかるし、ステップだけなら、こんなところでも出来ると思うよ。」

 静かに止まった機械の横で、音楽をかけながら踊るダンスは、ロマンチックなものでは決してないけれど、安田の申し出はとてもうれしかった。レッスン代がかからないという金銭的な事だけでなく、相手が安田だからうれしいのだ。

「場所がこんなところだし、僕は、もう教師じゃないから教えるのはステップだけにするよ。それ以上の事は、今習っている先生から教わった方がいい。林田先生は、僕は良く知っているけれど、踊りも教え方もとても上手な先生だよ。」

「わかったわ。安田先生、どうぞ、よろしくお願いします。」

 満瑠は、改めて、安田に頭を下げた。

「もう、先生じゃないから、それはやめてよ。」

「それじゃ、何て呼べばいい?」

「出来たら、下の名前で。」

「誠治さん?」

「いいね、それ。」

 振られた者同士で、いつのまにかこんな事になってしまった二人だが、「私の事どう思っているのかな?」とあれからずっと満瑠は安田の事を考えていた。

 ステップを教えるだけとはいえ、誰もいない静かな倉庫で、二人で身体を合わせて組む訳だから、満瑠はダンス教室の林田と踊る時よりもはるかに緊張した。

 でも安田には、満瑠のような緊張した素振りは少しも見えなかった。淡々と、ステップを満瑠に教えていった。

(やっぱり、ダンスの先生というのは、こんな風に組むことなんて、何でも無い事なのね。)

 満瑠は、安田のそんな態度にちょっとがっかりもしたが、

(私ったら、何を勘違いしているんだろう。ステップを教わりに来ただけなのに……。ステップに集中しなきゃ)と恥ずかしく思った。

 レッスンは、1時間程度で終わりになった。種目はワルツで、今教わっているステップの復習と、新しいステップ3種類を新たに教えてくれた。

「今度のレッスンの時、このステップをやりたいと言ったらいいよ。ステップを覚えておけば、今度はその先から習えるから。」

「本当にありがとう。とても助かる。私、ワルツはとても気に入っているし、実は、前から踊れるようになりたいと思っていたのよ。」

 二人は、倉庫にある少し古ぼけた椅子に腰かけ、スポーツドリンクを飲みながら話している。

「昔、父が母を口説くときに、『僕と将来、ワルツを踊って下さい』って言ったそうなの。実際、父はワルツなんて踊れなくて、結局、習う事もなかった。母もそれをわかっていて、そんな風に誘った父の気持に心動かされて結婚したっていう話を母から聞いたから。父が踊りたいと思っていたワルツって一体どんな踊りなのかなって、とても興味があったわけ。」

「それで、どうだった? 実際に踊ってみて。」

「まだ、踊っている感覚もないくらいの下手くそな段階だから良いも悪いも全然わからないけれど、このワルツの曲は特にいいわね。」

 この日練習の時にかけた曲は、昔の映画音楽の曲で、かなりロマンチックな曲だと満瑠は思った。こんな曲で踊りたがっていた父は、かなりロマンチストだったんだなと改めて思う。

「そうそう、これを見てみるといいよ。これは、今の世界チャンピオンやトッププロが踊っているビデオ。プロ達にとっても憧れの選手達だよ。これ、貸してあげるから、いつか満瑠さんもこんな踊りを目指して頑張ってみてよ。」

 そう言って、安田は、紙袋に入ったDVDディスクを満瑠に手渡した。

「へぇ、世界チャンピオン? 1番うまい人の踊りっていうことね。うん、見てみたいわ。ありがとう。」

 DVDのジャケットを見ると、豪華なドレスと燕尾服をまとった男女が踊っている写真が写っている。教室でも見られない、更に違う世界がそこにあった。

「それじゃ、駅まで送るよ。」

 急に、安田は言った。

「え? そうね、ありがとう。」

 満瑠は、少しびっくりした。安田は、本当にステップを教えるためだけに自分を誘ったのだとわかったからだ。

「僕は、家がこの近くなんだ。だから、今の通勤は徒歩だけ。」

 食事でも誘ってくれるかと思っていただけに、満瑠はかなりがっかりしていた。

(こんなに素っ気ないとは……。)と思いながら、駅で安田と別れた。

 満瑠はこの時、過剰に期待しすぎてしまったためにかえって空振りしてしまい、ぽっかり胸に穴が開いてしまったような気持だ。しかし、素っ気ない態度であっても、毎週「彼と会える」事は、満瑠の最大の楽しみになっていた。


 それから毎週土曜日は、安田からステップを習い、火曜日と木曜日はダンス教室で林田からの個人レッスンを受ける日が続いた。1週間に3日間もダンスを習う形になったので、更に2か月もすると、満瑠は自分でもびっくりするくらい踊れるようになった。まだワルツだけを習う段階だったが、ワルツの良さをだんだん感じる事ができるようになってきたのだ。教室でも、今まで周りの生徒達が格段に上手だと思っていたのに、意外にそうでもないなと思えるようになってきた。

 ワルツは、他の種目と違い、上下運動がある種目だ。低く沈んだり高く伸びあがったりを二人で繰り返しながら踊る。そこに回転が加わることで、優雅さを表現すると教えられた。そして、この前安田から貸してもらったビデオを見たが、チャンピオンの踊るワルツはまさに優雅そのもので、別世界のものだった。女性は、この前ダンス用品専門店で見たようなゴージャスなドレスをもっと豪華にしたようなドレスを着ていた。

 二人で踊っているというのに、まるでひとつの生き物のようだと満瑠は思った。どうしたらこんな一体感がつくれるのだろうと思ってみたが、満瑠には、思いつく筈もなかった。

(もっと、身体をやわらかくしたらいいのかしら? それとも筋肉をもっと鍛える?)

 そんな事くらいしか思いつかなかった。

 相変わらず、安田は満瑠にステップを教えるだけで、満瑠には素っ気ない態度をとっていた。でも、土曜の夜にいつも予定が入らず空いている訳だから、他に付き合っている女性がいる訳でもなさそうだと満瑠は思っていた。安田の気持は満瑠にはよくわからなかったが、ステップを色々覚えてくるにつれ、安田と、ステップを教わるだけでなくちゃんと大きく踊ってみたいと思うようになっていた。床がコンクリートな上に、二人とも運動靴で踊っているので、きちんと大きく踊る事はできない環境だったのだ。


 8月のお盆休みに、満瑠は親友の杏子と久しぶりに会った。お互い、東京出身なので、田舎に帰る必要もないから、帰省で静かになった都会で会う事になったのだ。

 杏子と会うのは、満瑠が見田に振られた時以来だ。メールでのやり取りで、満瑠がダンスを習っている事や、安田との事などは、杏子に伝えているが、会うのは5カ月ぶりにもなる。

 あれから半年も経たないのに、杏子の印象が随分変わったと満瑠は思った。何だか綺麗になったような気がした。

「私、結婚するの。」

 いつもの京都風パブで、最初のビールを飲み干すなり、いきなり杏子は言った。

「え~?」

 満瑠は、これぞ晴天の霹靂だと思った。

「何で急にそうなるの?」

 満瑠は結婚に至るまでに自分に何の話もしてくれなかった杏子に、ちょっと怒りを感じた。満瑠は、いつだって杏子に自分の身の回りの変化を教えている。それなのに、杏子は急にこんな話を満瑠にする。それが少し許せないと思った。

「ごめんね、相手は、昔、満瑠が付き合っていた見田さんの友達。」

「見田」という言葉が杏子の口から出てきたために、一瞬満瑠は驚いたが、杏子の結婚相手が見田でなかったと分かって、とりあえずはほっとした。

 それにしても、どうして今まで何も話してくれなかったのかと満瑠は杏子を責める口調になっていた。

「彼は逸見さんと言って、満瑠が見田さんと別れた直後に知り合ったの。そして見田さんと友人だとわかったのは、その更に後の事。彼と見田さんは、高校時代からの友人らしいの。私も、本当にびっくりしたわ。まるで、私達みたいな関係だってことでしょ。私、その事が分かった時、かえって満瑠に彼の事を話せなくなってしまった。だって、満瑠は見田さんに振られたばかりだったし、見田さんは、満瑠とのことを逸見さんにも話していたらしいから。」

「私との事をどんな風に?」

 見田が満瑠とのことをどんな風に話していたのか、満瑠はとても興味があった。

「その事だけど、見田さんはとても落ち込んでいたらしいわ。」

 満瑠にとっては意外な言葉だった。満瑠を振った事で罪悪感でも感じていたと言うのだろうか。

「見田さん、満瑠の事、とても愛していたって。だから、別れてしまった事がとても辛かったみたい。彼が見た事もないくらい見田さんは落ち込んでいたらしいわ。」

 別れたいと言ったのは祐司さんの方なのに、別れたのが辛いなんて勝手な事を言っているとしか満瑠には思えなかった。

「あれから見田さんとは全然連絡をとっていないの?」

 杏子は心配そうに満瑠を見た。

「意味がわからない説明で別れたいと言った人に、言う言葉なんてないし……。もう、いいわ。私、祐司さんの事は忘れたいし。もう、すっかり元気になったから、過去は振り返らない事にする。」

 これ以上満瑠は、見田の話は聞きたくなくなった。

「それより、杏子の結婚の話を教えてよ。女性は、結婚が決まると綺麗になるっていうけれど、本当の事なのね。くやしいけど、今の杏子はとっても綺麗だわ。」

 杏子の結婚は来年の春を予定している。彼は商社に勤めているから、もしかしたら近い将来海外に住む事になるかもしれない事、その時彼女は仕事を辞めてしまうつもりだという事などをとてもうれしそうに話してくれた。折角バリバリと活躍している仕事を辞めてしまうなんて、勿体ないと満瑠は思ったが、そうしてもいいと思える相手に巡り合えた杏子が、とてもうらやましかった。

 今まで、恋愛の話は1方的に満瑠が話して聞かせていたと言うのに、今日はまるで逆転している。この日は杏子の彼との馴れ初め話や、彼がどんなにいい人かという話で大いに盛り上がったので、満瑠は安田との話は何も出さなかった。まだ、安田とは何もなかったし、安田が満瑠の事をどう思っているかもわからない状態だったから、杏子にはどう話していいのかわからなかったのだ。


 2か月が経ち、10月になった。

 ダンス教室に満瑠は、相変わらず週に2回のペースで通っていた。教室では、12月25日にクリスマスパーティが開かれる。クリスマスパーティでは、ダンスタイムやゲーム、先生達のデモンストレーションがあるそうで、とても楽しそうだ。

「クリスマスパーティで踊れるようにラテン種目もやろう。」

 レッスンで、林田先生はそう言った。

 この2カ月で、満瑠は、ワルツの種目に加えてタンゴも習い始めていた。タンゴは、ワルツとはまた全然違う踊りだったので、なかなかうまくステップを進める事ができないでいた。それなのに、更にラテン種目にもすすもうとする林田に、満瑠はちょっと不満に思う。しかし、林田はそんな満瑠にこう言った。

「パーティでは、ラテン種目とモダン種目の音楽が交互にかかるから、片方しかできないと、楽しみが半減しちゃうんだよ。」

 そんなこともあるのかと満瑠は驚いたが、それでも、まだワルツやタンゴをまともに踊る事ができない今、更に全然違う踊りを習う気がしなかった。

「もう少し、ワルツとタンゴがうまく踊れるようになってからにしたいです。」

「秋山さんは、随分上手になったよ。大丈夫、もう、ワルツもタンゴもパーティで踊れるから。」

 そう言われても、満瑠は嫌だった。林田先生がいくら上手になったと言ってくれても、なぜか満瑠にはそう思えなかった。それは、見た目がどうのというのではなかった。もしかしたら、見た目には、年齢が若い満瑠は綺麗に見えているのかもしれないとも思う。でも、そういう観点ではなく、何かがうまくいっていないと満瑠は思うのだった。

 そう頑固に言う満瑠に、先生もそれ以上は言わなかった。今まで通り、ワルツとタンゴを引き続き教わる事になった。


 12月になった土曜日。満瑠は、いつものように夕方、板橋区の倉庫へ行った。相変わらず安田は、淡々と満瑠にダンスを教えてくれる。ステップだけ教えてくれると言っても、そんなにステップの数がある訳でもないので、最近では、ステップ以外のアドバイスもたくさん教えてくれるようになっていた。ただ場所が場所なので、きちんと大きく踊る事はなく、あくまでも軽くステップを踏むだけになっていた。

 練習が終わると、いつも少し雑談をする。安田は、毎日新しい仕事を覚えて、生き生きと仕事をしているようであった。もう、ダンス教師だった時の事は話さなくなり、ダンスに未練は無いように満瑠には見えた。そして、今の仕事でもっとやりたい事があるという話も、よく安田の口から出るようになっていた。そんな話を聞くと、満瑠は少し寂しい気がした。自分はダンスの面白さを感じてきたというのに、もう安田にとっては興味の薄い事になってしまっている。つまり、それが満瑠への興味も薄らいでいっている事につながるような気がしたからだ。

 満瑠は、今までずっと安田に言いたかった事を勇気をだして切り出してみた。

「今度、一緒にちゃんと踊ってもらえませんか? 私、段々踊れるようになってきたので、林田先生以外の人とも踊ってみたくなったんです。それに、今度クリスマスパーティがあるから、誰とでも踊れるようになりたいし。」

 本心を言えば、クリスマスパーティなんかどうでもよかった。安田と一緒にちゃんと踊ってみたかったのだ。安田からもう半年もこうやってダンスを教わっているが、その後に満瑠を食事さえも誘ってくれた事はなかった。満瑠に好意を持っているようにも思える態度なのに、毎週1時間ほどダンスに付き合うだけに徹している。

 一度、満瑠の方から食事を誘ってみた事があったが、「この後、用事があるから」と断られてしまった。それ以来、もう満瑠から誘うのはやめていた。

 安田と恋愛に発展するのは、もう随分前からあきらめかけていたが、せめてダンスだけでも安田ときちんと踊ってみたかった。いつも、どうしてこんな倉庫だけで教えるのかも良くわからない。そして、今までそれを聞くのも遠慮してしまうような雰囲気が、安田の中に感じられたから、満瑠は理由を尋ねる事もなかった。

「そうだね、クリスマスパーティの前に一度、二人で、ダンスホールへ行ってみる?」

 思いもかけない安田の言葉に、満瑠は耳を疑った。今までは、あんなに素っ気なかったのに、(急にどうしたんだろう?)と満瑠は思った。

「ダンスホールなんて行った事がないけれど、どんなところ?」

 満瑠は、なんだか久しぶりにわくわくしてきた。

「クラブみたいなところといったらいいのかな。社交ダンスの曲が生バンドで演奏されるんだ。そして、広いフロアーで社交ダンスの曲、ワルツやタンゴを踊るところだよ。」

 満瑠は、映画などで見たヨーロッパの宮殿のダンスホールが、一瞬目に浮かんだが、まさかそんなところではないだろうから、あまり期待しないでおこうと思った。どんなところでも、安田といっしょに行かれるのなら、うれしかった。

 次の土曜日にダンスホールに行く約束をして、いつもの時間に満瑠は安田と別れた。

 満瑠は次の土曜日まで、待ち遠しくて仕方なかった。安田は今まで本当によくダンスを教えてくれたが、それ以上の事を満瑠に誘ってはくれなかった。とても優しかったがその態度は紳士的で、二人だけの倉庫の中であっても、満瑠の身体を求めてくる事も無かった。

 すでに安田との恋愛はあきらめていたのに、今回思いがけず二人で出かける事になったので、また淡い期待が芽生え始めてしまった。満瑠はこの半年の間に、安田の事を好きになってしまったのだと自分で確信していた。


 その日はやってきた。

 満瑠と安田は、午後7時に新宿駅で待ち合わせ、一緒にダンスホールへ入った。ロッカーで着替えてホールに行くと、既にとてもたくさんの人が踊っていた。

 満瑠が最初に想像していた宮殿のホールとは、やはり天と地ほどの違いがあったが、これから安田と踊れることで胸が躍った。

 しかし、いざ踊ろうと眺めてみると、空いているスペースはほとんど無いように満瑠には見えた。満瑠がいつも教室で踊っている時には、空いたスペースがたくさんありゆっくり踊れる。しかし、ここはとても混雑していて、この中に入ったら、隣同士でぶつかり合ってしまうのではないかと満瑠は思った。

「すごい人ね。こんなにたくさん人がいるのに、踊れるの?」

「このぐらいは、普通だよ。大丈夫、僕についてきてくれれば。」

 満瑠は、ジルバとブルース、そしてワルツとタンゴしか踊れないので、その曲がかかったときだけフロアーに入って踊る事になる。

 最初は、ブルースの曲がかかった。

 安田は満瑠の手をひいてフロアーに入り、すかさず空いている場所を確保する。すぐに二人は組んで踊りだした。ブルースは簡単なステップだが、満瑠がブルースを習ったのは最初だけなので、もう忘れかけていたし、突然この騒がしいフロアーで踊ると言われても、すぐには溶け込めなかった。満瑠は頭が真っ白になり、安田の足を踏むわ、転びそうになるわで、何だかわからないまま曲が終わってしまった。

「ごめんなさい、だめだわ、何が何だかわからなくなっちゃって。」

「ははは、最初は仕方ないよ。だんだん慣れてくるから大丈夫。」

 安田は、あまり気にしていない様子だった。

 次の曲はラテンの種目がかかったので、二人はフロアーから出た。

 フロアーの外から踊っている人たちを見ると、皆、とても慣れているようだった。楽しそうに、クルクル回っている。ラテン種目なので手をピンと伸ばしたりポーズをつけたりして、とても格好良く踊っていた。

 満瑠が気後れしていると察したのか、安田は、

「さあ、これからどんどん踊るよ。あまり力を入れないで、僕について来てくれればいいから。」といって、満瑠に笑顔をみせてくれた。

「僕について来て」という言葉が心に残る。

 満瑠は、そんな安田の言葉がうれしくて、なんとか期待に答えられるよう頑張ろうと思った。

 次の曲は、ワルツだったので、すぐに二人はフロアーに出る。ワルツはいつも踊っている曲だから、満瑠はがんばろうと思った。

 でもワルツには、ブルースと違ってステップが色々とある。ダンスは、男性が何のステップを踏むのかを決めて踊りだし、女性がそのリードに合わせてついていくようになっているが、満瑠には、安田が何のステップをやろうとしているのか、わからないことが多かった。

 教室では、林田先生が最初に何のステップを踊るのかを話してから、そのステップを踏んだり、ステップの名前を声に出して教えながら踊ったりする事が多く、リードを読まなくても踊れる事が多い。

 しかも、この混雑した中では人を避けながら踊らなくてはならないので、ステップの途中でぶつかりそうになり違うステップに変えたりするなど、臨機応変に対応しなければならない。

 勿論、安田はきちんとリードをしていたのだと思うが、満瑠にはそういう踊りにはまだ慣れていなかった。さっきのように、安田の足を踏んだり、よろけたり、ぶつかったりしながら1曲が終わってしまった。とてもじゃないが、優雅なワルツとは言えない踊りだった。

 満瑠は、悲しくなってきた。今日は、安田と楽しく踊るはずだった。優雅にワルツを踊っている姿を想像していたのに、こんなことになっている。満瑠は、林田先生が、もう満瑠のワルツは大丈夫だからと言っても、何だかそう思わなかったのは、この事だったのかもしれないと気づく。なんとなく、一緒に踊っている相手と、一緒に踊っていないような気がしていた。こういう気持ちを「一体感がない」というのか……。満瑠は、安田から借りたビデオのチャンピオンの踊りを見て感じた一体感が、自分には全然ないことに、違和感を覚えたのだと思った。

 安田も、最初は、大丈夫だよと笑っていたけれど、何曲か踊っていくうちに、少し険しい顔つきになってきた。

 5曲ほど踊ったので、休憩することにした。

 フロアーの周りに、バーのカウンターがあり、二人は飲み物を注文する。満瑠は、さっきから思っている事を安田に話し、自分は、少し踊れるようになったと思っていたのに、全然踊る事が出来なくてショックだったと告げた。

「最初は皆、踊れないものだよ。ずっと先生とだけ踊っていると、違う男性とは踊れないと言う話はよくある。それに、チャンピオンの踊りみたいに一体感を感じたいなんて、それは、まだまだ先の話だよ。……でも、満瑠さんは、普通の人よりは相手を感じようとする事が足りないのかもしれないね。相手を見ていないって言うのか……。」

 満瑠は、最後に安田が言った「相手を見ていない」という言葉を聞いて、ギクッとなった。同じ言葉を言った人を思い出したからだ。

 見田と別れた時の場面が満瑠の脳裏に蘇ってきた。

「いいかい満瑠さん、相手のリードを感じるには、相手をじっと感じようとする気持ちが必要なんだ。相手の声や行動を見て頭で考えるのではなく、相手の動きを身体で聞こうとするんだ。ダンスはね、たとえ女性がステップを知らなくても、男性のリードだけでも踊れちゃうものなんだ。そのくらい女性が男性のリードを感じる事は大事なんだよ。」

 満瑠は、その話を聞いて、目からうろこが落ちたと思った。ダンスは、ステップを覚える事が1番大事だと思っていた。だから、教わったステップを家でも練習したし、教室では、ステップの事だけを考えて踊っていた。でも今、安田はステップを知らなくても踊れると言っている。

 そして、もっと大事な事も言っていた。

(相手を感じる事。)

 満瑠は、心の中で繰り返した。「満瑠には足りない。」と安田は言っていた。

「ダンスは、二人で踊るけれど、ワンピースになって踊らないと駄目なんだ。二人で別々のステップをそれぞれしてもつまらないんだよ。踊っている方も見ている方もね。」

「あのチャンピオンの踊りは、1つの生き物のようだった。」

 満瑠は、安田の言葉で、前に借りたDVDのチャンピオンの踊りを思い出していた。

「誠治さんはすごいわ。私と何回か踊っただけなのに、どうして私のそんなところがわかるの? 自分では全然気がつかなかった。」

「人の事だから、わかるのかもしれない。自分の事はわからないものだよ。僕だって、色々な事が分からなくて、苦しめてしまっていた。」

 安田はそう言って、少し遠い目をした。

 満瑠は、安田が苦しめてしまった人というのは、別れたパートナーの事かもしれないと思った。でも、安田が言いだすまでは、言わないでおこうと思う。

 少し休んだので、もう少し踊ろうと言う事になった。安田は、今度はステップの直前にステップの名前をつぶやいたり、リードを大袈裟にしたりして、満瑠に分かりやすいように心がけてくれた。

 何曲か踊り出したら、前より少し慣れてきたせいもあって、少し踊りが楽になってきた。力も抜けて来たようで、リードも少しわかるようになっている。

 安田が言ったように、満瑠は、自分が踊る事ばかり考えてしまっていたのだと分かってきたのだ。

(ここに相手がいるのだから、ちゃんと心で見なくてはいけない。)

 満瑠は自分に言い聞かせた。

 またワルツが流れた。その曲は、倉庫で練習している時に聴くあの映画音楽の曲だった。

 満瑠は、全身の感覚を安田に集中させた。ステップは考えないようにしようと思った。安田のリードが身体に伝わってくるのを感じる。そのリードに逆らわないよう満瑠は全身の神経を集中させた。ワルツのメロディーが美しく聞こえてきたが、それもあえて聞こうとしなかった。聞こうとしなかったが、しっかりと耳には残っていた。相手を見ると言う事は、こういうことなのだと思えた瞬間だった。満瑠は、自分なりの精いっぱいの一体感を味わう事ができたと思った。この1曲は忘れられない1曲になるとさえ思った。

 この曲で満瑠は満足した。この踊りをラストダンスにしたかったので、満瑠の方から「もう帰ろう。」と言った。

 ホールを出た後、安田は満瑠を居酒屋へ誘ってくれた。

 最初のビールを一気に飲み干して、満瑠はとってもいい気持ちになった。安田と一緒に食事をするのは、初めて会ったフレンチでの「修行」の時以来だ。

「今日は、ありがとう。とっても楽しかった。最初はどうなるかと思ったけれど、色々なアドバイスをしてくれたからとても勉強になったわ。そして最後にいい踊りができた。」

 満瑠は、少し意味深な事も言ってみたかったが、ただの社交辞令みたいな口調になってしまう自分にジレンマみたいなものを感じる。

「僕も楽しかったよ。満瑠さんがダンスを始めてまだ1年にもならないのに、ここまで上達したのはすごいと思うよ。僕も教えた甲斐があったよ。」

 そんな安田のやっぱり社交辞令的な言葉に満瑠はすこしがっかりした。

「来週からは、いつも通りのレッスンになるのね。」

 今日みたいな事は、もう当分無いのかと思うと満瑠は急に寂しい気持ちになった。

 ところが、安田からは意外な言葉が待っていた。

「その事だけど、僕のレッスンは、今日で終わりにして欲しい。」

 満瑠は、奈落の底に突き落とされた気持ちになった。自分でも気付かずに、飲もうと思って持ち上げたビールジョッキを持ったまま身体が固まってしまっていた。

 安田は、驚いている満瑠を意識しながらも、更に話を続けた。

「僕は、満瑠さんも知っている通り、もうダンスとは縁を切りたいと思っている。今までは、乗りかかった舟だと思って続けていたけれど、満瑠さんと僕は、最初からダンスで知り合った訳ではないし、ダンスを教える事で満瑠さんと付き合うと言うのは止めにしたいんだ。そうではなくて、もしダンスが出来ない僕とでもよかったら、恋人として付き合ってほしい。」

「付き合ってほしい。」という言葉が、満瑠の頭の中でぐるぐる回った。奈落の底に落ちたと思った気持ちが、今度は舞い上がっていく……。なんだか、上がったり下がったりの連続で、満瑠は訳がわからなくなりそうだった。

「満瑠さんと初めて出会った時、僕は、一緒にダンスをやってきたパートナーと別れてしまった。あの後、彼女とじっくり話しをした。僕は、気がつかないうちに、彼女をずっと傷つけていた事に初めて気がついた。彼女から言われるまで全然気がつかなかった事に、僕はとてもショックを受けた。自分の不甲斐なさに、まるっきり自信を無くしてしまったんだ。だから、満瑠さんの事を好きになったけれど、打ち明ける勇気が出なかった。ダンスを教える事くらいしか、僕には自信を持つ事ができなかった。だから、兎に角、自分を奮いたたせるために、仕事で1人前になろうと考えた。そうすることで、自分を成長させたかった。満瑠さんがさんざ言っていた『修行』というヤツさ。僕にとっては、仕事で1人前になることが『修行』になると思った。だから、自分に自信がつくまで、半端な気持ちのまま満瑠さんと接するのはやめようと思った。そういう訳で満瑠さんに教える場所は、あえて倉庫にしたし、レッスンだけに徹する事にした。」

 安田は、そこまで一気にしゃべって、一度、ビールを1口飲み込んだ。

「その『修行』では、そろそろ僕にも自信がついてきて、もう、満瑠さんに打ち明けてもいいような気がしてきた。だから今日、満瑠さんを誘って告白することにしました。」

 安田は、急に敬語になり、満瑠の目をまっすぐ見ていた。

 満瑠も安田の目を見る。とても澄んだきれいな目だと思った。満瑠にとっては、もうとっくに諦めていた恋の筈だった。

「勿論、喜んで、お付き合いさせてください。」


 満瑠は、家に帰り、ベッドに横になりながら、今日1日で起ったことを振り返ってみた。たくさんありすぎると思った。でも、色々な事はもうすっ飛ばして、安田と付き合う事になった事だけ考えようと思った。

 帰り道、人気が少なくなった橋の上に来た時、安田は満瑠を強く抱きしめた。その安田の胸は、いつもダンスを教えてくれる時の安田とは違うと満瑠は思った。とても温かいと思った。その時の事をもう一度思い出すと、満瑠は胸がじんとしてきた。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。そしてこの気持ちは大事にしようとも思った。

 安田の前のパートナーは、実はダンス教室の受付をしている清水先生だと安田から告白された。清水先生は、レッスンの度に満瑠と会っている。そして、随分親しくもなった。とても明るい人だから、安田が具体的にどのように清水先生の事を傷つけたのかが少し気になったが、安田も言わなかったので、あまりこの事には触れない事にした。そんなことより、未来を考えようと満瑠は思ったのだった。

 安田とのダンスレッスンは終わりになったが、今の林田先生とのレッスンは、当分、続けるつもりでいた。今まであまり運動をした事がなかった満瑠だが、ダンスをするようになって体力もついてきたし、姿勢も良くなった。昔ダンス教師だった安田は、勿論満瑠がダンスを続ける事に反対はしていない。

 満瑠は早速、安田と付き合う事になった事を、杏子にメールで知らせた。

 きっと杏子は喜んでくれるはずだ、と満瑠は思った。


 次の日、いつもの京都風パブで満瑠と杏子は会っていた。

 満瑠がメールを送った直後に、杏子から返信メールがあったのだ。

『明日会いたい。』と書いてあった。

(早速、私のオノロケでも聞きたいと思ったのかな。)

 そんな風に満瑠は思っていた。

 杏子は席に着くなり、すぐにビールをせわしなく注文し、早く満瑠と話をしたいような雰囲気だった。でも、どことなく表情は硬い。

「杏子、早速私の話を聞いてくれる気になった?」

 満瑠の言葉もさらっと聞き流して、杏子はビールジョッキを持ち上げて、乾杯のあいさつをしていた。

「実は、今日は、満瑠に見せたいものがあるの。」

 杏子の表情は、強張っているようにも見えた。

「どうしたの? 何だか怖いな。」

「満瑠、驚かないで聞いて。……1日前にね、見田さん亡くなっていたの。」

「えっ?」

 驚かないで聞ける訳がないと満瑠は思った。

「どうして?」

「事故らしい。交通事故だって。信号無視してきたトラックにはねられたそうよ。葬儀は、身内だけで行って会社の人の会葬も辞退したらしいわ。彼もね、葬儀の後で亡くなった事を家族から知らされたそうよ。」

 杏子の彼は、見田の高校時代の友人だったと満瑠は思い出した。

「見田さんの手帳に日記が書かれていて、見田さんのお母さんから、私たちの事が書かれているからと、彼に見せたらしいの。」

 満瑠は、見田が手帳に日記を書いていた事は知らなかった。確かに見田は、几帳面な性格だと思っていたが……。

 満瑠は、見田の事を何も知らなかったのだとつくづく思い知らされる。

「手帳には、時々、数行ほど日記が書かれているの。私たちの事も書かれているけれど、ほとんどが満瑠の事だったみたい。私は、見たら悪いと思って見ていないけれど、彼が1通り読んで満瑠の事だと判断したから、これは、満瑠に見せなきゃと思ってお母さんから貸してもらい、私に託したわけ。」

 昨日から、様々な事件が自分を襲ってきていると満瑠は思った。もう、忘れようと思った人だが、やはり1年も付き合った人だから、死んだという事を聞けばショックを受けるのは当然の事だった。

 満瑠は、杏子から黒くて少し大きめな手帳を渡された。パラパラとめくってみると、綺麗な字で、カレンダーになっているマスの中に文字が書かれている。これを読み始めるには勇気が必要だと満瑠は思った。

 杏子に少し時間が欲しいと言い、京都風おでんを何品か注文した。

 胸がいっぱいで、お腹もすいていない気がしたが、今すぐにこれを読み始める勇気は湧いてこなかった。

 杏子は、気の毒そうな顔で満瑠を見ていた。

「見田さんは満瑠の事をずっと愛していた。」と杏子が言っていたのを満瑠は思いだしていた。自分を愛していた人がどんな日記を書いたのか、早く見たいという気持ちと、見たくないという気持ちが揺れ合っていた。

 結局、おでんには手をつけずに、満瑠は手帳を開いて読み始めた。

 手帳は、今年のものだから、日記は満瑠と別れる3カ月前から始まっていた。


 1月1日 晴れ

 満瑠と初詣に出かけた。願い事は勿論満瑠と幸せになること。それだけ。


 1月3日 曇り

 満瑠は、今日も僕の胸のほくろのことを言った。初めて見つけたと言っているが、去年もそう言っていた。覚えていないのか。僕は満瑠の身体の事は隅々までよく覚えているのに。


 1月4日 晴れ

 満瑠は、僕と違って大雑把だが、その事が嫌いではない。でも、つい批判してしまう。ごめん。


 1月21日 曇り

 満瑠は最近、僕の話を聞いていない時がある。返事はしているのに覚えていない。僕は、満瑠の話は皆、覚えているのに。僕は、満瑠に対してこの日記の中だけで不満を言ってばかりいる。不満は、直接話した方がいいと思うのに、なぜか言いだせない。


 1月25日 曇りのち晴れ

 今日は仕事で失敗した。僕が落ち込んでいても全然満瑠は気がつかない。あんなにはしゃいで、君は随分楽しそうだね。こんな風に愚痴るくらいなら自分から満瑠に話せばいいのに、それができない自分がじれったい。


 2月14日 雨

 今日は、バレンタインデーだと言うのに、満瑠に平気で約束を破られた。どんな大事な約束なのだろう。満瑠が平気で破った訳でないことを願う。


 2月25日 曇り

 最近、僕の仕事が忙しくて会えない。でも満瑠は、平気な様子だ。満瑠に対する僕の愛情と満瑠が僕に対する愛情を比べてしまう。満瑠の心はどこにあるのだろう。僕がいなくても君は今のまま元気でいられるのかもしれないな。僕は、君がいなかったらつらいのに。


 2月28日 晴れ

 満瑠が、僕がいなくても平気なのかどうか試してみたくなった。こんなことは、いけない事だろうか?


 3月1日 晴れ

 やっぱり満瑠の本当の気持を知りたくなった。こんな事を実行して後悔しないだろうか?でも、満瑠の気持が知りたい。


 3月2日 曇り

 とうとう、実行してしまった。満瑠はきっと僕とは別れたくないと言ってくれると信じていた。だから、思い出に残るようにとあのレストランに決めた。でも、満瑠は、行ってしまった。満瑠の愛情はやっぱりそんなものだったのか? 満瑠は、僕と別れたくないとは言ってくれなかった。悲しい。


 3月3日 晴れ

 仕事が手につかなかった。なぜあんな事を言ってしまったのだろう。僕も傷ついたが、大切な満瑠も傷つけてしまった。満瑠、なぜもっと否定してくれなかった? 取り乱してくれなかった?

 いや、こんな事をした僕がいけないんだ。ごめんよ満瑠。僕は自分勝手だったね。

 君の事を愛しているだけでなぜ満足できなかったんだろう? なぜ僕への愛を疑ってしまったのだろう。僕は最低な男だ。君を愛する資格なんかない。


 満瑠は、ここまで読んで、涙が出た。どんどん出てきて止まらなくなっていた。

(別れようと言ったのは、本心じゃなかったの?。)

 あの時、見田は自分を試していたのだと満瑠は、初めて気がついた。満瑠にもっと自分の気持ちをぶつけてほしかったのだと気がついた。

(なぜ私を信じてくれなかったの?)

 満瑠はそう思いながらも、この日記を見て見田の気持が見えてきた。

(祐司さんをしっかり見ていなかった、私のせいだ。)

 今の自分のダンスと同じ事をしていたのだと思った。

(こんなに私を愛してくれていた事になぜ気付かなかったのだろう? こんなに苦しんでいた事になぜ気付かなかったのだろう?) 

「ごめんなさい、祐司さん。」

 手帳を抱きしめて謝る満瑠に、杏子は、何と言っていいかわからなかった。

「祐司さんは、事故だったのよね。自殺なんかじゃないのよね。」

 満瑠の言葉に杏子は驚いた。

「そうよ、事故よ。何を言っているの?」

 杏子は、満瑠の隣に座り、満瑠の肩をぎゅっと抱いた。

 満瑠は、杏子にもこの手帳を読んでもらいたかった。自分がどんなに見田に謝りたいと思っているか、杏子にも知ってもらいたかったので、手帳を渡した。

 杏子が日記をみている間、満瑠は黙々とおでんを口に運んでいた。

 満瑠と別れた後の日記には、逸見と杏子を祝福する言葉や仕事で辛い事などが書かれていたが、満瑠の事はその後、たった1行しか書かれていなかった。


 11月12日 晴れ

 山中湖へ行った。満瑠、ごめん。幸せになってくれ。


 見田の死が、本当に自殺でなかった事を満瑠は信じたかった。

 満瑠は、安田としばらく会いたくなかった。このままの気持ちのまま会うのは嫌だった。

 見田の日記の最後は、11月12日だった。この日、見田は山中湖に行ったと書いている。

 満瑠は、自分もそこへ行ってみたくなった。見田が最後に見た冬景色を見てみたくなったのだ。もう、見田とは行く事ができない冬景色を……。

 満瑠は山中湖には、杏子といっしょに行く事になった。杏子は、手帳を読んで見田の気持を知ったら満瑠の事が心配になったらしい。

 まさか、見田の後を追うとは思っていないだろうが、「1人では心配だから。」と杏子は言ってくれた。最初は1人で行こうと思っていた満瑠だが、杏子が一緒に行ってくれるのは、正直、心強かった。


 12月17日、杏子は自分の車を出してくれた。見田の日記では、山中湖のどの辺りを走ったのかなどは分からない。多分、富士山を撮影しようとしていたのだと思い、富士山がよく見える辺りまで杏子は車を走らせてくれる事になった。満瑠は、見田が富士山の雪景色を今度撮りたいと言っていたのを思い出したのだ。

 この日は、日記の日と同じで晴天だった。麓まで白く雪で覆われた富士山がくっきりと見えていた。見田が最後に見た富士山は、どんなだっただろうかと満瑠は思った。

 満瑠は最近、写真を撮っていない。見田と撮影に出かける事がなくなったし、ダンスに興味が移ってしまっていたからだ。

 満瑠は、久しぶりに一眼レフのカメラを持参した。車を止めると三脚を立てて、ファインダーを覗いた。

(こんな時、祐司さんはあれこれ、うるさいくらいにアドバイスしてくれたな。)

 彼は、本当にやさしかったと満瑠は、しみじみと見田の事を思い出していた。

「こんなきれいな富士山、祐司さんに見せてあげたかった。」

 満瑠は、杏子にも聞こえる声でつぶやいた。

 杏子は、黙って富士山の方を向きながら頷いた。

「杏子、私が祐司さんと別れた事を話した時、杏子は分かっていたんじゃない? 彼が私を試していたかもしれないって。」

「どうして?」

「杏子は、いつも私の気持ちを心で感じてくれている。そう思うから。もしかしたら祐司さんの気持も分かっていたかもしれないと思った。相談した時、杏子は『どうして取り乱さなかったのか』って私に聞いたよね。」

「実は、そうかもしれないと少しだけ思っていた。もし私があの時、満瑠にそう言っていたら、満瑠は祐司さんと別れなかったかもしれないね。」

「ううん。」

 満瑠は、否定した。違うと思った。

「そういう運命だったんだと思う。祐司さんが日記で言っていた通り、私は彼の事をうわべだけでしか見ていなかったって今やっとわかった。結婚するっていう事がどんな事なのか何もわかっていなかった。祐司さんは私には勿体ない人。」

 満瑠は、澄んだ空気の中で自分の心も洗われた気がしてきた。

「満瑠、なんだか成長したね。」

「成長って、大人になったっていう事?」

「そう、振られるっていう経験もしたしね。」

「杏子は、やっぱり大人だね。そうやっていつも人の事、冷静に見ている。そして気遣ってくれる。きっといい奥さんになれるよ。」

 満瑠は、富士山をバックにカメラを向けて、

「記念に二人で撮ろう。」と杏子を誘った。

 セルフタイマーで二人は笑顔で写真を撮り、たった2枚撮影しただけで、満瑠はカメラを片付けた。

「私は、これからだわ。ダンスを習って誠治さんと出会って、少しは変わった気もするけれど、もっと成長しなきゃ。」

 満瑠は少し大きな声で自分に言い聞かせるように言った。

「そうそう、もう安田さんとは、間違えちゃだめよ。ちゃんと心で感じて、二人で愛を育ててね。」

「わかっている。彼の事は大事にしたい。今度は誠治さんと色々な思い出を作るわ。」


 3月になった。

 満瑠は、懐かしいあの木製のドアを押して中に入った。ここは、1年前に見田に振られたショックから立ち直ろうとして「修行」のために入った、恵比寿にあるフレンチレストランだ。

「丁度1年になるのね。」

 満瑠は、隣にいる安田につぶやくように言った。1年前と違うのは、二人が「修行」のために入るのではないという事だ。今日はきちんと二人で予約している。

 入口で迎えてくれた店員は、見覚えのある顔だった。そう、あの時の清楚な店員だ。満瑠はこの店員に「私、振られちゃったんです。だから、今日から変わりたいと思って。」と言った事を思い出し、ぷっと吹き出しそうになった。

(この人、覚えているかな? あの時の私を。)

 この清楚な店員は何食わぬ顔で二人を迎え、窓際の席に案内した。満面の笑顔もあの時と一緒だった。

 案内された席を見て、思わず二人で顔を見合わせてしまった。1年前と席まで一緒だった。

「これは、あの店員の粋な計らいかもしれないな。」

 安田は満瑠に目配せをしながら言った。

 満瑠は富士山を杏子と見に行った後、新たな気持ちで安田と付き合う事を決めた。それからこの3カ月は、頻繁に安田と会っていた。安田が満瑠の事をとても大事に思ってくれるのを満瑠は強く感じていた。満瑠はそんな彼をいとおしく思い、この愛を育てて行こうと思っていた。

 今日は、二人が出会ってから1年経った事を記念して、もう一度このレストランへ来て、今度は最初からコース料理を「二人で」楽しもうと言う事になったのだ。

 二人は席に付くと、迷わずあの時のコース料理を注文した。

「何だかわくわくするね。」

 満瑠はもうすでに興奮していた。

 食前酒に、満瑠は迷わずあの時に頼んだスパークリングワインを注文した。

「1年前を再現するつもり?」

 安田は笑いながら言った。

「そうじゃないの?」

「それもいいけど、今日、新しい思い出を作るのもいいんじゃない?」

 満瑠は安田と一緒なら、どんな事でもいい思い出になると思った。

 前菜から始まり、料理が静かに運ばれてくる。1年前と違う食材を使った新たな芸術作品に出会えたと満瑠は思った。

 メインディッシュを食べ終えた後、店員が少し大きなお皿を抱えてやってきた。

「デザートね。」

 満瑠は、小さなケーキやお菓子がお皿からのぞくのを、わくわくして待った。

 しかし店員がテーブルに置いたものは、ハートの形をした少し大きなケーキだった。ろうそくが乗っていて、『祝◇修行1周年』と書いてあるではないか。

 満瑠は思わず安田を見た。

「誠治さんの仕業ね。」

 安田はおかしさをこらえるように言った。

「実は、1周年記念だからケーキを用意してくれるよう頼んでおいたんだ。サプライズさ。でも、『修行』なんて言っていないよ。全く、どこまで気が利いているんだか。」

 店員は、素知らぬ顔で給仕を続けている。

「ここ、最高だわ。新しい思い出ができちゃった。」

 満瑠は、安田と二人でろうそくを吹き消し、記念写真も撮ってもらった。

「もう絶対に1人でコース料理を食べたりはしたくないよ。」

 安田はしみじみと言った。

「私も。絶対に。」


 レストランを出て、二人でゆっくり恵比寿の静かな町を散歩した。

「私、もうダンスを止める事にしたの。」

 安田は、満瑠の言葉に少しびっくりした。

「何で? 身体の調子も良くなったって言っていたし、続けたらいいじゃない。」

「いいのよ。あれからワルツをがんばって練習したの。踊りたいと思うくらいまで踊れるようになったからもう満足。踊りたかったら誠治さんと踊ればいい。もう、ダンスの『修行』も終わりにするわ。ダンスのお陰で私は失恋の痛手から立ち直れたし、新しい出会いもあった。だからもう必要無くなったの。」

 満瑠がそう言った時、ふわっ、と強い香りを感じた。

(あっ、沈丁花。)

 懐かしい香りだと満瑠は思った。

(祐司さんと出会った日もこの花が咲いていた。)

 見田の事を思い出してしまった。見田と別れてからも丁度1年経っていたのだ。

「これ沈丁花よ。いい香り。」

「ほんとだ、いい香り。」

 安田も気づいて大きく息を吸った。

「この香りは、誠治さんとの思い出にするわ。」

 声に出して安田を見たが、彼はきょとんとした顔で満瑠を見ていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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