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沈丁花  作者: 季美
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修行編

 秋山満瑠(あきやまみちる)は午後7時、東京都内にあるシティホテルのエントランスのドアを開けてロビーに向かった。ドアを開けたら微かに沈丁花の香りがした。季節は3月に入り、そろそろ沈丁花の咲く季節になっていた。

「そうか、もうそんな季節か……彼と出会った日も、確かこの花が咲いていたっけ。」

 ちょっと懐かしく思い、肩をすぼめてみた。今日も彼と会う約束をしているが、

(そろそろ結婚の話なんかが出るかもしれない。)

 そんな考えが頭をよぎったからだった。

 満瑠は28歳、食品メーカーの商品企画部に所属している。大学卒業後、総合職として入社。入社7年目となってそろそろ中堅社員の仲間入りをしていると自覚している。仕事にも自信を持てるようになってきたし、社会人としても、私生活でも充実していると実感していた。

 今つきあっている彼、見田祐司(みたゆうじ)は、33歳。5歳年上の見田は、とてもしっかりしていて、几帳面なタイプの青年だ。友人の結婚式の二次会がこのホテルで行われ、その二次会で彼と出会い、二人とも写真が趣味だったことで意気投合し、すぐに交際が始まった。満瑠は、写真が趣味といっても、主に、町に出て行きかう人を撮ったり、祭りやショーの写真を撮ったりするのが好きだった。反面、見田は自然の中に入って行き、山や花などを主に撮っていた。満瑠は見田と付き合うようになって、彼に付いて行くようになり、人物よりも自然を、特に花を撮影することが多くなっていった。

 このホテルは、平日ならいつも二人が待ち合わせしている場所だ。大抵、仕事が終わってからこのホテルのロビーで待ち合わせをし、映画を観たり、食事をしたりする。二人共写真が趣味なので、休日は泊りがけで写真を撮りに行くこともあるが、平日は泊ったりはしない。このホテルは二人が出会ったホテルということもあって、待ち合わせの場所に使う事が多いのだ。

 見田は、IT企業の営業をしている。営業職ということもあり、約束の時間通りに来られないこともあるが、このロビーで待ち合わせていれば少しくらい待っても苦にならない。そういう理由もあってここを待ち合わせの場所にしているのだった。

 特に満瑠は、このホテルのロビーが好きだ。季節ごとに飾られる花が、いつも満瑠を楽しませてくれる。この人工的に活けられたフラワーアレンジも、いつも撮る自然のままの花とはまた違った趣を感じて気に入っている。

 満瑠は、ロビーの隅にある椅子に座った。ここからは、沈丁花の花が良く見える。この花は、たとえ姿が見えていなくても、強い香りがその存在を主張している花だと思っている。

 この数ヶ月、見田は仕事が忙しく、花の写真を撮りに行くことが出来ないでいた。だから、沈丁花の写真は、まだ二人では撮りに行った事がないのだ。

「もう、今年沈丁花を撮りに行くのは無理ね。この花を撮りに行くのは、きっと来年になっちゃうな。」

 午後7時2分を過ぎた。さっき見田から電話が入って、もしかしたら遅れるかもしれないと言っていた。

 満瑠は、持ってきた写真を取り出した。先週、満瑠は港区にある「お台場海浜公園」へ行き、そこで遊ぶ若者たちを写真に収めてきたので、それを彼に見てもらおうと思ったのだ。だから整理しておこうと取り出す。

 ところが、すぐに見田はやって来てしまった。

「あれ、仕事大丈夫だったの?」

「そう、早く終わった。」

 なんだかそっけない見田の返事だったが、あまり気にせず、

「今日は、どこに行く予定?」と聞いた。

 大抵、彼がどこに行くか決めてくれる。だから、満瑠は、特に提案することも無かった。いつも見田がおごってくれるし、満瑠はしゃれたお店も知らない。調べるのも面倒だったから、ずっとそうしてきた。

「このホテルの上の階のレストランを予約してある。」

 このホテルは、待ち合わせにはよく使うが、レストランで食事をしたことは無いので、ちょっと意外だった。

(まさか……真剣な話かな?)

 満瑠は、「結婚」という予感を少し感じながらも、なるべく顔には出さないようにして、見田の後について歩きだした。

 見田は、今の会社に大学卒業後からずっと勤めていて、収入も悪い方ではない。大企業ではないが、その分転勤も無いから、もし結婚したとしても満瑠の実家から遠く離れる心配も無い。そんな思惑もあってこのまま結婚できたらいいなという思いがあった。優しくて、しっかりした見田といっしょにいるのはとても楽しかったし、見田は背も高くて、どちらかというとカッコイイ部類に入ると思っている。だから、満瑠は「友達に自慢できそう」という打算もあった。

 見田は、ホテルの最上階、23階のエレベーターボタンを押した。

「予約している見田です。」

 受付に彼がそう言って、二人は、窓際の席に案内された。

 満瑠は、今までに二人で入ったことがない雰囲気のレストランだと思った。静かな音楽が流れ、きれいなふかふかの絨毯が敷き詰められている。夜景が見える席だった。

「今日は、随分豪勢ね。何かあるの?」

 見田は満瑠の問いには答えず、

「飲み物は、いつものようにワインでいい?」と聞いた。

「そうね、ワインでいいけど、今日は赤ワインじゃなくて、白ワインにしてみる。」

 満瑠は明るく話しかけるのに、見田はなんだか少し思いつめたように見えた。

 見田は、今日はあまり満瑠を見ていないように見える。白ワインと料理を注文し、黙って煙草を吸い始めた。

 最近、彼は煙草を辞めたはずだった。

 満瑠は、少しどきどきし始めた。

 見田は、初めて満瑠の顔を見て話しかけた。

「先週、お台場の写真を撮ったんだってね。」

 案外、普通の会話だったので少しがっかりしたが、

「そう、見てくれる?」

 満瑠は、持ってきた写真を、ドサっとテーブルに置いた。

「満瑠は、相変わらず豪快だね。ファイルに綴じるとか、良くできたのとそうでないのを分けるとか、整理してから見せるっていう事できないの?」

「ごめん、さっきやろうと思っていたのよ、ロビーで。でも、祐司さんが案外早く来ちゃったからできなかったの。いいじゃない、堅苦しいこと言わないで。」

 見田は、結構細かい人だと満瑠は前から思っていた。満瑠のぞんざいな態度や、乱暴なしぐさに対して、時々見田は責める。

 そんな時満瑠は、「祐司さんは、大和撫子みたいな女性が好み? そんな女性、今時少ないわ。」といって相手にしなかったのだった。

 今日も、見田の言葉を満瑠は、一笑に付していた。

 見田は、そんな満瑠を苦笑しながらやりすごし、写真にさっと目を通すと、

「これなんかいいね。」と言って1枚を差し出した。

 その写真は、満瑠も自信があった写真だ。少し陽が傾いた海に向かって、逆光で男女を写した写真だが、男女が手をつないだシルエットが浮き出ている。女性が男性の方を見ていた。出来あがった写真を見て、満瑠は、「この二人はきっと幸せなのね」と感じていた。

「この写真、いいね。哀愁が漂っている。」

 意外な言葉が見田の口からでてきた。

「えっ? 哀愁って?」

 満瑠は面喰った。

「これは、どう見ても幸福感でしょ? この二人は、絶対に幸せだわ。」

「そんな風に見えるの?」

 見田は、ワインをぐいっと飲みほした。

 満瑠は、何を思って見田がそんな事を言っているのかよくわからなかった。でも折角楽しく食事をしているのに、これ以上何か言って喧嘩をしても仕方がないと思ったので、運ばれてきた食事に手をつけ始めた。

「ねえ、今日は遅れそうだって言っていた割にはちゃんと来てくれたけど、仕事、大丈夫だったの?」

 満瑠は、話題を変えることにした。

「ああ、客先でもめそうだったけれど、明日にしてもらって急いで来たんだ。」

 満瑠は、客先でもめたのに明日に延ばしてでも自分のために急いで来ようと思ったと聞いて、ちょっと嬉しくなった。

(やっぱり今日は、何か重要な話をしようとしているのね、きっと)

 満瑠は、何かを話そうとしている見田の言葉を待つことにして、静かに食事をすすめた。

 特に会話らしい会話をしないまま、デザートを終えた。見田は、確実に何かを話そうとしている様子だったが、食事が終わるまでは話を始めるつもりはないようだったので、満瑠も特には聞かなかった。

 デザートの後のコーヒーを飲みながら、見田は静かに、でもしっかりした口調で言った。

「僕たち、別れないか。」


 満瑠は、言葉を失った。自分の耳を疑った。

「何?」

 この一言を言うのが精いっぱいだった。

「ずっと考えていたんだ。どうしても君とはこの先一緒にやっていく自信がない。」

「私の事、嫌いになったの? 何か私、悪い事をした?」

「嫌いというのとは違う。でも、一緒にいると辛いんだ。」

 満瑠は、興奮してきた。少し怒りが混じった感覚が湧き上がってきた。

「どういう事? 意味がわからないわ。」

「説明するのが難しい。今までどうやって説明しようかとずっと迷っていた。きちんと説明しようと思って来たけれど、やっぱりうまくは説明できないと思う。でも、一緒にやっていく自信がないと思ったから……」

「ちょっと待って、難しいなんて言って誤魔化さないで! きちんと説明してくれなければ納得できないわ。」

 満瑠は少し声を高めて、強い口調で言った。

 満瑠は、見田と一緒に居る時間はとても楽しかったし、幸せを感じていた。それなのに、この人はその時間は苦痛だったと言っているのだろうか?

「信じられない。どうしてそんな話になるの? 一体、いつからそう感じていたの?」

「いつからなのか、はっきりはしていない。でも、満瑠の事がわからなくなってきた。心がつながっていなのではないかと思うようになって来たんだ。」

「心がつながっていない? 益々、意味がわからないわ。私は、ずっと気持がつながっていたと感じていたのに。どうしてそんな風に感じたの?」

「君も少しは感じていたかもしれないと思っていたけれど、やっぱり、僕だけがこんな風に思っていたみたいだ。」

「とにかく、納得できない。2か月前だって、一緒に写真を撮りに……冬の海を撮りに言ったじゃない。あの時も、そう思っていたの? 私はそんな事、全然感じなかった。不満があったら、その時に言ってくれればいいじゃない。どうして、後になってこんな風にひどい言い方するの?」

「満瑠は、僕の事、見ていない気がする。」

「見ていないって? どういう事?」

「僕の事、僕の満瑠への気持も……見ているようで全然見てくれていない。……そう感じるんだ。」

 満瑠は、益々わからなくなってきた。見田の気持を見ていないと言われても思い当たる節がなかったし、そんなことで、見田が悩んでいるなんて思ってもいなかったからだ。

「もしかして、他に好きな人ができたんじゃない? だから、都合のいいこと言って……。私をだましているんじゃないの? それならそうと言ってよ。」

「違うよ。それだけは違うよ。本当に、そうじゃないんだ。」

 満瑠は悲しかったけれど、涙も出なかった。夢を見ているみたいだった。

 ほら、もうすぐ夢が覚めて「なあんだ、びっくりした」っていうことになるんだわ。そうに違いない……。

 満瑠は、朝になる感覚が訪れてくるのを待ってもみた……が、駄目だった。

 満瑠はもっと、もっと、見田に聞きたい事や言いたいことがたくさんあった。でも、少し我に返って周りを見てみた。

 ここは、静かな高級フランス料理のお店。そのコース料理を終えているところ。ここで満瑠が騒いだり、取り乱したりするのは、プライドが許さなかった。更に、見田が話す言葉がなくなって満瑠を置いて立ち上がり、自分が取り残されてしまうという状況は、もっとみじめ過ぎると思った。いえ、見田はやさしい人だから、きっと満瑠を置き去りにはしないだろう。でも、冷え切った彼の心を知ってしまった満瑠にとって、もう気持ちが自分に向いていないと分かった彼といっしょに歩くことも、つらいに違いなかった。

 見田が満瑠をじっと見ている。

 満瑠は、その見田の目を見て思った。

「わかったわ。別れる気持ちを変える事はないみたいね。」

 満瑠は、静かに立ち上がった。

「帰るわ。」

 見田は、黙って、まっすぐ前を向いているだけだった。


 満瑠は、両親と一緒に暮らしている。満瑠は、自分でカギを開けて玄関に入り、母が声をかけているのにも気がつかず、自分の部屋へまっすぐ入って行った。

 満瑠はどうやって家に帰ったのか、自宅にいる家族とどんな顔で接したのか、全く覚えていなかった。

 気がつくと、部屋のベッドの上で天井を見ていた。彼と結婚したら、こんな暮らしになるのかな? というような想像はたくさんしたけれど、まさか振られてしまうという想像は、一度もした事がなかった。

 満瑠の母、昌枝は、いつもと違う満瑠の態度に、どう接していいものかと思った。

 満瑠は小さい時から、明るい性格で、どちらかというとあけすけなところがあるので、隠し事などはしたことがなく、何でも自分に話してくれていた。だから、今日のように何も言わず部屋に入ってしまった満瑠に、どう接したらいいものかと落ち着かない気持ちになっていたが、今自分が話しかけるのはタイミングが悪い気がした。

 昌枝は少し様子を見ることにした。


「僕の事を見ていない。」

 満瑠にとっては、ゆっくり考えてみてもわからない見田の言葉だった。

 彼との結婚はもう無くなってしまった。彼の事はとても好きだった。愛していた。失いたくない人だと思っていた。……そう、失いたくなかった。

 彼はやさしかった。素敵だった。満瑠に色々な事を教えてくれた。花を撮る楽しさも教えてくれたし、一緒にいてとても楽しかった。

 満瑠は、ベッドの脇に二人で撮った写真を飾っていた。二人で撮影旅行に行った時に撮った写真だ。彼は笑っている。楽しそうに笑っている。

「この笑顔は、本心じゃなかったの?」

 満瑠は、益々わからなくなってしまった。今まで悲しいと感じる余裕がなかったが、じわじわと悲しみが押し寄せてきた。

 涙が頬を伝っていった。どんどん落ちて行く。止まらなかった。

 満瑠は落ちる涙をそのままにして、動かなかった。

「『僕の事を見ていない』ってどういう事?」

 何度もつぶやいてみた。


 満瑠には若林杏子(わかばやしあんず)という親友がいる。高校時代の友達で、大学進学から進路は分かれてしまったけれど、家も近所だったのでずっと親しくしている。月に一度くらいは時間をとって、お互いの近況や、会社のグチなどを話したりしていた。

 勿論、見田との事も、付き合い始めた時からずっと杏子に相談していたので、馴れ初めから旅行に行った時の事なども、詳細に知っている。

 満瑠はこの事を、とにかく杏子に聞いてもらいたかった。

(杏子ならどう思うだろう?)

 こんな訳のわからない理由で満瑠が振られた事を杏子ならどう思うだろうかと考えてみた。

 杏子は高校の時から、学業の成績が良かった。大学も満瑠よりも随分と上のランクの大学に合格していた。就職も大手銀行に入行し、今は男性たちを差し置いてバリバリと活躍している。そんな彼女なら相談したら何かわかるかもしれない。

 早速、携帯電話でメールを送った。

『ヘルプ! 明日、会って!』

 そんな文章だったので、杏子はびっくりしたようで、すぐに携帯電話が鳴った。

「一体、どうしたのよ。」

「杏子? 電話くれたんだ。」

「だって、変なメールだったから……。普段の満瑠らしくないから。」

「わかる? そうなの、ヘルプなのよ。」

 杏子の声が聞けて、満瑠は、少し気持ちが落ち着いた。

「仕事の事? 彼の事?」

「彼の事。祐司さんの事よ。明日、会えない? 時間、作って!」

 今、ここで振られた事は言わないことにした。今はあの場面を思い出したくなかった。

「随分、切羽詰まっているようね。いいわ、会いましょう。なるべく早く仕事を終わらせるようにするわ。」

「ありがとう、やっぱり持つべきものは、『友』ね。」

 満瑠は本当にうれしかった。このまま眠れないかもしれないと思っていた。でも、明日杏子に会えると思っただけで「希望」が見えたような気がした。

 とにかく、もう寝ようと思った。わからないことは考えない事にしたのだが、ひとつ気になった。

「祐司さんは私が取り乱したりしないように、二人の最後の日の食事をわざとあそこに決めたのかしら?」

 考えてみたが、答えは出なかった。

 満瑠は社会人としても自信を持ってきただけに、今回の事で仕事までうまくいかなくなるのではないか、という不安も襲ってきた。

「とにかく、杏子に相談しよう。」

 満瑠は杏子と電話で話したことで少し落ち着いたので、家族にも一度顔を出し、おやすみなさいと声をかけ、素早く身支度をして眠りに着いた。

 昌枝は、思ったより穏やかな顔で、おやすみを言いに来た満瑠に安堵した。

(今日は見田さんと会ったのだから、見田さんと何かあったのね。)

 もう大人の満瑠には自分から話すまで聞かない方がいいと考え、昌枝は、満瑠をそっとしておくことにした。


 翌日仕事の帰りに、満瑠はいつも杏子と落ち合う喫茶店で待ち合わせをした。

 仕事がいつも忙しい杏子は、やはり少し遅れてきた。それでも、満瑠の普通じゃなさそうな電話があった後だったから、杏子は急いで飛び込んできてくれた。

「ごめん、満瑠、待った?」

「ううん、忙しいのに無理言ってごめんね。」

「ここじゃ話しにくいでしょうから、場所を変える?」

 二人は、少し落ち着いた雰囲気の京都風パブへ行くことにした。居酒屋みたいに騒がしいところは避けたかった。ここは、杏子と何度か行った事がある店だ。

 店に着くなり、急いで生ビールとおばんざいを数品注文した。

 この店は京都風を売り物にし、店は広く、個室もあった。個室でなくても四人席ごとに仕切りがあり、隣の席の人の顔が見えないようになっている。声もあまり聞こえない。だから二人は、込み入った話があるときは、何回か利用していた。

「彼と何があったの?」

 杏子は、最初のビールを一口飲むなり、早速聞いた。

「実は、振られちゃった。」

 満瑠は、なるべく、あっさりと言おうとしてみた。ぐちぐちと言うのは、なんだかみじめで嫌だった。

「……やっぱりそういう話か。」

 意外に杏子は、驚いていないように見えた。

「そう、いきなり、別れないか、って言われたのよ。どう思う?」

 あっさり言おうと思っていたが、やっぱり、だんだん興奮してきた。

「満瑠には心当たりないの?」

「無いわよ。私、実は、結婚の話でもするのかと思ったのよ。昨日は、洒落たレストランなんて予約したりしたから。それが、とんでもないわ、別れようだなんて。」

「理由は聞かなかったの?」

「勿論聞いたわ。でも、意味がわからなくて……。僕を見ていない。それだけなのよ。ちっとも意味がわからない。」

「わからないなら、どうしてもっと、教えてって言わなかったの?」

「なんだか、静かなレストランだし、カッとして取り乱したりしたくなかったから……。」

「それ、変じゃない? 見田さんの事好きなんでしょ? 取り乱して当然じゃない。普通は取り乱すわよ。どうしてそんなこと気にするの?」

「言われてみればそうね。でも、その時は、そう思って、それ以上は聞かなかった。」

「それで、どうしたの?」

「彼を置いて、一人で帰ってきた。」

「まあ、満瑠らしいといえば満瑠らしい行動だけど、そんな終わり方でいいの?」

「何だかしっくりしないけど、もう彼は終わりにしたいって言うから。きつねにつままれた感じだけど、振られたって事でしょ。理由が理解できないけど……。」

 杏子は満瑠の言葉を聞きながら、何かを考えているようだった。

 このお店お勧めの京都風おでんをつまみながら、二人はすでにビールを飲み終わり、日本酒に変わっていた。

「満瑠が振られたの、初めてだね。」

「そういえば、そうかな?」

 満瑠は、今まで何人かの男性と付き合ってきたが、いつも満瑠から別れを告げていた。

「満瑠は結構、モテるからね。自分でも自覚しているんでしょ。」

「さあ? そんなことはないよ。」

 満瑠は、否定はしたものの、心の中では肯定していた。

「勉強もそんなにできなかったし、特に何が出来るっていうわけではないのに、何だかボーイフレンドがどんどん出来ちゃうんだよね。満瑠みたいなのは、キュートっていうのかな。お得よね。」

 満瑠に比べると、勉強も出来たし、仕事もバリバリできる杏子のほうが、昔からモテなかった。勉強ができるばかりでなく、杏子はどちらかというと美人だ。それなのにだ。

 そんな杏子は、でも取り立ててあせる様子もなく、マイペースに勉強や仕事に専念していた。そんな勉強も仕事もできる杏子が満瑠には少し羨ましくもあったから、自分がモテる事はちょっと自慢したい部分でもあった。

「私、振られるほどダメ女かなぁ。」

 満瑠はお酒がまわってきて、段々、うっぷんを晴らしたくなってきたので、わざと思ってもいないことを言ってみた。

「そんなことはないよ。満瑠はかわいいし、明るいし、人を楽しませられるし、いっしょにいて楽しい。見田さんがどうして満瑠を振ったのか、私もわからないよ。」

「……でしょう? ホント、わからない。振った事、後悔したって知らないから……」

 満瑠は、段々、声のトーンが上がっていき、お酒のピッチも上がっていった。

「私、彼の誕生日には、がんばって手作りのキーホルダーなんか作ってあげたのよ。」

 満瑠は、銀細工を少し習ったことがあり、イニシャル入りのキーホルダーを作ってプレゼントをしたのだ。

「彼、とっても喜んでいたわ。あれは嘘だったの? 返してよ。」

「満瑠、ちょっと、ペース速くない?」

 杏子は心配そうに満瑠を覗き込み、お店の店員にお冷を持ってきてもらった。お冷を満瑠に飲ませながら、静かな声でつぶやくように言った。

「でもさ、満瑠、見田さんの事心の底から好きだった? 結婚したい程好きだった?」

「何?」

 あまりお酒に強くない満瑠は、一気に日本酒を二合も飲んでしまったので、急に頭がくらくらしてしまい、杏子の声もぼんやりかすんで聞こえた。そのためか、言っている意味も良く分からなかった。

「だから、結婚の話がでると思って期待していたって言ったでしょ。好きだったわよ。」

「そうか……わかった、ごめん、変な事言って。」

「そうよ、人が生まれて初めて振られて悲しんでいるときに……。ひどいよ。」

「ほんと、ごめん。ただ、これでいいのかなと思って。もう満瑠からは見田さんに連絡しないの?」

「私からはしないわよ。振られたのにすがりつくなんて……。」

「……そう、わかった。今日は満瑠をなぐさめる会を開催! 今夜はずっと付き合うよ。」

 杏子は優しかった。

 満瑠は、いつも杏子のこの優しさに支えられてきた。

(いつもそう、私が仕事で失敗して悩んでいたときも、こうやって夜中まで付き合ってくれたっけ……。でも、私が杏子に付き合った事、あったかな?)

 満瑠はぼんやりと考えながら、今日は徹底的に飲もうと思った。そして、また日本酒を追加注文していた。


 満瑠は朝、目覚まし時計がけたたましく鳴っているのに気づき、時計をひっぱたくようにして音を止めた。止めるまでに相当の時間がかかったようだと気付いた。目覚ましの音は3段階になっていて、すぐに止めないと段階的に音が大きく、早くなる仕組みなのだ。

 時刻は、午前6時半。満瑠はゆっくり起き上った。そんなに二日酔いの症状はなかったが、昨日は杏子に悪態をついてしまったのを思い出した。

「昨日は、杏子に悪い事をしたな。」

 昨晩は、店が閉店になる夜中の12時まで付き合ってもらい、タクシーで家に帰ってきた。京都風パブでの話の内容は、具体的にはよく覚えていないが、きっと見田の悪口を言ったり、どうして自分が振られなきゃいけないの? というようなことを愚痴っていたに違いない。

 昨日は何とか会社に行ったが、振られたショックで精神的に参っているのが自分でもよくわかった。とても仕事をする気分ではなかった。

 どうしても自分がやらなければならない事は今日は無さそうだったので、会社を休むことにした。目覚ましをもう一度8時に合わせて寝ることにする。風邪をひいたということにしよう、と思いながら……。

 もう一度目が覚める時、夢を見た。

 見田が満瑠の前にいた。見田は笑っていた。満瑠を見て笑っていた。その笑顔に吸い込まれそうになったところで、目が覚めた。

「もう見られない笑顔なの? 夢にまで出てきて私を苦しめるなんて、ひどいよ、祐司さん……。」

 満瑠は会社に、休むと電話をいれてリビングに降りて行った。また祐司さんの夢を見たらたまらないと思ったから、もう一度寝る事はやめたのだ。

 昌枝は昨晩の満瑠の帰宅の様子から、きっと今日は会社を休むだろうと予想していた。だから、部屋に起こしにも行かなかった。

「ごはん食べる?」

 昌枝は、なるべく平静を装って聞いた。

「果物か何かある? あまり食べたくない。」

 いつも朝に必ず飲んでいるコーヒーも、今は飲みたくなかった。二日酔いというほどではないが、少し胃がむかむかしていた。胸につかえるような感覚もあった。満瑠はパジャマのまま顔も洗わず、髪の毛もくしゃくしゃのまま席についた。顔には表情が無かった。

 昌枝は、りんごをむいて満瑠に差し出した。コーヒーはどうするか聞こうかと思ったがやめた。こんなに落ち込んだ満瑠を見たのは、久しぶりだと思った。

(やはり、見田さんと何かあったのね。)

 昌枝は、そう言おうとしたが、やっぱり言わないでおく事にした。どう見ても、そうに違いないから、自分から言い出すまで待とうと思った。

 満瑠は一人っ子だからつい甘やかしたり、先まわりをして心配したり、手助けをしたりして育ててしまったと昌枝は育て方について反省している。だから自分で解決する力が大人になっても備わっていないのではないかと、未だに心配をしているのだ。

(今回は、じっと見守ってみよう。)

 昌枝は、心の中で決めた。きちんと決めないと昌枝は、つい、色々と手を焼いてしまいそうで怖かった。昌枝から見ると満瑠は、28歳にしては、色々な面でしっかりしていないところがあるから心配なのだ。今回は、満瑠が成長するのにいい機会だと思った。

 満瑠は昌枝に出されたりんごを食べた後、どうしようか迷った。布団に入って静かにしていたい気分だが、もしまた寝てしまったら、見田の夢を見てしまうかもしれない。そう思うと、布団に入るのが怖かった。

 満瑠は昌枝が自分に何も聞いてこない事を、ちょっと不思議に思ったが、ほっとしていた。今は、見田とのことを誰にも話したくなかった。振られたという事実を話すのはみじめで嫌だったし、あの光景を思い出したくもなかった。でも、ずっと家にいたら昌枝が何か聞いてくるかもしれないと思った。今まで満瑠は、昌枝には何でも話してきたし、昌枝はどちらかかというと事細かに満瑠の行動にチェックを入れている親だと思っていたからだ。

 満瑠は、出かけることにした。少し身体が重かったが、外に出たら少しは気が晴れるのではないかと思ったからだ。部屋に戻ってゆっくり身支度をして玄関を出てみたが、

(行く先も決めないで外に出るっていうのは、不安定なものね。)

 今までそんな事をしたことがない自分に気がついた。

(どこに行こう。)

 満瑠はとりあえず、駅に向かってみた。

(行き先が決まっていないと、歩くスピードがこんなに遅いものなのね。)

 早く行き先を決めないと駅についてしまう……と思いながら、あせって考えてみたが、なかなか決まらない。ゆっくり歩いているのに、意に反してすぐに駅に着いてしまった。ゆっくり歩いたというのに、駅までの景色を全然見ていなかった。急いでいる時の方がもう少し周りを観察したり、季節を感じたりしているのに違いない。

(困ったな。とりあえず、電車に乗ろう。)

 電車に乗って、席が空いていたので座ったが、さて、これからどうしたものかと思った。

(定年退職したサラリーマンの気持ってこんな風?)

 そうじゃないだろう。わからないけれど、こんなに重くはないと思った。

(今、私は何をしたいのだろう? こんな時、普通は、映画を見たりするのだろうか?) 

 満瑠は自問自答を始めた。

 でも、どんな? 悲しい映画?

 いえ、もっと悲しくなるじゃない。

 ハッピーエンド?

 それももっと嫌。自分がみじめになる。

 こんな自分を変えたい。

 それじゃ、いつもと違う事をしよう。

 違う事って?

 満瑠が自問自答しながら出した結論は、「違う自分になりたい」という事だった。

 今と違う自分に……。

 やった事がない経験をしてみたらどう? と自分に問いかけてみた。

 例えば「ひとりでレストランに入って、コース料理を食べる」事は?

 普通は好んでやらないと思うが、この際やってみようかと思った。

 ディナーではなく、ランチコースならハードルは低いと考えた。

 次に満瑠は、電車をどの駅で降りようか迷ったが、これも降りたことがない駅に降りることにした。満瑠が住んでいる駅は京王線沿線の駅で、今、新宿に向かっている。あまり小さな駅では、コース料理を扱うお店が無いかもしれないから、新宿より先に行くことに決めた。満瑠の勤務先は、新宿にあるから、その先にしようと思った。

 新宿で電車を降り、山手線に乗り換える。駅名が書いてある表示板を見ていたら、「恵比寿」には降りたことが無いことに気がついた。

「恵比寿にしよう。」

 満瑠は、少し元気がでてきた。行き先が決まったからかもしれない。

 山手線の恵比寿駅で電車を降りた。この駅は、なぜか今まで縁がなかった。仕事でもプライベートでも降りたことが無い駅だった。電車で素通りするだけの駅だったので、この駅で下車する事にわくわくしてきた。

 駅を降りてからは、あまり考えないで歩く事にした。最初は、にぎやかな通りを目指して歩き出したが、たくさんの人を見ているうちに、ちょっと尻込みしてしまった。

「たくさんの中で私、ひとりぼっちなのね。」

 今までは一人で歩いていても寂しいなんていう思いは感じたことが無かったが、今日はやけに寂しさが身にしみる。

 考えてみると、一人では喫茶店くらいしか入ったことがなかった。それなのにいきなりレストランでコース料理を食べようとしている。しかも、こんな寂しい気持ちの時に……。

 満瑠の足は、自然と人通りが少ない静かな道を選び始めた。

「恵比寿にこんな静かな通りもあるのね。」

 満瑠は勝手に恵比寿が華やかな街だと思っていたが、今歩いている道は予想外に静かだったので、少しほっとしてもいた。

 気持ちが落ち着くとさっきまで感じていなかったが、3月になったせいか寒さがやわらいできたのだと気がついた。陽の光も強く明るくなってきたような気もする。

 時計を見るとまだ10時半過ぎだった。ランチタイムには時間があるので、まだ店も開いていないだろう。少し公園で過ごすことにした。目にとまった公園に入ると、ブランコに腰を下ろした。

(ブランコに乗るなんて何年ぶりだろう?)

 平日の今の時間、公園には誰もいない。

(都会だから小さな子供が少ないのね。)

 ブランコをギイギイと揺らしながら、何も考えないでずっとこうしていたいと思った。

 満瑠は、しばらくぼうっとしながらブランコを揺らしていた。公園にある何の木だかわからないが、葉が全部落ちてしまっている木をずっと見つめながら……。

 公園のブランコから見えるところに一軒のお店が見える。フランスの国旗が飾られているので、フランス料理店だろうと思われる。先ほどから、開店の準備をしている姿が目に入っていた。外から見た感じでは、そんなに高級そうでもない店に思えたので、満瑠はここなら気軽に入れそうな気がした。時計を見ると11時を少し過ぎていた。

 そろそろ開店時間かな? と思い、店の方に近づいてみた。

 入口のドアは木製で出来ていて、フランスの郊外にある家庭的なレストランを思わせる雰囲気だった。満瑠はフランスに行った事がある訳ではないが、そんな気がした。そのお陰で、あまり緊張することもなく、ドアを開けることができた。

「いらっしゃいませ。」

 すぐに、清楚な雰囲気の男性が満瑠を迎えた。入口を少し入ると、店の中を見渡すことができた。外観の雰囲気とは少し違い、ピカピカのワイングラスや食器が並んだテーブルが20席ほど見えた。そして、壁には品のある絵が飾られていた。

(あれ? ここ、まさか、高級レストラン?)

 身体が硬直したような気がした。

「ご予約の方ですか?」

 満瑠を迎えた男性が、とびきりの笑顔で聞いてきた。

「予約もしていないし、ひとりなんです。それでもいいですか?」

 満瑠は顔から火が出そうな気分だったが、もじもじするのは、みっともないと思ったので、躊躇せずに早口で答えた。

「構いません。どうぞ。」

 とびきりの笑顔の男性が、中へ招き入れた。

 店には、まだ誰も入っていなかった。開店したばかりだから当然だろう。

 これからどんどん予約客が来るのかな、と思ったが、今日が平日だと言う事に満瑠は少し経ってから気付いた。いつも見田とランチで入るレストランは込み合っているのが常だったが、それはいつも休日だったからに違いなかった。

 店員は、満瑠を窓際の二人掛けの席へ案内した。満瑠の荷物を預かり、席ではきちんと椅子を引いてくれた。

 窓からの景色はただの静かな路地だったが、店の中は高級感漂う壁紙、そこここに飾られた花が目に映る。高いハードルを越えようとしているのね、と覚悟を決めなければならなかった。

 メニューを見せてもらってまた驚いた。料理はコース料理しかなく、一番安いコース料理がランチだというのに5,800円から始まる。次に、7,000円、10,000円と続く。そして、メニューに挟まった紙には、「キャビア追加50グラム、2,500円」と書いてあった。

(これは、思った以上に本格的なお店だったわ。)

 とあせりもしたが、もうどこまでも行ってみようと思った。今日は違う私になると決めたのだから。

 クレジットカードは持ってきていたのでお金の心配はなかった。

 満瑠は店員に、7,000円のコース料理を注文し、食前酒にスパークリングワインを頼んだ。今、いつも見田と飲んでいたワインは口にしたくなかった。

 満瑠は、自分の服装を改めて見る。普段着に毛の生えた感じで、この店にはそぐわないかもしれないと思った。それでも気後れしそうになる自分を奮いたたせ、最後までひとりでフルコースを堪能してみることを決心した。これができたら、自分を変えられそうな気がした。

 するとその時、若い男性が一人で店に入ってきた。店で待ち合わせをしている様子で、予約をしていると告げていた。

 その男性は満瑠の隣の席についた。年齢は満瑠と同じくらいだろう。きちんとスーツを着ていたし、平日の昼間だから、仕事の打ち合わせか接待かもしれないと満瑠は思った。

 しかし、満瑠のテーブルにオードブルが2品運ばれてきても、男性の席に連れの人はやって来なかった。

 満瑠は、隣の男性の事が気になりながらも、そのオードブルの品の良い盛り付けや味を堪能していた。

(そう言えば今日は、初めての食事だった。)と急に気がついた。昨日、飲みすぎたとはいえ、そろそろ食欲も出て来たようだった。

 満瑠のテーブルを担当している店員はとても感じが良く、満瑠にさりげない気配りをしてくれた。バックを取りたいと思い椅子から立ち上がれば、すぐにやってきてくれる。笑顔も素敵で、満瑠はこの店員に少し話しかけてみたくなった。

「私、今日、初めて一人だけで食事をするんです。しかも、コース料理を。私にとっては、修行なんです。」

 こんな満瑠の独り言のような言葉を、店員は、静かにうなずいて聞いてくれた。だから、つい、もう少し先の話してみたくなった。

「私、振られちゃったんです。だから、今日から変わりたいと思って。」

 言ってしまってから、言わなければよかったと後悔したが、それも修行だな、と思う事にした。店員はやさしく頷いてくれただけだった。

 また、隣の席の男性を見てみた。相変わらず、前を見たまま静かに座っている。満瑠の会話を聞いていたのかどうかはわからない。

 店員があちらに行ってしまった時、その隣の男性の携帯電話が震えた。メールが入ったようだ。メールを見て男性は、がっかりした様子で携帯電話をポケットにしまった。

 満瑠は、約束の相手からのキャンセルのメールだなと思った。

「かわいそうな『おひとり様』が2組か……。」最近は、独身女性のような一人だけで行動をする女性の事をこう呼んでいるのを思い出した。

 その男性は手帳を取り出し、何かを書きだした。そして、それをやぶって小さくたたむ。たたみ終わると満瑠の方を見て、満瑠のテーブルに「ポン」と置いた。

「えっ?」

 男性の意外な行動に満瑠はびっくりした。男性はメモをよこすと、又前を向いてしまったのだ。

 満瑠は、どうしようかと思ったが、自分に宛てた手紙のようなので開けてみた。

「ご一緒していただけませんか? 私も振られたんです。」と書いてあった。

 やっぱりこちらの会話を聞いていたんだと思うと少し腹だたしかったし、折角自分に修行を課して変わろうとしているのに、途中で止めたくなかった。

 満瑠は、そのメモの裏にペンを取り出してこう書いた。

「私、修行中なんです。」

 隣の男性と同じように折りたたんだメモをテーブルに「ポン」と投げた。

 隣の男性はメモを読むと、少しプッと吹き出してから少し笑顔を見せて満瑠を見た。

「わかりました。私も修行を積みます。」

 そう小さな声でささやき、店員を呼ぶと満瑠と同じコースを注文した。

 隣同士で、お互いに一人きり同士で同じコースを食べ始めた。少し満瑠の方が先に食べ始めたのに、すぐに追いついて二人にメインディッシュが運ばれた。

 メインディッシュの魚のお皿はパイに包まれていて、魚料理とは思えなかった。そしてまわりにきのこや綺麗な色の野菜に彩られ、まるでお皿に描かれた絵画のようだった。

 大抵、こんなコース料理は友達や彼と食べていたから、こんなにじっくりと料理を観察したことが無かったと、満瑠は改めて思った。味だけでなく、色や形にこんなにも気を使って盛りつけているのかとつくづく感心した。

 こうしてフランス料理のコースを食べていると、振られた日のシーンが蘇りそうになる。もう一度こうやってコース料理をひとりで食べる事で、振られた事をパソコンのデータを上書きでもするように出来たらいいのに、と満瑠は思った。

 ゆっくりと味を堪能し、絵画のような飾り付けを崩しながら食事を進める。相変わらず店員は細やかな気遣いで、水を足したりお皿を変えたりと忙しいが、静かに自然に動いていた。

 食事がすすむにつれて客の人数も増え、少しにぎやかになった。勿論、他のテーブルは数人で来ていて、満瑠たちのように一人で前を向きながら黙々と食事をしている客はいない。平日のランチだから、専業主婦とみられる女性同士の客が多かった。

 隣の男性は、背がすらっと高く姿勢も良いので、後ろ姿だけ見たら映画俳優に見えるかもしれないと思った。

 彼は満瑠の食事の進み方にピタッと合わせ、まるで一緒に食事をしているかのようだった。料理に対する感じ方が同じかもしれないと思うくらい、同じものを食べた時の反応が似ていた。一緒に思わずうなずいたりする場面もあった。

(折角なら、一緒に食べれば良かったかな?)

 少し満瑠は後悔しだした。そこで、満瑠はメモを取り出し、『もう、修行を終わりにしたい。』と書いて、隣のテーブルに、ポン、と置いた。

 彼はメモを広げ、読み終わるとすぐに店員を呼んだ。コース料理は終盤を迎え、デザートを残すのみとなっていた。

「今まで修行中だったのだが、許しが出たので、隣の女性と同じテーブルに移らせて下さい。」

 変な申し出の仕方だったが、満瑠が笑顔でうなずいたのを見て、店員は満瑠のテーブルの椅子を引いて案内した。

「僕は、安田誠治(せいじ)と言います。28歳です。ご一緒できてうれしいです。」

 彼は見田と違い、大人しい話し方に聞こえたが、物おじしているようには見えなかった。厚かましくもなく、謙虚すぎもせず、満瑠はとても好感が持てた。修行のつもりで始めたコース料理の一人食事に、段々嫌気がさしてきていたので救われた気がした。

「こんなお店でこんな修行をするなんて、あなたは、随分悲しい目に遭ったのですね。」

「こんなお店って?」

「この店は、とても有名なオーナーシェフのお店です。フラっと一人で入るようなお店とは違うんですよ。僕だって、彼女に振られなかったら、一人で入ったりしませんよ。」

 安田の言葉を聞いて、満瑠は、もしかしたら、と思っていたことが本当だったので、

「やっぱり私、かなり厳しい修行をしようとしていたんですね。」と言って笑った。

 デザートもかなり芸術性が高かった。小さなケーキやお菓子が、いくつもきれいにお皿に並んでいた。どれも、手がかかるデコレーションで飾られたり、精密に描かれていたりしている。

「こんなに素敵な作品を、誉めたたえ合いながら食べないなんてもったいないです。」

 安田は、満瑠に笑顔で見つめながら言った。

 満瑠も、もっともだと思ったので笑い返す。

「私は、秋山満瑠です。今日は、人生を変える日にしようと思っていました。あなたに出会って、本当に変われるかもしれません。」

 まだ出会ったばかりの男性に対して、ちょっと言いすぎたかもしれないと思ったが、絶望的だった満瑠にとって、この男性の出現は、それほど有難いものに感じていた。

「安田さんは、今日、彼女に振られたんですか?」

 満瑠は、聞いてから、慌てて

「ごめんなさい、話したくないならいいです。」と付け加えた。

「いえ、僕も、今日から変わりたいから、修行のひとつと思ってお話しますよ。」

 安田は、そう言って、少し目をそらしながら、簡単に振られた経緯を話し始めた。

 それによると、1年以上付き合った彼女と喧嘩をして、お互い譲らなかった。何日も口を聞かなかったが『仲直りをしたいのでこの店で会おう。』と彼はメールをした。この店は、二人の思い出のレストランだったそうだ。もしかしたら来ないかもしれない彼女をじっと待っていたという訳だった。

「喧嘩の原因は何?」

「何だったかな? 大した理由じゃなかったと思う。……いや、そう思ったのは僕だけで彼女にとっては大事な事だったのかもしれない。」

 安田は、考え込むようなしぐさをした。

 満瑠はそれを見て、もしかしたら自分も見田に対して同じ事をしていたのだろうかという考えが少し頭をよぎった。

 デザートとコーヒーを終えると、安田は勘定はすべて自分が払うと言いだした。

 でも満瑠は、それを丁寧に断った。

「自分で払わなかったら修行にならないから。」

「そうだね。」

 安田もすぐに納得して、別々の支払いにしてもらった。

 店を出ると、二人は、さてこれからどうしようかと立ち止まった。今の二人の関係は、ただの修行中の二人が、たまたま居合わせただけの関係だったから。

「修行なんて大そうな事言いながら、途中で修行を放り出して二人で食事をしてしまうなんて、だらしない二人だわ。」

 満瑠の言葉に安田は笑った。

「本当だな、修行とは言えない。」

 二人は、お互いにメールアドレスを交換するだけで別れた。

「もしかしたらメールはしないかもしれないわよ。」

 満瑠はまだ見田との事が吹っ切れないのに、新しい彼を作ってしまうような気持にはなれなかった。

「勿論それでいいです。僕は、あなたからのメールが無ければ、こちらからはメールをしません。でも、勘違いしないで、僕は待っていますから。」


 満瑠は安田と別れてから、もうひとつやってみたい事を思いついて、駅に向かった。もう一度山手線に乗ることにしたのだ。新宿方面の山手線に乗ると、窓の外を見るためにドアの近くに立つ。

 満瑠がもう一つ思いついた事とは、「社交ダンスを習ってみる」という事だった。昔観た映画を思い出したのだ。その映画は、主人公が毎日乗る電車の窓から見える社交ダンスの教室に、勇気を出して入ってからダンスに魅せられていくという映画だった。満瑠はこの映画がなぜかとても印象に残っている。理由はわからないが、気持ちにうまくはまってしまったという感覚だ。

 社交ダンスを習っているという人は、満瑠の近くには少なくともいない。そして、どんな世界なのか映画でも少し見えたような気がしたが、ほとんどわからない世界だった。映画の主人公が教室に入るのに随分迷ったように、満瑠もきっと入るのに勇気がいるだろうと予測ができた。だから、これも修行としてやってみようと思ったのだ。

 映画では電車の窓から教室が見えていた。だから、きっとどこかの駅で、教室が見えるに違いないと満瑠は考えた。

 電車が駅に近づく度に満瑠は一生懸命目をこらして「社交ダンス」という看板が無いか見ていた。でも、そうそうあるわけでもないようだ。

 池袋駅に近づくと、少し離れた場所だったが、「ダンス」という文字が見えた。その場所の位置を必死で確認してから、池袋駅で降りることにした。

 池袋駅で降りて、満瑠は失敗したと思った。池袋駅はターミナル駅なので、人は多いし、建物もごちゃごちゃしている。こんなに広くてごちゃごちゃした駅で、さっきの建物を探せるだろうか? と満瑠はとても不安になった。

 とにかく出口を探し、適当に駅の外に出てみた。そこは、居酒屋などがたくさん立ち並んでいて、看板が山ほど出ている。ほとんどが居酒屋や喫茶店だった。

「さっきの『ダンス』という看板を探すのは、難しそうね。」

 満瑠は、つぶやいてため息が出た。

 ところが、意外に歩き始めてすぐ「ヤスダダンススクール」という看板が目に入った。

「ヤスダ?」

 何だかさっきの安田を思い出して、思わず吹き出してしまったが、これは何かの縁かもしれないと思い、この教室に行ってみる事にした。

 映画で見たように、雑居ビルの中にそれはあった。五階が教室のあるフロアーだったので小さなエレベーターに乗り、五階で降りる。

 エレベーターを降りるとすぐに教室の受付らしきものがあった。そこにいた女性が、エレベーターから降りてきた満瑠を見て「こんにちは。」と大きな声であいさつをした。

 満瑠は、いきなり入口になっている構造にびっくりし、更に、迷う間もなく受付の人と会話をする事になったこの状況に、思わずどぎまぎした。

「あの、見学したいのですが……」

 満瑠はやっとのことでそう口を開いた。

「はい、見学ですね。どうぞ、お入りください。」

 満瑠は受付の女性に案内されて、教室の中に入った。フロアーの床は、板張りになっている。音楽が流れ、二組の男女が踊っていた。何の曲かわからなかったが、二組の男女は、手をつないで離れたりくっついたりしながら、上手に踊っていた。

 満瑠は、フロアーの周りにいくつかある椅子に座るよう案内される。受付の女性は、パンフレットとお茶を持ってきてくれた。パンフレットといってもとても簡単なもので、入会金や、レッスン券の種類などが書いてあるだけのものだった。満瑠には、これを見てもあまりピンとこなかった。

「こんにちは。私、清水と申します。よろしくお願いします。こちらは、初めてですね。ダンスの経験はありますか?」

 清水さんという女性は、とても背が高く、美しい人だった。そして笑顔がとても感じ良かった。

「実は私、初めてダンス教室というところに入ったんです。何もわからなくて……」

「大丈夫ですよ。何でも聞いてください。」

 映画では、確か、何人かいっしょにレッスンを受けていた場面があったと覚えているので、それについて聞いてみた。

「初級コースは何時からあるのですか?」

 満瑠の質問に、清水はちょっと戸惑ったように見えた。

「こちらは、全部個人レッスンなんです。ですから、コースというのではなく、先生が初めての方でも、一から指導します。その方のレベルにあわせますので安心してください。」

(すべて個人レッスンということは、お金もかかるということ?)

 満瑠は、困ったなと思った。映画では、何人かでレッスンしてもらっていたので、そういうコースもあると思っていた。しかし、ここは違うらしい。そういえば、映画では、「おばあちゃん先生」が特別に団体レッスンをやってくれたんだった……と思いだした。

「一回のレッスンは、25分です。二回分のレッスンを続けて受ける方もいらっしゃいます。チケットの値段はこちらになります。」

 清水は、こちらの不安に気付いているのか分からないが、どんどんと説明を始めた。

 満瑠は、受け取ったパンフレットを見て、レッスン代がいくらになるのか確かめた。

(普通は月に何回くらい習うのだろうか?)

 もしも、週に二回レッスンを受けるとすると、結構な金額になる。

 満瑠は、少し困ってしまった。こんなに費用がかかるものとは思わなかった。

 迷っている満瑠だったが、清水は、どんどん説明を続け、

「お客様の身長でしたら、あの先生はいかがですか?」と今踊っている男性を指差した。

 満瑠の身長は158センチある。

(私に合う先生だとあのくらいの身長なのか……。)

 指を差された男性の身長は、172、3センチというところだろうか。

「担当の教師を決めていただき、毎回同じ先生に習う事になります。あの先生は、林田先生と言います。まだ若い先生ですが、教え方も上手です。」

 満瑠がのぞいたことのあるジャズダンスの教室とは、全く違う雰囲気だと思った。

 何が違うのかと満瑠は改めて教室を観察してみた。まず、生徒と先生の服装が違う。満瑠は、ダンスというのはスポーツだと思っていたのに、男性の先生は皆、ワイシャツにネクタイを締めていた。生徒だと教えてくれた一緒に踊っている女性は、派手なひらひらした上着とスカートだった。おまけに女性は、ハイヒールの靴を履いている。

(運動するという格好ではないわね。)

 満瑠は、映画で一度は見た光景だったが、改めてナマで見ることで、これは手ごわい相手だ、と思った。

 入会するには、入会金がかかるということだった。そして、習うには、靴が必要だった。しかし、そんな話を全部聞いても、今回、満瑠は、社交ダンスを始めてみようと決心した。きっと、見田に振られなかったら始める事も無かっただろう社交ダンスを、ひょんな縁で始める事で、満瑠は自分が変われるような気がした。

(今日は、『修行』という呪文のような言葉で一日を過ごしている気がする。)

 そして、この変わった雰囲気の中に自分を入れる事で、きっと自分を変えられる、と思える気がした。

 今朝からずっと小さくしか息が出来なかった自分の身体が、今、大きく深呼吸し始めていると感じてきた。

 満瑠はこのヤスダダンススクールに入会し、明日からレッスンを始める事にした。

 担当の林田先生は、年は25歳で、細身の体格だった。林田先生も受け付けの女性と同じで、とても笑顔が素敵な先生だ。

 林田先生の話によると、満瑠のように若い生徒は少なく、もしかしたら満瑠が一番若い生徒かもしれないと言っていた。ダンス教室で習うのは、結構費用もかかるのだから、そうかもしれないと満瑠は思った。

 靴を購入するまでは、教室の靴を貸してもらえる事になった。ダンス教室の営業時間は、夜は10時までということで、会社帰りでも通う事ができそうだ。満瑠は、次の日の午後8時に林田先生と予約をして教室を出た。

 教室を出ると、もう午後4時を回っていた。


 満瑠は家に帰ると、母の昌枝にダンスを習う事になったと告げた。昌枝は、いきなりだったのでびっくりしていたが、朝よりずっと元気になっている満瑠を見て安心したようだった。

「社交ダンスの教室って、どんなところ?」

 昌枝の質問に、満瑠は詳しく話して聞かせた。自分でもやけに饒舌になっている気がした。そして、見田に振られた事もさらっと話せた。

 満瑠が朝とは全く違い、そんな風に楽しそうに話す姿を見て、昌枝は安堵した。

(自分で吹っ切る事ができたのね。)

 満瑠にとって何か良いきっかけがあったのだと昌枝は確信し、根掘り葉掘り聞かないでおこうと決めたのだった。

 満瑠は、部屋に入ると、今日一日で起こった事を、思い出してみた。

(色々な事があった一日だった。そして、色々な人と出会った。)

 満瑠は、今日の出会いが、例え何かの始まりにはならなかったとしても、良い出会いである事は間違いないと確信した。

 満瑠は、今まであまりスポーツらしいスポーツをした事がなかった。中学時代は文芸部、高校時代は写真部に所属し、運動部とは縁がなかった。でも、社交ダンスは何だかスポーツとは少し違うような感じがするので、続けられそうな気がしていた。


初めて小説を書いてみました。最終編まで読んでいただけたら幸いです。

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