心の闇
リシャール。
シャロン男爵家を語るにこの女性の辿った悲劇を避けることは出来ない。
シャロン男爵家がまだ平民で、精果草の危険性が世に認知されず、快楽を得るために安易に利用されていた時代、前シャロン男爵ジャンと娼婦リシャールは出会った。
まだ薬師としては未熟で、師につき医療知識を学んでいたジャンは、下町の貧民街にある治療院で下働きをしていた。
治療院とは名ばかりの劣悪な環境に、日々増え続ける患者。戦場のような過酷な環境下、目の回るような忙しさに体力的にも精神的にもジャンは限界をむかえていた。
酷使した身体を叱咤し帰宅の途についたジャンだったが、限界をむかえていた足は思うように動かず、貧民街の端、娼館立ち並ぶ区域で力尽きた。
このまま死ぬのだろう……
漠然とそう感じた時、ジャンを助けた者がいた。生き倒れたジャンを救ったのは、娼婦として道端で客引きをしていたリシャールだった。
生死の境を彷徨ったジャンだったが、リシャールの献身的な看護で一命を取りとめた。そしてジャンは、偶然の出会いを経て彼女と深い仲へとなっていった。しかし、ただの薬師見習いでしかないジャンに、リシャールを娼婦の立場から解放することなど出来ない。
ジャンは、リシャールとの幸せな人生を勝ち取るため人が変わったように働き、貪欲に薬師としての知識、技術を身につけていった。
リシャールと出会ってから数年後、徐々に頭角をあらわし始めたジャンは、薬師として独り立ちをし、商会を立ち上げるまでに成長していた。しかし、運命の神はジャンに残酷な試練を与えたのだ。
商会が軌道にのり、リシャールと二人生きていけるだけの金銭的余裕が出来た頃、悲劇は起こった。
徐々に精果草の危険性が貧民街でも認知されるようになったと同時期、ジャンとの関係に勘づいたリシャールの客が、彼女を手に入れるために精果草を使ったのだ。
気づかぬうちに、大量の精果草を使われていたリシャールは、強すぎる催淫効果と常習性に狂っていった。
『欲』を満たすには、精果草を取り続けるしかない。しかし、取り続けることは、即ち、死を意味する。精果草だけでは、いずれ『欲』が満たされなくなり、狂い死んでいくのだ。『欲』の発作を起こしたリシャールに待つのは、死のみ。
ジャンは、リシャールを救うために精果草の研究に心血を注いだ。しかし、『欲』を緩和する方法は見つかったが、精果草の毒そのものを消し去る方法は、死ぬまで見つけることは出来なかった。
リシャールは、ジャンの献身の中、『欲』を緩和しながら生きつづけた。そして、ジャンとの間に子を身ごもったのだ。しかし、毒に侵された彼女に子を産むだけの体力は、もう残されていなかった。
「リシャールは、自分の命と引き換えに、父を……、現シャロン男爵を産み、息を引き取ったの」
「リシャールは、レベッカのおばあさまだったんだね。そして、精果草の犠牲者だった。シャロン男爵家が精果草に固執する理由は、リシャールの無念を晴らすため、そうだったんだね」
「精果草の解毒薬開発は、シャロン家の悲願なの。そして、薬師だった祖父の血を濃く受け継いだのが、私。だからこそ、使命を果たすまでは、この国にとどまらなければならない。それが私の生まれてきた意味なの」
そう、私が生まれてきた意味は、祖父の意思を継ぎ、精果草の解毒薬を完成させること。
この使命を果たすまでは、生づらくとも、この国から逃げ出すことは出来ない。
これは私だけではなく、シャロン男爵家に課せられた無念という名の枷なのだ。
「俺には、わからない。レベッカ、君の言う使命とは己の人生を犠牲にしてまでやり遂げなければならないものなのか? 一人でも生きていける知識も技術もありながら、その使命のせいで嫌いな男と婚約させられ、悪女を演じ、あがいている。それは、自分を殺していることに他ならない」
自分を殺している。
確かに、エリアスの言葉は核心をついている。
不本意な婚約。
悪女と蔑まれ、嘲笑される日々。
己に課せられた『使命』の裏で、自分を押し殺し生きてきた。
本当は、夢を叶えたい。
足枷だらけの国を飛び出して、世界中を旅して周りたい。医学、薬学、生物学、鉱物学……、様々な知識を身につけ薬師として成長したい。
叶えたい夢はたくさんあれど、課せられた『使命』がそれを良しとしない。
「確かに自分を殺し生きているのだと思います。私だって叶えたい夢がある。でも、それはただの我儘なんです。祖父から受け継いだ知識があって、精果草の解毒薬開発まで、あと一歩のところまで辿り着いた。シャロン家の悲願達成まで、あと少しなんです。それを捨ててまで、叶えたい夢なんてありませんわ」
「他人のために、自分を犠牲に出来るレベッカは、誰よりも強く、芯ある女性なんだろうね」
エリアスの言葉が重く心に響く。
(私は強く、芯ある女性なんかじゃない)
セインとの婚約を誰よりも嫌がっているくせに、母にすらその事を言えない弱虫だ。
婚約を解消するために悪女を演じると決めたのは自分の意志なのに、いざ悪女と罵られる事態になれば、傷つく自分が顔を出す。
(本当……、勝手よね……)
使命だなんだと言っても、所詮は敷かれたレールの上しか歩けない弱虫なのだ。
「他人のために、自分を犠牲にする。そんな崇高な意志、私にはありません。ただ、家族の願いを叶えたい。ただ、それだけです」
「家族か……」
そう言ったきり、天を仰ぎ物想いに耽るエリアスの横顔を見つめ、レベッカの心がざわつく。
「俺にとって……、家族とは血の繋がった赤の他人でしかない。レベッカの言う『家族』だと思えるのは死んだ母だけだ」
どこか他人事のように冷たく言い放たれた言葉が刃となりレベッカの胸へ突き刺さる。
(どうしてそんな悲しい目で笑うの?)
冷たい言葉を紡ぐ口とは裏腹に、エリアスの瞳には悲しみの色が見える。それはまるで、親鳥から逸れてしまった雛のように頼りなく不安げに、レベッカの目には映った。
思わず伸ばしかけた手が途中で止まる。
「時間切れのようだ。レベッカ、お迎えだよ」
エリアスの言葉と同時にバルコニーの扉が開かれ現れた人物に、レベッカの心臓が嫌な音をたて軋んだ。
「セイン様……」
カツカツと靴音を鳴らし怒りもあらわに近づいてくる男に恐怖心が煽られる。
こんなセインの姿を見るのは始めてだ。
迫り上がる恐怖心が本能的に身体を後退させる。逃げるように後ずさったレベッカの態度にセインの怒りは爆発したようだ。
「レベッカ! 来い!!」
「セイン様、い、痛い!!」
強い力で手首をつかまれ、あまりの痛みに抗議の叫びが口から飛び出す。しかし、セインの暴挙が止まることはなかった。
ぐいぐいとひかれる手首は、セインの指が食い込み痛みを訴える。細身で腕力が無さそうに見えても、セインとて男だ。力の差は歴然、このまま力任せに手首を引かれ続ければ、怪我をするのは確実だ。
「いい加減にしろ!!」
赤黒く変色しだした手首を見て、頭が絶望感に支配されそうになった時、セインの叫びと共にやっと痛みから解放された。
「いい痛い。は、離せ! 離せったら!!」
「これくらいの痛みで喚くな! レベッカは、もっと痛かったはずだ」
エリアスに腕を捻りあげられたセインが、解放されると同時に尻もちをつく。その様が、あまりに滑稽でレベッカは必死に笑いを堪えた。
「貴様……、レベッカは僕の婚約者だぞ!! 人の婚約者を誑かしておいて何様のつもりだ!!」
「確かに、レベッカはお前の婚約者かもしれない。ただ、夜会で見かけるたびに、婚約者そっちのけで女を何人も侍らせているお前に言われたくはないだろうな」
「なんだと!? 結婚前の女遊びは紳士の嗜みだぞ! 貴様にとやかく言われる筋合いはない」
「では、ただの婚約者でしかないレベッカが、結婚前にどんな男と遊ぼうが関係ないな」
「なっ!?」
セインの顔が怒りから真っ赤に染まっていく。
このままでは、エリアスに殴りかかるのも時間の問題だ。
怒り心頭のセインは、目の前に立つ男が誰かもわかっていない。同じ伯爵家でも、セインは伯爵家長子にすぎない。格上の相手を殴ったとなれば、醜聞として社交界へ噂が広まるのは避けられない。
セイン一人で破滅するなら、ご勝手にだが、今の状況では自分が巻き込まれる可能性は高い。
(悪女、二人の紳士を手玉にとる! なんて噂が広まったら、目も当てられないわ)
レベッカは瞬時に状況を理解し動いた。
「エリアス様、今夜は楽しゅうございましたわ。父との商談の仲介役、上手くこなせましたでしょうか。失礼がありましたら、申し訳ございません。では後日、ご希望の品、ウォール伯爵家へお届け致します」
背後でセインの息をのむ声を聴き、エリアスへとカーテシーをとる。
(やっと、自分の立場の危うさを理解してくれたようね)
「では、失礼致します」
スッと踵を返すと、未だにへたり込んでいるセインへと手を差し出す。しかし、セインがレベッカの手をとることはなかった。
悔しげに口を歪めたセインが立ち上がり、扉へと歩いていく。その背を見つめ、レベッカもまた歩き出した。




