欲望を喰らう花
精果草――、別の名を欲望を喰らう花ともいう。
強力な媚薬効果と常習性を持ち、摂取した者を廃人へと導く悪魔の花。その妖しくも毒々しい赤い花は、かつて、オーランド王国を震撼させた大事件を引き起こした。
まだ、精果草の危険性が認知されず容易に手に出来る媚薬として娼館や商店で販売されていた当時、いち早くその危険性に気づき、平民でありながら使用の禁止を王へと進言したのがレベッカの祖父だった。
思慮深く、理知的だった当時の王は、命をかけ王へと進言した祖父の言葉を信じ、早急に精果草の使用を禁止した。その結果、精果草の被害を最小限にとどめることができたのだ。シャロン家はその時の功績が認められ、平民でありながら男爵位を拝命することに至った。
しかし、精果草の真の恐ろしさは、媚薬効果や常習性ではない。欲望を喰らう花と呼ばれる理由にこそ、真の恐ろしさが潜んでいる。
上気した頬、金色へと変わっていく瞳。この症状が現れた時、精果草は牙をむく。
心の奥底に潜む欲望が満たされなければ、金色の瞳を宿し者は狂い、死に至る。精果草の解毒剤が開発されていない現状では、心の奥底に潜む欲望を満たす他に助かる道はない。
目の前の男の欲望が何かはわからない。しかし、自分を押し倒している状況から鑑みても、貞操の危機をヒシヒシと感じる。
「――っひ!?」
ぎらついた目をレベッカへと向ける男の手がゆっくりと降りていく。刺客と戦うために無理矢理切り裂いたドレスは衣服の意味をなさず、下肢だけでなく太腿まで晒していた。
意志をもって降りていく手をレベッカは瞳を見開き見つめることしか出来ない。ガーターリングに手をかけられ、ゆっくりとストッキングが落ちていく。
男の手はレベッカを拘束しているわけではない。逃げようと思えば逃げられる状況下で、レベッカは逃げようとはしなかった。
毒で弱った男を殴り飛ばすことは簡単だろう。しかし、自分が逃げ出せば、目の前の男が助からないこともわかっていた。
レベッカの脳裏に、死に際の祖父の言葉が蘇る。
『――どうか、リシャールの無念を晴らしてくれ』
精果草の解毒剤開発に人生を捧げた祖父。しかし、その願いは叶わなかった。
(あの悪魔の花のせいで、人が死ぬなんて耐えられない! 精果草の解毒剤がないなら、私が解毒剤になってやる!!)
レベッカは、金色の瞳を最後に見やり覚悟を決めると、ギュッと瞳を強く閉じた。
晒された脚を両手で包まれ、男の唇がレベッカの膝へと落とされる。チュッと響いた淫雛な音に、レベッカの肩がビクッと揺れた。
ゆっくりと、ゆっくりと降りていく唇に、レベッカの背にゾワっとした感覚が這い上る。
ふくらはぎを這い、足首をすぎ、足の甲へと口づけが落ちていく。しっとりとした唇が押し当てられた足の甲はジンジンと痺れ、レベッカの身体までをも火照らせた。
一秒、一分……、たった数分のことが何時間にも感じられる。そして、どれくらいの時間が経ったのか、皮膚に触れる唇の感触がいっこうに動かない。不審に感じ恐る恐る目を開けた時、レベッカは驚きから言葉を失った。
レベッカの足を両手で包み、指先へと口づける男は微動だにしない。まるで、愛しい者へと口づけるかのように幸福な笑みを浮かべる男の様子にレベッカは唐突に理解した。
(彼の欲望は、足への執着か……)
足先へと口づけを落としたまま動かない男を見つめ安堵する。異様な事態に見舞われていることに変わりはないが、貞操の危機は去ったと見て間違いない。そして数分後、銀髪の男は事切れたかのように崩れ落ちた。
レベッカは、男の手からソッと足を抜きシーツへと突っ伏した男の様子を伺う。荒かった呼吸は穏やかになり、上気した頬は元に戻っている。
(寝落ちたかしら? ……もう、大丈夫ね)
精果草の中毒症状が消えた男の様子を見て安堵のため息をこぼす。ベッドから降り立ったレベッカは穏やかな寝息をたてる男に背を向けると、足早にその場を後にした。
この時のレベッカはまだ知らない。
銀髪の男との出会いが悪女と蔑まれる己の人生を大きく変えるということを。
*
襲撃事件から数日後。
シャロン男爵家の広大な敷地に自生する森の中、男爵家の創始者、変人薬師と名高い祖父から引き継いだ研究棟の一室に、レベッカは朝から試験管片手にこもっていた。
「ふふふ、コレとコレを合わせれば……」
小ぢんまりとした研究室内には、所狭しと薬瓶が置かれ、窓には乾燥させた植物がぶら下がる。年季の入った戸棚には、貴重な鉱物や動植物が木箱に収められ大切に保管されていた。
簡素な木のテーブルの上に並べられた試験管の中では色鮮やかな液体がコポコポと音をたて揺れる。その中から一本の試験管を手に取ったレベッカは、乳白色に輝く液体の入ったフラスコを見つめニタリと笑った。
(おじいさまから引き継いだ研究も完成まであとわずか。気合も入るわね)
右手にスポイトを握り七色の液体を吸い取ると、ポタポタとフラスコの中へと落としていく。
「……1、2、3……、あと一滴」
フラスコ内の乳白色の液体と七色の液体が混ざり、煙が上がる。ポンっと音を鳴らし、真っ白な煙の輪が宙へと吐き出され、登っていくのを見つめ、気持ちが昂るのを抑えられない。ただ、ここから慎重にことを運ばねば大惨事になる。
(こっから慎重に、慎重に)
ドクドクと高鳴る鼓動を抑え心に言い聞かせるが、震える手を止めることが出来ない。
(ダメよ、ダメ。万が一、余分に落ちたら爆発よ。落ち着いて、落ち着いて)
念仏のように『落ちつけ、落ちつけ』と唱えながら指先に力を入れた時だった。
「――レベッカ手紙が届いているわよ!!」
「ひゃっ!!」
バタンっと音を響かせ開いた扉と母の大きな声に、レベッカの肩がゆれる。そして、七色の液体がドバドバとフラスコ内へと注がれた。
「やばい!! 母さん、逃げて! 爆発する!!!!」
「えっ! えぇぇ!!」
ブクブクと泡立つフラスコを見たレベッカの行動は早かった。机の上に開いていた祖父の日記帳を引っ掴むと、素っ屯きょんな叫び声をあげ立ちすくむ母の手をつかみ、研究室を飛び出す。それと同時にドカンっと巨大な音を響かせ、扉が吹っ飛んだ。
モクモクと煙を吐き出す入り口を見つめ呆然と立ち尽くす母を横目に、これから落とされるであろう雷を思い、レベッカはコソッとため息をこぼす。
「レベッカ! あなたって娘は、シャロン家を丸焼きにするつもりなの!!」
鬼の形相をした母に連行されやってきたシャロン男爵家の本宅。元商人の家だけあって、無駄なものがなく綺麗に整理整頓されたリビングの床の上、正座を強要されたレベッカは母を前に項垂れる。
(母さんが突然声をかけたのが悪いんじゃない。あと、もう少しで完成できたのに)
そんな事は口が裂けても言えない。ポロッとこぼそうものなら、小一時間続いた説教が、さらに数時間延長されるのは目に見えていた。
「確かに、お祖父さまの研究を完成させるのは大切よ。あれの完成は、シャロン家の悲願だし。ただね、先を急いで男爵家が丸焼けになっては元も子もないでしょ」
「でも、丸焼けにならなかったわ。それに、お祖父さまの日記帳も無事だし」
「あっ……、日記帳! 無事だったのね。よかったわ」
心底ホッとしたとでも言うように、母が一つため息を吐き出す。
亡くなった祖父が遺した日記帳。それは、彼の人生そのものだ。
薬師として優秀だった祖父は、精果草の研究に心血を注いだ。そして、忌まわしき精果草事件を解決に導いた立役者として王家から男爵位を拝命し、現在はレベッカの父が二代目当主となっている。
本来であれば一代のみで世襲されることのない男爵位だが、シャロン家は偉大なる功績を讃えられ祖父亡き後も、世襲が認められた。
だからこそ、やっかみも多い。
父がシャロン男爵となって以降ささやかれるようになった噂。現シャロン男爵は、悪どいことをして、男爵位を買った。心暗い事業をしているからこそ、滅多に社交界に顔を出さないのだろうと。
もちろんシャロン男爵が爵位を買った形跡はない。しかし、出る杭は打たれるのが貴族社会だ。
シャロン男爵家が裏で、どれだけオーランド王国の益になる危険な橋を渡っているかを知る者はごくわずか。だからこそ、男爵家でありながら王家もシャロン家を無視できない。
結果として、シャロン男爵家は平民出でありながら世襲が認められ、社交界には『シャロン男爵家は悪だ』という噂がまことしやかに流れる事態が生じている。
「でも、ほんと何の因果か……、どうしてお祖父さまの才能を引き継いだのがレベッカなのか。小さな頃から変わった子だったけど、人形遊びより薬草とりが趣味な子なんて普通いないでしょ。お祖父さまも、そんなレベッカが可愛くて仕方なかったから、色んなことを教えて大惨事よ。しかも今は剣術、体術に……、本当お転婆に育っちゃって」
片手を額に置き大きなため息をこぼす母を見て、レベッカの頭の中で警鐘がなる。
(まずいまずい、昔話に突入されたら逃げられなくなる!!)
「おおおお母さま!」
「お母さまだなんて、貴族みたいな呼び方やめてったら。昔も今も、私は商人の妻よ」
シャロン家が男爵位を賜っても本質は変わらない。母の言葉がそれを物語っている。
シャロン家当主である父は、今も一番上の兄を連れ、諸外国を渡り歩き、二番目の兄は、平民街で一番大きな商会の会長をしている。貴族になったとしても、家訓は変わらず『働かざるもの、食うべからず』で、それはレベッカも例外ではなく、男爵令嬢であっても城の侍女として働いている。しかも、セインと婚約してからは、行儀見習いとして侍女長の下、高位貴族の相手もしなくてはならなくなった。
(本当、嫌になっちゃう。あれは単なる雑用係よ……)
柔和な笑みを浮かべた恰幅の良い侍女長を思い出し、レベッカはコソッとため息を吐き出す。
そして、数ヶ月単位で家を留守にする父の代わりに、シャロン家を取り仕切るのは、自分は商人の妻と豪語する勝ち気な母。数名の使用人をまとめ、シャロン商会のトップとして店を回すだけの胆力も頭脳も持ち合わせた女傑なのだ。
そんな母に抵抗出来る者などいない。
父しかり、兄しかり、そしてレベッカもしかりである。
(ここは、話をそらすが勝ちね)
「そんなことより、母さん。手紙って何? 誰から?」
「あぁ、そうそう手紙ね。それが差出人の名前がないのよ。でも、立派な馬車で来た家僕の身なりから見て高位貴族からの手紙じゃないかしら。わざわざ直接渡しに来たみたいよ」
こういう時の嫌な予感というものはよく当たる。
母から受け取った手紙の内容に、レベッカは頭を抱えたくなった。
(あの銀髪男が、ウォール伯爵だったなんて……)
ウォール伯爵。
若くして伯爵位を継ぎ、彼の持つ権力は計り知れないとも、その美貌で数多の女性を虜にする稀代の貴公子とも言われる人物だ。しかし、それは噂の域を脱しない。
つまり誰もウォール伯爵の真実を知らないのだ。
そんな得体の知れない男に目をつけられるなんて、心底ついていない。
手紙には、助けられたことに対する謝辞と、ウォール伯爵邸へ招待したい旨が記載されていた。しかし、その招待がただの謝礼とはレベッカとて考えていない。
ウォール伯爵邸で待ち受けているであろう厄介事に思いをめぐらせ、レベッカはため息をこぼすしかなかった。




