Episode.2 蝶の花瓶
石畳の道を歩く一人の若い男。ジーンズにデニムのジャケット。ジーンズは裾を折り曲げて、小柄な体躯に合わせていた。首からカメラの吊るしている。黒縁の眼鏡をかけた東洋人だった。
男は、きょろきょろと辺りを見回し、ときおり何が気に入ったのか、カメラを構えてシャッターを切っていた。
港町の広場の女神像を熱心に写真に撮っていた男は、ジャケットから折りたたんだ紙を取り出した。カラー印刷されたそれは、ケイースの絵地図がある観光案内のようだった。
「ふむ。爪先に港町があって、足の甲に当たる部分が旧市街で、踵が一番高くなっていると。本当に、サンダルと言うか、靴のような形なんだな」
男は感心したように独りで呟いている。手にしていた紙をまたポケットにもどして、暫く辺りを見回していたが、広場を抜けて、旧市街へ向けて歩きだした。
暫く歩くと道は緩やかに登りに入った。道の両側には何かの店なのだろうが、石造りの同じような作りの家並が続いていて何の店だか判然としなかった。看板の様な金属製の飾りが軒に出ているので、土地のものなら分かるのだろう。飾りが靴だったりすると男にも何屋なのかは判断できたが、文字を装飾したようなものは何なのか男には判別できなかった。
そうした赤い瓦を載せた石造りの家並みに異国情緒を感じつつ男は暫く歩いていた。緩い坂を登り詰めた辺りに、ひと際大きな石造りの壁の様な建物が見えてきた。
壁にはガラスの窓と扉が嵌め込まれるように作りこまれていた。ガラス窓から中を覗くと、陶器の器や家具などが目についた。男は特に骨董などに興味があったわけでは無かったが、なんとなく中を覗きたくなって、ガラスの扉を開けて入ってみた。
中はしん、と静まり返っていて、香を焚いたような匂いがしていた。男は壁沿いにゆっくりと見て回った。一つの壁の棚には壺やカップに皿といった陶器の類。人形やオルゴールに、望遠鏡、というか、遠眼鏡と呼んだ方が良さそうな古びたものもあった。金属の環を組み合わせた、天球儀というものもある。
本が並んでいる棚もあり、そこには男に読める文字のもの、東洋の漢字が書かれたものからアルファベットなのか何なのか判然としないものまで並んでいた。
男がそこから入口の反対側の壁を見ていると、肖像画が壁に掛かっていた。女の胸から上の肖像画で、等身大より少し小さいくらい。金髪に緑の目の、優し気な美しい、まだ少女といっても良さそうな若い女の絵だった。
ピンクのドレスを着た姿は品がよく、どこか身分の高い女性と見受けられた。その側には机があって、机には、蝶がデザインされたガラスの花瓶が描かれていた。
「その絵は売り物では無くてよ」
不意に言葉を掛けられて、若い男は飛び上がるように驚いて振り返った。白いブラウスに茶色のロングスカートの娘が腕組みをして立っていた。少し笑みを浮かべているのは、男の反応を見たからだろう。
「え、ああ、私はちょっと眺めていただけで……」
男はそう言い訳がましく言ってまた絵に目を戻した。
「この絵に描かれた女性は何方ですか? 古いもののようですが」
「これは、ブリタニア王国のダルトン子爵家の令嬢を描いたものです」
男は顎に手をあてて何か頷きながら説明を聞いていた。
「……どおりで見たような気がしたんだよな……」
娘には男の呟きは異国の言葉で聞き取れなかったが、その様子で察していた。
「この絵をご存じなのかしら?」
「え、いえ、絵に描かれた方の、別の絵は、子供の頃に親族の家で見たことがあって。綺麗な女性だと記憶に残っていたので」
「あら。あなたは異国の方でしょう。東方の。ブリタニア王国の貴族とどんな御関係が?」
「私は、扶桑皇国からブリタニア王国へ留学してきている者で、親族にはブリタニア王国へ仕事で赴任していたものもいます。それで、ある令嬢とお近づきになったのだとか聞いたことがあります」
「まあ。あなたのお名前は?」
「雲野林三郎といいます。先祖にはブリタニア王国へ大使付きの秘書官として赴任した方も居たと聞いています」
「まあ。私の祖母のそのまた祖母が、あら、大叔母だったかしら? ダルトン家のご令嬢とは親しかったそうで、その縁でこの絵を頂いたそうなの。扶桑の秘書官の話を伺ったこともありますよ。偶然にしても面白いですわね。子孫のあなたがここにいらっしゃるというのも」
「子孫というか、私は親戚筋で一族の昔話をきいたことがあっただけです」
黒髪の娘に見つめられて林三郎は照れくさそうに言った。
※ ※ ※
ステファニーが朝食の前に窓の外を見ると、フロックコートにシルクハットの紳士がステッキを手にきびきびと歩いて家の門の前を通り過ぎるところだった。
紳士が通り過ぎてから、暫くして部屋の時計が鐘を打った。八時。
「ジョン、この時計、また少し遅れているのではなくて?」
ステファニーが執事のジョンへ、窓の外を向いたままで言う。
「そうでしょうか。ふむ、私の懐中時計とくらべますと、確かに三分ほど遅れているようですな」
「五分は遅れているわよ。あの方が通り過ぎる前に鐘が鳴らなくては」
「あの方、というのは、例の東洋人の紳士ですか。クロノメーターでも持って歩いているのでしょうか」
ジョンの言葉に、ステファニーはふふっと声を出して笑った。東洋人の紳士が家の前を通るようになってから三月程経っていた。朝食の時間に見かけるようになり、休日を除いて毎日それが続くようになったが、部屋の時計が鳴る時間と前後して通るのでなんとなく気になって何時も通るの伺うようになった。
そのうち、週に数分遅れる家の時計よりも、通り過ぎる紳士の方が時間に正確なことにステファニーは気が付いた。それを面白がって、ステファニーはその紳士を時計の紳士と呼ぶようになった。
「来週はノルトン侯爵家のパーティーですが、いかがいたしましょうか」
「参加するわ。このところ調子もいいもの」
ステファニーはそういいつつ、少し咳をしたが、にっこりとほほ笑んでジョンを見た。
「あまり、ご無理はなさらないでください」
「大丈夫よ。マルグリットも来るそうだし。扶桑皇国の大使も来るのですって」
そういうステファニーを見て、ジョンも少し頬が緩んだ。病弱であまり外出することもなく人前に出るのも避けることが多かったが、フランク王国のケイースという島の領主の娘だというマルグリットと出会ってから次第に元気になっていた。マルグリットは、代々伝わる秘薬をステファニーに与えて、ステファニーの容態は随分と改善していた。
父親のダルトン子爵の造船事業の不祥事による失敗からダルトン家は斜陽となっていた。ステファニーは領地を離れて独り暮らしていたが、先年、父と母が相次いで亡くなり、ステファニーの将来も暗雲が立ち込めていた。
子爵家を残すのであれば、だれかを婿として迎えなければならないが、没落確定な子爵家とあっては、怪しげな有象無象以外、まともな男は現れそうもなく、どこかに嫁ぐにしても、美貌を謳われてはいるものの病弱な娘を娶ろうという者好きな男もまだ現れてはいない。いや、いるには居るのだが、年の離れた評判の宜しくない男ばかりでステファニーも閉口していた。
まだ十七だというのに。お可哀そうに。私が生きている間はお仕えしてお守り出来るだろうが。
先々代から仕えるジョンには孫の様なステファニーが不幸になる姿だけは見たくはなかったし、自分がいなくなった後も健やかに生きていけるような筋道が整えられるのを見届けたかった。
+++
ノルトン侯爵家のパーティーには、ロンディニアの著名な人物が多数参加していた。貴族はもとより、作家に芸術家、音楽家に学者。貿易で財を成した貴族のパーティーは活気に満ちていた。
「ステファニー、体の調子はよろしくて?」
鴉の様な漆黒の髪の赤と黒のドレスの女性に呼び止められて、ステファニーは振り返った。
「マルグリット。あなたのお薬のおかげで調子が良いわ。ありがとう」
「あの薬は調子を整えるだけのものよ。あなたの病を治すものではないの。無理はなさらないで」
マルグリットと呼ばれた若い女性は気づかわしげに言う。
「お気づかいありがとう。でも本当に調子がいいのよ。こんなお薬を頂いていいのかと思うくらい」
「この国に来たてで戸惑っていた私をいろいろと助けていただいたのだもの。たいしたことは無いわ」
二人が会話する側に、周りとは少し雰囲気のことなる一団がいた。黒の礼服に身を固めてはいるが、東洋人と思しき彼らは少し周囲から浮いて見えた。
「あら、あれが扶桑の大使かしら。あの大使の横にいるのが例の時計の方ね」
一団の中で頭一つ背の高い男性をマルグリットが見つめる。
「マルグリットったら、覚えてらしたの」
ステファニーの屋敷にマルグリットが来たときに、時計の紳士の話をしたことがあった。マルグリットは、すたすたとその大使の一団に近付いていく。ステファニーは何をするつもりなのかと見送るしかなかった。
「日の昇る扶桑の国の大使とお見受け致しますが、相違無いでしょうか?」
笑顔のマルグリットに話しかけられて、少しきょとんとした顔で皆マルグリットを見つめた。
「私が、大使の山本と申しますが、お嬢さんは?」
「申し遅れました。私は、マルグリット・ド・ケイースと申します」
「ケイース?」
大使に側にいた時計の紳士が耳打ちした。
「ああ、フランク共和国の」
「その国の対岸の島にあるケイース侯国ですわ。大使」
そのケイースの貴族が何の用なのか、一同マルグリットを見つめている。
「そちらの紳士のお姿は毎朝お屋敷の前を通るのでお見受けしておりましたので、一度お話を伺いたく思いまして。ねえ、ステファニー?」
マルグリットが振り返ってステファニーを見る。少し離れたところにいたステファニーは、急に名前を呼ばれて狼狽えた。
「え、ちょっと、マルグリット」
恥ずかし気にマルグリットに近付いたステファニーを、マルグリットは時計の紳士に紹介した。
「毎朝八時にお屋敷の前を通り過ぎていると思いますが、そのお屋敷の主のダルトン子爵令嬢ですわ」
時計の紳士は、ああ、あの屋敷の、という顔でステファニーを見つめた。顔を上げたステファニーを見たその顔に、はっとしたような表情が浮かんだ。ステファニーの方は気恥ずかしくもじもじとした様子でいたが、
「ステファニー・ダルトンと申します」
と小さな声でそれだけ言った。
「私は、大使付きの秘書官の雲野正史郎と申します」
そんな二人の様子をマルグリットはにやにやと笑いながら見つめていた。
それからは、時計の紳士、雲野はステファニーの屋敷の前を通るときに、帽子を取って一礼してから通り過ぎるようになった。
「マルグリットったら、もう余計なことをするんだもの」
ジョンに愚痴を言うステファニーだったが、言うほど余計だとは思ってはいないようだった。雲野の方も、時折ステファニーへ花を贈ったりするようになり、やがては屋敷に招かれてお茶をするようにもなっていった。
+++
「お待たせしました。マルグリット様」
マルグリットが借りている郊外の屋敷と言うには質素な家に、一人のメイドが訪ねてきた。そのメイドはステファニーの屋敷に通いで勤めていた。
「どう、様子は」
「特に変わりはございません。扶桑の秘書官が時折訪ねてくるようになりました」
「あら。そうなの」
面白そうにマルグリットが笑みを浮かべる。
「扶桑の秘書官とステファニー様を引き合わせて、何か思うところがあるのでしょうか?」
「いえ。別に。私もそう頻繁にあそこには行けないし、退屈そうだから話し相手でも作ってあげたかっただけ」
マルグリットの返事にメイドは眉をひそめた。
「秘書官以外に訊ねてくる者は?」
「今の所特には。例の貴族からは手紙が定期的に届いているようです」
「そう。しつこいわね。ステファニーまで手を出そうと思っているのかしら」
マルグリットは、ケイースで使用する商船を造船を手掛けていたダルトン家が所有する企業へ発注していた。ダルトン家は、国の戦艦の建造も手掛けていたが、それに関わる機密文書を漏らしたと疑いを掛けられて、建造は中止になり、かかった費用は自己負担となって連鎖的に他の案件にも影響がでた。あおりを食ったのがマルグリットで、船は出来上がらないし、払い込んだ費用も回収できなかった。
ダルトン家を陥れた者がいることは分かっていた。商売敵のその実業家はなかなかしっぽを出さなかったうえに、いまはステファニーにちょっかいをかけていた。没落しているとはいえ、まだ貴族らしい生活を送れる程度には資産が残っており、造船事業の全ての権利を手放したわけでもなかったので、それを狙っているのかもしれない。
「まあ、いざとなったら報いを受けてもらうことにはなるでしょうけど」
嫣然と微笑むマルグリットに、メイドは少し震えた。
+++
「君は最近、ダルトン家のご令嬢に入れ込んでいるそうだね」
大使に呼ばれた雲野は戸惑った。
「入れ込んでいるなどと、そんなことは」
「不幸な身の上ではあるし、若くてあの美貌だ。哀れに思う気持ちも分かるが、あのご令嬢はちょっと面倒な立場なのだよ」
「面倒とは?」
「我が国はブリタニアへ戦艦の建造を依頼しているが、戦艦の建造はダルトン家も関わっていたのだそうだ。だが、失態を犯したとかで、その事業からは外されてる。そういう立ち位置の家のご令嬢に我が国の秘書官が関わっているというのは、その、なんとも外聞が悪いのだよ。それに、何か、変に勘繰られても困る」
「私が間諜の類に見られると」
「……そこまでは言わぬにしてもだ。自重してもらいたいということだ」
+++
「これは、扶桑のガラス職人に作らせた花瓶です」
雲野は、木箱からガラスの花瓶を取り出した。円筒形の青いガラスの花瓶には、大小二匹の蝶が描かれていた。
「まあ、美しい花瓶ですね」
ステファニーはテーブルに置かれた花瓶を見てため息をついた。
「輸出用にと国が出資した工房があるのですが、そこの職人に面白い工夫を凝らす者がいて、贈答の品だと言うと凝った仕掛けを施したのだとか。これを二つ並べ水をいれて陽に当てると良いとのことですが、もう一つはまだ扶桑から届いておりません。ですが、一つ届いたのであなたに早く見せたくて持参いたしました」
雲野の言葉に、ステファニーは少し照れて顔を伏せた。
「……それと申しますのも、実は、私は国へ帰らなければならなくなりまして」
「え?」
顔を上げたステファニーに、沈痛な表情の雲野の姿があった。
「戻ってこられるのですか?」
「それは……。早いうちに職務に戻れるよう、願い出てはおります」
「……そうですか」
+++
マルグリットは、一時ケイースへ戻って、ブリタニアでのことを報告することになった。名目上は留学となっているが、侯国というのは名ばかりで公に認めている国も少なく、独自に外交官などを置いているわけでもない。マルグリットが外交の役目も果たしているのだった。
そうして国元で雑事に煩わされているマルグリットの元へ、ある日電報が届いた。
―ステファニー暴漢に襲わるー
それだけの短信。国際電話などまだなく、ケイースとフランク、大陸の間には通信用のケーブルも敷設されていなかった。この電報はブリタニアのロンディニアからフランクのパリシを経由してナンまで来て、そこから配達されて船便で届いたものだった。発信されてから二日経っていた。
どういう状況なのかまるで分からない。直ぐにブリタニアへ向けて発っても、最速で三日はかかる。ケイースから船で直接ブリタニアへ向けていければ二日で着くだろう。そのための船はそのブリタニアへ発注したのだが、造られる目途は立っていない。
イライラと落ち着かない公務という時間を経て、ブリタニアへ向けて発ったのはマルグリットが最初の電報を受け取ってから三日経っていた。その間に続報も来たが、怪我を負ったステファニーの容体は思わしくないというものだった。
マルグリットが急いでロンディニアに向けて出発し、着いたのは四日後。途中、船便や汽車などで遅れが出たのだった。ステファニーが暴漢に襲われてから十日過ぎていた。
「私の最後の仕事がこんなことになるとは残念極まりございません」
ジョンの声はさしている傘への雨音で掠れて聞こえた。
「私が残っていればこんなことにはさせませんでした」
「マルグリット様が責任をお感じになることはございません」
マルグリットは花束を墓石の前に捧げた。
「雨に濡れてはお体に障ります」
ジョンが差し出す傘の下で、ベールに隠れたマルグリットの表情は伺えなかった。
+++
マルグリットが復讐を果たすのはそれからかなり時を経た、世紀をまたいだ後になる。マルグリットといえども他国の権力者へ迂闊に手を出せなかったからだった。周りのことを顧みないのであれば、直ぐにでも果たそうと思えばできたのだが、大国間で綱渡りをするような危うい立場ではそうもいかなかった。
※ ※ ※
「この絵に描かれた花瓶と似たものをロンディニアの下宿近くで見かけたことがあります。ちょっと、模様が違うような気もしますが」
しげしげと、ステファニーの肖像画を見ていた林三郎が言った。
「あら。そうですの。よろしかったら、お帰りになったときにお買い求めていただけますでしょうか」
「え、私がですか?」
「ええ。お金はこちらで都合を付けますので。是非に」
「……はい。承知致しました」
娘の黒い大きな目で見つめられて、林三郎は断るということが出来なかった。
+++
店の前で配達夫から荷物を受け取った娘は、送り主を見た。ロンディニアの雲野林三郎からだった。店に戻って、ロンディニアから届いた荷物を開けると、木箱に入ったガラスの花瓶だった。
娘はそれを入口と反対側の窓の際へ持って行って、それを窓の下の棚に置くと、店から奥の部屋へ行き、もう一つ、花瓶を持ってきた。窓辺に置いたものと同じ大きさで、色と模様が異なっていた。
その二つの花瓶を並べて、娘は水差しで水を注いだ。窓のカーテンを細く開けて、重なるように並べた二つの花瓶の間を日差しが通るようにした。
すると、廊下に花に群れる蝶の姿が浮かんだ。その下に、文字も。
Lovin' You
と。
「まあ。堅苦しい機械仕掛けの様な方が、ロマンティックですこと。これを見て、あなたがどんな表情をするのか、見て見たかったわ。ステファニー」
肖像画を見上げて娘は言った。その顔はどこか寂し気に見えた。




