Episode.1 死の接吻
女神が残したサンダル。フランクとイスパニアの間の海に浮かぶケイースは、その島の形からそう呼ばれていた。
島は様々な国々に翻弄され、20世紀の大戦時には大きな損害を被ったが、今はフランク共和国の保護領となって、顧みられることも無く存在していた。
秋の昼下がりの波止場。グレーのコートに、頭にはスカーフを巻き、サングラスをした女が辺りを気にしつつ波止場の通りから市街地へ入ってゆっくりと石畳の坂を登っていく。
ケイースの旧市街。石造りの古い家並が続く。少し急な坂を登り終えた女は少し息が上がっていた。ふと振り返ってみると、眼下に波止場とその先の海が見えた。その景色の良さに束の間眺めていたが、我に帰ったように道を進む。
やがて、目的の場所へと来た。木々に半ば埋もれるように石造りの壁にガラス戸だけが瀟洒な、何かの店の様だったが看板のようなものも無い。
女は迷わずそのガラス戸を開けて中に入っていった。中は雑多ながらくたのように見える物で溢れていた。古い椅子にテーブル。壁の棚にはカップや皿に人形。隅には本棚。中央のテーブルの前で、花瓶に花を活けている白いブラウスに茶色のロングスカートという地味な服装の娘の姿があった。
「あの、精霊の宿ってここよね?」
明るい戸外から薄暗い店内に入った女はサングラスを外して、その娘に訊ねた。
「どんな御用?」
無表情な娘はそれだけ言った。長い黒髪を束ねて、整った顔にすこし垂れた黒い大きな目は、愛らしいと言えたが、全体に冷たい雰囲気を漂わせていた。
「……昔、祖母から聞いたのだけど。あまり、人に言えないような悩みを聞いてもらえるって」
女の声はどこか懐疑的な響きがあった。
「この島の出なのね。コインはお持ちなのかしら」
娘に言われて、女は手に持ったバッグからコインを取り出して、娘に渡した。娘をそのコインを人差し指と親指で挟んで目の前にかざすように持った。コインにはティアラをした女の横顔が、反対側にはⅢとその下に1776という数字が刻まれていた。
「良いわ。話を聞きましょうか」
コインを女に返した娘が言った。
「あなたが?」
「ええ。不服なら他を当たってもかまわないけど?」
娘は表情に似合わない、妙に甘い響きの声で言う。
「……いえ、構わないわ」
娘は店の奥から別の部屋に入った。女も後に続いた。そこは狭い窓も無い部屋で、小さな四角いテーブルが一つに、椅子が二脚。部屋の隅にあるスタンドランプが薄暗い部屋を照らしていた。
娘は扉から奥の方の椅子に腰かけて、女を見上げた。女はその向かいに座った。
「何から話せばいいかしら……」
「ここに来た理由でも、身の上話でも。お好きに」
娘は初めて口の端に笑みのようなものを浮かべた。
***
私は、子供の頃はこの島にいたの。この店の前を通ったこともあるわ。大戦で父が亡くなって母と祖母と暮らしていたけど、この島では暮らしていけないと、島を出ることにした。先に出ていた親戚を頼ってね。
フランク共和国へ渡って、農場で母が働いて暮らすことになった。同じようにこの島から出た人たちと一緒だったんで、貧しかったけど、ここで暮らしていくよりはましだったと思う。祖母はこの島へ帰りたがっていたけど。
学校も行っていたけど、殆ど農場の手伝いをしていた。高校を卒業したくらいの頃に、農場主の息子の友人と言う人が遊びに来た時に、私を見初めて口説かれたの。私とは不釣り合いだと断ったし、周りも反対したけど、彼は聞き入れなくて。
それで結婚。身内からは玉の輿だとか言う人もいたけど。まあ、彼も最初は優しかったし、慣れない生活だったけど、貧しい暮らしからは抜け出すことは出来た。
そう。三年くらいたった頃から、彼が変わり始めた。パーティーとかに連れていかれてもマナーがなっていないとか言うようになったり。仕方ないでしょ。田舎娘なんだもの。それからは独りで出かけるようになって、酔って帰ってくることが多くなった。どこで覚えたのか、アロママッサージとかを寝る前に私にするように言ったり。もうそれからは妻というより使用人みたいだった。気に食わないと殴ったり。
それだけでも耐えられなかったのに、最近では、合衆国から来たって言う、画家の女を家に連れ込んだりして。
何時も何か食べてて、口の端にナッツバターとか付いてるような品の無い女よ。見た目は、男の視線を集めそうな、ちょっと淫らな感じ。そんな女が泊っていくのよ。もう彼と生活していくのは無理だと思ったわ。
そんな時に、祖母から昔聞いた話を思い出したの。ケイースには気まぐれだけど願いを叶える魔女がいて、先祖から伝わるコインを持っていけば、願いを聞いてくれると。
祖母はもう亡くなっていて、私は祖母の形見として、古いコインを貰った。母も祖母から昔話は聞いていたみたいだけど、おとぎ話だと言ってたわ。だから、コインは私が貰った。もし、何かの時には役に立つかもしれないと思って。子供だったし。
***
「それで、あなたは、その旦那さんと別れたいってことかしら?」
娘が聞いた。
「え、ええ。そんなことができるなら。私の口からそう仄めかしたら、怒り狂って暴れたこともあるのよ。私の事を言うことを聞く所有物だとでも思っているでしょうね」
女はスカーフをした左ほおに手を触れた。
「そのうち、あなたを振ってその女の画家と暮らすとか言うようになるかもよ?」
「そうね。でもその前に私の身が持たないかも」
娘は、不意にすっと立ち上がると、部屋の隅にあった箪笥の引き出しを開けて、何かを取り出すと持ってきた。
「スカーフを外して」
静かだが、妙に逆らえない言葉だった。女はスカーフを外した。その左の頬骨のあたりから耳へかけて青黒くあざが出来ていた。
「酷く殴られたのね」
娘は持っていた丸いケースを手で開けた。白い軟膏のようなものが入っていた。それを指先に付けると、女の頬に塗っていった。
女は娘の冷たい指先の感触に少し震えた。顔を近づけて薬を塗る娘の様子は艶めかしくさえあった。
「これでいいわ。明日には腫れも幾分引いているでしょう」
「あ、ありがとう」
女の顔に赤みが差したのは、気恥ずかしさだけでもなかった。
「そうだ。あなた、旦那さんにアロママッサージをするのだったわね。いいものがあるわ」
娘は薬のケースを持ってまた箪笥の前に行くと、引き出しから小瓶をとりだして持ってきた。
「これを、マッサージの時に塗るといいわ」
娘が女の前にかざしたのは、ガラスの小瓶に入った、琥珀色のオイルのような物だった。
「これは?」
「アロマオイルよ。あなたの悩みを解決する」
娘はふふっと妖艶な笑みを浮かべた。
「……毒なの?」
「不貞を働く者にはね。これを塗っただけでは何も起こらないわ」
意味深長な娘の言葉。
「おいくらかしら」
「そうね。六百フラン。二百ドルでもいいわ」
女はバッグから財布を取り出して、六枚数えて渡した。
「この、塗ってもらったお薬は?」
「それはいいわ」
娘は立ち上がると、部屋のドアを開けた。二人は部屋を出て店に戻った。女はスカーフを被り、来た時と同じようにサングラスをかけた。来た時よりも気持ちは大分落ち着いていた。
「ありがとう。だいぶ楽になった気がするわ」
「そう。あなたの未来に幸あらんことを」
店を出る女に、娘はそう言って笑った。
***
春まだ浅い港町には冷たい風が吹いていた。トレンチコートの襟を立てた男が独り波止場を歩いていた。男は港町の広場の中央の、石の台座に片足で立つ女神の銅像を眺めた。ケイースの観光案内でかならず取り上げられる名物だった。十八世紀の彫刻家が作ったというもので、ケイースが女神が残したサンダルだという伝説をモチーフにしていた。キトンのような服を着て、東洋の天女を参考にしたという布を纏い、両手を広げてふわりと片足を付けた女神の銅像。何故か鳥が止まったりしないという銅像は汚れも無く輝いていた。
トレンチコートの男は眉間に皺の寄った、眉毛の下の細い目でしげしげとその銅像を眺めていた。思っていたよりも小さい、というのが男の感想だった。ほぼ等身大くらいだろう。
銅像の前では写真を撮っている東洋人がいた。その横では学生らしい男女が数人、銅像を指さして何か話していた。
男は広場を横切って、市街に入ると、坂道を登りかけてふと横道を見た。なだらかに下るその道は市街を抜けて耕作地に続いているようだった。
男はそちらへ歩を進めた。石畳の道は家並みが途絶えると砂利道に変わった。しばらく歩くと、鍬を手に畑を耕す女の姿があった。そちらへ近づいていくと、女は何か鍬の先に当ったのか、拾い上げるとそれを畦道と畑の間にある溝に放り投げた。男がそれを見ると、円錐形の金属でも出来ているような、明らかに人の手によるものだった。よくよく溝を見ると、同じようなものが大小いくつも転がっている。
「それは、なんだね?」
男が畑の女に話しかけた。女は手を休めて、ゆっくりと振り返った。日に焼けて皺の多い顔だったが、それほど老女ということもない女だった。
「え? これかい。砲弾だよ」
女はそれだけ言ってまた鍬を手にした。
「ほうだん?」
男は溝に近づいてみた。円筒に円錐を組み合わせたようなそれは、確かに砲弾だった。
「どうしてこんなものが」
「大戦の時の置き土産さ」
「大戦て、四半世紀は経ってるだろう?」
女は顔を上げて男の方を見た。
「この島中あちこちに埋まってるよ。そこらへん掘ってもみつかるだろうさ」
「それを、そこに放っておいていいのかね?」
「そこに投げときゃ、屑鉄拾いが拾ってくさ」
女は話は終わりとばかりに鍬を手にした。男はしばらく溝の砲弾を見ていたが、やがてそこから離れて歩き出した。
しばらく歩くと、緩やかに上る道が右手に見えてきた。男は右に折れて歩き始めた。すると、驢馬にひかれた荷車がゆっくりと向かってくるのが見えた。荷車の傍に、腰の曲がった老女がゆっくりと歩いている。通り過ぎるときに荷車を覗くと、先ほど溝で見た砲弾やそれより大きな爆弾と思しきものも見え、荷台の後ろには子供が一人ちょこんと腰かけて足をぶらぶらと揺らしていた。
子供は男の顔を無表情でしばらく見ていたが、畦道に降りると、何か拾上げて荷車に放り投げ、また座って足をぶらつかせた。男はそれを見送って、首を振りながら歩を進めた。
男は緩やかな丘の上に立って、あたりを見回した。先ほど歩いてきた道の方向は、大小の畑がひろがっている。その間にぽつぽつと赤い瓦屋根の農家が見えた。反対側には港街がみえるはずだが、昔の城塞跡で視界は塞がれていた。道は途中から石畳に変わっている。男は石畳を歩いて、城塞跡から市街に入っていった。
しばらく歩くと、目的のものが見えてきた。石壁にはめ込まれたガラス戸。店のようだが、看板などはでていない。男はそのガラス戸の前に立った。カーキ色のトレンチコートに中折れ帽を被った男の姿が映っている。
男は扉を開けて中に入った。何か、アロマのようなものの匂い。家具や古い本に人形や陶器の類が並んだ壁。それを一通り眺めていると、奥の方から白いブラウスにロングスカートの店員らしき娘が歩いてきた。
「何か御用かしら?」
表情の無い顔で娘は聞いた。
「ここは、何屋なんだ?」
「そうね。骨董品を扱っているから骨董品店かしら」
男はあきれたような顔で娘の顔を見た。
「まあ、いい。ちょっと訊ねたいことがあってきたんだが、ここに、この女はこなかったかね?」
男はコートから写真を一枚取り出して、それを娘に差し出した。娘はそれを受け取って眺めた。耳が見えるくらいに短く切った髪。整った顔立ちで美人と言えた。
「さあ。知らないわね。あなた、刑事か何か? この島でもここの国の人でもなさそうだけど」
娘はそれを男に返した。
「ジャック・ルグラン、刑事だ。合衆国のな」
男は手帳を娘に見せた。
「先月、ニューアークのホテルでフランクから来た資産家が死んだ。死因がよくわからなかったが、一緒にいた女が言うには食後に部屋で休んでいて、急に苦しみだしたと。キスの最中にな。持病もなく、その様子からは毒殺を疑われて、女が逮捕された。が、証拠は見つからなかった」
「写真の女が、その逮捕された女なの?」
「いいや。写真の女は、死んだ男の妻だ」
「あら。じゃあ、死んだ資産家は、妻では無い女と一緒にいたってこと?」
「そうだ。愛人と一緒に旅行に出かけたというわけだな。女の故郷は合衆国だ」
「それなら、奥さんは関係ないのではなくて?」
娘が表情を伺えない顔で男を見つめる。
「俺の祖先はフランク王国の出でな。この島の向かいの土地に住んでいたそうだ。ばあさんからこの島の話を子供の頃に聞いたことがある」
男はガラス戸の向こうを眺めながら話し出した。
「ケイースの女には気をつけろ、とな。島には魔女が居て、島の女は魔女か、魔女とつながりがある。裏切った男の事はゆるさないし、時には死をもって償わせる、ってな。死んだ男の妻は、この島の生まれだった」
それを聞いて、娘の顔に表情が、笑顔が浮かんだ。
「まあ、それだと、魔術を使って夫を呪い殺したとか思っているの? 刑事さん」
「魔術か。そんなものかもしれんな。遅効性の毒かもしれん。ここは、島の薬草なども扱っているそうだな? この島ではこの店の事は知らんものはいないのだろう? マルグリット・ド・ケイースというのは、この店の店主か? まさか、君の事か?」
「マルグリットは祖母の名よ。今は寝たきりで臥せっているわ。お会いになる?」
にやにやと笑いながら娘が言う。
「いいや。いい」
男は眉根の皺をより深めてそう言った。
「じゃましたな」
刑事はガラス戸を押して出ていった。
何も証拠はない。資産家の妻がこの島に来たという記録も見つからなかった。妻は夫が死んだ土地から海を隔てた別の国にいて、一週間も顔を合わせていない。毒物なども見つかってはいない。ただ、妻は愛人と出かけた夫の死で、子供もいない資産家の夫の財産をすべて手に入れた。愛人に殺人の疑いを抱かせて。
気に入らねえな。
刑事は帽子を被り直し、緩い石畳の道を下って行った。




