追放聖女、無力を嘆く
王都周辺に魔獣の大群が現れた翌朝、筆頭聖女エリザベスは神殿での務めを放り出し、王城の自室に引きこもっていた。
表向きは『祈祷による疲労がたたり静養』と、神殿は発表した。
しかし、王城の奥深く、エリザベスの自室からは、誰が説得しても開かぬ扉の向こうから、泣き喚く声が響くばかりだった。
「なぜ……わたくしが……こんな目に……!全部、あいつのせいよ……!」
巡礼が失敗し、魔獣の侵攻が始まった――それは、エリザベスの力不足だと受け取られてもおかしくなかった。
責任を問う声が市民の中に芽吹き始めており、エリザベスはその声に耐えきれなかったのだ。
王もまた、決断を先延ばしにしようとしていた。頼みの綱のレオンハルトが去ってしまった。
彼に殴られた際に、つい口にしてしまった『帝国に救援を求める』という案が、王の脳裏をよぎる。
現実的な打開策ではあるが、あの野心に満ちた皇帝がこの機会を逃すはずがない――そう思うと踏み出せなかった。
だが、もはや時間は残されていなかった。
「……王よ、無念ではありますが、今こそ決断を」
老いた宰相が重い口を開いた。
「このままでは、王都は――いえ、王国そのものが崩壊します。帝国に救援を求めるしかありません」
王は顔をしかめた。帝国に頭を下げることは、独立王国としての誇りを捨てるに等しい。
だが、民の命を前にして、その誇りはもはや盾にはならない。
「……伝令を。帝都へ急ぎ使いを出せ。民を――救ってほしいとな」
夜半、王都を発った使者は、冷たい夜風の中を東へと走り出した。その速度は、王国の命運がかかっていることを物語っていた。
――三日後の朝。王都の空に、黒と朱の旗が翻った。
帝国の騎士団が到着したのだ。
統一された漆黒の軍装。無駄のない隊列。一糸乱れぬ動き。
王都の門をくぐった見慣れぬ一団の威風堂々としたその姿は、普段であれば民たちに畏れを抱かせたに違いない。
だが今、疲弊しきった王国騎士団と市民の目には、まさしく天の助けと映った。
「帝国軍……本当に来たのか……」
兵のひとりが呆然と呟いた。
戦闘が始まると、民は帝国軍の統率された動きに圧倒され、息を呑んだ。
帝国の騎士たちは、まるで最初からこの場を支配していたかのように機敏に動き、魔獣を着実に仕留めていく。連携攻撃、陣形、援護体制――すべてが研ぎ澄まされていた。
彼らの動きには一切の迷いがなく、王国騎士団が何日もの間必死に押し返していた魔獣の波を、瞬く間に鎮めていった。
王国騎士団の若者が思わず口を開く。
「あの動き……あれが本物の軍隊ってやつか……」
彼の顔には、悔しさよりも純粋な感嘆が浮かんでいた。
市民の間にも安堵の色が広がっていった。あれだけの魔獣に怯えていた昨日が嘘のように、静かに討伐が進んでいくのだ。人々は帝国軍に、希望を重ね始めた。
魔獣の討伐が完了したのは、その日の夕方だった。
被害は出たものの、最小限に抑えられたことに、王は安堵の息を漏らした。だがその安堵も、帝国将のひと声で霧散する。
「陛下、魔獣の再侵攻が予測されます。我ら帝国軍は、しばし王都に駐留させていただきます。安全確保のため、行政と治安維持に一部介入すること、ご了承ください」
それは命令に等しく、王には拒否する術もなかった。
王はうなずくしかなかった。王国の騎士団も、もはや対抗できる力を持たない。
民の安全を考えれば、帝国の提案を飲むしかない。
数日後、帝国軍の詰所が王都の中に設けられ、巡回路が整備され、街の混乱は急速に収まった。
だが同時に、王の権威は見る影もなく落ちていった。
市民たちは口々に言うようになった。
「帝国が来てくれて、本当に良かった」
「最初から聖女様じゃなくて、皇帝陛下に祈るべきだったのかもしれんな」
「……このまま、帝国の傘下に入ったほうが平和なんじゃないか?」
やがて噂は囁きから確信へと変わる。
王城の衛兵より、帝国兵に道を譲る市民が増え、彼らの物言いは日増しに堂々たるものになっていった。
王国はゆっくりと――だが確実に、帝国の影に覆われていった。