追放聖女、祖国を案じる
「……また来たの?」
窓際のテーブルに湯気の立つ紅茶を置いた私は、思わずため息をこぼした。
小鳥のさえずり。ハーブの香り。ふわふわのクッションに腰をおろす黒髪の男は、私のために用意したクッキーをもう三枚も平らげている。
「皇帝陛下って、案外暇なのね……帝国の政務は?」
「最優先事項の視察任務中だ。異常なほど魔素が浄化され、魔獣が減少している地帯をな」
にこりともせず、けれどどこか楽しそうにそう返す彼――皇帝陛下カイゼルは、ずいぶん前からこの森の小屋に何度も足を運んでいた。最初こそ私も驚いたが、今ではもう慣れた。
「そっちこそ、人の手も入らぬ深き森にて、随分と優雅な隠居生活を送っているな、元・筆頭聖女殿?」
「……それ、人違いだと思うなあ。私、たまたまたどり着いた地でおとなしくハーブ栽培とかしてるだけだし」
「ふふん。ではそのハーブで作った茶を飲みながら、“おとなしく”帝国中の魔獣を沈静化させてるのか?」
「……日課のお祈りしてるだけよ。やらないと落ち着かなくて」
私はそっぽを向いて口をとがらせる。彼の笑みが少しだけ深くなったのが、悔しい。
「そういえば、王国……まずいことになってるらしいぞ」
「……え? もしかして、ハルが大暴れしてる?」
「ハルって……ああ、例のお前の護衛騎士レオンハルトのことか。違う、向こうでも魔獣が出始めてるようだ」
「……なーんだ、そんなこと。じゃあ大丈夫。ハルがいるもん」
「信頼してるんだな」
「……腕だけはいいからね。精神面は……ノーコメント」
「護衛騎士レオンハルトといえば、その完璧な立ち居振る舞いで、王都の女性たちを魅了していると聞いているが」
「……あいつも私と同じ…いや私以上に猫かぶってるのよ」
森の静けさに身をゆだねながら、それでも王国のことが気にかかる自分に、小さく息を吐いた。
◆
「ま、魔獣だぁああああ!!」
「また現れたのか!? 王女様が巡礼してるって話だろ!? どうなってんだよ!」
「まさか、投げ出して王都に戻ってきてるって噂、本当だったのか」
「結界があるはずだろ、あれがあれば魔獣は――」
市民の叫びが響く中、駆けつけた騎士団は完全に混乱していた。
長年、王都を守ってきたはずの結界が──まるで蜘蛛の巣のように、亀裂を広げていく。
急遽集められた聖女たちが必死に補強を試みるが、その間にも魔獣の群れが雪崩れ込んできていた。
「だ、だめだ……数が多すぎる! レオンハルト殿はどこだ!?」
魔獣が咆哮するたび、騎士たちはその名を叫んだ。
そして、その時だった。
「──俺は、今、気が立ってるんだ」
いつもの柔和な笑みはそこになく、低く、怒りを押し殺したような声が風を裂いた。
一瞬時。
巨躯の魔獣の胴が、無慈悲に真っ二つに裂け、血煙が空に舞い上がる。
現れたのは、銀の鎧に深い青のマントを纏う男
王国一の剣士──レオンハルト。
「嬲り殺してやる……」
「っ……!?」
その瞳は、まるで理性を失った猛獣のようだった。
普段は温厚で知られる男の、狂気すら孕んだその気迫に、周囲の騎士たちは息を呑む。
「あ、あのレオンハルト様が……!? 魔獣より怖いんじゃ……!」
彼は、迫りくる魔獣たちを次々と一撃で屠っていく。
血と魔力が飛び交う中、なおも怒りは収まらなかった。
「……王族を、玉座の間へ連れてこい」
「はっ、承知!」
今、この場でレオンハルトに逆らえる者など、誰一人としていなかった。
騎士たちが走り去るのを見届けると、彼は静かにマントを翻し、玉座の間へと向かう。
──まず、引きずられるようにして連れてこられたのは、王女エリザベスだった。
「な、なんなのよ! 離しなさいよ!」
捕らえた兵士たちを睨みつけ、金切り声を上げる。
「あっ、レオ!! 助けて! こいつら急にきて、私に無礼を――」
だが彼女の声に、レオンハルトは微動だにしない。
その瞳に宿るのは、ただ冷たい怒りだけだった。
「……うるさい、無能女。リリィをどこにやった?」
「レオ……?」
声の調子が変わった。怯えの混じるそれに、レオンハルトは一歩、歩を詰める。
「リリィを、どこにやった」
「し、知らないわよ! あの女なんか!」
「シラを切れると思っているのか。答えろ。……でなければ──」
「ひっ……! ほ、ほんとうに知らないのよ! ただ、“戻ってこられないような場所”に飛ばしてって頼んだだけ! 詳しいことは、術者に任せたんだから!」
泣き喚く彼女に、レオンハルトはもはや興味を失ったように顔を背けた。
そして次に現れたのは、王その人だった。エリザベスの父にして、この国の主。
「な、何のつもりだ! これは王に対する反逆だぞ!」
怒声が玉座の間に響き渡る。
だが、レオンハルトの視線は冷えきったままだ。
「この結界の不備……どういうことか、説明してもらおうか」
「わ、わしは何も知らん! 結界のことは神殿の管轄だ!」
「……お前の、無能な娘が。筆頭聖女を、勝手に追放した。それがこの結果だ。どう責任を取るつもりだ?」
「いなくなったのは、ただの平民だろう! 問題にするほどのことか!」
瞬間、音を立てて頬に拳が走る。
玉座の王が──殴られた。
「と、とらえろ! この者、不敬罪である!」
兵士たちが躊躇いがちに剣に手をかけたその瞬間、レオンハルトは嘲笑を含んだように言い放った。
「……ふん。俺を捕らえる? この結界、どうにか張り直せたようだが、長くは持たんぞ。俺を排除して……誰が魔獣に対応する?」
「う、うるさい! おまえなんかいなくても……帝国から、援軍を──」
その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの目が、静かに見開かれた。
「……帝国?」
「帝国に、そんな余裕があるか?」
騎士の誰かがつぶやいた。
「いや、最近は魔獣の数が減ってるって話もある……」
その言葉に、レオンハルトの動きが止まった。
「……帝国の魔獣が減っている?」
「は、はい。原因は不明、ですが確実に減っていると聞きました」
(リリアーナが消えたタイミングで、帝国の魔獣の数が減っている……?)
レオンハルトの中で、いくつかの線が結びついた。
「ずいぶんと遠くに、勝手に遊びに行ってるみたいじゃないか……リリィ」
「……見つけたら、ちゃんと叱らないとな」
ぞっとするほど甘やかな、狂気を孕んだ笑みを浮かべながら、レオンハルトは玉座の間を後にした。
その場にいた誰一人として、彼を止めることなどできなかった。