追放聖女、王国に波紋を残す
清らかな鐘の音が、朝霧に包まれた神殿に響き渡る。
神官たちが静かに祈祷の準備を進める中、一つの異変がざわめきを呼んでいた。
「筆頭聖女様の姿が、まだ見えないのか?」
「はい……今朝、お部屋にもいらっしゃらなかったようで……」
控えの間には、戸惑いを隠しきれない神官たちが集っていた。
本来ならば、今まさに始まっているはずの《暁の祈祷》。
その中心であるはずのリリアーナの姿が、どこにも見当たらない。
代わりに現れたのは、金糸のローブに身を包んだ、輝くような少女だった。
「あら、なにかあったのかしら?」
「それが……」
「ふぅん。逃げたのかもしれないわね。レオ、あなた、何か聞いてないの?」
「お恥ずかしながら、弱音を言い合うような関係ではなくて」
レオンハルトは困ったように、けれど礼儀正しく微笑んだ。
(ふふ、婚約者が消えたっていうのに、ずいぶんと冷静なのね)
「仮にも筆頭聖女ともあろう者が、まったく嘆かわしいわ」
ささやくような声音だったが、その一言は場の空気を凍らせるのに十分だった。
本来、筆頭聖女の失踪は国家を揺るがす一大事。
だが王家の血を引くエリザベスの前では、誰もその深刻さを口にすることができない。
エリザベスは一歩前に出て、静かに告げた。
「待っていても仕方ないもの。今日はこの私が、筆頭聖女の代理を務めましょう」
「しかし……それはさすがに……」
一瞬、ざわめきが広がったが、それはすぐに、期待と安堵の空気に飲み込まれていく。
「むしろ、正式に交代すべきでは?」
「エリザベス様なら、申し分ないお方だ」
リリアーナの内気で頼りない態度に不満を抱いていた者は、思ったよりも多かった。
華やかで堂々としたエリザベスは、まさに彼らの“理想の聖女”に映ったのだ。
エリザベスはその空気を巧みに利用し、ゆるやかに微笑んだ。
「それでは皆様、祈りましょう。神々の御加護が、この国を照らし続けますように──」
その声はよく通り、動作も完璧なほどに洗練されていた。
「さすがエリザベス様……!」
「この国に神の加護をもたらせるのは、やはり王家の血を引く方なのですね……!」
賛辞の言葉が、神殿内に静かに満ちていく。
エリザベスはそれを当然のように受け入れていたが――
その胸の内には、微かな違和感が渦巻いていた。
(……おかしいわね。祈祷って、こんなに……消耗するものだったかしら?)
額にじわりと汗がにじみ、脇腹には鈍い痛みがある。
見た目には気取られていないはずだが、聖具に触れた瞬間、まるで身体の芯を吸い取られるような、重い疲労感に襲われたのだ。
(リリアーナが長年使ってたから、まだ聖具が私に馴染んでないのね。そうに決まってるわ)
自分にそう言い聞かせ、なんとか笑顔を浮かべる。
「……エリザベス様、どうかなされましたか?」
付き添いの神官が心配そうに声をかけるが、彼女はそっと微笑み返した。
「大丈夫よ。初めての祈祷だったから、ちょっと身体がおどろいただけ。なんともないわ」
「そうでしたか。このままリリアーナ様が戻らなければ、次の《聖地巡礼》もお任せすることになりますね」
王国において数年に一度執り行われる《聖地巡礼》。
王族と聖女、神殿関係者が聖地を巡り、神の加護と豊穣を祈る国家儀礼である。
儀式の延期は、許されない。
「ええ、何の問題もないわ。レオ、もちろん付き添ってくれるわよね?」
舞踏会のように優雅な仕草で手を差し出すエリザベスに、レオンハルトは穏やかに応じた。
「もったいないお言葉、ありがとうございます。しかし──
私は筆頭聖女リリアーナの護衛騎士です。忠誠は、一度誓えば永遠。エリザベス様もご存じのはず。
お力になれず、申し訳ございません」
ほんの一瞬、エリザベスの頬が引きつる。
思わず吐き出すように呟いた。
「……もう、真面目なんだから。せっかく、邪魔者を消したのに」
「……エリザベス様?」
いつも好感をもてるレオンハルトのまなざしが、なぜかこの時だけは、どこまでも見透かしてくるような気がした。
「いえ、なんでもないわ。祈祷で少し疲れているだけ。……この話はまた今度にしましょう。もう、部屋で休ませていただくわね」
そう言い残し、エリザベスは静かに退室した。
その背に、どこか薄暗い影が落ちていた。
◆
筆頭聖女の交代は、何の滞りもなく行われた。
そうして迎えた巡礼の日――。
巡礼とは、王国の聖女に課された大切な儀式であり、王都の外れに点在する“聖地”を回りながら神聖なる魔力を呼び起こし、国の加護を強める重要な儀式だ。
数年に一度、筆頭聖女によってのみ執り行われるその儀式は、国中の貴族からも注目される大事な行事。
だが、その重要性を、エリザベス本人がどこまで理解していたかは怪しかった。
「さあ、見てなさい。わたくしの力、思い知るがいいわ」
装飾を施された白銀の法衣に身を包み、聖女らしい気品と威厳を意識しながら、エリザベスは堂々と第一の聖地へと歩みを進めた。
見守る臣下や、共に随行した神官たちの間には、どこか不安げな空気もあったが、誰もそれを口に出す者はいなかった。
――だが、異変はすぐに起きた。
祭壇の前に立ち、両手を掲げ、祈りの言葉を捧げる。
その動きは一見すると問題なく、儀式として成立しているように見える。けれど――
「……っ、なによこれ……!」
身体の奥から、まるで骨を軋ませるような、強烈な疲労感がこみ上げてくる。
視界がゆらぎ、冷や汗が背を伝う。額にはうっすらと青ざめた影が差した。
言葉にこそ出さなかったものの、手足はわずかに震え、祈りの言葉も途中でかすれそうになる。
(こんなに……苦しいなんて聞いてないわ!)
儀式は、形式さえ踏めばどうにかなる。そう思っていた。
だが現実は違った。
神聖力は微かに反応を示すものの、それはまるで、芯を欠いた灯火のように不安定で――
「エリザベス様!?大丈夫ですか」
付き添いの神官の一人が焦ったように声をかけるが、エリザベスは唇をきつく結び、なんとか笑みを浮かべた。
「だ、大丈夫よ。ちょっと疲れが出ただけ。たまたま……そう、たまたまに決まってるわ」
祈りの終わりを告げると同時に、膝ががくりと揺らいだが、それを誰にも悟らせぬよう、意地で立ち直る。
その様子に、誰もがほんのわずかに眉をひそめた。
(わたくしの力が足りていないとでもいうの? あの平民よりも劣ると? いいえ、そんなことはありえないわ)
このとき、誰よりも混乱していたのは、他でもないエリザベス本人だった。
力が足りないという現実。
それを彼女は、必死に「体調のせい」と自分に言い聞かせることしかできなかった。
こうして“筆頭聖女”の巡礼は、なんとも締まらない幕開けとなった。それは、リリアーナの不在が、王国に落とした波紋が、静かに、しかし確実に広がっていく始まりに過ぎなかった――。