1-05 天使のためのエチュード
俺こと鍵山ケンジは、高校生ながら自他共に認める天才ピアニストだ。
幾度となく最優秀賞を獲得してきた実績もある。
コツは簡単。
自分を押し殺して、譜面通りに作業すること。
評価者が思い描く『正解』を奏でれば受賞はできるし、そうして俺は、自分の音楽から楽しさを失った。
そんな折。
有名な音楽家から、「アマチュアのオーケストラ楽団を作ったからピアノを演らないか」と打診が届いた。
同封されていた楽譜を何度も練習して、「何かが変わるかもしれない」と淡い期待を抱いた俺は、会場へと向かった。
だが、その期待は数分で打ち砕かれる。
個々人の実力はあるものの、演奏されるリズムや音のバランスがバラバラで、鑑賞に堪えないものだったからだ。
ピアノを辞退して会場を去ろうとした俺を、しかし遅刻してきた指揮者の女の子が引き留める。
「がっかりはさせないよ。私がいるからね」
俺がピアノを始めたのは、2歳の頃。
中学にあがる頃には、俺には音が見えるようになっていた。
音の一粒にどれだけの抑揚をつけるべきか、その粒をどこで切れば心地良い音楽になるか。
譜面の情報と鍛えられた感性によって奏でられる調べは、当時のコンクールで賞を総なめにした。
高校2年になり当時よりも腕を上げた俺は、麒麟児と、そう呼ばれていた。
なのに。
収容人数300人ほどの小さなコンサートホールに呼び出された俺は、ここ20分程、観客のいないガランとしたホールでほったらかしにされている。
仕方なく観客席の最後列に座っているが、いい加減キレそうだ。
ステージ上には、俺と同年代らしき奏者が30人。
多様な楽器で奏でられるこれは、所謂オーケストラというやつだ。
だが、そのレベルが低い。
リズムも強弱もバラバラで、鑑賞に堪えない。
「……これが本当に、あの天才がプロデュースしてる楽団かよ」
原田玄。
現役時代はトップクラスの指揮者。引退後は複数のオーケストラ楽団を立ち上げて成功させている、凄腕の音楽家だ。
そんな彼が、アマチュアだけの楽団を立ち上げた――が、ピアニストが指揮者への転向を決意。
その穴を埋めるために抜擢されて、俺はここにいるわけだが……。
演奏を聴く限り、どうやらこれは天才のお遊びだ。
「……帰るか」
「あら。やっぱりガッカリした?」
席から立ちあがると、背後から柔らかな声が聞こえた。
ソイツは土曜だというのにセーラー服を着ている150cm程の女の子だった。
見事なまでに黒いミディアムヘアーで整った顔つきをしているが、なぜか数十本のイカソーメンを口いっぱいに頬張っており、台無しだった。
女の子は通路の手すりにヒジを絡ませて寄りかかり、口から半分以上飛び出ているイカソーメンをノーハンドでモッシャモッシャ食べながら、俺を凝視している。
「貴方、鍵山ケンジよね? 私、ファンだったわ」
やがてゴクリと喉を鳴らして、そう言う。
「過去形。今はファンじゃねえのかよ」
「うん。だって今の貴方、音楽を楽しんでないでしょう?」
音楽を楽しむ。俺にそれができたのは、小学生までだった。
本格的に音楽に取り組み、コンクールの受賞に焦点を合わせた俺が気づいた事。
それは、音楽には正解があるということだった。
既存の曲には作曲家の意思があり、正しい表現の仕方がある。
そこに加えられる奏者の意思はただのノイズで、減点に繋がるのだ。
音楽に、オリジナリティは必要ない。
そう気づいたとき、俺の音楽は色褪せた。
「100点の演奏をすれば、それが正解だろうが」
「……思ってたより、ぬるいのね」
と、そこで演奏が止んだ。かれこれ9回目だ。
そうさせたのは、観客席の中央に座るハゲ頭の老人。
彼こそがあの天才音楽家・原田玄だ。
「おいヴァイオリニストぉ! 音の切れ目で気ぃ抜いてんじゃねぇ!」
「ごめんなさい! それより結構前から、先生の後ろに客人が」
「それよりだと? てめぇ音楽以上に大事なモンがあるとでも思ってんのかッ?」
とても老人とは思えない迫力だった。
ピカピカ頭に太い青筋が浮いているのが、遠目でも分かる。
「そーだそーだ! 音楽なめんなあ!」
その頭がくるりと回り、肌色の後頭部が険しいジジイの表情に変わった。
「てめえアカリこの野郎! 指揮者がいねえリハやったって意味ねえだろうが!」
「や。や。ごめんって先生。ケンジ君が迷子になってて、案内してたら遅れちゃったんだあ」
「ん? そこにいんの、鍵山ケンジか。噂は聞いてるぜ、うめぇらしいなピアノが! 良し2人とも! 壇上にあがれ!」
「いや、俺はピアノは」
辞退を告げようとすると、女の子に手で口を塞がれた。
だがその手がイカ臭い。最悪だ。
しかし、手を振り払うよりも先に女の子が言う。
「がっかりはさせないよ。私がいるからね」
アカリと呼ばれた女の子がひらりと舞い、階段へと足を下ろす。
そのまま手を握られ、ほぼ無理やり階段を歩かせられる。
「ケンジ君、ANGELって知ってる?」
「音楽やってて知らないヤツはいねえだろ」
ANGEL。史上最も難易度が高いとされる楽曲だ。
ただ奏でることさえ難しく、観客を楽しませるとなれば不可能――そう言われる曲。
過去に挑戦した奏者は自信を喪失して自死するほどで、曲名に反して、悪魔の楽曲と呼ばれている。
「私はね、ANGELが演りたいの。私が指揮するオーケストラで、不可能と呼ばれる天使に挑みたいの。でも、このままの楽団じゃダメ」
壇上に上がり、俺をピアノの前に座らせニコリと笑う。
「だから麒麟児。貴方の最高温度を、私達に見せてよ」
アカリが指揮台に立ち、指揮棒を握る。
そこにイカソーメンを頬張っていた軽いノリの少女の姿はなく、どこまでも真剣な音楽家の姿があって――。
俺は慌てて椅子の高さと位置を調節し、合図を待った。
一息おいて、アカリがすっと右腕を唸らせる。
曲名は『怒りの涙』。
恋と破局、裏切られた愛への孤独な怒りを謳う曲だ。
喜び・絶望・怒りの3つのメロディで構成されており、世界一長いクレッシェンドと呼ばれる『ボレロ』と同じように、次第に音が大きくなっていく特徴がある。
そのため、序盤は小さい音で始めるのがセオリーだ。
だが、アカリが表現する「喜び」は違っていた。
セオリーが「どこにでもいる少女の小さな幸せ」とするならば、大きく腕を振り、それに従い吹き荒れる音楽は「一世一代の大恋愛を掴んだ幸せの絶頂」。
至近距離で奏でられるホルンとヴァイオリン、その他楽器に空気がビリビリと振動し、体全体がブルリと震える。
「……ここまで変わるのか」
指揮者不在の時と違い、アカリが導く音楽は正直、圧巻だった。
纏まりのなかった音達が一直線に同じ方向を向き、大音量ながらも微細な強弱が、華やかで迫力のある音楽にしている。
やがてメロディは中盤の『絶望』に差し掛かり、いよいよピアノが入る。
俺はいつも通り、周囲の音を見ながら最適な音を弾かせていく。
セオリー外れの『幸せの絶頂』だからこそ映える『絶望』への落差。
それに合うよう、100点の音を選んで指を運ぶ。
だが、しっくりこない。
独奏と違い、オーケストラだからか、それとも――。
しばらくして、楽しそうに指揮棒を振るうアカリと目が合った。
メロディ終盤。『絶望から怒りへの転換期』。
彼女が舌なめずりし、口の形で言葉を発する。
「さあ、楽しむわよ」
その瞬間、雰囲気がガラリと一変した。
音だけでなく、彼女の雰囲気さえも。
天使のように透き通った肌に、見開かれて瞳孔が窄まった目。
悪魔のごとくに笑みを浮かべる口元。
高揚して赤く染まった頬に、しかし体から発せられる雰囲気は『怒り』。
ピアノを弾いたまま、俺の目はアカリに釘付けになる。
アカリは楽器を扱っていない。なのに、分かる。
体全身で演奏して、奏者に目指すべき光を見せてくる。
大胆で、繊細で、もはや音楽を体現した化身。
音楽を操る彼女は言っている。
私についてこいと。
ああ、やばい。
このままじゃ魅了される。
色褪せた自分の音楽より、華やかな彼女を直視していたくなる。
「なんて存在感とエゴイズムだよ」
自分が楽しむために音楽を演る。
なるほど、それで奏者も観客も楽しませることができたなら、それが最強だ。
負けたくない。
俺も、演りたい。
こんな風に、自由に、音楽を――。
ダァン! と彼女の荒々しい指揮に合わせ、咆哮の如くピアノで轟音をかき鳴らす。
アカリの鋭い眼光が向く。ギラついた目に、悦びを宿して。
アカリが俺に向き直り、そうして俺以外の音が止んだ。
体が、熱い。
コンクールでは味わったことのない感覚だった。
体の奥底から湧き出る熱がステージに伝わり、他者の熱と混ざり合って全体の温度を上昇させていく。
クオリティが上がっていく。
指揮棒の動きが小刻みに小さくなり、俺もその要求に応えてピアノの音を弱く、弱く、もっと弱く、さらに弱く――。
やがてリズミカルな動きが徐々に大きくなっていき、ヴァイオリン、コントラバス、トロンボーン、ティンパニ、様々な楽器がアカリの指揮に導かれて、一気に音を爆発させた。
セオリー通りの『孤独な怒り』とは違う、大迫力な『怒りの解放』。
まるで正解とは程遠いのに、これこそが『怒りの涙』だと、思わず叫びたくなる。
「鍵山ケンジ!」
演奏が終わると指揮台に立ったまま額に脂汗を浮かべ、恍惚の表情を残したアカリが叫ぶ。
「私は、絶対にANGELを演る! そのためには私と一緒に、燃え滾るような闘志を表現できる人間が必要よ!」
はあ、はあと荒い呼吸で、アカリが紡ぐ。
「貴方は正直まだまだよ。オーケストラに限っては指揮者を目指す私のピアノにすら及ばない。だけど私に必死で応えようとする貴方を見て、確信した。私が指揮する楽団には、貴方が必要!」
積み重ねてきたピアノの実力を貶されたというのに、いつの間にか、俺の口元には笑みが広がっていた。
アカリの言葉が待ち遠しくてしょうがない。
正解をなぞるだけの、点数で評価されるだけだった俺の音楽がぶち壊されて、俺は今、最高にワクワクしていた。
「死ぬほどの練習曲を奏でて、私と一緒に、燃え盛るような天使を奏でましょう!」