1-03 当て馬だと気づいた転生令嬢は原作通りに追放されたいのに溺愛されてます
行くぞ、修道院!やり遂げろ、当て馬役!
シルヴィは三度の飯より薬学の研究が好きという少々変わった侯爵令嬢だ。
幼い頃、とある薬を口にした途端「これ葛根湯じゃん!」と思うと同時に自分が前世で読んだ少女漫画「アニエスと光のル・レーヴ」の当て馬キャラであることに気づく。
原作ではシルヴィはヒロイン達に横恋慕した結果、ランダルス修道院送りにされるのだが、そこはレアな薬草を育てており、薬学研究も奉仕活動という変わった修道院であるため、シルヴィは修道院送りになりたい。
だが実際に漫画のストーリー開始となると同じ当て馬キャラのディアトに求愛され、ヒロインと結ばれるはずのルードルフからも執着されるようになり、物語がどんどん変な方向に転がっていく…
果たしてシルヴィは当て馬役を全うし、修道院へ行くことができるのか!?
いよいよ今日から物語がスタートする。
そしてシルヴィの計画もまた始まるのだ。
(絶対に原作通りに当て馬役を全うして修道院送りにしてもらわなくちゃ!そして研究ライフを満喫するのよ!)
シルヴィは決意新たにそう思いながら、屋敷の一角に作った薬草畑に水やりを続けた。
燃え滾る決意とは裏腹に、吹く風は春の温かさを纏い、空は澄み渡っていて、爽やかな朝だ。
じょうろから流れ出た水が、さらさらと柔らかな弧を描きながら茂った葉へと降り注がれる。
水滴は陽光を反射してキラキラと輝いていた。
ハハコグサの黄色い花が春の風に揺れているのを見て、シルヴィは満足そうに頷いた。
「よし! 水やりはこのへんで終わりかな」
「シルヴィ様、そろそろ学校へ行く時間でございます。お着替えくだいませ」
「分かったわ」
メイドの言葉にシルヴィは微笑みながら頷くとそのまま自室へと戻ることにした。
「シルヴィ様、毎日ご自分で水やりをなさらずとも、庭師に頼んではどうでしょうか?」
「もう日課だし、育てるのが難しい薬草もあるから自分でやりたいの」
確かにミュレール侯爵家の令嬢がすることではないだろう。だが学校に行く前に薬草の世話をするのが10年来の日課だ。
そう……10年前、自分が異世界転生したと気づいてからずっと続けていることだ。
(まさか私が異世界転生したとか洒落にならないわよね)
シルヴィが7歳の時、両親と避暑に行った先で風邪をひいてしまった。
寒気が止まらず、喉が痛くて頭痛が酷かった。
娘の体調不良に慌てた両親は近隣の村人が頼りにしている若い女性薬師に依頼して薬を用意させた。
渡された薬は独特の香りがしたが、それに何か引っかかりを覚えた。
(この香り……どこかで嗅いだような)
そしてその薬を口に含んだ瞬間、脳天から落雷を受けたように電流が体中を駆け巡るような衝撃を受けた。
懐かしい、よく知っているような味。
独特の匂いと少し甘みのある味。
だけどこの世界では一度も口にしたことのない味。
そしてその正体に思い当たり息を呑んだ。
(これ……漢方薬の葛根湯だわ!)
同時に脳内に目まぐるしく映像が流れた。
部屋のベッドから眺めた空、見慣れた天井、そして枕元に積み重なった『アニエスと光のル・レーヴ』という漫画本を。
その時、これは前世の記憶であることに気づき、前世は神谷琴奈という名前であることを思い出した。
琴奈は子供の頃から体が弱く、ありとあらゆる薬を服用しながらなんとか23歳まで生きたものの、24歳で体調を崩して寝込むようになり、体力の低下と共に治療困難な病気になり、26歳で病死したのだ。
そして自分が「アニエスと光のル・レーヴ」の登場人物として転生したことを理解した。
登場人物も世界観も完全に一致していたからだ。
加えて言うならば17歳になった現在、シルヴィの姿は「アニエスと光のル・レーヴ」に登場するシルヴィ・ミュレールと完全に一致している。
ワインレッドのストレートの髪に、少し丸い形の目。その奥にあるのは鮮やかなペリドットの瞳だ。
顔立ちは整っていないわけではないが、人目を惹くような美人というわけではない。
中肉中背。いかにも平凡な容姿だと思う。
そんなシルヴィの役どころは当て馬なのだ。
「アニエスと光のル・レーヴ」の主人公はタイトル通りアニエスという少女だ。
男爵令嬢であるアニエスが、爵位の高い貴族しか入れないはずの王立学園へ特例で入学したためいじめに遭うが、街で偶然会ったルードルフ・アヴァンデールと運命的に再会し、数々の試練を乗り越えて結ばれる話である。
そしてシルヴィはルードルフに横恋慕し、2人の恋路を邪魔する当て馬役だ。
(まぁ実際はルードルフ様を好きじゃないんだけどね。それにしてもなんかモブじゃないのが微妙な立ち位置で笑えるわ)
髪をとかして整えてくれたメイドが声を掛けて来たところで思い出に浸っていたシルヴィは我に返った。
「そういえば昨日は聖ウラニアの祭りでしたがお嬢様は行かれなかったのですよね?」
「ええ。私はああいう騒がしいところは嫌いなのよ」
そう答えながらシルヴィは漫画の内容を思い出す。
漫画ではルードルフの年の離れた弟が聖ウラニアの祭りで迷子になり、アニエスが一緒にルードルフを探してあげるのだ。
無事2人を引き合わせることができると、話の流れでアニエスはルードルフと一緒に祭りを周ることになり、お互い気になる存在になるという展開だ。
昨日の祭りで二人が出会えば、シルヴィの修道院送りが一歩近づくことになる。
当て馬役のシルヴィは、ルードルフの恋人になったアニエスの命を狙う。それを知ったルードルフは激怒し、彼の実家である侯爵家の権力を使ってシルヴィを断罪した上、ランダルス修道院に追放するのだ。
だがそれは現在のシルヴィにとってはご褒美である。
実は、葛根湯を飲んで前世を思い出したシルヴィは、後日、女性薬師の元を訪ねたのだが、彼女と話している内に、漢方の奥深い世界にすっかり魅了されてしまった。
以来、シルヴィは漢方の研究に精を出す毎日だ。
そしてこの修道院にはレアな薬草がたくさん植えられており、薬の研究も重要な奉仕活動の一つとされている珍しい修道院だ。レアな薬草を使い放題で、薬の研究もやりたい放題。シルヴィにとっては天国としか言いようがない場所なのだ。
そもそも前世を思い出した段階で、淑女らしさを求められる貴族の生活には違和感しかない。
それならば修道院に送られて自分の好きな漢方の研究をした方がよっぽど有意義だ。
(当て馬役を立派に演じて無事に追放されるように頑張らなくちゃ)
文献でしか見たことのない幻の薬草に思いを馳せながらシルヴィはニヤリと笑った。
※
楽しく談笑しながら校舎に向かって歩く生徒たちの賑やかな声があちらこちらで聞こえている。
シルヴィもまた校舎を目指して歩いていると、不意に視界に入ってきたのは淡い紫の髪の人物――ルードルフであった。
すっとした切れ長の目に、その奥の瞳は澄んだ水のようなアイスブルーだ。
鼻筋が通った高い鼻梁に薄い唇。淡い紫の髪は少し短めで清潔感がある。
ともすればキツイ印象になりがちだが、そう見えないのは絶えることのない微笑みと、目元を和らげて慈愛に満ちた目で人を見るためだろう。
この美貌と絶やさぬ笑みから「微笑みの貴公子」と呼ばれるルードルフとばっちり目が合ってしまった。
(声を掛けたほうがいいわよね)
無視することもできず、シルヴィはぎこちなく笑って挨拶をした。
「おはようございます」
「あぁ」
ルードルフからの返事は至極簡単なものだった。
人々から「微笑みの貴公子」と言われているルードルフだが、シルヴィに対しては塩対応だ。
いつも眉間に皺を寄せて無視されることもしばしばだ。
平凡な容姿の好きでもない女が婚約者候補というのが嫌なのだろう。
心情は理解できるが少しは愛想というものを出してほしい。
(ってか、どうしよう。じゃあと言ってさっさと立ち去るべき? 同じ方向に行くからとりあえず一緒に行くべき?)
対応に悩んでいると神の助けか、一人の少女が駆けて来た。
「ルードルフ様、おはようございます!」
「アニエス嬢、おはよう。こんなところで会うなんて。昨日はありがとう」
駆け寄って来たアニエスに満面の笑みを浮かべてルードルフは答えている。
「私の方こそ楽しい時間を過ごせました」
その後もルードルフとアニエスは微笑み合いながら何やら談笑している。
この様子だと漫画の展開通りになったようだ。
(順調に修道院行きになりそうね。それにしてもアニエスはやっぱり可愛いわ)
ふわふわとした綿あめのような栗毛に、円らなピンクゴールドの瞳。
ぷっくりとして柔らかそうな唇はピンクに色づいていて、無垢な笑みを浮かべている。
庇護欲をそそるとはこの事だろう。
見惚れているとハリのあるバリトンボイスがアニエスの名を呼ぶ声が聞えてきた。
「あぁ、アニエス、探したぞ」
「ディアト、どうしたの?」
「ったく、今日は君が日直だろ? 先生が探してたぞ」
「そうだったわ!」
(わっ! ディアトだ!)
駆け寄って来たのはディアト・ガイヤールだ。アニエスの同級生で、いつも彼女の面倒を見ている。
薄水色の色素の薄い少し長めの髪を後ろで括っており、同じ色の長い睫毛に縁どられた目は形が良いもので涼やかな印象を与えている。
そして琥珀色の瞳は、宝石のように美しい色だ。
(こんなにカッコいいのに私と同じ当て馬キャラなのよね……)
ディアトは外見もさることながら中身もイケメンだ。人当たりの良い性格で面倒見がよい。アニエスに一目惚れしていたが、彼女がルードルフに惹かれていることに気づき、自分の恋心を胸に秘めて2人が結ばれるよう尽力する姿は、涙なしでは読めなかった。
(うううっ……いい人なのに。アニエスとは結ばれないけど、幸せになってほしいわ)
そんな思いを込めて見ていると、不意にディアトと目が合った。すると柔らかな微笑みを浮かべて話しかけてきた。
「君はシルヴィ・ミュレール嬢だよね?」
「はい。初めまして」
「俺はディアト・ガイヤールだ。ちょうど良かった。実は君にお願いがあるんだ」
「なんでしょうか?」
初対面でいきなりのお願いとは一体何なのだろうかと首を傾げていると、ディアトは衝撃の言葉を発した。
「明日、デートしてほしい」
「……は?」
言葉の意味が理解できず間抜けな声を出すシルヴィにディアトはまさににっこりという表現がぴったりな笑顔でもう一度言った。
「だから、デートしよう」
本編でアニエスをデートに誘う植物園のチケットを差し出して……。