1-19 悪魔
親の仕事の都合で地方に引っ越してきた私は、家が近いという理由で化野女学院高等部二年へ転校を決めた。
可もなく不可もない平々凡々な学校生活を送って一ヵ月。GWを使って帰省した大学生の兄は、ソファで寛ぐ私をみながら目を丸くした。
「化野女学院には悪魔がいるって話だぜ」
初めて聞く話だった。
化野はミッションスクールだ。悪魔とはつまりサタンのことだろうか?
休み明けの昼休み。私は出来たばかりの友人、梨香――中等部からの在校生――に話を振ってみた。
連休明けの学校は少し気怠いものがある。それとは別に、今日の授業は身が入らなかった。兄の言葉が頭の片隅に引っ掛かって集中に欠けたからだ。板書もそこそこに、ノートの片隅に書いた『悪魔』という〇で囲った2文字を眺める。
悪魔。『特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在、または悪を象徴する超越的存在を指す言葉。サタン『かつては神に仕える御使いであったが堕天使となり、地獄の長となった悪魔の概念で』(by、ウィキペディア)。
連休の初日にスマホで調べた言葉を思い出しながら悪魔について考えていると、4限の終鈴――つまり昼休み開始の合図が鳴った。
天気が良かったから中庭のベンチでご飯を食べることにした。私は通学中にコンビニで買った菓子パンを、隣に座る梨香は自炊したという弁当を広げて。ピンクの楕円形の弁当箱には白米、卵焼き、ミニトマト、冷凍のグラタン、おそらく夕飯の残り物であろうからあげが入っていた。
白米を箸で取りながら、梨香が訊ねてきた。
「GWはどこか出かけたりしたの?」
「ううん。ずっと家で本読んだり、テレビ観たりしてただけ」
「そんな! もったいないよ。せっかくの休みなのに」
もったいない。もったいない、か。私にとって纏まった時間というのは読書をするのに最適な、有意義な時間だ。出掛けるのが嫌いな引きこもりではないけれど、わざわざ人混みへ出かけたいと思う人間でもない。
「そういう梨香はどっか行ったの?」
梨香の言葉に否定的な顔を露わにすることもなく、私は普通の顔で訊ねてみる。
「それがまっっったく」
怒るように白米を頬張った後、辺りを見回してから口元に手をあてて小声で話す。
「ずーっと寮長の奴隷。書庫の整理とか共有スペースの掃除とか。私が実家に帰らないの知ってて雑用を押し付けてくるの」
ご飯を食べる速度がやや上がる。思い出してムキになっているのだろう。
「それは災難だね」
私は菓子パンを齧った。
中高一貫の化野で、転入生の私は部外者で孤立をしていた。けれどそんなのは最初から分かっていたことで、それでもいいと思ったのだ。教室で一人本を読んでいた私に、梨香が声を掛けてきた。私を野鳥とすれば、彼女は檻の中の飼い鳥だからだ。新しく外から来た私に彼女は興味津々だった。
私は彼女に興味はないけれど、一人くらい、出来た友達は大切にするべきだと思う。だって、
「そういえばさ、兄から聞いたんだけど『この学校には悪魔がいる』って何か知ってる?」
こういう話が訊けるから。
「悪魔?」
梨香は動かしていた手を止めて聞き返す。
「『天使』なら聞いたことあるけど、悪魔は聞いたことないなー」
「天使?」
今度は思わず私が聞き返してしまう。
「うん、天使。有名な話だよ。願いを叶えてくれる天使がこの学校にはいる、って」
天使のイメージといえば、神の御使い。神様の補佐的な役割で、天使が主体的に願いを叶えるイメージはない――こともないか。時代や宗教によってその概念は幅広くなっている。
私は菓子パンの最後のひとかけらを口の中に放り込んで、唸る。
「うーん……願いを叶えてくれるって例えば――」
俄かに中庭が騒がしくなった。顔を上げて声のする方に顔を向ければ、一人の少女と複数の少女がいた。
わざわざ一人と複数で区別したのは、その一人の少女が特別的な存在にあったからだ。
水無月美涼。良家のお嬢様が集まるこの化野でも、特に世間的に有名な財閥のお嬢様らしく、端麗な顔と人目を惹く銀髪は、同じ日本人とは思えなかった。
取り巻きや周囲にいた生徒が水無月さんに声を掛けるが、彼女は清々しい笑顔を振り撒くだけだ。有名人がレッドカーペットを歩きながら一般人の相手をするかのような。
「水無月さんっていつ見ても綺麗だよね」
横耳で聞きながら、ふと、その青い瞳と目が合ったような気がした。
それは段々と近づいてきて、私の前に立ちふさがる。
「式見律さん」
凛とした声で呼ばれたのは私の名前だった。
取り巻きや周囲の視線が私を睨むように見た。彼女たちからしてみれば私は転校生だから当然だろ。
「これを」
言って、彼女は制服のポケットから封筒を差し出してきた。それが私に宛てられたものだと理解するのに数秒の時間を要した。受け取ると、
「それでは」
と、微笑んで去っていった。
「えー! 何々、水無月さんから手紙なんて凄い! ねえねえ、何て書いてあるの?」
今のは一体何だったのだろう。頭の中は嵐が過ぎ去った後のように思考が散乱として。
「おーい、りっちゃん?」
視界を梨香の手が上下によこぎった。
「あぁ、うん。何だろう」
赤い蝋で封をされているのは、漫画やドラマではよく見るけど実際にやっている人は初めて見た。
封を開けると一通の便箋。
『今日の16時に、美術室で待っています。一人で来てください』
それだけだった。
「これは……」
「もしかして告白……!?」
「それはないでしょ。女だし、今初めて喋ったし」
女同士の恋愛や一目惚れを否定するわけではないけれど。私には、ラブレターというより果たし状のように思えた。
中庭に予鈴が響いた。あと5分で、5限目が始まる。
「やばっ! もうそんな時間!? 急ごう、りっちゃん」
慌てて弁当箱をしまう梨香に、私も手紙と菓子パンの袋をポケットに入れて二人で教室へ向かった。
× × ×
「急がないと」
時刻は午後4時半。放課後、約束の時間まで暇を持て余していた私は、梨香が言っていた件の寮長に寮生でもないのに捕まってしまった。なんでも今週の掃除当番が来られなくなったと。それぐらいなら、と引き受けたのが間違いだった、あれよあれよと他の用事も頼まれ気付けば水無月さん師弟の時間を過ぎていた。
何の用事かは知らないけれど、学院の有名人に誘われたともなれば興味が湧く。これは私の妄想だが、例えそれが裏で集団リンチを行っているような悪人だとしても、私は嬉々として赴くだろう。
人気のない薄暗い廊下を走る。昼間に走ったら怒られるけど今は怒る人もいない。北館と南館に分かれた3階建て校舎の、南館の2階突き当りに美術室はある。放課後は普段、美術部が活動している場所。電気はついていないようだ。
美術室の前についた私は、ひとまず息を整えてから閉じられた扉を開ける。
「失礼しまーす……」
扉を開けると錆びた鉄のようなにおいがした。本当に水無月さんがいるのだろうか。薄めた黒を塗りつぶしたような暗さの、静まった教室から人の気配というものを感じることが出来なかった。教室を見回すと、右手の奥に、椅子に座った人影のようなものが見えた。
「水無月さん……?」
出入り口にある教室の電気のスイッチを押す。パッとついた電灯に一瞬目を瞑り、目を開ける。
「来てくれてありがとう、式見さん」
椅子に座って正面を向いたまま、彼女は呟くようにお礼を述べた。それが不自然に思えて、自然と彼女が見ている方に首を動かした。
目に映る景色が机の雑踏から、黒板と教壇がある少し開けた場所に変わる。そして映る。教壇の足下に転がった、血を流した女生徒の――ここから脈は確認出来ないが水溜まりのように床に広がった血液の量からおそらくは――死体が。
何を言ったらいいのか分からず立ちつくしたままの私に、水無月さんは席を立ちあがって近づいてきた。制服は返り血どころかシワひとつついてない。
「ねえ、式見さん。お願いがあるの」
仮に目の前の彼女が女生徒を殺したとして、殺人を犯したとは思えない、死体を前に――彼女からすれば背後に――しているとは思えない冷静さで私に頼んだ。
「わたしの無実を証明してほしい」
私の顔が引き攣った。この人は何を言っているのだろう。そんな疑問に恐怖ではなく、好奇心が勝って。
訊ねたいことは色々あったけど、最初に出た一言はこれだった。
「私を呼び出した理由はこれ?」
「えぇ、貴女にわたしの無実を証明してほしい」
「あの生徒を殺したのは水無月さん?」
「いいえ」
彼女は首を振る。嘘をついているとは思えないが、あまりの率直さに本当とも思えなかった。
「どうして私なの?」
「わたしを信じそうにない転校生の貴女なら、信じられると思ったから」
彼女を信仰する生徒ならこの状況でも『水無月さんはやってません! 私がやりました!』とでも言いそうだ。無実を証明して欲しいならむしろその方が好都合なのではないか?
「変な人」
「えぇ、わたしって少し変わっていると思うの」
自分でそれを言うなんてますますおかしな人だと思った。
「あなた達、こんなところで何をしているの?」
後ろから声がして。振り返ると美術教師がいて。見開いた眼光の先、死体に気づく。
「き、きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!????」
耳を劈く悲鳴が学院中に響いた。





