1-01 東京因習村大学
研究費不正で研究室が消え失せ、卒業論文の目処が立たなくなってしまった屋敷蛍は、なんとか卒業をもぎ取るべく、研究室を移籍することを決意した。
新しい研究室の教授である空路木憐博士は、いわゆる因習村の当事者を集めて研究し、因習村に介入さえしては論文を出しまくり、陰口を叩かれる民俗学者だった。その研究スタイルについていけないまま、屋敷は空路木研の噂を思い出す。
因習村の文化に土足で踏み込む空路木研は、陰でこう囁かれていた。
東京因習村大学の空路木研と──。
研究室がなくなったのは、十月の末のことだった。
山村教授をはじめ、准教授や講師、助教まで、教員が軒並み逮捕されて大学から姿を消した。
「研究費不正なら懲戒で済むんだけど、公費に手を付けちゃったんだって」
「ワンチャン実刑だって」
口々に広まる噂に、山村研所属の学部生の一人だった屋敷蛍は、がっくりと肩を落とした。指導教員なしで卒論を書くなど不可能に等しい。頭を抱えていた時、学務を通じて声を掛けてくれたのが、空路木憐教授だった。
民俗学者の彼の研究室は、屋敷の専門分野とも近い。彼が屋敷を研究室に入れたいと申し出てくれた時は、まさに地獄に仏だった。
「内定も出たんでしょ。就職できないなんて嫌だよね」
「……就活、頑張ったんです。絶対に卒業したいです」
「偉いじゃないか。僕と一緒に卒論書いて、卒業しようね」
笑顔の空路木が屋敷にビールを勧めてきた。派手な雰囲気の空路木は、ぐいぐい引っ張ってくれる指導教員としてはありがたい。今日も歓迎会だといって、行きつけの洒落た居酒屋に連れて行ってくれた。やたらいい香りのするおしぼりで、屋敷は涙を拭く。
「とは言ってもさ、提出まであまり時間がないんだよね。修士の子達と一緒にフィールドワークして、それを卒論にするのはどうだろう。内容は少し似ちゃうけど、嫌かな?」
「むしろ、それでいいんですか?」
「むしろ、本人達の希望だからね。ほら、彼らだよ」
「恵良逝一郎、修士二年です。よろしくね」
空路木は、小さな店の扉を開けた青年を指さした。明るい空路木と違い、おっとりした好青年である。恵良青年は笑顔で屋敷に握手を求めた。細くてやや背の高い恵良の後ろにはもう一人、顔と髪型と恰好が全く同じ人がいた。双子らしい。
「俺も恵良逝一郎です」
もう一人の恵良青年は、自分のことを指さして穏やかに言った。
屋敷は困惑で曖昧に返事をした。しかし「俺も」と言ったのは恐らく間違いではない。同じ人間が、二人いる。
——まさか。
「双子、ですよね?」
「うん、見たままね」
双子が入れ替わる、なんて話はよく聞く。しかし、双子に全くの違いがないなんてのは初耳だ。空路木は悪戯っぽく笑って、二人の恵良逝一郎を交互に指さした。
「そのままさ。彼らは両方、恵良逝一郎だ」
「どちらがお兄さんなんですか?」
「恵良兄弟って呼ばれてるけど、具体的にどちらが兄とか弟とか、そういうのはないよ。同一人物が二人いると思ってね」
「同一人物? 二人で意見が違うときはどうするんですか?」
「屋敷君だって、昼ごはん何食べるか迷ったりするでしょ」
「入試に片方だけ落ちたら? 二人一緒にはいられませんよ」
「誰だっていくつも大学受けたら、受かったり落ちたりするでしょ」
話が噛み合わない。屋敷は困って空路木に視線で助けを求めた。
「君は、右半身と左半身が合体して生きていると、今まで一度でも実感したことはあるかい?」
「え? いや、ないですけど」
「たとえば屋敷君の右半身にコウジ、左半身にタケルと名付けよう。コウジと呼ばれたら右半身だけで返事をする。左半身が反応してはならない。君は今日からそれで生活できるかい?」
「……無理です」
屋敷は自らの右手と左手を交互に眺めた。右半身と左半身は同一人物だ。わざわざ分ける意味もない。
「それと同じさ。恵良兄弟にとって、兄弟を別人として扱うなんて、耐えがたい行為なんだ」
「生年月日も同じで、名前も同じなんですよね。そんな出生届、役所が通してくれますか?」
「実際通ってるもん。ね、逝一郎」
「……不便ではないんですか?」
「やたらトラブルにはなるけど、意外といける」
「大学も二人一緒に通えてるもんね」
二人はビールに頬を赤く染めて頷いた。屋敷は言葉を失った。人に名前を付ける行為は、自我形成にとって非常に重要だ。名前を共有するなど、自意識が崩壊しかねない危険な行為である。暢気に二人一緒と言っている場合ではない。
「君は因習村って言葉を聞いたことがあるかい? 最近、流行ってるんだけど」
「知っていますが、僕は民俗学専攻として、少し違和感があります。なまじ流行しているせいで、日本や世界に実在する因習村への光の当たり方がおかしくなっています。因習村は面白コンテンツではありません」
「そうだね。因習村という流行、ミーム、文化に問題があるのは確かだ」
屋敷は思わず早口で答えた。ある時から突如として流行りはじめた因習村というコンテンツが、屋敷はあまり好きではなかった。屋敷の返答に、空路木は満足そうにウイスキーのグラスを傾けた。
「恵良兄弟はどう思う?」
「屋敷君の指摘は正しいですけど、個人的には好きですよ。因習村って言葉」
「俺もです。因習村という言葉が流行らなかったら、俺達の生まれた村を全く理解できない人も多いですしね」
「……ってことは、恵良先輩たちのご出身は、そういう村なんですか」
屋敷が尋ねると、恵良兄弟は同時に頷いた。空路木は鞄から小さな地図を取り出し、一つの地点を指さした。屋敷が足を踏み入れたこともない県の山奥だった。そこが恵良兄弟の出身地らしい。
「恵良兄弟の出身は、よく言われる因習村のイメージそのものだ。因習村としての風習はいくつかあるが、その最たるものが、双子が生まれたら同じ名前を付け、兄弟の区別なく二人の同一人物として育てるという風習でね」
「……変わってますね」
人としてのアイデンティティを、完全に奪う風習だ。他人と自我を同一にしろ、と育てられて、まともでいられるわけがない。恵良兄弟自身はそれほど違和感がなさそうだが、自然にそう育ったのではなく、教育によってそう育ったのだとしたら、背筋の凍る話だ。
「屋敷君には、恵良兄弟と一緒に、彼らの出身村について研究してもらう。空路木研では日本に残る様々な伝統文化の研究を行っている。いわゆる因習村の当事者を集めているのが特徴で、だからこそ面白い論文を出せていると自負している。楽しい陰口まで囁かれるくらいにね」
屋敷はその陰口を聞いたことがあった。
空路木研は、因習村の因習を土足で踏み荒らす。
空路木研は、この大学に新しく因習村を作ろうとしている。
——空路木研は、いったい何をしたいんだろう。
**
「そう簡単に因習村出身の学生を研究室に入れられるわけないからね。コツコツ訪問して、村の子供に粉をかけておく。当事者を集めるのも大変なんだ」
「……恵良先輩はそれでいいんですか?」
「俺達みたいに仲が良ければ、二人で一人でも違和感はないよ。でも失敗した双子も、俺達は見てきたから。大学に来て、双子は別人なのが普通だと知って驚いたけど、俺らは今更別人になれないし」
恵良兄弟は互いの手を合わせ、優しく絡める。果たしてこれを兄弟愛と呼ぶべきか否か。
「俺達は二人で一人のままがいい。でも俺達の研究で、この風習の歴史や成り立ちが分かれば、他の双子の為になるかもしれないだろ」
「こういう動機は強いよ。ちゃんと指導すれば、必ずいい論文になる」
空路木研が因習村で遊んでいると囁かれるのも無理はない。結局は論文のために当事者を利用している。当事者にもメリットがあるから有耶無耶になっているだけだ。
「論文一本で村が変わりますか? それに──」
「屋敷君、君の言いたいことは分かる。だけど変わるよ、簡単に。弱者を犠牲にして成り立つ悪習を、文化と呼んで尊ぶ行為が僕は嫌いでね。当事者なら、悪習を軽々しく文化とは呼ばないだろ? この東京に、僕は因習村を作りたいんだ。因習村を他人事として扱う都会の連中を、因習村の当事者にしたいのさ」
「そんなの民俗学者失格です! ねえ、恵良先輩!」
「悪いけど、俺達も教授と考え方は同じだよ。文化はうつろう。いつか必ず失われる。大事なのはそれを記録することでしょ?」
恵良兄弟が屋敷に迫る。屋敷は弱々しく頷くしかない。
「山村研もそうだろ。学部生の屋敷君の労力を犠牲に、なんとか成り立っていた研究室じゃないか」
「……誰しも、他人を犠牲に生きていると思います」
「ああ、誰も犠牲にせずに人生を全うできる人間なんていない。僕だって君たちを犠牲にしている。でも犠牲に自覚的であることが重要だと、僕は思うね。弟を犠牲にしたことに自覚的な君のように」
酔いが一瞬で覚める。空路木に知られているとは思いもしなかった。
そうだった。重い記憶が鮮明に蘇る。村のしきたりの圧に屋敷は負けた。合理的な論戦が村人に全く通用しなくて、唯一話が分かるのが弟だった。弟を犠牲にするしかなかった。それだけだった。
「双子の弟を手に掛けた君が、双子のあり方を知るために、どうしても必要なんだ。無理を言ってごめん。でも俺達の論文のために、協力してほしい」
「空路木先生は、なぜ僕の秘密を……?」
「例の村に生まれた双子の話は、君達が生まれてすぐの頃から知っていたよ。十年ほど前に実際に村に行って、君の弟とは仲良くなった。うちに来る約束も取り付けた。だが、残念ながら君との面識は作れなかった。だから強硬手段を取るしかなくてね」
「え?」
「山村研の研究費不正を告発したの、僕なんだ」
笑顔でサラダをつまむ空路木が、正気には見えなかった。
地獄に仏と思ったのは間違いだった。この話の通じなさ、屋敷の身体は覚えがある。
——ああ、空路木研は因習村だ。そう思った。
逃げよう。立ち上がった屋敷の腕を、空路木が掴んだ。
「必ず君を卒業させる。だから僕から逃げないで」