1-13 小雨、決行
令和五年、初夏。リョウの兄が、死んだ。
その理由を考え続け、リョウは次第に自分の殻に閉じこもる。助けようとする大人たちの手を振り払って。
けれど、どんなに邪険にしてもスクールカウンセラーの香だけは、リョウに寄り添う姿勢を崩さない。
周囲の他の者とは違い、兄を忘れさせようとはしない香へ、リョウは言う。
「どうしてなのか、ずっと考え続けている。僕には、なにもできなかったのかって」
やがてリョウは、その気持ちが自分だけのものではないと気づく。
兄さんが、死んだ。
それは何度も繰り返し僕の目前へ提示された事実だ。けれど本当に実感できたのは、姉さんの結婚式の最中だった。
八月の終わり。午前中はとても暑くて、午後からの式に差し支えるのではないかと思った。
通り雨が少し。おかげさまで気温も落ち着いて、野外で行うのにちょうどよかった。
姉さんは綺麗だったし、みんな祝福していたし、僕も幸せそうな空気を肌で感じていた。
ただ、兄さんがいない。それだけ。
たくさんの人に会った。僕は笑った。それがこの場ではふさわしいのだと思ったから。父さんと母さんは、必死に忘れようとしている。知っている。僕よりもずっと深く笑顔をかぶっていたから。
姉さんは世界で一番愛されている顔を作っていて、その手を握っているのは立派な人だった。前を向いて、微笑んでいる。みんな。みんな。
だからもしかして、僕だけなのかと思ってしまうんだ。
忘れたくないのは。
兄さん。
どうして死んだの。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
そんなやり取りが、僕の唇を上滑りしていく。姉さんは綺麗だった。とても。
みんな楽しそうだった。とても。僕以外の人たちは。
「リョウくん。お姉さんを、わたしにください。必ず、幸せにする」
義兄になった人は、とてもいい人だと思う。今後、僕が兄と呼ぶべき彼は。
十四も年下の僕へ頭を下げたんだ。父さんと母さんの次にだけれど。とてもいい人だと思う。僕たち家族にはもったいない、立派な人。姉さんを託せるのは、あんな人じゃないと無理だけれど、それにしたってすごいと思うんだ。
僕たちに起こった事を知っていて、それでも姉さんの手を握ったままだった。振り払わなかった。
父さんは少し笑った。母さんは泣いた。姉さんは僕の顔を見て、何か言おうとして、やめた。僕も、なにも言わなかった。
式が終わって家に帰ってみれば、姉さんが居ない。だから母さんは淋しげに言ったんだ。
「家が広くなったわね」
兄さんを送った後には、そんなこと言わなかったよね。
姉さんの六畳部屋が空になった。置いていかれたカラーボックスがひとつあるだけ。3LDKの古いマンション。
僕はまるでずっと昔からそうだったみたいに、十畳の部屋をひとりで使っている。あのベッドに兄さんが眠っていたんだ。夜更けに「起きてるか」と小さな声でよく話しかけてきて、けれど今はどれだけ耳をそばだてても寝息ひとつない。聞こえるのは静寂の痛みだけ。
本棚には付箋だらけの六法全書。きっと来年には情報が古くなる。それでも、きっとずっとそこに置いておかれるんだろう。今年の初夏の香りのままで。
あれは六月の終わりごろの平日。なんの変哲もない火曜日。
小雨が降っていた。
その週末の新聞。普段は見ないお悔やみ欄は、八十代、七十代、そしてひとりだけ三十代だった。僕はそこを切り取って、机の引き出しに入れた。
なかったことにならないのに、なかったことになっている。葬儀終了って書かれていたんだ。でも、僕の中では何も終わっていないと思う。
妹はやらんて言ってみようかなって言っていた。ちょっとだけ本気だったよね。知ってる。
僕の兄さんは、二人になるはずだったのに。
人数は変わらないままなんだ。
夏休みが終わる。新学期が始まる。みんな課題のノートを回して書き写しながら、休みの間に何をしたかなんて話をしている。
僕は姉さんが綺麗だった話をしながら、兄さんを弔った小雨の日を想っている。みんなきっと知っているのに、僕の姉さんが綺麗だった話を、この世の真理を啓示されたみたいに聞く。みんな、きっと知っているのに。僕が考えていることなんて。
忘れたくないって言っちゃだめかな。
だめなのかな。
どうしてかな。
駅前の店で何度もいっしょにラーメンを食べた。美味しかった。数Aがぜんぜんわからなくて、聞いたら「俺んときとぜんぜん内容違うなあ」て言って、いっしょに勉強し始めた。それで教科書に僕の字じゃない書き込みが増えたんだ。どっかの喫茶店のマスターから教えてもらった淹れ方で、ドヤ顔しながらコーヒーを落としていた。たいして前と変わらなかったね。僕がハタチになったら、いっしょに行こうって言っていた居酒屋だってある。僕ひとりで行くの?
今年の夏休みの課題は僕ひとりでしたんだ。だからきっと間違っている。
姉さんの結婚式、どのスーツ着ようって言っていたじゃない。
ネクタイの結び方教えてくれたじゃない。
なんでだよ。
小雨が降っていた。
兄さんを送った日も、次の日も。
姉さんから毎日メッセージが来る。ごはん食べてる? 学校行けてる? うちへ遊びに来ない? 今期のアニメどれが好き?
僕は既読だけを着けて、ときどき適当なスタンプを返す。
僕のことなんかかまっていないでさ。さっさと幸せになりなよ。そして忘れてしまえばいいんだ。兄さんのことみたいに。僕のことも。
父さんと母さんは、どうにか平静を保つ努力をしているでしょう。朝イチで読んだ新聞を手渡す相手が居ないと気づきながら。五人分の目玉焼きを作ってしまいながら。ちょっと立ち止まってから、なにもなかったみたいに振る舞うんだ。忘れようとしているんだ。
見習うといいよ。
「リョウ。朝礼の後、理科準備室に来い」
担任に言われた。なんでだよ。日直使えよ。そうつぶやいたけれど、スルーされた。
言われた通りに行ってみたら、中に姉さんがいた。参観日のお母さんみたいなスーツを着てさ。両手を膝に置いてさ。すごく緊張して。なんでだよ。
担任が、授業始まる時間を無視して、ビーカーとアルコールランプでコーヒーを淹れていた。兄さんが喫茶店のマスターの真似したよりずっといい香りがした。座れよって言われたから、出してあったパイプ椅子に座って、なんで姉さんがいるのさ、て言った。姉さんはなんか、もごもごと言った。
「すみません、遅れちゃって」
ノックの後に、女の人が入ってきた。知らない人。たぶん姉さんよりちょっと年上で、メガネをかけていて、お母さんみたいなスーツじゃなくて白衣だった。
他の学年の理科担任かと思って眺めたら、僕を見て「はじめまして」って言った。僕は少し頭を下げた。次の時間を知らせる鐘が鳴った。僕は授業をサボるらしい。
「あのね、お姉さんからご連絡をいただいて。あなたと話がしてみたかったの。リョウくん」
そう言って僕の前へ差し出して見せた名札には、スクールカウンセラーって書いてあった。中澤香。平成初期の女優みたいな名前だと思った。週に二回くらい学校へ来て、生徒の悩みとかを聴く人の肩書き。
なんでだよ。
少し考えて、姉さんが挙動不審気味にそわそわしているのを見て、僕はちょっと笑った。いいよ。そう思うなら思えばいい。僕がおかしくなってしまったって。ぜんぜんおかしくなんかないのに。
僕は僕のままだ。兄さんがいたあのときのままだ。なにも変わってなんかいなくて、変わったのは姉さんの方でしょう。次はぜったいに勝ってみせるって言っていた詰将棋だって、なかったことにして忘れるんだろ。なら、それでいいじゃないか。
兄さんがいない。おかしいのは、それに気づいていないみたいに、最初から、兄さんが存在していないかみたいに振る舞うみんなだよ。
みんなおかしいよ。
だから、言ったんだ。
「いらないよ、そんなの」
姉さんは、膝の上の手をぎゅっと握った。
今は九月。残暑っていう言葉を肌で感じる毎日だった。僕は兄さんが死んだ小雨の日のことを考えていた。ずっと。大雨だったら、兄さんは死ななかったかなとか、そんなことを。
あの日は小雨だったんだ。だから、僕の気持ちや母さんの涙を、それに例えるなんてできなかったよ。だって、とても爽やかで、上がれば虹が出るって思えそうだったんだ。
でも、見えたのは逃げ水だった。
そこにはなにもなかったんだ。
なにも。
兄さん。
せめて最後に、僕になにか言うことはなかったの。怒ったっていい。笑ったっていい。泣いてくれたってかまわないのに。なんでなにも残してくれなかったの。まるで逃げ水みたいに。
忘れたくないって思っているのに。
上書きされてしまったんだ。
兄さん。あのね。
僕はもう、兄さんの死に顔しか思い出せないんだ。
「次、雨降るの、いつかな」
僕が上げた声に、姉さんが慌ててバッグからスマホを取り出して検索した。
なにひとつ、わからないけれど。
兄さんの気持ちは、わからないけれど。
だからこそかな。ふと、小雨の日に兄さんの気持ちを考えてみようと思ったんだ。
担任は「しばらく降らんだろー」と言った。スクールカウンセラーは僕を見ていた。僕は少し笑った。
兄さんは、なんで死んだんだろう。僕には理解できない。それでも、理解したいんだ。
結局、僕も同じように迷い続けているのかもしれないな。
いや、違う。迷いなんかなかったかもしれないじゃないか。そんなのわからない。どちらかなんて。
だからなのかな。見に行こうと思ったんだ。最後にその瞳へ映すものとして選ばれた景色は、どんなものか。
それでなにかを得られるか、どうか。
同じ気持ちになれるか、どうか。
小雨の日に行こう。
そうしよう。





