第075話 カリナの教養(前編)
勇者は読んでいた本を静かにカバンに戻した。
代わりに取り出したのは薄くて素朴な見た目の一冊。
表紙には金色の大きな文字が浮かび上がっており、全体的にやさしい雰囲気が漂っている。
おそらく、いや、間違いなく――
「……こちらは小等部用の教科書です」
どこか申し訳なさそうに呟くと、勇者は言葉を選ぶように顔を上げた。
「まずは簡単なところから今のレベルを確認させてください」
一瞬の沈黙。
その言葉を聞いたカリナの目がギラリと光る。
完全に喧嘩を売る奴のそれだ。
「…………はあ?
あたしをバカにしてるわけ?
なんで中等部のあたしが、小等部のテストを受けなきゃいけないのよ!」
あー、ダメだこりゃ。
完全に地雷を踏んでる。
下手すりゃ机ごとひっくり返しかねない勢いだぞ。
大丈夫かよこいつら。
勇者もさすがにたじろいだのか、尻すぼみに小さくなる声で答えた。
「い、いえ、決してそのようなつもりは……
ただ、どこから教えればいいのか、今の実力を確認したかっただけです」
勇者の弁明もむなしく、カリナは射抜くような目を逸らさない。
このままだと部屋の空気が血の匂いになりかねん。
「ま、まぁいいじゃない。
問題なければ教材を変えてもらえばいいんだし」
俺がなるべく柔らかい声で口を挟むと、カリナは一瞬むっとした顔をみせたが、やがて小さく唇を尖らせて視線を逸らした。
「……お姉さまがそう言うなら別にいいです」
渋々といった風に椅子を引き寄せ腰を下ろす。
勇者の方へ向き直ったものの、その目は完全に敵意を捨てきっていない。
だが、勇者は安堵したように小さく息を吐くと、俺に“ありがとう”と目で訴えかけてきた。
「――では、どうぞ。
設問はどれでも構いません」
勇者から教科書を受け取ったカリナは表紙を見つめ、やがて困ったように首を傾げる。
「……お姉さま?
この文字はなんと読むのですか?」
時が止まった。
――へ?
カリナの指さす先には金文字で堂々と書かれた”帝国“の2文字。
ただし、子供用のフリガナは振られていない。
ど、どういう意味だ?
もしかして、これが読めないってことなのか?
「……え、えーっと、”ていこく“ですかね」
「てい……こく?
へぇ〜、これがあの……」
カリナが感心したように小さく頷く。
本気か?
帝国騎士が“帝国”を読めないなんて何の冗談だよ。
横目で勇者を盗み見ると、案の定口元を引きつらせている。
なるほど。
小等部の教材を持ってきた理由はこれか。
俺も自分の頭の悪さは自覚してるが、こいつは俺以上の逸材なのかもしれん。
「……す、すみません」
勇者は無理に笑顔を作りながら、そっと教科書をその手に取り戻した。
「私が設問を読む形式にしますね」
その場を取り繕うようパラパラとページをめくり、ゆっくりと息を整える。
「で、では、次は読解問題です。
『老夫婦は森の中で静かな余生を過ごしました』
この文章の意味を変えずに、別の文章に作り変えてください」
カリナは腕を組み、真剣な表情で考え込む。
やがて、しばらく熟考したのち得意げに口を開いた。
「……暗殺者は森の中で見つからないよう潜伏した。
こんな感じですかね?」
「……あ、暗殺者?」
思わず声が裏返りそうになった俺に、カリナがキョトンとした顔を向けてくる。
「――え?
老夫婦って暗殺者の隠語じゃないんですか?
だって、森の中で老人が暮らしてるなんて怪しいですし」
絶対に違うわ!
なんだその血なまぐさい読み替え!
どうしたらそんな発想になるんだよ。
「……ぶ、文学の問題はやめましょう。
今度は計算の問題に変えます」
勇者も引きつった笑みを隠しきれていなかったが、何とか仕切り直そうとしている。
「――では、簡単なものを。
4つのリンゴを2人で分け合う場合、1人いくつになりますか?」
さすがにこれは失礼すぎるだろ、と思ったその矢先――カリナはぱっと目を輝かせ、にっこりと笑った。
「これは簡単ですね!
ひとり4つです!」
「……え?」
勇者が硬直し、俺も喉を詰まらせかけた。
「ど、どうしてそうなるの?」
「え? なに言ってるんですかお姉さま?
ひとりで4つ食べてしまえば相手は戦意を失います。
食糧線を断つのは兵法の基本ですよ?」
アホだ……!
もはや感心すら覚えるレベルで軍事脳。
こいつ、日常生活のすべてを軍略に置き換えて考えてやがる。
クレアが俺に『教養を叩き込んでくれ』と依頼してきた理由はこれか。
勇者のパーティーにこいつの兄貴が加わったのも、この頭の悪さが原因なのかもしれない。
そりゃ間違いなく問題を引き起こすぞこれ。
俺が額に手を添え呆れ返っていると、カリナがむっと唇を尖らせた。
「……な、なんなんですか!
せっかく答えてあげてるのに失礼です!!
もう不愉快なので帰ります!!」
乱暴に椅子を引いて立ち上がるカリナ。
勇者を睨みつけ、唇を噛みしめたままバサッとポニーテールを振り乱してドアに向かう。
「ちょ、ちょっと待ってください」
勇者が慌てて手を伸ばすも、カリナは勢いよくその手を払いのけ怒鳴り返した。
「あたしに触るな!!」
突然の怒号に思わず言葉を失う。
カリナは最後に勇者を睨み据えると、勢いよく扉を開けて出て行ってしまった。




