第067話 カハクの神様(前編)
静けさの戻った森の中で俺は奥歯を噛んだ。
まさか、あのクソじじいの手の平の上で踊らされていただけだったとは。
俺が魔王サタンを討ち果たしたあの日、魔王の座を掴み取った当時の光景が脳裏によみがえる。
断末魔の中で奴は妙なことを口走っていた。
「せいぜいかりそめの魔王の座を楽しめ」と。
その時は死に際の捨て台詞だと鼻で笑っていたが、まさかこんな裏があったとは。
あのタヌキじじいめ……!
怒りが沸々と湧き上がり、握りしめた拳に力がはいる。
そんなときだった。
視界の端で小さく震えている影が目に入る。
――カハクだ。
地に伏し、怯えたままこちらをみつめている。
それと同時に、フォーリッジ領に赴いた本来の目的を思い出した。
こいつらから黒斑病を治す鱗粉を手に入れないといけないが、今はそれどころじゃねぇ。
一刻も早くルシウスたちと合流して、今起こったことを共有しねぇと。
カハクをちらりと振り返りつつ、足早に森を抜けようとしたのだが――
「……どうなってんだよ」
いくら歩いても戻ってくるのは同じ場所。
視界が開けたと思えば、必ずあの湖畔が目の前に広がっていた。
いくら方向を変えても、走っても、ルシウスの元に辿り着ける気配がまったくしない。
「くそ、この青い霧のせいか……!」
神樹様の魔力を辿ってここまで来たのはいいが、帰り道はまた別の話らしい。
舌打ちしながら踵を返し、さっきの場所へ引き返す。
近くにいたボーイッシュのカハクの少女に狙いを定め、声をかけた。
「――おい。
この青い霧の原因はおまえたちか?
だったら早く解除してくれ。
仲間と合流しなきゃならねぇんだ」
「ボ、ボクにそんなこと言われても……」
カハクは困ったように目を伏せる。
「この霧は神木様が放ったものなので」
――神木様?
カハクの視線の先を追うと、大木の根元に寄りかかるように座している人影が目に映った。
全身を覆いつくす灰色の蔦が、まるで生き物のように静かに脈動している。
こいつらはあれを神木様と呼んでるのか。
「神木様はこの霧を止めるわけにはいかないと仰っています。
再び魔族たちの襲撃があるかもしれないと」
「――あれと意思疎通できるのか?」
「は、はい、なんとなくですけど。
思念のような言葉が頭に流れ込んでくるんです。
はっきりと会話できるわけではないですが」
なるほど。
俺とテイレシアスの関係みたいなもんか。
なら、話は早い。
「じゃあ、神木様に伝えてくれ。
この近くに帝国の聖女様がいる。
彼女に話せば、お前たちの保護を約束してくれるはずだ。
そうなれば魔族の襲撃を恐れる必要もなくなる。
これで問題ないだろ?」
「わ、分かりました。伝えてみます」
カハクは神木様に向き直り、しばし無言で佇む。
しかし、そのうち困り顔になり、ちらちらと俺の顔を見やった。
「どうしたんだよ?」
「そ、その……神木様が仰るには、それだけでは霧は止められないそうです。
我々の存在を人間に明かすのは御法度。
いずれ大きな問題の火種になる、と。
そもそも、人間に所在を明かしたくないゆえ、このような森の奥地に身を隠しているのだ。
そんなこともわからんのかアホめ、と仰っています」
――アホ?
急に罵倒され、こめかみがピクリと引きつった。
「おい、それ本当に言われたのか?
お前がテキトーに言ってるだけじゃねぇだろうな?」
「ほ、ほんとですっ!
ウソなんか言いません、信じてください!」
俺が睨みつけると、カハクは今にも泣き出しそうな顔でぶんぶんと首を振る。
どんだけ口の悪い神様だよ……
「――それで?
他には何も言われてないのか?」
「は、はい。
神木様はこの霧を晴らすために、ふたつの条件を提示しています」
カハクは一度深く息を吸い込み、神妙な顔で言葉を続けた。
「ひとつは、我々の存在を帝国側に明かさないこと。
どうにか上手く丸め込んで、しらを切り通してほしいと」
「なるほど――で、もうひとつは?」
カハクは言い淀み、唇を噛む。
そして、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「……もうひとつは。
我々をそなたの治める魔国領に移住させろ、とのことです」
「……はぁ? 魔国領に?」
「はい……ここにいては、いずれ人間たちの欲望と猜疑に晒される。
いくら霧で隠そうとも、いずれ目をつけられるのは時間の問題。
そうなる前に我々に居場所を与えろ――そう仰っています」
カハクの声がかすかに震えた。
その声音には神木様の意思が重なるように響いている。
「――そなたが我々を受け入れれば、この迷いの霧は晴らしてやる。
カハクの鱗粉をわらわの霧と混ぜ合わせ、病いに苦しむ人間どもに散布してやってもいい。
だがもし、この提案を断るのなら――」
一瞬、森全体がざわりと揺れた気がした。
枝葉が触れ合い、空気が軋む。
「そのときは、せいぜい森の中を彷徨い続けるがいい。
飢えようと渇こうと、出られぬ牢獄に閉じ込められたまま、おまえの威勢がどこまで持つか見届けてやろう」
カハクは青ざめた顔で、震えながら言った。
「……と、神木様は仰っています」




