第065話 樹海の奥地
歩き始めてから30分は経っただろうか。
さきほどまでの騒乱が嘘のように、森はシンと静まり返っている。
そして不思議なことに、ハクアの姉御の言っていた「同じ場所をぐるぐる回っているような感覚」が、俺にはまったく訪れなかった。
ウェントの指し示す方角が的確なのか、それともただ偶然が重なってるだけなのか。
真相は分からないが、この森が俺を拒んでいないことだけは確かだった。
それと同時に募る妙な孤独感。
鳥のさえずりは途絶え、獣の気配は霧散し、木々のざわめきすら遠い。
まるで、世界から切り離された無音の空間に俺ひとりだけが取り残されているような気分だ。
獣も道を見失うほどの深淵の森か。
ふと、フィオネの言葉が脳裏をかすめる。
この森で何かとんでもないものに近づいている。
そんな確信めいた予感が背中を冷たく撫でていた。
密集するシダの葉をかき分け、苔に覆われた岩を慎重に踏み越えていくと、急に視界が開けた。
そこに広がっていたのは美しい湖畔。
透き通るような水面には周囲の木々が絵画のように映り込み、言葉を失うほどの自然美を演出している。
まさに、神域と呼べそうな場所だ。
俺が湖畔に足を踏み入れようとしたその時――かすかに誰かの声が耳を打った。
「……っと」
反射的に身をかがめ様子をうかがう。
湖の中ほどに浮かぶ小さな島に人影がひとつ……いや、ふたつ、みっつ。
その中でも、ひときわ目を引く存在がいた。
骨のように細長い漆黒の羽に額から突き出た三本の黒角。
まちがいない――ガブリエルだ。
だが、ガブリエルの前にひれ伏してる、あの奇妙な生き物はなんだ?
背中に羽根、長い耳に、ほとんど人形のような愛らしさをもった小型の種族。
あれが……カハク?
予想していたよりも遥かに小さい。
手のひらに乗りそうなサイズで、今はガブリエルの前で両手を上げ、怯えたように震えている。
その背後には巨大な樹木が一本、天に向かってそびえていた。
幹全体が灰色の蔦に覆われ、まるで瘴気をまとった朽木のようだ。
その根元には何かが寄りかかるように佇んでいる。
顔は見えず動く気配もない。
生きているのか死んでいるのか、それすら判別できなかった。
だが、ウェントのクチバシは真っ直ぐにそれを指し示している。
あれが神樹様なのか?
想像していた神々しさなどまるでない。
むしろ、忌まわしく禍々しい異形の骸とでも言いたくなるような存在だ。
圧倒的な魔の気が周囲の空気を歪ませている。
しばらくすると、カハクがおずおずと一歩前に進み、小さな巾着袋をガブリエルに差し出した。
噂に聞く鱗粉だろう。
誰のために使うのか分からないが、このまま好きにさせるわけにもいかない。
俺は深く息を吐くと、内功を全身に巡らせ、燃え盛る炎へと昇華させる。
瞬間――強く地を蹴った。
こちらに気づいたガブリエルがゆっくりと顔を上げ、いつもの気だるげな微笑みを浮かべてくる。
「……あらあら? マキナちゃん。
よくこの霧を抜けて来られたわね」
「私には妖狸族の側近がいますので。
魔獣の力を借りれば造作もないことです」
「ふふ、なるほど。
樹骸の魔力をたどって来たわけだ。
さすがマキナちゃん」
――樹骸?
俺が眉をひそめると、ガブリエルがほんのわずかに残念な表情を見せる。
「だけど、残念。
ちょっと遅かったわね。
必要なものは手に入ったし、もう帰るわ」
「――私がこのまま帰すとでも?」
「ええ、あなたはそうせざるを得なくなる」
その意味深な呟きとともに、ガブリエルの背後の空間が裂けた。
正確には宙に浮かぶ黒い粒子が一点に収束し、黒い裂け目のような亀裂を生成している。
そこから手が伸びた。
冷たい空気が一気に張り詰める。
裂け目から現れたのは人の形をした何かだった。
全身を包帯で覆っているため顔が見えない。
ただ、包帯の隙間から覗く赤い双眸が、まるで血のように妖しく俺を射抜いてくる。
――なんだ、こいつは。
魔力の密度が尋常じゃない。
こんな魔族がいたなんて俺は知らないぞ。
「くく……貴様が噂に聞いていた、当代の魔王を名乗る不届き者か?」
低く、濁った声が森全体を震わせた。




