第062話 ルクソール公国の魔導師(後編)
ハクアは目を細めた。
この霧の発生源――そう思っていた魔族のほうが先に問いかけてきたのだ。
つまり、この不可解な霧は彼女たちの仕業ではないのか?
思考が一瞬、空転しかける。
では、誰が? 何のために?
「…………この霧を放ったのは私たちではありません」
ハクアが静かに告げると、アークデーモンは肩をすくめ、楽しげに口元を歪ませた。
「あらあら、まぁそうよねえ〜。
人間がこんな霧を作り出せるはずないもの。
魔力の痕跡も見えないし。
まったく、困ったものだわ~。
ヘイズバル様になんて報告しようかしら」
深刻な話題のはずなのに、アークデーモンはおどけた口調を崩さない。
むしろ、どこか芝居がかった演技で茶化すように喋りかけてくる。
でも――こちらを襲う様子はまだない。
であれば、少しでも時間を稼ぐべき。
こちらも万全ではない以上、無駄話しを交えて魔力を回復させる必要がある。
ハクアは密かに魔力を練りながら、アークデーモンの顔をまっすぐ見据えた。
「――あなたたちは、この森で何をしていたの?」
アークデーモンがぱちくりと瞬きする。
「あらあら、人間に話しかけられるなんて私はじめて。
ちょっと嬉しいかも」
頬に手を添えてクスクスと笑う。
そのしぐさは、どこか貴族の令嬢を思わせた。
「私たちは森の精霊カハクを探していたの。
帝国の樹海に棲むっていう、あの伝承のね。
とある方の治療にその鱗粉がどうしても必要で。
でも、姿をくらませてばかりで見つからないのよ。
困ったものだわ」
「――森の精霊カハク……?」
ハクアは眉を寄せる。
カハクは神樹様の伝承に登場する森の精霊。
その存在は、あくまで伝承の中のものであり、実在が確認された報告など聞いていない。
「そうよ〜
しかも、その鱗粉には厄介な毒性があってね。
時々、こちらを攻撃してくるの。
霧の中に鱗粉を紛れ込ませてね。
本当に鬱陶しいわ」
毒の鱗粉と霧の関係。
フォーリッジ領で広がる黒い斑紋。
少しずつだが、情報の断片が繋がりはじめる。
「――だから途中でめんどくさくなっちゃって。
森ごと吹き飛ばそうって考えたの!
よくよく考えれば、鱗粉なんて死体から回収すればいいんだし。
そしたら突然、この青い霧が発生しちゃって。
ほんと大変だったのよ?
同じ場所をぐるぐる回ってるみたいで迷子になるし、ヘイズバル様の元にも戻れなくなっちゃうし」
ハクアの背筋を冷たいものが這い上がった。
この女――どこまで本気で言っているのか。
誰のためにカハクの鱗粉を?
それに、先ほどから口にしているヘイズバルとは何者なの?
問いは次々と浮かぶが、今は探っている場合じゃない。
とにかく、この場から生きて脱出する。
それだけに集中すべき。
幸いにも時間稼ぎの効果は現れていた。
魔力はまだ完全ではないが、目くらまし程度の魔法なら充分放てる。
そう判断したそのときだった。
アークデーモンの表情がふっと陰り、ほんのわずかに眉尻を下げた。
「――あらあら、ちょっと喋りすぎちゃったかも。
まぁ、いっか。
死体になってもらえばバレないし」
豹変した声色にぞくりと悪寒が這い上がる。
軽やかな戯れの響きは一変し、アークデーモンの指先が、まっすぐにハクアを捉えた。
「……ク・ラグ・ザラム……ディ・エン・シャオ……」
聞き慣れぬ古代語の詠唱。
それと同時に膨れ上がる魔力。
先ほどのグレーターデーモンとは比べものにならないほど、濃密で禍々しい。
――これが上位種か。
指先に収束した黒い球体が音もなく肥大していく。
避けようにも、あまりの魔力に圧倒され、足に力すら入らない。
「バイバイ。
楽しかったわよ、人間」
アークデーモンが軽く手を振った直後、ジオが疾風のごとくハクアに向かって放たれた。
シャルロッテが青ざめた顔でこちらに駆け寄って来るのが見える。
だけど、もうどうにもできない。
そう思い視線を伏せかけたその時――目の前を黒い影が横切り、放たれたジオを足先で蹴り上げた。
「……なっ――!?
なんなのいったい!!」
アークデーモンの声が遅れて響く。
空中で炸裂したジオが轟音と共に爆ぜ、爆風が森の木々を揺らした。
その土煙のなか、赤いドレスがふわりと舞う。
――魔王マキナ。
誰よりも場違いな、だけど誰よりも頼もしい存在がそこに立っていた。
「お怪我はありませんか、ハクア様?」
マキナがハクアの前でにっこりと微笑む。
「ここから先は私にお任せください」




