第061話 ルクソール公国の魔導師(前編)
ハクア・ルクソールは青い霧に包まれた樹海の中で周囲に目を光らせていた。
背後には魔導師の精鋭たちが幾列にも並び、各々が緊張した面持ちで魔力を研ぎ澄ませている。
いずれもルクソール公国の誇る実力者であり、帝国の重鎮が密かに依頼を送るほどの精鋭たちだ。
だが、その彼らですら目の前に広がる異様な光景に眉をひそめていた。
「ハクア様、問題が発生しました」
ハクアの右隣に控える黒髪の女性、シャルロッテ・ルーンフェルドが口を開いた。
肩まで流れる漆黒の髪を揺らし、青白い光を灯した大型の杖を手にしている。
「進んでも進んでも、同じ場所に戻されるとのこと。
こちらの視覚を狂わせているのかもしれません」
「――視覚を狂わせる……ねぇ」
ハクアは小さく息をつく。
冷静を装ってはいるが、得体の知れない状況に焦りを隠しきれない。
視覚を狂わせるにしては、やけに意識がはっきりしているからだ。
なにか別の要因が隠れているはず。
やがて、周囲に偵察に出ていた魔導師たちがぞろぞろと帰還してきた。
誰もが眉をひそめ、顔色を悪くしている。
「霧が……おかしいです」
「森の中を三回、いや四回進んだつもりでしたが、なぜか元の場所に……」
「方向感覚が狂ってしまったのでしょうか……」
それを聞いていたシャルロッテが顎に手を当て、低く唸った。
「――おそらく、私たちは森の空間そのものに閉じ込められています。
これは私たちの扱う魔法では再現できない。
もっと根本的に現実の法則を書き換えている。
考えられるとすれば、ジャクリット卿の言っていた魔術が絡んでいるかと」
その場の空気が凍りつく。
――魔術。
魔族の中でも限られた者のみが扱える神秘の秘術。
魔法のように精緻な理論や系統を必要とせず、対価を支払うことで自然界には存在しない法則や現象を引き起こすことができる。
「なるほどねぇ。
確かにこの霧からは魔力の痕跡を感じられない。
魔術が絡んでいるなら今の状況も説明つくわ」
ハクアが冷ややかに口を開いた、その時。
霧の中から唸るような咆哮が響いた。
「ッ! 前方、魔力反応!」
シャルロッテが叫ぶのと同時に霧を裂いて現れたのは赤黒い巨体。
背丈が2メートルはあろうかという魔族の戦士だった。
頭部に誇示するよう並ぶ二本の湾曲した角。
燃え立つような紅い眼。
無数の骨の突起が背中を覆い、両腕には魔力の奔流が刃となって伸びている。
「グ、グレーターデーモン!!
急ぎ迎撃態勢をとれ!!」
シャルロッテが叫び、魔導師たちが散開する。
ハクアも杖を握り、即座に詠唱へ入った。
「――天の理を正す者よ。
罪を裂き、穢れを打ち払え!
断罪の閃光!」
杖から放たれた純白の閃光がグレーターデーモンの頭部を直撃する。
だが、その巨体は怯むことなく逆に魔力を膨張させた。
「――炎よ、我が意に応えよ。
灼熱を纏い、大気を裂け!
焦熱の衝波!」
咆哮と共に放たれた熱波が前衛の魔導師に襲いかかる。
「ぼ、防御障壁、展開ッ!」
緊急展開された魔法障壁が熱波を受け止めるも、その衝撃でヒビが入り、魔導師のひとりが吹き飛ばされた。
ハクアが瞬時に手をかざし、飛ばされた魔導師の体を癒しの光で包み込む。
「後方に下がって!
シャルロッテ!!
あいつの動きを拘束できる!?」
叫びながら、ハクアがシャルロッテに目配せする。
「はい、ハクア様。
――雷帝の主よ。
天の戒律に従い、我が敵を縛れ!
雷鎖の封陣!」
空中に無数の魔法陣が浮かび上がり、グレーターデーモンの四肢を青白い鎖で縛り上げる。
その直後、左右から別々の魔導師が魔法を放った。
「氷槍の刺突!」
「雷鳴の斬刃!」
氷の槍が矢継ぎ早に放たれ、追撃の雷の刃がグレーターデーモンに襲いかかる。
爆風の果てに煙の中に浮かび上がる巨影。
膝を折ってはいるものの、グレーターデーモンは未だその場に踏みとどまっていた。
全身を傷つけられ、出血するように魔力を吹き出しているが、魔力自体はより濃密さを増している。
「おかしい。
魔力が逆に濃く……!」
シャルロッテの呟きと同時に異様な静けさが広がる。
グレーターデーモンが低く唸るように詠唱を始めた。
「……ク・ラグ・ザラム……ディ・エン・シャオ……」
空気が軋む。
聞き慣れぬ言語。
通常の魔法詠唱とはまったく違う。
「これで終わりだ人間共! 神悪!!」
グレーターデーモンが両腕を構えた瞬間、魔力の奔流が黒い稲妻となって収束していく。
球体の中心に雷光が蠢き、周囲に亀裂の走る音が鳴る。
空間そのものを裂くような圧倒的な力。
もはや、ただの攻撃魔法ではなかった。
「来ます! 防御障壁を全力で構築して!」
「――防御障壁、展開!」
「ハクア様は後退を!」
シャルロッテと数名の魔導師がハクアの前に立ちはだかる。
だが、黒い雷球は音を置き去りにしながら進み、魔力障壁を触れただけで霧散させる。
「避け――っ!」
――瞬間、空間が爆ぜた。
爆心地にいた魔導師たちが後方に吹き飛び、幾重にも展開されていた防御障壁が粉々に砕け散る。
土煙のあとには、大地を根こそぎ抉られた痕跡だけが残されていた。
「こ、これが古代魔法。
第一階位の神悪でこの威力なんて……」
誰かが呟いた。
絶望がじわじわと魔導師たちを覆い始める。
ハクアは唇を噛み、残っていた魔力を強引に練り上げた。
「絶望する暇があるなら、はやく魔力を練りなさい!
あなたたちはルクソール公国の誇る、選りすぐりの魔導師集団なのよ!!」
その声に押され、魔導師たちが再び詠唱を始める。
グレーターデーモンは古代魔法の反動で動けないはず。
このチャンスを逃したら私たちは終わる。
「――神々の理に背く者よ。
罪を悔い改め、今こそ裁きを受けよ!
聖光の槍陣!」
無数の光の槍が空中に展開され、一斉にグレーターデーモンへ降り注ぐ。
他の魔導師たちも魔力を振り絞り、雷・氷・炎の魔法が怒涛の如く打ち込まれる。
閃光が霧を押し返し、轟音が大地を揺るがせた次の瞬間、ついにグレーターデーモンの動きが止まった。
巨体が大の字に崩れ落ち、漏れ出した魔力が静かに空中へ霧散していく。
誰もが崩れ落ちるように座り込んだ。
全身にのしかかる疲労。
ハクアも杖を抱えたまま膝をつく。
体の芯まで魔力を削られた感覚だ。
だが、そのとき――瞬時に森の空気が変わった。
霧が渦を巻くように揺れ、女の姿をした魔族がゆっくりと現れる。
すらりと伸びた肢体に骨のような羽。
額には三本の黒角が燦然と輝いている。
魔力の密度が先ほどのデーモンとは桁違いだった。
「アーク……デーモン……」
誰かが、かすれた声で呟いた。
先ほどのグレーターデーモンとの戦闘ですでに疲弊しきっている。
魔力の消費も、魔法詠唱の構築も限界に近い。
今この場に戦える者はもういない。
そう、誰もが直感した最中、女の魔族は一歩踏み出し、やや首を傾けて微笑んだ。
「――あらあら?
驚いた……グレーターデーモンを倒しちゃったの?
やるじゃないあなたたち!
それより教えて欲しいんだけど。
この霧はいったい誰の仕業なの??」




