第060話 青い濃霧
森の様相が変わりはじめたのは、歩き始めてから30分ほど経ったころだった。
それまでは比較的明るかった森も、次第に鬱蒼とした原生林に姿を変えていく。
頭上には木々の枝葉が幾重にも重なり、わずかな陽光さえ届かない。
日中とは思えないほどの暗さだ。
湿り気を帯びた苔が足元一面に広がり、一歩踏み出すごとにぬかるみに沈み込んでいく。
「――まさか、ここまで深い森が広がっているとは。
道を覚えておかないと迷いかねませんね」
ルシウスが低く呻き、後ろを振り返る。
俺も肩にとまっているウェントを指先で撫でながら静かに頷いた。
「あぁ、そうだな。
それにしてもやけに静かだ。
さっきから獣の気配はするが足音ひとつ聞こえねぇ」
まるで、なにかに怯えた獣たちが必死に息をひそめているようにみえる。
そういえば、フィオネも前に言ってたな。
神樹様は獣も道を見失うほどの深淵の森に佇んでいると。
もしも、フィオネの言葉が正しいのなら、俺たちはまだその入り口にすら達していないのかもしれない。
そんな時だった。
ルシウスがピタリと足を止めた。
「……この感じ……魔族か?」
「……はい、近いです」
お互いに無言で頷き、近くの茂みに身を伏せる。
腐葉土の匂いに紛れて異質な魔力の気配が漂っていた。
茂みの隙間から目を凝らすと、赤い体毛に覆われた異形の影が背中を丸めてうごめいている。
頭部からは一本の角が伸び、引き締まった四肢はしなやかながら筋肉質、背中には骨のような突起が無数に隆起していた。
「――レッサーデーモンか」
デーモン族の中で最も低位に分類される個体だ。
とはいえ、侮ってはならない。
デーモン族は魔力を宿す器として特に優れており、魔法の行使においては人間の魔導師をはるかに凌駕する速度と精度を誇る。
頭部の角の本数がそのままの階級を表し、一本でレッサーデーモン、二本でグレーターデーモン、三本でアークデーモン。
そして、四本でデーモンロードとなる。
今、目の前にいるのは最下位の個体であり、俺とルシウスの手に余る相手ではない。
できれば拘束して、こちらの質問に答えさせたいところだ。
「ルシウス、あいつを拘束できそうか?
できれば奴らの目的を吐かせたい」
「――はい、問題ありません」
ルシウスは静かにしゃがみ込み、両手を地面に添えた。
その瞬間、微細な魔力の波が地中を走る。
不可視蔦。
視認できない蔦を地中から伸ばし、相手を拘束する樹妖の一種だ。
こいつに捕まると、まるで見えない重力に押しつぶされているような感覚に陥り、魔力を吸い取られる。
ルシウスが顔を上げた次の瞬間、レッサーデーモンの足元から無数の蔦が飛び出した。
それらは一斉に巻きつき、手足、胴体、首元まで締め上げていく。
叫ぶ間も与えず、レッサーデーモンの体はその場に沈み込んだ。
「――よし、完璧だ」
ゆっくりと距離を詰めると、レッサーデーモンの真紅の瞳が睨みつけてくる。
「穢らわしい混血魔族め!
はやくこの拘束を解け!!」
「アホかおまえ。
せっかく捕まえたのにみすみす逃すわけねぇだろ。
それより、おまえらの目的を吐け!
帝国の森の中でなにしてやがる?」
「デーモン族は誇り高き種族だ。
裏切り者風情に語る舌など持ち合わせていない!
せいぜい、この地を彷徨い続けるがいい。
貴様らもすぐ魔の霧に飲み込まれるだろう」
その言葉に俺の眉がぴくりと動いた。
魔の霧?
なんだそれは?
言葉の意味を探るより早く、レッサーデーモンは自らの舌を噛みちぎった。
ゴブッという濁った音。
口の端から赤黒い血がどろりと溢れ出す。
不可視蔦の蔦を緩めた時には、すでにピクリとも動かなくなっていた。
「……さすがに口を割らせるのは無理だったか」
小さく舌打ちしながら、視線を落とす。
デーモン族が恐れられるのは魔力だけじゃない。
統率者の現れたデーモン族は徹底した社会主義に豹変する。
だからこそ厄介なのだ。
「――ま、魔王様!
あれはなんでしょうか!?」
突如、ルシウスの声が緊迫感を帯びた。
顔を上げると、森の奥――木々の隙間から青いモヤのようなものが迫ってくる。
明らかに自然の現象ではない。
人為的に作り出されたもののようにみえる。
数秒もたたない内に辺り一帯の視界がボヤけ、周囲の様子が分からなくなるのだった。
「これは……霧か……?」
重く、濃く、肌に絡みついてくる不快な感触。
湿気を含んだそれは霧のように思える。
「ええ……そのようです。
ですが、霧にしてはやけに濃い。
それに私の中の魔喰樹も異常な程ざわついています」
ルシウスが苦悶の表情を浮かべる。
魔喰樹が反応してるってことは、なにかしらの魔力を含んでいるはず。
ただ、霧の中に強い毒素が混じっている気配はない。
毒素が強ければ、俺の内功が解毒に向けて激しく循環するはずだからだ。
顎に手を当て考えを巡らせるも、俺たちの周囲の景色はすっかり青に染まっていた。




