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SR満州戦記4  作者: 異不丸
第1章 1947年5月
8/25

水曜日(2)


外蒙古トシェートハーン部、スンベル近郊


 スンベル郊外に到達した機動連隊は最後の補給点を設営した後、ほとんどのトラックを回送した。連隊に残ったのは無線機や装備を積んだ十両だけだ。ここからは機動連隊も徒歩で進む。草原の北西には緑の山稜が見えた。そのボグドハーン山の向うが外蒙古の首都である。

 連隊本部情報班の梅澤准尉は主計班の音井上士と昼食をとっていた。

「外蒙の遊牧民は野菜を食べへんのか」

「ゴビ砂漠を越えてからあちこちのゲルを覘いて来ましたが、乾燥した薬草ぐらいしかなかった」

「馬乳酒は完全食品でっか」

「夏の間、馬乳酒だけを食す成人男性は多いらしい。一日にだいたい五から十リットル、馬乳酒は食べ物です」

「へぇ、酔っ払って落馬しそうや」

 馬の生乳を発酵させた馬乳酒のアルコール度は二パーセント程度、十リットルならビール四リットルほどには酔うかもしれない。梅澤は笑わなかった。

「あれやおまへんか。肉食動物は斃した草食動物の内臓を喰らう時、未消化の草も一緒といいまっせ」

「ゲルの住人が肉を食べるのは冬だけで、夏は家畜の乳だけです」

 遊牧民は冬営地に着くと羊を屠り、越冬用の食料とする。肉や内臓だけでなく、筋・膜から血液まですべてを含む。血の一滴も草原にこぼさぬように解体する、それがチンギスハーンの戒めである。

「乳をそのまま食すことはない、必ず加工する。発酵です。バターやチーズの類から馬乳酒まで二十種類を超える。水の代わりは乳茶です」

「お茶もでっか、徹底しておすな」


 蒙古五畜は羊、山羊、牛、馬、駱駝だが、そのすべてから搾乳する。地勢によって頭数の比率は変わり、草がまばらな砂漠では駱駝が多く牛がいない。草が深くないと大食いの牛は養えなかった。乳は白い食べもので肉は赤い食べもの、どちらも草原からもたらされる。草本は家畜の食べものであって、人が食すことは許されない。

 梅澤は完全栄養食品であるカンパンを齧る。旧軍の乾麺麭は滋養優先だった。美味すぎると菓子の代わりに食うからだ。今作戦では十日間は乾パンだけだから、美味くしてあった。加えて、みそ味、ミカン味、ココア味などの変わり乾パンが混ぜられる。さらに、脳の糖分補給と飽き防止のために、ジャムや蜂蜜、ふりかけなどが配られる。装備の中には、宣撫用のチョコレートやガムもあった。行軍するだけの本隊と違って先行部隊は融通が利くのだが、もともと機動連隊は作戦中はカンパンだけである。

 ふと見ると、音井が考え込んでいた。東亜同文書院の商務科を出て、旧自治政府の特産課では阿片の納品量を飛躍的に改善したという。二十歳前に大陸に渡って来たのだから、青雲の志があったのだろう。

「モンゴルの遊牧民は草原を守るために独立を支持したんや」

「そうですね。草原があれば完全に自給自活できる」

「内蒙古では漢人が草原を潰して畑に変えてもうた。遊牧はできまへん」

「ところが、人民共和制で社会主義が進行すると話が違って来ます」

「騙されたんや」



 ゲルの一戸は夫婦と成人前の子から成る。五畜すべてを利用し搾乳加工するには一戸の労働力では足りず数戸で協力し合う。ホアタイルと呼ばれる緩やかな共同体を形成して能率を上げるのだ。チョイバルサンは遊牧社会の社会主義化にあたって、社会主義農牧業協同組合ネグデルを導入した。家畜は協同組合の所有となり、ホアタイルは解体され、ノルマに従って家畜を飼育する生産小隊ソーリが編制された。

「ソーリが指示する単種多頭飼育は一戸の労働負担が大きい」

「七百年も続いたんや。モンゴルにはホアタイルが一番や」

「チョイバルサンは革命家であって、遊牧民ではない」

「そやな。十五の時からロシア語で教育されとる。それが一番の悪や」

 十年前、内務大臣であったチョイバルサンは、首相と国防大臣が主導する『反革命的日本のスパイ組織』の陰謀を暴き、首謀者を処刑する大粛清を実行した。三万七千人が粛清され、チョイバルサンは独裁権力を得た。その背後にはコミンテルンの指導があり、特にスターリンはラマ僧の排除に固執した。

「粛清された僧は数千人といいます」

 粛清を免れても還俗を強制され、大粛清の前に十一万いた僧は千数百人にまで減少した。人口七十五万の外蒙古で僧十一万の比率は大きい。熱心な仏教徒であるモンゴルの遊牧民は、跡継ぎを決めると残りの男子を寺に入れてしまうのだ。極端といえばそれまでだが、梅澤は試算したことがある。外蒙の半分近くが乾燥砂漠地であり、残りの面積で養える遊牧民は五十万から百万足らず、それが天然遊牧の限界だ。


 天然といっても草原は無限ではないし、家畜の種類と頭数も野放図なのではない。どこのゲルでも牛の数は羊の十分の一以下で、山羊の数は羊より少ない。大人しく群れに従う羊と違って山羊は活発で、何より草の根本まで食べて草原を根絶やしにしてしまう。それでも五畜を飼うのは搾乳を絶やさないためだ。それぞれ妊娠期が違う家畜を飼うことで、夏中いっぱい欠かさずに乳を得ることができた。

 ホアタイルが廃止されてネグデルが進行すると、一時的に家畜は増えたが、その後は増えなかった。それ以上に都市住居者や定住者、つまり消費者が増えたからである。

「民主主義は強制するものやない」

「そうです。生き方は選べるべきですね」

 二人は吸殻を紙袋に入れてポケットに仕舞った。これから山に入る梅澤は靴とゲートルを確認する。

 ボグドハーン山は聖地であり、ハーンの特別令によって八百年以上前から禁猟とされている保護区でもあった。その北の谷に代々の活仏、ジェブツンダンパが住む寺院があり、寺を中心として門前町が形成された。外蒙で唯一の都市はフレーまたはウルガと呼ばれ、漢字では庫倫と書かれてクーロンと読む。人民政府は都市の名前を赤い英雄を意味するウランバートルと変え、外蒙古の首都とした。

「ほな、気ぃつけて」

「音井部長も」





中ソ国境、図們江河口沖、第3艦隊旗艦熊野丸


 夜明け前に第33戦隊が合流すると、佗美司令官はまず高雄と雪風を領海線まで進出させ、戦力が互角になったことを誇示した。ソ連極東艦隊はそれなりに動揺したように見える。撤退されても困るから、33戦の残りは後方の補給船隊に紛れ込ませた。

「ま、上空から見れば一目瞭然だがな」

「米海軍第7艦隊は対馬海峡を出ました。ここは艦上爆撃機の攻撃範囲内です」

 それに気づいているかどうかはわからないが、今日はソ連機は飛んで来ない。31戦は常時四機の戦闘機を上げていた。

「アメさんは最後の段階まで出て来ない。そういう役回りだ」

 佗美が涼しい顔で呟くと、河野参謀長も黙って頷く。

「さて、どう出てくるか」

 第3艦隊の全力が揃った午前、作戦案が三つほど打ち合わせられた。一つは極東艦隊が攻撃してくる場合、もう一つは引き上げる場合だ。攻勢作戦ではないからソ連海軍の出方による。詳細は詰められないが、高雄がいるから何とかなるだろう。三つめは念のためで、こちらから仕掛ける場合だ。海上は支作戦であり、ソ連軍の関心を引きつけておくのが目的だ。主作戦は陸上にある。

「うちと違って、極東艦隊は主務部隊です。最初に動くことはありません」

「やはり図們江対岸が本命か」

「はい、長春はそう見てます。北鮮東部線と西部線に沿った二つの進撃路」

「ふぅむ」

 陸戦の指揮は東北軍が執るが、佗美は清津府軍管区司令でもあり、不関知とはいかない。海上からの陸戦支援は検討しておくべきだろう。問題もあった。

「極東艦隊と合戦に入れば支援は無理です。しかし、同時攻撃は露助の常套」

「うぅむ」

 二人は作戦図を睨みつける。





吉林省長春市洪熙街、満映撮影所


 第三スタジオの司令部で喊声が湧いた。待望のシベリア軍管区の動きが判明したのだ。

「少なくとも自動車化狙撃師団が二個、砲兵連隊が二個、シベリア鉄道で東へ移動したと」

「また林田少校の殊勲甲です」

「よくやった。これでヴァシレフスキーは後へ退けない」

「兵站司令部へ送れ」

 通信参謀が走って出て行く。

「さて、北蒙だ。ウルガにはどれほど集まった」

「市内に一個連隊、近郊に二個連隊です。明日の夕方には六個連隊になります」

「よし、明日深夜に決行。計画通りだ」

 一瞬、司令部の緊張が解ける。やれやれと甘粕機関員は椅子に深く沈んだ。

「佗美がよく暴発しなかったものだ」

「あれだ。全戦力が揃ったから落ち着いたのだろう。ここから独断専行はないと思っていい」

「そうだな、戦力の余裕は心の余裕を生む」

「まさしく」

 弛緩した気持ちを引き締めねばならないと飯島が立ちあがった。

「我慢も明日一日だ。しっかり統制するぞ!」

「おう」

 そこへ、どたどたと足音高く通信参謀が入って来る。飯島は眉を顰めた。

「最高司令部から入電!」

「おう」

「明朝、スターリンが重大声明を発する模様」

「なんだと」

 飯島は拳を額に当てようとしてやめた。考えるまでもない。声明の内容は一つ、中ソ開戦だ。






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