序章 開戦
【昭和一六年一二月八日】--------------------------
昭和一六年一二月八日、帝都東京は冬晴れの寒い朝を迎えた。一面に霜が降りて、宮城の土手は真っ白である。午前六時、東京放送局の番組はラジオ体操、ニュースと、いつもどおりに続いたが、天気予報がなかった。午前七時、時報の後に聞き慣れないチャイムの音が連続して響いた。そして、臨時ニュースがはじまった。
『大本営陸海軍部、一二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。大本営陸海軍部、一二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり』
『今日は重大ニュースがあるかもしれませんから、ラジオのスイッチは切らないでください』
ラジオの前の国民は驚いて聞きなおした。そして大半の者が「ついにやったか」と思う。このところ、新聞各紙は日米交渉の不調を報じていたから、いずれこうなる予感は誰もが持っていた。ありそうな事象が始まらなければ、いつ始まるのかと不安なものである。だから、開戦の賛否や是非を考える前に、ひとまず不安を解消して「ほっ」とした。それからの行動は各人各様である。食事と出勤を優先するものがほとんどであるが、座り直して朝刊を読み返す者がいる。何人かは、知人に確認しようと電話をかける。思いついて、外出着の仕度を家人に言いつける者もいる。あわただしい月曜の朝が始まった。
予告どおり、その日のラジオは臨時ニュースと大本営発表が続いた。帝都では、昼間の送電が告げられて、どこの家もラジオは点けっ放しだった。朝のうちは臨時ニュースの繰り返しだったが、だんだんと内容が追加される。そして、号外が配り終えられる頃、軍艦マーチに続いてハワイ奇襲成功を報じた。国民は驚愕した。ハワイとは西太平洋どころではない。遥かな海原の向こうだ。帝国はハワイを空襲できる手段を持っていたのか。艦隊なのか航空部隊なのかはわからないが、すごいものだ。ひょっとしたら。
正午の時報の後は君が代だった。自宅で座ってラジオを聴いていた国民は、思わず背筋を伸ばす。職場や学校では全員が起立した。宣戦の詔勅が奉読され、首相の演説があった。愛国行進曲のあとは大本営発表で、政府声明、マレー半島奇襲上陸のニュースと続く。夕方五時には比島、香港への空襲が報じられた。夜七時には朝からのニュースが振り返られ、布哇、比島、香港の戦況が報じられた。寝床の仕度が終わる九時には布哇奇襲の戦果の詳細が、十時には今日の戦果のまとめが放送された。
ようやく国民には、開戦初日の陸海軍の作戦がおぼろげながらも見えてきた。ラジオは西太平洋と報じたが、実は南方全域なのだ。このまま進軍すれば、シンガポール、マニラ、そして石油地帯の蘭印ジャワだ。今日だけの戦果を聞いてもたいしたものであるから、実は、綿密に練られた作戦なのだろう。遠く東の布哇に奇襲しつつ、西のマレーに上陸する。中部のグアムも抜かりはない。ついに帝国陸海軍が陰鬱な閉塞感を打ち破ってくれた。なんとかなるのではないか。ラジオが布哇奇襲の戦果の詳細を告げる頃、大日本帝国臣民はゆったりとした眠りにつく。
もちろん、大日本帝国には、開戦から終末までの計画があった。
【帝国国策遂行要領】--------------------------
昭和十六年十一月五日御前会議決定
帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し左記処置を採る
1.武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
2.対米交渉は別紙(甲案、乙案)に依り之を行う
3.独伊との提携強化を図る
4.武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す
5.対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す
別紙
甲案
九月二十五日我方提案を左の通り緩和す
1.通商無差別問題九月二十五日案にて到底妥結の見込みなき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す
2.三国条約の解釈及履行問題我方に於て自衛権の解釈を濫りに拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては従来?々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
3.撤兵問題本件は左記の通り緩和す
A.支那に於ける駐兵及撤兵支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙疆の一定地域及び海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始治安確立と共に二年以内に之を完了すべし(註)所要時間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途ろするものなる旨を以て応酬するものす
B.仏印に於ける駐兵及撤兵日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし、尚四原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明なるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす
乙案
1.日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す
2.日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす
3.日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油の対日供給を約す
4.米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
備考
1.必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし
2.必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する既定を追加挿入するものとす
【陸海軍中央協定】--------------------------
【11月5日 陸海軍中央協定】
第一款 南方作戦の目的は東亜に於ける米国、英国及蘭国の主要なる根拠を覆滅し南方の要域を占領確保するに在り
第二款 前款に依り占領すべき範域はフィリピン、グアム、香港、英領マレー、ビルマ、「ビスマルク」諸島、ジャワ、「スマトラ」、「ボルネオ」、「セレベス」、「チモール」諸島とする
陸海軍共同占領、海軍守備:グアム、ビスマルク、タラカン、アンボン
海軍単独占領、海軍守備:メナド、ケンダリー、マカッサル、ウェーク、マーシャル、カロリン、マリアナ
【対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案】--------------------------
開戦にあたっての大日本帝国の基本戦略が「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」である。陸軍省軍務局高級参謀石井秋穂大佐作成、昭和16年11月15日大本営政府連絡会議にて決定
主敵:英国
終末構想:引き分けないし不敗
『
対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案
昭和一六、一一、一五 連絡会議決定
方針
一、速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む
二、極力戦争相手の拡大を防止し第三国の利導に勉む
要領
一、帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及び西南太平洋に於ける米英蘭の根拠を覆滅し戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資源地域並び主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整ふ
凡そ有手段を尽して適時海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む
二、日独伊三国協力して先ず英の屈服を図る
(一)帝国は左の諸方策を執る
(イ)豪州印度に対し政略及び通商破壊等の手段に依り英本国との連鎖を遮断し離反を策す
(ロ)ビルマの独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺戟す
(二)独伊をして右の諸方策を執らしむるに勉む
(イ)近東、北阿、スエズ作戦を実施すると共に印度に対し施策を行なう
(ロ)対英封鎖を強化す
(ハ)情勢之を許すに至らば英本土上陸作戦を実施す
(三)三国は協力して左の諸方策をとる
(イ)印度洋を通ずる三国間の連絡提携に勉む
(ロ)海城作戦を強化す
(ハ)占領地資源の対英流出を禁絶す
三 日独伊は協力し対英措置と併行して米の戦意を喪失せしむるに勉む
(一)帝国は左の諸方策を執る
(イ)比島の取扱は差し当り現政権を存続せしむることとし戦争終末促進に資する如く考慮す
(ロ)対米通商破壊を徹底す
(ハ)支那及び南洋資源の対米流出を禁絶す
(ニ)対米宣伝謀略を強化す
其の重点を米海軍主力の極東への誘致並び米極東政策の反省と日米戦無意義指南に置き米国与論の厭戦誘致に導く
(ホ)米豪関係の離隔を図る
(二)独伊をして右の諸方策を執らしむるに勉む
(イ)大西洋及び印度洋方面に於ける対米海上攻勢を強化す
(ロ)中南米に対する軍事、経済、政治的攻勢を強化す
四、支那に対しては対米英蘭戦争と国に其の作戦の成果を活用して援蒋の禁絶、抗戦力の減殺を図り在支租界の把握、南方華僑の利導、作戦の強化等政戦略の手段を積極化し以って重慶政権の屈服を促進す
五、帝国は南方に対する作戦間極力対ソ戦争の惹起を防止するに勉む
独ソ両国の意向に依りては両国を講和せしめてソを枢軸側に引き入れ他方日ソ関係を調整しつつ場合に依りてはソ連の印度イラン方面進出を助長することを考慮す
六、仏印に対しては現施策を続行し
タイに対しては対英失地恢復を以って帝国の施策に協調する如く誘導す
七、常時戦局の推移、国際情勢、敵国民心の動向等に対し厳密なる監視考察を加えつつ戦争終結のため左記の如き機会を補足するに勉む
(イ)南方に対する作戦の主要段落
(ロ)支那に対する作戦の主要段落特に蒋政権の屈服
(ハ)欧州戦局の情勢変化の好機特に英本土の没落、独ソ戦の終末、対インド施策の成功
之が為速やかに南米諸国、スウェーデン、ポルトガル、法王庁に対する外交並び宣伝の施策を強化す
日独伊三国は単独不講和を取極むると共に英の屈服に際し之と直ちに講和することなく英をして米を誘導せしむる如く施策するに勉む
対米和平促進の方策として南洋方面に於ける錫、ゴムの供給及び比島の取扱に関し考慮す
』




