10 サラワク
英領マラヤ、サラワク、クチン
石川は行き詰っていた。半年前に南洋事業所の渡辺所長から指定された任地は蘭印カリマンタンではなく、ボルネオ島の西側、英領ボルネオだった。サバ、ブルネイ、サラワク王国の三つに分かれていて、それぞれ統治形式は異なるものの、大英帝国の総督や弁務官が常駐し、それなりに安定している。たいした困難はないだろうと石川は思ったが、それは間違いだった。
SF条約で日本は戦時賠償として東南アジア各地の民族独立と開発援助を約束した。それが日本の経済進出の条件だ。ただ、赴任駐在するのは役人と民間人で、警察力の派遣はできない。着任する日本人の安全を確保するのは義勇警備保障株式会社の仕事となる。つまり、米英中の監視下で平和裏に大東亜共栄圏の理論を実証してみろということだ。そう石川は理解した。まずはボルネオ全島の国家独立が前提だ。
ところが、状況はかなり複雑で、独立達成は不可能とも思える。多くの部族からなるのはスマトラと同じだが、民族は一つではなく生活の基盤も全く違った。ダヤク族と総称されるボルネオ全島の先住民族は国をつくることはなかった。東では、海岸地帯に移住したジャワ人がヒンドゥー王国やイスラム王国を建設して支配した。オランダの進出後もこの構図には変わりない。西では、マレー人が海岸地帯に住み着いて衝突する。そして英国人がインド人と華人を連れて来た。
ナジャが言う。
「ダヤク族と言っても、狩猟採集と焼畑農業との二系統があり、それが場所によって、ブナンやカヤン、イバンなどと呼び分けられているのです」
張が首を傾げた。
「首狩りや精霊信仰は共通だからまとめてかまわないだろう」
「狩猟採集には山林が必要であり、焼き払ってしまう農業とは相容れない。そのどちらもパームやゴムなどのプランテーションと競合し、かつ下流の耕作を妨げる」
牧はうんざりした顔を石川に向ける。
「スマトラはよかったな、石川さん。インドネシア語が通じてモスリムが主流、米作と牛や山羊を飼うという共通する基盤があった」
「愚痴は言うまい。仕事だ。さ、続けてくれ」
三人はため息をつくと、飲み物を口にする。再度、石川は唱える。
「命題一、ボルネオ全島の統一国家」
再び始まった三人の議論を聞きながら、できるまいと石川は思う。少なくとも五年では無理、十年でも難しいかも知れない。スカルノの言う全インドネシアの独立など夢物語だった。各島の部族は反オランダで一致しているだけだ。
「何を以って統一という。言語か宗教か、生活か」
「いや、それは干渉できない。民族自決だ。介入すべきではない」
「統一とは全島民が一つの政体に従うことだろう。全国民が一人の元首を承知する」
ナジャの言葉に、牧は身を乗り出す。
「それならば、西ではすでに達成している。奥地のイバン族もラジャやスルタンや総督を通じて英国王に従っている」
「大英帝国の支配を肯定するのか」
興奮した石川に、牧は告げる。
「事実を見よ」
クチンはサラワク川の河口の町である。およそ百年前、ラッフルズに憧れた英国人のジェームズ・ブルックはここに上陸した。ブルネイのスルタンから頼まれてダヤク族の叛乱を平定する。その褒賞にこの辺り一帯を得て藩王、ラジャに任ぜられた。これが白人王朝、サラワク王国の始まりである。クチンは王国の首都であり、駐留英軍の駐屯地があった。中国軍情報部、すなわち義勇警備保障の支店もその中にある。
「わかった。英国はうまくやっていた」
「日本軍が上陸するまでは、な」
牧豊は戦前から英領海峡植民地のペナンに居て、占領後に第二五軍の軍政支部に志願、軍政監部の郡指導官としてマレー各地を転任した。北支各地で県知事顧問をした石川と同じような立場の行政官だ。
「ブルック三世は憲法と議会を制定し、選挙も行った。立憲君主制だ」
マレー人のナジャが言う。海洋商人の一族で、モスリムの筈だが、酒も豚も平気で口にする。牧とは長いつきあいらしい。
「しかし、終戦後すぐに王位を放棄、英国に割譲した。放り出したんだ。三人の娘の年金目当てでな」
無責任じゃないかと、張が言い放つ。最初に会ったのは山西省の霍県で、県公署の小孩、十一歳の少年給仕だった。それからずっと転任先へは一緒、別れたのは河北省の南和県。しかし、終戦直後に北京の宿舎に来てくれた。
「張、ナジャが言ったことは事実だ。事情とは違う」
石川が言うと、すぐに張は引く。ナジャは牧の顔を見て、続ける。
「サラワクの国情不安は三世の王位放棄に始まった」
ナジャの言葉に張は頷く。
「そう、割譲反対運動が起こった。しかも、その中心は行政府の役人だ」
四人は同時に嘆息する。
石川は、立ち止まるより原点に戻ることを選んだ。半年前に上陸したクチンに帰って、基幹の四人で話しあうことにする。それで、土曜日の午後、宿舎で言い放題の飲み会を設定した。
「サバの企業政府も統治を放棄した」
最北部のサバ州は北ボルネオ会社が所有し、会社が指名した総督が治めていて、行政官は英連邦各国から派遣された白人たちである。なぜ、同じ頃に、サバとサラワクが王冠植民地に謙譲されたか。共通する事由があった。
「財政破綻だ」
植民地経営では天然資源やプランテーションの商品作物を輸出し、食糧や必需品を輸入する。収支は輸出品の市場価格に左右される。大戦が終結して石油やゴムの価格高騰が終わると、サバもサラワクも、そしてブルネイも政庁予算が逼迫する。しかし、当時の英国、労働党内閣は支援を拒否した。
「大英帝国は解体中だからな」
「石油やゴムやパーム油が売れればいい。日本が買う」
日本の早期独立は温情ではない。東南アジアは、戦前からすでに日本との貿易に依存していた。重化学工業が発達途上の中国では買っても一部だ。インドネシアとマレー両国を潤わせるには日本の重化学工業の復活が不可欠だった。
「日本企業の再進出はどこも歓迎、白人もだ」
資本を投下し開発を進めた実績が日本にあった。サバの企業政府に木材の伐採と輸出を勧めたのも、ブルック二世のもとでゴム園を始めたのも日本人だ。そして、占領下のブルネイでは、日本人軍政官が公共事業に陸軍予算を注ぎ込んだ。
「顧問、命題とずれてはいないか」
張に呼ばれて石川は我に返る。熱くなると突進してしまう。その性格を張は知っている。かつて、土匪の集団に軍刀で突撃しようとした石川を、足にしがみついて止めたのは張だった。
「げふん」
牧とナジャは、張と石川を交互に見て感心する。
「ま、一つは解決した。さて、独立は無理なのか」
「違う。時間の尺度の問題だ。五年では無理でも二十年はかからない。かけてはならない」
再び、ナジャが発言した。どうやら割譲反対運動を持ち出したのは、独立の気運醸成を語るためだったらしい。
「運動に参加した者の出自は様々。華人、マレー人、イバン族にユーラシアン。だが、同じ部屋で同じ言葉を話していた。日本語だ」
石川が背筋を伸ばすのを、牧が心配そうに見つめる。
「もちろん、あいさつや簡単な話だ。しかし、すごいとは思わないか」
張もナジャに賛同する。
「すごいことだとも。大英帝国が百年かけてできなかったことを大日本帝国はたったの三年で成し遂げた」
日本軍の占領統治は乱暴なものだった。公用語から英語を外し、マレー語とした。設立した学校では日本語も教える。学校の近在というだけで、民族や部族の違いなど無視して、同じ教室で同じ教科を強制した。席はばらばらだから、隣席の者とはマレー語か日本語で話すしかない。さらに、軍政部に登用されるには日本語の他に愛国精神や忠誠心も要求される。日本学校には子供だけでなく、出世を望む青年も通った。
「日本軍は全員を平等に扱った」
「げふん、げふん」
石川と牧は指で鼻を掻く。ナジャが牧に問う。
「指導官、ジャワやスマトラでインドネシア語が共通語になったのは日本軍の軍政があったからだ」
「インドネシアの独立は日本軍の方針だった。マレーは違う」
ナジャは張と目配せする。
「日本人には白人の責務はない。過剰な謙譲は要らない」
「そうだ。事実がある。そこから始めるだけだ」
石川は牧を見る。牧は頷いた。言い放題なのだから全員が溜まった本音を話す。それをまとめて一つの結論を導くのが石川の役目だ。
「よし。サラワクは王国に戻す」
「うん。アンソニーが四世だ」
アンソニー・ブルックは三世ヴァイナーの甥で王太子、野心も能力もあって、割譲反対運動を主導している。
「いや、新王朝とする」
「あ。ブルネイのスルタンと切るのか」
「建前は大事だ」
一世ジェームズはブルネイのスルタン、オマル・アリ・サイフディン二世に任ぜられてブルック藩王朝を開いたから、ブルネイ王朝の臣下だ。ブルック四世ではそれも引き継ぐことになる。ここは、英国王から勅許を発して元首に任命するのが良策だろう。
「ボルネオ総督か国王か、それは英国次第だ」
「すると」
「ああ、サバ総督も兼任だ」
石川の策を三人は考える。かつて、サバの企業政府がサラワク王国に買収を打診したことがあったから、無理な話ではない。ブルネイ王朝は大封土を統治することに関心はない。収入源の油田を抑えられる今の領地だけで満足している。
「そうか、建前か」
「ナジャ、どうだ」
「いいと思う。サラワクもサバも、村々の酋長を否定していない」
張が笑いかける。
「顧問は政治家だな」
「え」
命題一の骨子はできた。サバ・サラワク王国とブルネイが併立する一つのボルネオだ。村々で戸籍、住民簿を作り、その上で往来を認める。サバやサラワク、ブルネイの境も自由にする。
「俺と張はサバに行く」
サバの企業政府は労働力として香港から中国人を募ったから、首都のサンダカンだけで華人は一万人を超える。
「牧とナジャはブルネイだ」
ブルネイの領土は海岸近くばかりで、スルタンも住民もマレー人を自称していた。
「カリマンタンもこれでいくのか」
「本部に伝える。向こうは五つか六つになるだろうな」
東のカリマンタンは蘭領で占領は海軍だった。違いはあるが、どのみち、石川の範囲ではない。英国を口説くのは本社の仕事だ。石川たちは現地の住民、スルタンと総督、役人、酋長や長老を説得する。それには残る命題の解決が必要だ。すでに経済は目途が立った。
「命題三、全住民の自活」
「生業は必要だ。全員を油田やゴム園で雇えるものでもない」
サバ、サラワク、ブルネイで把握している住民は六十万人、奥地にはもう少しいるだろうが、スマトラやジャワの十分の一でしかない。それでも戦時中は飢餓が発生した。
「水稲が一番だろう、食生活を変えるか」
「陸稲は焼畑でやっているぞ」
「台湾の研究では焼き畑は首狩りにつながるそうだ」
石川はボルネオ守備軍の軍政目的を思い出す。『民心ヲ把握シテ治安ヲ確立シ重要国防資源ノ取得及現地自活ノ確保』だ。着任した軍政官たちはさぞかし絶望しただろう。プランテーションは食糧の栽培を目的としていない。ゴムもパーム油も食料ではなく商品だ。貿易が途絶えると食えなくなる。
「島内で貿易をすればいい」
石川は立ち上がり、グラスのビールをごくごくと飲み干す。
英領マラヤ、サバ、サンダカン
キース夫妻の家は港を見下ろせる丘の上にあった。夫のハリーは英国人、政庁に勤めて三十年近くになる。妻のアグネスは米国人、来てから十四年を超えた。戦争中もクチンのバトゥ・リンタン捕虜収容所に息子と一緒にいた。日本軍の上陸時に、本国の「機械,石油など一切の資源を事前に破壊し,消極的な抵抗を行うように」という指示に従ったせいで戦闘行為と見なされ、全員が捕虜として扱われた。そこには、屈辱と暴力と飢餓と非文明があった。
その夜、ジョージが眠りについたのを確認すると、アグネスは居間に戻った。ハリーはパジャマ姿でスコッチを飲んでいる。
「一緒にいい」
「もちろんだとも」
隣に座り、グラスを軽く合わせて一気に煽ったが、夫は反応しない。迷っているのだろうか。肩を落とした夫の、薄くなった頭を見つめる。
「彼の土産を開けたのね」
「ああ」
「あなたは農務官よ。決断すべきだわ」
ようやく、ハリーが顔を上げる。
「君はどう思う」
「あら、わたしは農業も行政も、何もわからないわ」
アグネスは微笑みながら答えた。
「君は新聞記者だった。ここに来て二つも本を書いた。僕は思う、君の観察眼は確かだ」
「事実を見よと、いつも口を挿むのはあなたよ」
「そんなこと、あったかな」
ハリーは一口飲んで顔を歪める。笑おうとしているのだ。収容所の四年間で体も精神もぼろぼろになった。解放された後、カナダで二度も大手術を受けた。毎晩、奴隷になった夢を見た。それはアグネスも同じだった。
「そうよ。言って」
アグネスは夫の体を抱きしめる。ハリーは目を見開いて言う。
「事実を見よ!」
イシカワが来るようになって、夫婦の会話が増えた。夫に頼りにされていると感じることが多くなった。今では教育や行政のことも話す。これまで避けていたユーラシアンのことも。
「彼は乱暴だけど誠実だわ」
「君の言葉は矛盾しているように聞こえるが、的確だね」
アグネスは笑って夫とグラスを合わせる。
「そうよ。おかしいのはイシカワの方よ」
日本軍は不条理だった。敵国人だから乱暴は仕方がないとしても、一切の説明がないのは非文明的だ。食糧が不足なのは想像がつく。兵隊も同じ食事だから、差別待遇でないのもわかる。だが、なぜ説明しない。全部で何トンあって何人でいつまでだから、この量だ。そう言えばいい。まさか、英国人が理解できないとでも思っているのか。怒り、憤慨した。
「彼の態度は権威的で挑戦的だわ」
「しかし、説明は丁寧で筋道は正しく、目的と立場の言明もあった」
「文明人として扱われたのね」
「自分でも驚いたよ。何を求めているのか、なぜ私なのか。すべてを理解できた」
ハリーは一通りを語る。かつてないことだ。アグネスは何度も頷く。
「求めには応える。建設者になってやろう」
「それなら、何を悩んでいたの」
「どう君に説明するか」
しばらくして、アグネスは吹きだした。夫はやる気満々なのだ。
「まあ!」
ハリーは北ボルネオ政庁の林務官だった。木材とさらに高価な燕巣も管理した。他にも、農業監督官、博物館学芸員、狩猟官、科学論文執筆やマレー語の研究者でもあった。戦後、半年も経たないのに農業局と食糧局の責任者として帰任を求められ、着任した。
「日本人が有能なのは知っている。初代林務官は日本人だった。僕は四代めだ」
「彼がやろうとしていることは無謀なのね」
「乱暴だ。僕ら帝国の建設者はいつも上澄みを募って来た。学習する能力がある者を登用した。しかし、日本人は・・・」
「中国人でしょう」
夫は黙ってグラスを差し出す。アグネスはお代りを注ぐ。もちろん、義勇警備保障が何者なのかは知っている。義勇日本軍は有能だ。満州を守りきり蒙古を一つにした。連合国である中国軍の一部である。
「正確には満州人だ」
口を尖らせて言う夫に、グラスを上げてみせる。
「今夜は愉快よ。続けて」
「うん。沿岸の華人やマレー人、丘陵のイバン族、奥地の未開人、その境はどこにあると思う」
アグネスは何度も奥地に同行した。使用人の先導で未開の村に入ったこともある。政庁の仕事なら陸路で上って水路で帰る。探検は水路で上って陸路で下ることが多い。
「河川に沿って。丘と山の違い。林と森の植生・・・」
「サラワクもそうだが、河沿いを一つの地域とするのがふつうだ。これを縦線とすると」
「ええ」
「イシカワは横線を引こうと計画した。トラックが通れる橋と道路、場所によっては鉄道だ」
「えっ」
夫はゆっくりとグラスを上げた。アグネスも口をつける。
「乱暴ね」
イシカワはこれまで交流がなかった隣接地も含めて道路や鉄路で結ぼうとしているらしい。島の何箇所かに水稲などの大規模な農作地帯を作り、その収穫を流通させようというのだ。結ばれた村々は、欲すれば、獲物と作物とを交換する。すなわち交易だ。村々に自活の農業を教えるのではなく、市場と貨幣を強要するのだ。
「あなたは有効と判断したのね」
「うん。一気呵成なのだ」
それは、かつての日本軍のやり方だとアグネスは思った。だが、口にはしない。ようやく、ハリーがやる気を取り戻した。喜ぶべきことだ。ならば。
「日本領事館も再開されるのでしょう」
「きっと、そうなるね」
「クワキリ領事が再任されればいい」
「イシカワはまた来るかな」
「クリスマスまではまだ二週間もあるわ」
「よし。言ってやろう」
「ええ」
アグネスはくすりと笑った。




