7 ワシントン
アメリカ合衆国、首都ワシントン北西地区
コロンビア特別区はホワイトハウスを中心とするダイヤの形をしていたが、ポトマック川の南側をバージニア州に返還したため、南西部分が大きく欠けている。ホワイトハウスよりずっと東にある議会議事堂を起点に北東地区、南東地区、南西地区、北西地区と分けられた。つまり、北西地区が最も大きく、南西地区が最も小さい。
首都を南北に貫く道路は番号で呼ばれる。北西一六番通りは、議会議事堂から西へ十六番目の通りであり、ホワイトハウスの北頂から発する。中心部から北西地区への路面電車は、一四番通りを真っ直ぐに北上するものと、さらに西のロック川に沿って北上する路線との二つである。
かつては、この路面電車の終点あたりが市街区の終焉であり、その北の丘陵は森と田園地帯だった。今は一六番街ハイツと呼ばれ、中流向けの住宅地である。首都の人口は、戦前は六十六万人であったが、まもなく八十万に達するという。開発は急速であるが、地主たちは旧来の風景と生活を守ろうと、区画証書に制限をつけた。すなわち、一戸建てが原則で、アパートやタウンハウスなどの集合住宅や商業建物は許可されない。
アンとベンは古い邸宅のテラスから庭の芝生を見ていた。
「ユダヤ人や黒人の居住も認めなかったが、変わる」
五月に連邦最高裁判所が出した判決は、人種による財産売買や居住の制限を憲法違反とするものだった。これからはユダヤ人や黒人の進出を防げない。白人保守層は大いに反発している。
「黒人ファミリーはどうかしら」
アンに聞かれてベンは頭を傾げた。黒人は白人に次いで古く多い。成功した黒人もいる。このあたりの地主にも黒人がいた。今回の判決で敗訴したのは民間人ではなく、ミズーリ州最高裁判所だ。憲法修正第一四条の平等保護条項はこれから広く適用されるだろう。これを機に黒人が台頭することは考えられた。
「ノンセンス。組織を作れない」
彼らは白人以外の下につくことを嫌う。同じ黒人同士でもそうで、黒人だけで完結する会社や社会はなかった。さらに、他の有色人種に対して不寛容で攻撃的である。彼らは白人になりたいのだ。白人として他者の上に君臨したいのだ。
「トラブルや争闘を呼び込むだけだ」
「そうね」
「ハーレムからドンが出たら、その時は考えてもいい」
戦前からあるファミリーは出身国や出身地の区別が明確だったが、最近はさほどでもない。どのファミリーも黒人をかかえているが、ボスはおらず、売人の頭がせいぜいだ。
「さて、候補が統一された。オッズはどうかな」
「いい勝負よ」
両党は、フィラデルフィアで開催したそれぞれの全国大会で候補を正式決定した。民主党の大統領候補はアイゼンハワー、副大統領候補がトルーマンで、共和党はマッカーサーとデューイだ。選挙戦は両党の全力戦の段階に入った。
「ここらで一気に投入したいな」
「OK。みんなエキサイトしているわ」
どこのファミリーも民主党対共和党で賭博を興行している。しかし、アンはファミリーに指名を争う個人戦の段階から賭けを扱わせていた。外した者は賭け金を失っていたが、それで終わりではない。次で取り返そうとして、さらに大きく張るのが賭博というものだ。ベンが収集した各候補者の情報、スキャンダルを、アンは定常的に流して賭場の信用と興奮を醸成して来た。
「これからも、四人のスキャンダルは手に入るの」
「任せてくれ、カードはまだある。下げるだけでなく、上げる方もだ」
党対党の争いは放っておいても両党が盛んにやっていた。民主党は全体主義国家を破った大勝利を打ち上げて参戦を正当化する。共和党はソ連と赤を大脅威に育てた一六年間の失敗を批難する。アンが賭場と顧客に流すのは候補者個人に関するものだ。民主党が攻勢に出ればトルーマンのスキャンダルを、共和党が優勢となればマッカーサーの失敗を流した。競り合わせて、賭け金を膨らませるのが二人のねらいだった。
「レートを上げるように指示するわ」
賭場の胴元は、引き受けた賭け金からコミッションを差し引いて払い戻すが、総額が多くなれば払戻率を上げても一定額を確保できる。当然ながら、払戻率の高い賭場を顧客は好む。また、胴元は両者の総額が同じになるように按配する。払い戻しの原資が不足しないようにだ。しかし、アンは大きく偏ってもいいと言ってあった。そのために相当の見せ金を渡してあり、今回、さらに追加する。優勢と劣勢の差が大きいほど賭けは盛り上がり、賭け金も膨れ上がるのだ。
「共和党を下げるか。デューイの醜聞がある」
アンとベンはソ連大使館の金庫にあった偽ドル札を持ち出していた。小額紙幣は各ファミリーが支配するダウンタウンで通用しているが、高額紙幣はほとんど使っていない。今回は絶好の機会だ。
「どっちが勝つかしら」
「どちらでもいいだろう。僕らだけで決めれるものでもない」
二人は新聞の情勢分析と各ファミリーの報告をあらためて見る。各紙には支持する政党があるから記事を鵜呑みにできなかったが、販売部数の総和は両党の勢力図と見れないこともない。ファミリーでは、イタリア系とドイツ系の賭け金は民主党に偏っており、ユダヤ系では共和党が圧倒的だった。FDRは四期もやったから、既存ファミリーは民主党についている。それは、共和党に替わった方が新参者にチャンスがあるということだ。
「ねぇ。私たちもアメリカ人よ」
「たしかに。遠慮することはないな」
もちろん、二人のファミリーは新興勢力であり、ソ連と対決姿勢の共和党に共感する。しかし。
「大事なのは子供たちの未来だ」
「そうよ。どちらがいいかしら」
「それは君次第だ」
アンは少しだけ考えた。
「強く育ってほしいわ。変動の中でも」
「決まりだ。ストーリーを考えよう」
「あと三ヶ月ね」
「まず、最後のカードを決めよう」
ベンが開いたファイルをアンが覗き込んだ。
ペンシルベニア州、フィラデルフィア、ウェストフィラデルフィア
ペンシルベニア大学は、独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンが一七四〇年に創設した私立大学である。当初はフィラデルフィアのセンターシティにあったが、一八七二年にスクールキル川の対岸に移った。最初から学部と大学院を備えていた大学である。医学部が有名で、大学を取り巻くようにいくつもの病院がある。
考古学人類学博物館から三人の男が出て来た。
「スフインクスが見れるとは思わなかった」
アンドルーズの言葉に、米川も深く頷く。二人ともアメリカは初めてだった。
「楔形文字の粘土版こそ感心してほしいね」
そう言ったのは米国陸軍情報部の案内役、ハーロック大尉だ。アノネフに最初から関わっていたらしい。
「大尉はブレークスルーを達成されたと聞きました」
「ささいなものだ」
アノネフが成功するにはいくつものブレークスルーが必要だった。ソ連暗号は二段階で作成されていた。原文をコードブックを参照して数桁の数字と置換する。コードブックにない語彙は単語のスペルを対照する数桁の数字で綴る。原文は長く続く数字列となって、第一段階が終了する。次に、ワンタイムパッドの乱数セットから同じ長さを一つ選択し、それと加算して新しい数列を作成する。これで暗号の完成である。乱数セットは一度だけの使い捨てであり、ほかに存在しない。
アノネフはゼロからのスタートであった。目の前にはおよそ三千通の通信文があって、これを何十万回、何百万回も比較、検証、照合して復号する。アーリントンホールの信号情報局には一万人のスタッフと、IBMのパンチカード式計算機が準備された。最終的に、コードブックと乱数セットが得られるはずだが、その総数もわからなかった。
「だが、やり遂げられた」
「幸運もあったさ」
最初に、米陸軍の暗号を参考にして、暗号文の書式と構造が仮定された。一年かかって、通信部署によって経路と暗号が五つに区別できることがわかった。次の一年で暗号文が任意の長さの文章群から成り、その先頭と末尾が指定されていることが判明する。それがハーロック大尉の成果だ。欧州戦線からソ連のコードブックが持ち込まれた。ガードナーは黒焦げの暗号帳を復元して、単語のスペルの開始と終了の符号を突き止める。ようやくソ連暗号の構造が浮かんで来る。
「五つのうち、大使館と外交団の経路が最も早かった」
それは大使館の職員が同じ乱数セットを数度も使い回したからだ。コードブックの指定や乱数セットの指標が明らかになり、それは残る四つにも適用されてアノネフは前進する。欧州戦線が終結すればもっと多くの情報や暗号帳が入手でき、画期的な進展があるものと期待された。
「しかし、たいしたものは送られてこなかった」
「ソ連が封印したのですね」
「今ならわかる。OSSには多数のスパイがいたのだ」
ハーロック大尉は苦々しく吐き捨てた。
画期は、予想もしない所からやって来た。日本だ。マニラに来た降伏軍使は宇垣首相の親書を携えていた。米陸軍の高級暗号で書かれたその親書はアーリントンホールにも回された。ソ連暗号に関するすべての資料と担当者を保全し、差し出すと特記されてあった。
「驚いたよ。わが陸軍暗号が解読されていたとはね」
米川とアンドルーズは無言で辺りを見回す。
「カガ少佐はすぐに来ることになっていたが、アクシデントがあって、翌年になった」
アノネフには大きな危機が何度もあったという。一九四四年、アノネフを察知したFDR夫人がプロジェクトの中止を迫ったが、責任者のクラーク大佐は拒否した。一九四五年は、ソ連の二重スパイの侵入が判明し、その収拾に忙殺されていた。
「カガ少佐は秀才だ。最初に日本陸軍のソ連暗号解読の歴史を十分で語ったが、うちからの質疑は三十分に及んだ」
アノネフの進捗を聞いた加賀少佐は、ソ連政府購買委員会の通信には三桁数字を適用するように進言した。ソ連陸軍と海軍の暗号は四桁数字、一九四四年後半からは五桁数字で解読するように提案し、実際に復号を実演して見せた。五桁暗号は日本から送られた資料にもなかった。加賀は戦後も研究を続けていたのだ。
「翌日、復号した二通の通信文を見せると少佐は目を丸くした。まさか、一晩で作業が終わるとは思わなかったのだろう」
「それを可能にしたのがENIACですね」
破顔したハーロック大尉は時計を見て言う。
「うん。頃合いだ。行こう」
三人は通りを渡って大学キャンパスに入る。三階建ての建物がムーア電気工学スクールだった。それは大ホールをまるまる一つ占有していた。四方の壁いっぱいに配置され、背面で結線された全体で一つの機械、電子数値積分計算機ENIACである。ホールの中はブーンという周波音に満ちていた。真空管の性能と寿命を保つために、電源は入れっ放しだ。
「陸軍弾道研究所の砲撃射表の計算が目的だったが、ノイマン博士が汎用計算もできると新型原爆に使用してね。アノネフでも何度か使った」
「しかし、すでに陸軍に引き渡されたのでは」
機械に取りついていた白衣の男が振り返った。
「そう。ここにあるのはレプリカだ。作戦のために大急ぎで組み立てたが、ちゃんと動くぞ」
「ちゃんとかい、ジョン」
「仕様書のとおりに、ちゃんとさ。ボーナスを頼んだよ、ディック」
「払うよ、もちろん。次からは抜かるなよ」
ジョンは肩をすくめて奥に歩いて行った。
「大尉、大丈夫ですか。ソ連のスパイに実物を見せて」
「だからレプリカだ。マジュールは本物だが、中身は古い真空管。開けようとすると破裂する」
アンドルーズは笑うしかない。まったくアメリカ人は。
「置いてある回路図も本物のレプリカだ」
机を指差した大尉に、今度は米川が問う。
「ちゃんと、正確なんですね」
「ちゃんと、正確さ。カガ少佐とガードナー博士が考えた」
大尉はウインクしながら答える。
「二人は計算を待つ間、ENIACの回路図で遊んでいたんだ」




