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SR満州戦記4  作者: 異不丸
第3章 1948年
22/31

6 南京


中華民国、首都南京、中山東路


 南京府を南北に貫く大通りが中山路で、その中央から東の中山門までの大通りが中山東路である。総統府は中山路から中山東路に折れてすぐにあった。その斜向かいには『中央軍官学校航空部』がある。校舎は内側の校庭をぐるりと取り囲んでいたが、上空からは白線で描かれた楕円形が見える。今、その走路を十数人の生徒が走っていた。

「いや、本当だったのか」

 飯島が面白そうに言うと、アンドルーズは律儀に答える。

「体重五十キロを超えると放逐だそうです」

「それは大変だ」

「教導航空団要人運輸隊はエリートですからね」

 校庭の中央部は直線で八十メートルの長さがあり、中国空軍の1式連絡機L1は易々と離着陸できた。旧日本陸軍の三式指揮連絡機を改良したもので、積載能力には余裕がある。要するに、総統に気に入られたい空軍の幹部が無茶をいったのだろう。ここは緊急時に総統夫妻が脱出するための秘密飛行場だった。

「連絡機は米軍にもあるだろう。あっちがもっと乗れそうだが」

「それがJ-3もL-5も二百メートルは必要なのです。はるかに重い三指連の方がはるかに短い距離で離着陸できる」

 それは、単に軽くしただけの米軍機と違って、高揚力装置の高性能にあるのだ、とアンドルーズは続ける。しかし、飯島は別のことを聞いた。米L-5の通称グラスホッパーは飛蝗のことで、蝗害を連想させるから嫌われた。一方、三指連改の通称は銀蜻である。製造する日本国際航空工業は旧満州重工業グループの一社だ。東北航空の本間は売り込むにあたって、蒋介石に勝虫の由来を吹きこんだらしい。

 自重一トンを超えるL1が二人の目の前で着地する。自転車にも負けるのではないかという速度で、ふわりと言うしかないなとアンドルーズは思う。中から出て来たのは甘粕とウメザワである。機体が校舎に押し込まれると、またランニングが始まった。南京の夏は暑い。今日も四十度を超えそうだ。


 空調の効いた部屋で甘粕とウメザワが一服点けると、飯島が始める。

「ソ連の原爆開発に関して中英米で一致したのは三つ、原爆は牡丹江と同じプルトニウム型、完成は来年の夏頃、実験場はカザフ」

「カザフである理由は?まさか視認したのか」

 甘粕の問いにアンドルーズが答える。

「ソ連の科学者は元情報に忠実です。ニューメキシコ州の実験場と同じ気候風土を選んだ」

「なるほど、責任回避か」

「プルトニウム製造はワシントン州だったが」

 ウメザワには飯島が答える。

「米国の研究所・開発拠点は三十か所もあった。ソ連がプルトニウム型に特化しているとしても、五つは要る」

「そうか。一致しなかったのは、その場所か」

 アンドルーズが壁の地図上でウクライナからウラルまでをぐるりと指す。

「ウラン濃縮とプルトニウム製造には膨大な水を必要とします。装置冷却と放射線防護のために」

 中英米の情報機関は大河沿いの軍事都市を中心に調査していたが、それらしい施設も放射能の異常も見つかっていない。ソ連が盗んだのは原爆の製造方法だけでなく、製造施設や立地、その隠蔽の方法にまで及んでいた。米国は原爆の研究製造のために幾つもの都市を建設したが、地図には載っていない。公的には存在せず、出入りも出来ないそれらは閉鎖都市と呼ばれた。

「米国は地理地勢の特徴でいくつか目星をつけています」

「いずれも国土の奥深くで、RB-29での偵察は無理だ」

「ソ連軍のレーダーはたいして進歩していないというが」

「大戦中に英米がレンドリースしたのは新旧合わせて二千台以上です。ステーション型もありました」

「原爆をコピーできるのなら、レーダーは訳ないか」

 甘粕はコーヒーに口をつける。

「空からはあきらめるのか。地上の情報員は貴重だぞ」

 アンドルーズが目を輝かせながら答える。

「とんでもない。やります。流星群に紛れて進入するのです」

「は」



 二人が揃って頭を振るのを見て、飯島は思う。俺だって信じられるか。しかし、CIA代表は大見得を切った。米国がやると言うのなら止めることはできない。もともと、彼らのしくじりだ。

「米本土で流星群が出た時、いろいろ飛ばして試しているそうです」

「ちゃんと観測すると流星群は頻繁にあるらしい」

 確認されている流星群は年間で六十以上、天球での位置や大小を無視するならほぼ毎日あって、りゅう座やふたご座など活発なものは一時間に数十個も出現する。

「レーダーに映るのか」

「ああ、音波も出すらしい」

 二人は顔を見合わせた。

「速いだろう。あっという間だ」

「音速の百倍以上だ」

「マッハ100!」

 今、米軍のジェット機がやっと音速を超えたところだ。それは最高速度の記録であって、実用巡航速度となるにはまだ数年かかる。流星とは百倍も速度が違う。一目瞭然。甘粕は真面目に聞いて損をしたという顔だ。しかし、アンドルーズは熱心だった。

「満州でもかつをどりを飛ばしています」

 萱場製作所が戦前から研究していた全翼機の資料と試作機は、米国が精査した後に中国に引き渡された。東北航空は開発を続け、ラムジェットエンジン搭載で作戦時間四十分、降下時最高速度マッハ0.95のかつをどりを完成させた。昨年の中ソ紛争で実戦に出て有用と認められている。

「そういうことか。早く言え」

 かつをどりと聞いて二人は得心した。開発拠点や研究所の攻撃ではなく、原爆を搭載した爆撃機の迎撃が本命ということだ。

「貴様らがあちこちに話を飛ばすからだ」

「それは悪かった」


 一昨日から中英米三国の戦略情報会議が開かれていた。甘粕とウメザワは上海に詰めていたから、飯島とアンドルーズが代わりに出る。もちろん、会議の中心議題はソ連の原爆開発だ。しかし、その対応策が二つに分かれ紛糾する。米国は開発拠点と実験場の破壊を唱え、英国は配備の妨害を主張した。議長国の中国は米英で分担するということで収拾を図る。

「両論併記では戦略にならないではないか」

 甘粕が語気鋭く言う。尤もである。限られたリソースをどこに集中するかが戦略であって、分割するのは違う。ソ連領内の情報員の数は限られている。ソ連は奪還・占領した土地の住民を入れ替えたから、中英米の情報員は散り散りになっていた。国民の移動が厳しく制限されるソ連では、情報員の再配置や連絡網の再構築は容易ではない。そこで、三国の情報員を合わせて空隙を補完する考えが浮上した。

「目的が一致しなければ情報員連結は無理だな」

「意見交換さえできていない」

 ウメザワが首を傾げた。他国の情報機関と会って戦略レベルの会議をすること自体が、存在意義を問われるほどの異常事態である。だから、事前協議と根回しは十分すぎるほど行われていた。すでに英米はアノネフの件で情報の交換と共有の経験がある。会議が進行しないのは異様だ。

「どういうことだ」

「英国の発言を機に喧々諤々、批難合戦だ」

「いえ、米国席からに聞こえました」

「まさか。ゲーレン機関への浸透を言った。CIAを批判したのだ」

 飯島とアンドルーズが揉め始めた。ウメザワは頭を振り、甘粕は舌打ちをする。

「ちっ」

「やはり、こっちに来たか」



 飯島とアンドルーズは顔色を変えた。

「上海は失敗ですか」

「そんなことはない」

 甘粕とウメザワは大掛かりな罠を工作中だった。中ソ紛争から一年を過ぎて、両国の関係を改善しようという気運がある。懸案は外蒙古で、中国は安易に妥協するつもりはない。蒋介石は新大使に王賢偉を指名した。旧満州国の副総理格だった王に、ソ連は大いに不満を呈する。原爆が完成すれば外交攻勢に入れるというのがスターリンの考えだ。結局、両国とも民間親善を優先する。李香蘭のモスクワ公演が企画された。

「読み通り、ソ連の情報機関は動きだした」

「昔から李香蘭の周囲にはロシア人が多い」

 満映の大スターだった李香蘭は、終戦の前年に専属を離れ、活動拠点を上海に移していた。香港、台湾、シンガポールと公演で巡るが、それをプロデュースしたのが東アジアの大興行主のアウセイ・ストローク、上海在住三十年になるラトビア人だ。もともと李香蘭は歌手でデビューした。歌の師匠はマダム・ポドレソフ、イタリア人だが夫は白系ロシア人である。彼女を紹介したのも李家の隣家だったリューバ・グリーネッツ、ユダヤ系白系ロシア人だ。

「三十年前はロシア革命の真っ最中ですね」

 アンドルーズが呟くと飯島が頷いて言う。

「李香蘭主演で『私の鶯』というミュージカル映画を作ったが、まさに、哈爾浜の白系ロシア人社会が舞台だ」

「見てません。彼女の映画は『白蘭の歌』と『支那の夜』だけです」

 飯島はアンドルーズの肩を叩く。

「いい趣味だ」

 微笑むアンドルーズに甘粕が告げる。

「撮影で雇った白系ロシア人の通訳は二人ともソ連のスパイだった。交響楽団にもバレエ団にもいた」


 一瞬、目を白黒させたアンドルーズだったが、負けずに言い返す。

「つまり、柳の下の二匹目なんですね。今回は」

「三匹目だ」

「え」

「終戦の直前、李香蘭はロシア民謡が主のリサイタルをやった。ホテルやロシア料理店、最後にロシア領事館」

「はあ」

「ソ連の歓心を引くために支那派遣軍上海陸軍部が企画した。参謀本部の指令だ。当時の首相は海軍大将の鈴木貫太郎、ソ連仲介の講和に必死だった」

 その時、中華聯合電影の川北は李香蘭のロシア歌謡の声楽教師を手配し、長年お蔵入りしていたソ連映画も上映した。

「そのロシア歌謡の教師もユダヤ系白系ロシア人だ」

「全員がソ連のスパイだったと」

 アンドルーズは考える。哈爾浜や上海でも少なくないソ連情報員が動いた。今回はもっと大きく見込める。

「作戦の成功は約束されているのですね」

「まだまだ」

 甘粕が不敵に笑う。

「さらに、ニューヨーク公演とロンドン公演も合わせる」

 アンドルーズは目を見張る。

「それで揃って上海に」

 ウメザワも笑った。

「絶好のチャンスを与えないと、罠とはなるまい」

 米国ではアノネフ以来、英国でもケンブリッジリング摘発から防諜、特に出入国管理は非常に厳しくなっていた。中国から米国、英国と巡る公演は、ソ連にとって情報網を増強する千載一隅の機会である。

「こっちはどうする。明日が最終日だが」

 飯島が聞くと、甘粕はトランクを指さす。

「このままじゃ終わらせんさ」




 その晩、中華民国国軍情報部の一室で映画観賞会が催された。招待されたのは米英の会議出席者からウメザワが選んだ八名、映画は『私の鶯』だが全編百二十分ではない。川北が特別に編集した二十五分の短縮版だ。幼少時に父とはぐれた主人公の満里子が音楽家のロシア人の養子になって歌手を目指すものだ。劇中オペラ『スペードの女王』の場面でどよめきが起こった。交響楽団や観客席の中に見知った顔があったからだ。

 なるほど特別版だと、飯島は感心した。『私の鶯』は数回見ているが、楽団員や観客がこれほど長く大写しになることはなかった。

 つまりスパイ写真名鑑なのだと、アンドルーズは思う。ロシア領事館でのリサイタルの映像もあった。李香蘭の歌曲はカットされてないから満足だ。



 ウメザワは別のことを考えていた。亡命ロシア人社会のことだ。満里子の養父のように、監視されたり警戒されれば人は動揺するものだ。異国の地の異邦人ならば、白が赤に変心してもおかしくない。だが、二世部隊の例がある。一世と比較すれば逆説的だ。いや、満州や内蒙古の日本人はどうだ。中国人になりきろうとしている。欧州の白系ロシア人はなぜ違う。ルーツか。

(ふっ)

 ウメザワは苦笑した。国を捨てて英国人になりきろうとした俺が考えてもだめだ。そう、李香蘭の公演に同行するのは若い者であるべきだ。



 甘粕はまったく別のことを考えていた。再独立後の日本のことだ。占領が終了して米軍が退去した後も日本は米国の影響下におかれる。それは避けられないことだから、宇垣首相は日米同盟で昇華吸収しようとしている。だが、竹垣機関は現実的であり、長春の分析結果は危機的だった。永続的な日本監視の仕組みの主体は中央情報局CIAで、有末機関や河辺機関では懐柔できないし、他のフロントでも対応できない。

 それは米国の単独占領に起因し、この先、CIAの日本支部やフロントが日本の政党や会社に直接干渉するという最悪の事態も起こり得る。日本は内と外から二重に米国に支配されるのだ。長春が出した予防策は、英国のMI6に牽制させてCIAを情報活動だけに止まらせること。その基盤を甘粕は作ろうとしていた。まずは、中英米情報機関の協同と連携を日常化し、日本支部の独走や暴走を探知可能とする。




 最終日の戦略情報会議は前の日にも増して紛糾し、攫み合いの喧嘩となった。別室で傍聴していた蒋介石は大いに失望する。





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