3 シンガポール
英領マラヤ、シンガポール
アデルフィホテルに着くと、石川修孝は自室に入ってシャワーを浴びる。本部で報告は済ませた。二日はのんびりできるだろう。きれいな水道は有難い。本当はバスタブに湯を張りたいところだ。しかし、テラスで新聞を読んでいる屋留幹夫と目が合ってしまった。聞きたいことは山ほどある。なにしろ、今回のスマトラ縦断は強行軍だった。二週間の予定を十日で済ませたからだ。ところが、メダンからの帰りの飛行機が飛ばず、結局は三週間も費やしてしまった。その間に接した風聞流言を、まずは確認したかった。
屋留はまだ、テラスで華人紙を読んでいた。
「お疲れさん。長かったな」
「アチェとバタックの争闘で飛べなくなった」
「相変わらずだな。それで、どうした」
「リアウまで車で下って、船を捜した」
「リアウからの直行はないだろう。バタム経由か」
「ビンタンだ。バタムまでは手漕ぎボート」
破顔した屋留は腹を抱えて笑う。ボーイが石川のビールを持って来た。
「ご苦労だったな。まずは乾杯」
「乾杯。ありがとう」
石川は南京豆をつまんだ。屋留はタロイモチップスに粉末唐辛子をかけ、バリバリと頬張る。
「共和党はマッカーサーで決まりか」
「今の勢いじゃな」
「なんでパレードなんか」
「思ったより良かったんだろ」
トルーマン大統領に解任されたマッカーサー元帥は飛行機で帰国した。その日、有楽町の連合国軍最高司令部には大勢の日本人が星条旗や日章旗を持って押し掛ける。元帥を乗せた車は前後左右を二十万人に囲まれ、MPや警察も排除することはできない。結局、万歳を連呼する民衆を引き連れて、羽田空港までの十数キロをのろのろと進むしかなかった。すなわち、パレードだ。
「日本を負かした張本人だぞ」
「勝者は賞賛されるべきだ」
さらりと言う屋留を睨みつける。
「空襲で家を焼かれ、原爆まで落とされた」
「そう、酷い目にあった。だから、占領下ではもっと悲惨になるに違いないと思っていた」
そうかも知れない。日本人が思う戦争では、勝った方が生殺与奪の全権を持つ。殺されても、奴隷にされても文句は言えない。国際法や戦争法規など一般国民は知らないのだ。結局のところ、ポツダム宣言は理解されていない。
「やれやれ」
「八十万人の署名だぞ」
ふんと、石川はグラスを呷る。熱狂は帰国してからも続いていた。毎週日曜日、GHQ本部の前に『マッカーサー元帥を大統領に』の幟が立ち、集まった日本人がデモ行進したり、署名活動をしている。つまり、選挙運動だ。
「日本人は馬鹿になったのか」
「それを善政と呼ぶ」
たしかに。得心した石川は、ボーイを呼んでビールのお代りと焼き鳥を注文する。屋留はアヤムゴレンを頼んだ。貴賓室を含む三階は中国政府で借り上げていて、義勇警備保障は調理室も監視している。
「で、米本土ではどうなのだ」
「本国でもパレードが続いている」
帰国後、マッカーサーは上下院合同会議で退任演説を行ったが、議場を出た元帥のパレードには五十万の市民が詰めかけ、歓声と拍手が送られた。ウィスコンシン州の予備選挙に到着した時も同様だった。石川は呆れる。
「アメリカ人も馬鹿になったのか」
「どうでもいいだろ、よその国の選挙など」
「勉強しろと言ったのはお前だ」
そう言うと、屋留はポカンと口を開ける。
「たしかに。言った」
石川はゆっくりと咀嚼して間をとる。どうも、話の展開がうまくない。
「どっちが勝つ」
「お前はどう思う」
かわされた。
「一昨年の流れが続いているのならば、トルーマンも民主党も勝てない」
「その通り。で、民主党は誰を担ぐと思う」
「マーシャルだと思う」
屋留はポカンと口を開けた。え、中りか。外れか。
「なるほど、勉強したな」
だから、どっちだ。
「マーシャルは現職の国務長官だが、民主党員ではないようだ」
「ルーズベルトとトルーマンに十年近くも仕えている」
マーシャル元帥は開戦から終戦までの参謀総長で、大戦に勝利したのはその軍略のおかげといえる。申し分のない経歴だ。
「共和党の候補がタフトかデューイなら対抗できたと思う。しかし、マッカーサーでは相手にならない。政治的にも性格的にも真面目すぎるからだ」
石川には承服できない。
「なぜ、真面目なのがいけない」
「選ぶのは議員ではなく、元首だ。米国民はカリスマに投票する」
「あ。元首か」
「明確な主張を持ち、タフな精神で達成する。強烈で好い個性が絶対的に必要だ」
たしかにマーシャルにカリスマ性はない。戦争が終わってから参謀総長だったと知ったし、国務長官と知ったのは欧州復興計画の通称からだ。しかし、マッカーサーは違った。
「他にはいないのか」
「いるぞ。勝てるかどうかは別だが」
石川は睨みつける。勿体つけやがって。
「アイゼンハワーも元帥だ」
「お」
欧州戦線最高司令官だったアイゼンハワー元帥は戦時中から有名だ。アイクと呼ばれて兵隊たちからは人気らしい。マッカーサーがマックと呼ばれていたかは知らない。
「アイクならいい勝負になる」
微笑む屋留に問う。
「どっちが勝つ」
「お前はどっちだと思う」
また、かわすのか。
「欧州と太平洋なら欧州の勝ちだ」
米国人なら欧州の方に関心を持っているだろう。それに欧州戦線は勝ち続けで、派手な作戦や会戦も多かったから、アイクの方が有名で人気と思われた。一方、中盤までの太平洋戦線は負け続け。最後には勝利したが、反攻作戦は強引で力ずくという印象がある。元帥自身に対してもだ。待てよ、素直に言うことはないな。
「国際裁判をみればナチスの方が悪行が多い。凶悪な奴に勝った方が強いと感じるのは必然だ」
「お、その視点はなかった。なるほどその手があるか」
「え」
屋留は感心したようだ。が、なぜだ。
「いや、民主党はどうくるのか思いつかなかったのだ。偉いぞ」
戦争中の功績なら同等で、二人に差をつけるのなら戦後だ、と屋留は考えていたらしい。アイゼンハワーは軍トップの参謀総長に就いたが平時は目立たない。一方、マッカーサーは占領軍司令官として軍政でも偉功を立てた。軍国主義だった日本人を改心させたのだ。
「待て、その日本国民世論分析は本当なのか」
「ニューズウィークやライフタイムズがGHQから取材した記事だぞ」
石川は首を傾げるが、屋留は続けて捲くし立てる。
「米英仏ソ四カ国で占領しているドイツではこうはいかない」
「ドイツ人を持ち上げると仏ソが黙ってはいない。占領を止めなくてはいけないからな」
「そうだ。しかし、ナチスドイツを悪く言う分にはどこからも文句は出ない」
「その理屈はわかるが、役に立つのか」
屋留は不思議そうに覗き込んでくる。嫌味な奴だ。
「さっき言ってた一昨年の流れとは何だ」
「米国民は民主党の対ソ宥和主義と親共政策に倦んでいる」
「それをナチス糾弾でかわすのさ」
「はぐらかすのか」
「貴様は早稲田の政経じゃなかったか」
「専門部法律科だ。支那に来てからは行政ばかりだが」
「行政と政治は同じだろう」
「散兵線と陸軍省ほども違うぞ」
屋留はグラスを置く。
「それだ。配給や窮乏生活に対する批難をかわすために鬼畜米英を謳ったのだ」
「わからんこともないが、米国人の声はでかいぞ。馬鹿かも知れんが」
「うん。集会やデモどころか銃砲保持も保証されているからな」
物騒なことを言うのを無視して石川は考える。何かずれていた。二人が米国の大統領選挙を論じるのは、それが満州や日本に影響するからだ。そう、どちらが勝つかではなく、どちらが望ましいかだ。
「そりゃ、マッカーサーだ。日本に想い入れが深いし、共和党の反共反ソは中国・満州の主義主張と同じじゃないか」
思ったとおり、屋留は即答した。
「よし。アイクと民主党の弱みは何だ」
今度は即答はなかった。ビールを一口二口飲んで考えている。
「政府の現職だ」
「それは強みだろう」
「違う、強みの裏返しは弱みだ」
「え」
「現職時代には誰でも衝かれてはまずい弱みがあるのだ」
「なんだって」
驚いた石川だったが、説明を聞いて納得する。制度的には、国務長官も参謀総長も政府の官僚であり、既定の制度や法令には従う義務があって、自分の職権内でもまま成らぬことは多い。それが行政であって、よくある話だ。さらに、議会や党の顕職、院内総務や上院議員とは正面切って争えない。それが政治だ。
「マッカーサーを更迭したのもそうか」
「うん。選挙が不利になる予感があってもやるしかなかったのだろう」
「政権内にFDRの残党が残っているのだな」
屋留は答えず、黙ってグラスを乾した。そして、正面に向き直る。
「二つ、覚えておくことだ」
「え」
「一つ、マッカーサーが勝つとすれば、決め手は戦後の日本占領だ」
「それはすでに聞いた」
「占領軍政の成功を担保するのは、離任時のパレードと八十万人の署名だ」
「いやそれも・・」
凄い形相の屋留に睨まれて、石川は言葉を呑みこむ。
「日本の貸しになるんだぞ。首相か竹垣かが企んだのかは知らん」
占領下でも日本政府が機能している。嬉しいことだ。
「二つ、現職の三人はいずれもFDRの影響下にあった」
三人とは、大統領のトルーマン、国務長官のマーシャル、参謀総長のアイゼンハワーのことだな。これもすでに論じた筈だが。
「その部下がいる。例えば、在中国米陸軍司令官のエデマイヤー中将はマーシャルの下にいた」
そうか、現在の職位だけではないのだ。過去の経歴から未来の行動を推測することは可能だ。欧州戦線最高司令官と太平洋戦線最高司令官の差異はもっとある。
「マッカーサーとマーシャルが同い年とは知っているな。アイゼンハワーは十歳も下だ。つまり、マッカーサーより軍歴の長い軍人はもういない」
「はじめて聞いた」
「マッカーサーは二人より二十年も先に将軍になった。二人はずっとマッカーサーの部下だった」
「そ、そうなのか。だとすれば、勝つのは難しい」
そこではじめて、屋留はにやりと笑った。
「しかし、五歳若い部下はマッカーサー参謀総長を手こずらせた。フーヴァー大統領の時だ」
「ひょっとして」
二日休んで英気満々の石川は本部に出勤する。義勇警備保障株式会社南洋事業所はキャニング要塞の北、旧日本軍宣伝工作本部の跡地にあった。すなわち、渡辺渡取締役事業所長の古巣の一つだ。
「御苦労さん、よく焼けて元気そうだ」
「お蔭様です。早速ですが、スマトラは状況甲です。問題ありません」
「まあまあ、座りたまえ」
五十を過ぎて貫禄がついた渡辺は愛想良くソファを勧める。
「報告書は読んだ。やはりアチェとバタックの融和は無理か」
「五年、十年では無理です。現状維持で待つしかない。国境線を引くのが最も愚策です」
「パダンを介在させるのはどうだ」
「ミナンカバウ人にとって迷惑この上ない。下手すると潰されてしまう」
「それはない。ハッタやサリムがいる」
「ええ。まずは十年待ちましょう。それがスマトラ共和国への近道です」
渡辺は煙草に火を点けた。一応は納得したのだろう。
「別紙の計画書も読んだ。突飛なことを考えるな。さすがだ」
それこそ、石川の半年間の成果だった。独立後のスマトラとカリマンタンには開発援助が実施されるが、その教育・石油技術・農業技術支援の実際のあり方についてだ。
「初等教育の教科内容は先生の頭の中にあります」
「すぐに再建できる学校は警備の対象とならない」
「油井や石油精製所は米英資本だ。あちらが勝手に警備します」
「今のところ、うちに引き合いはないな」
「農業だけは、先生だけでなく農園や田畑も同時に守らないと意味がないのです」
「ふう。村ごと懐柔するか、警備中隊を駐屯させるのはどうか」
「いいですか。一瓶の毒液を上流に落とすだけ。いとも簡単だ」
「相変わらず、恐いことを言う」
「残置情報員は優秀な者ばかりです。その彼らがまだ早いと言っている」
渡辺はようやく頷いた。
「よかろう、このまま上に回す」
「感謝します」
石川は神妙に頭を下げて見せた。
「それでどうする。ひとまず本社へ帰るか」
来た。石川は気合いを入れる。
「今年いっぱい、いや来年一月までは残りたいです」
「ほう。それはいいが、ずっと本部とはいかないぞ」
「現地勤務を入れてもらってかまいません。一時帰国はください」
渡辺は机に立つと、用箋挟を見ながら一考する。
「ボルネオに半年があるな。一時帰国は来月。それでいいか」
「いいです」
即答はしたものの、石川には違和感が残った。本部では、ボルネオは島の西のマラヤ領を指し、東の蘭印領はカリマンタンだ。島全体ならボルネオ島と呼ぶ。英領から蘭印領へ入国しろということか。しかし、渡辺に聞くことは他にある。
「ちょっと教えてください」
渡辺は怪訝な顔をする。
「仕事を選ぶようになったのか」
「いいえ、違います。出張先で気になる噂を聞きました」
「何だろう」
「ジューコフ文書とシベリアの呪いです」
「ほう。スマトラまで聞こえているか」
「はい」
「話すのはいいが、聞くと来年も本社にはいられないぞ」
それは石川の望むところだった。しばらくは本社勤めを避けろと屋留に言われた。また戦争になるからだ。特に、民主党大統領の間は危ない。
「お願いします」
石川は身を乗りだす。




