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SR満州戦記4  作者: 異不丸
第2章 1947年
16/30

7 大月


占領下日本、山梨県大月町


 奥山療養所の食堂で甲州機関は会合を開いていた。東京裁判の判決から一週間、テーブルの上には新聞や雑誌が広げられている。しかし、男たちは八日の号外を見つめて、溜息をつくばかりだ。



挿絵(By みてみん)



 業を煮やして渡辺千枝が叱る。

「何を落ち込んでいるんです。仕事ですよ」

「ああ、すまん」

「わかっていたことなんですよ」

「そう、だがな」

 こういう時が男子はだめだなと、赤間加津子は思う。

「やっぱり男子が始めた戦争なんだわ」

「えー。そういう言い方をするかな」

「待て。それは有効な視点かも知れん」

 田中隆吉が言った。小山田は恒木と顔を合わせると、立ち上がって黒板に書く。

「いたずらに男女の対立を煽るのは・・・」

「いや、違う。たとえば、開戦合議の場に女性閣僚がいたとしたら」

「あ」

「場を読むとか、議事を停滞させないとか、それは男子の特長かも知れませんね」

 堀悌三が言うと、室内が微妙な空気となった。

「えと、重要会議の場合に限ってです」

 渡辺と赤間はますます脹れた。流れを変えようと恒木が立ち上がり、冊子を掲げる。

「ここに竹垣から配布された資料がある。開廷から判決まで、新聞の記事と投稿をまとめたものだ。もちろん、検閲後のものだ」

 恒木が座ると、渡辺が立った。

「甲州新報や与論実話では読者から聞き取りもやっています。検閲されない生の声です。これを使って竹垣の資料を補正してみました」

 紙が回され、全員が読み込む。

「最も注目度が高いのは判決時で、他の平均の三倍以上です。次が、真珠湾攻撃の立証段階」

「要するに、国民の関心は対米開戦の経緯と米国の判定にある。これは危険な兆候かも知れないな」

「はい。国民は東京裁判の本意を誤解し、新聞はそれを正そうとしません」

「まったく反省してないじゃないか」

 田中の声は落胆というより悲嘆だった。


 GHQの参謀第二部では新聞や手紙の検閲を通じて国民の世論を分析している。マッカーサー最高司令官に対する三十万通にも及ぶ投書も分析されていて、『なぜ日本人だけが』とか『敗戦国だから』という記述がいまだに多いという。東京裁判に対する批判や誤解が多ければ平和教育が十分ではないと判断され、占領の早期終了の撤回もあり得た。朝日新聞や毎日新聞の社説のように高邁な理想論だけでは誤るのだ。もっと直載に、単刀直入に噛み砕いて説明するしかない。だが検閲を通るのか。

「やるしかない。紙面だけでなく、放送や講演会も」

「張り紙や回覧板もある」

 悲痛な顔の田中がそう言った。

「どこから始める。平和に対する罪か」

「違います。平和に対する犯罪です」

「うむ、そこからだ」

 犯罪とは法規に反する明白な違法行為である。罪はもっと広範囲で、道徳的・宗教的なものも含む。広義なゆえに罪という日本語には、あいまいで仕方がないという響きがあった。英語では犯罪はcrime、罪はsinと区別する。東京裁判の戦争犯罪類型A項は『平和に対する犯罪』と訳すのが正しく、すなわち『平和法規に関する違法行為』である。

「屁理屈を好む日本人は、まずガツンと殴る必要がある」

「賛成ですが、やはり殿方は野蛮ですのね」

「ま、戦争も絞首刑も野蛮だ。少なくとも上品ではない」

「高尚や理想に逃げようとするのも日本人の常套」

「塞ぐ必要があるね」

 小山田は逐一、板書していた。



「早い話、日本人は平和法規があることを知らないのです」

「外務省には国際法の専門家もいる。帝国の行動を縛りたくないから、政府が曲解するのだ」

「あら、やはり外務省には責任があるのね」

「げふん。われわれの任務は戦争責任の追及ではない」

 東京裁判は条約の履行であり、国際政治だから外務省で扱うことにされていた。重光外相は、判決後すぐに報告書の提出を命じる。報告書は極秘とされ、閣僚に回された後、外相室の金庫に仕舞われた。その内容には裁判の機微、すなわち、共同謀議とされた事由と期間の考察、田中上奏文はいかほど採用されたか、ソ連工作員浸透はいかほど採用されたか、ゾルゲ事件はなぜ却下されたか、統制派ならびに革新官僚はソ連工作員とみなされたのか、そして死刑判決の事由などが記されてある。

 もちろん、竹垣の本部でも分析はされていた。あちらには英米法も大陸法も専門家が揃っている。甲州機関がやるのは心理戦を使った民間世論の動向だった。どういう反応があり、正しいのか、誤りか。善後策として誘導すべきか。それが任務だ。

「では違反した法規を特定します。起訴状の冒頭、訴因第一を読み上げます」

『全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年一月一日から一九四五年九月二日にかけて侵略戦争を起こす共同謀議を行い・・・』

 一月一日に特別な意味はない。それは九月二日がポツダム宣言の受諾から数十日も後であることから明らかだ。重要なのは一九二七年と一九二八年の違いにある。法的解釈では、一九二七年までの侵略戦争は許され、一九二八年から違法になったということだ。


「一九二八年に何があったか。法廷で言及されたのは、六月の張作霖爆殺事件と八月のパリ不戦条約調印です」

「偽書の田中上奏文が流布されたのもこの頃だが、キーナン首席検察官は関心を示さなかった」

「パリ不戦条約だ。張作霖爆殺事件は前としても、満州事変は条約調印後だ」

 パリ不戦条約では自衛行動を違法とはしていなかった。だが、満州事変の発端となった一九三一年の柳条湖事件を、国際連盟のリットン調査団は自衛とは認めない。一九三三年に日本は国際連盟からの脱退を表明し、一九三五年に正式脱退した。一九三八年、国際連盟は満州事変をパリ不戦条約違反の侵略行為と決議し、非加盟国の日本にも通知した。

「すなわち、開戦前から日本の有罪は宣告されていた」

「これで国民は完全敗訴と納得しますか」

「どうだか。騙されたとか、俺は聞いていないとか。それが日本人だからな」

 渡辺と赤間は顔を見合せて、長く息をついた。理解した後も男子、いや日本人は往生際が悪い。ポツダム宣言は、これから国際社会に再加入する日本への条件、要求でもある。きちんと理解して国民的同意を得ないと、この先の講和条約や国際連合加入は実を伴わない名だけとなる。すなわち、同じ轍だ。

 渡辺は赤間に目配せをする。きりっと口を結んだ赤間が黒板の前に立った。男子は驚いて注目する。

「他人を傷つけない、他人のものを盗まない。当たり前のことです。誰にも疑問はない」

「はい」

「学校で習わなかったとか、どこに書いてあるか知らないとか、法廷で弁解しますか?」

「いいえ」

「他国を攻撃しない、他国を侵略しない。同じ事です。それがコモンローなのです」

「それだ!」



「次は共同謀議。二十年近くも一貫して共同で陰謀を謀るなど不可能だ。この間、首相だけでも十五人、総選挙は六回。あり得んよ」

 小山田の挑発に渡辺が立つ。

「共同謀議はconspiracy、マフィアの犯罪を取り締まる上で最も都合がいい概念として米国で編み出されました。被告人が互いに密会をしたかなどの構成要件を大胆に無視して、包括的な概念によって犯罪の被疑者を一網打尽にするものです」

「え」

「動詞のconspireには、幾多の事件を重ねて結果を生じる、の意味があります。会合や連絡は関係ありません。conspiracyは、侵略に至った経緯全体を指しています」

「そ、そうなんだ」

「すみません、いい漢字熟語が思いつかないのです。事件連鎖とか積層事象とかの意味なのですが」

 そう言いながら渡辺は思った。小説なら積み重ねた悪事と訳すところだが、裁判ではそうもいかない。だが、小山田は斟酌しない。

「ギャングと一緒にされて、国民が納得するものか」

 渡辺と赤間は再び溜息をつく。田中が立ち上がった。

「ケンスピラシーしかなかったのだ。連合国は研究していた。陸海の対立、政軍の対立、省部の対立など、要するに一元性を持った戦争指導が存在しなかった大日本帝国に対して訴追を行うには、ケンスピラシーしかなかった」

 実際に法廷に立っていた田中の発言には説得力があった。頷いた渡辺が宣言する。

「一九二八年の二月には第一六回衆議院総選挙がありました。最初の普通選挙です。これで国民は共同正犯となりました」

「あっ」

 小山田はあわてて板書を再開する。二枚目の黒板もいっぱいになろうとしていた。

「国民には権利と義務を、その相関を、再教育する必要がありますわ」

 渡辺はきっぱりと告げた。



 小野寺信が立ち上がった。田中に軽く頭を下げて、黒板の前に出る。まじまじと見つめた後、振り返った。

「いい議論だった。素晴しい。国民に説明し、納得させる材料は揃ったと思う。だが、ここで終わるなら朝日や毎日とそう違わない。無責任だ」

 渡辺と赤間、そして田中が頷く。

「あの時、どうすれば、大日本帝国は無罪だったか。それを考察する手掛かりや糸口も国民に提示すべきだと思う」

 今度は全員が頷いた。

「正面突破だ」

 声を上げた堀を全員が見つめる。

「あ。日本は冷静に外面を保って、交渉すべきだった。堂々と交渉し、それから開戦でもよかった。それは可能だった。正面突破の勇気は、外交でも戦争でも発揮されるべきだ」

「そうね。今しかないという軍部の脅しに萎縮してしまった」

「奇襲にこだわり過ぎだ」

「直接交渉を逃げて三国同盟とか日ソ中立条約とか遠まわり、他人頼みばかりだ」

「最小の手間で最大の効果を狙ったのだろうが、手間は省くものではない」

 小山田は頭を振って廊下に飛び出す。三枚目の黒板を持ち込むのだ。恒木が手伝おうと続く。






 屋留幹夫は、病棟二階の一室で石川修孝と飲んでいた。帰国が遅いと心配して、満州から来てくれたのだ。涙する思いだった。屋留は軟禁されていた。日米の密約に気付いたからだろう。弁護側反証に入ると、準備した台本のほとんどが不採用になった。竹垣機関は作戦を変えたのだ。高度な政治取引があったに違いない。それからは不貞腐れて次の著作の資料集めに専念していたが、わかる者にはわかる。ここは心理戦専門家の巣窟なのだ。

「そうか、米国は主導権を取り返したのだな」

「やるだけやったぞ。ニュルンベルクほど一方的ではない。なによりソ連に一泡ふかせた。俺と田中少将のコンビはうまくいってたんだ」

「すると、これよりひどかった可能性があったのか」

 判決までいった被告は陸軍十二:海軍六:文官八:民間二だ。何もしなかったら、陸軍はもっと多く、海軍は少なかっただろう。一番大きかったのは自決禁止と文書保全だ。

「宇垣首相が命じていなかったら開戦経緯はずいぶんと違っただろう」

「それが海軍軍人が増えた事由か」

「米内大将が健在ならさらに増えていたかも知れない」

「文官と民間人が入ったのは、やはり日本と国民が裁かれたということか」

「それはある。外交官の怠慢と新聞社の世論煽動は重い」


「それでなんで軟禁なのだ」

「言えないことをもっと知っているからさ」

「だいぶ話したじゃないか」

「今まで話したことは貴様なら思いつくことばかりだ」

 石川は頭を捻った。

「そんな気もする」

「俺は洗脳防止策を拒否した」

 田中少将の記憶力は驚異的だった。なんでも覚えていたから、それだけで危険人物だ。出廷させるにあたり、洗脳防止策、つまり洗脳を防ぐ逆洗脳が処置された。また、万が一のためにすべてを供述させ記録した。驚愕すべき情報だった。陸軍の謀略の半分以上が田中の頭の中にあったらしい。口述記録は機密となり、立ち会った恒木と加賀にも洗脳防止策がかけられた。屋留は最初から拒否したから立ち会っていない。

「そういうことなら何も聞くまい」

「うん、貴様はいいやつだ」

「泣かなくていい」

「本当に、よく来てくれた」

 石川もうれしそうだ。

「帰ろう。いい店を見つけた。吉野町だ」

「うん」




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