6 呼瑪
中華民国、満州自治邦、黒河省呼瑪県
満州自治邦が成立すると、自治邦内の学制が再び改正された。初等教育は、初級小学校四年と高級小学校二年が合同され、小学校六年間が義務教育とされた。それまでの高級進学率は三割強だから、かなり強気の改革である。中等教育は、四年制と二年制が並立していた国民高等学校や師導特修・補修科が、三年制の中学校に統一された。むろん、日系人の就学率と進学率は全邦平均より特段に高い。
「といって、中学義務教育を認めさせるほど多くはありません。全員希望だとしても、五パーセントですからね」
校長の言葉に西瀛郷開拓村教育委員の四人は頷いた。自治邦に中学校は三百以上あって定員は十万近いから、数の上では志望者の全員が就学できる。つまりは、義務教育による教育費の無償化が眼目だ。
「中上流の満人家庭では、中等・高等教育は家庭教師ないし私学が常です」
「わかりました。村内に中学校があればいいのです」
委員の一人がそう返した。宇田にも異存はない。今年、村の人口は千四百八十人を超え、中学就学の子供は五十六名いる。呼瑪県に中学校はなく、最も近いのは嫩江で、鉄道はあるが通学は無理だ。中学生用の寄宿舎はなかったから下宿するしかないが、縁戚知人はいない。事故や事件に巻き込まれないか、不良にならないかも心配である。目の届く範囲で子供が通学できるのであれば、よほど安くつく。
「それで専従教員ですが、募集はかけておりますが、なかなか」
「ま、辺境ですからね。仕方がない」
「もともと免許持ちの正規教員は少ないのです」
教員養成機関といえば師範学校だが、これは初等教育の教員を対象としていた。それでも不足で、小学校でも代用教員に頼るありさまだ。中学校は学士や専科卒の無試験検定の教員が専らである。大学や高等学校の受験に中学卒業は特に必要ではなく、つまり中学校は小学校と高校を繋ぐものではなかった。要するに中等教育の定義や教科課程は未整備で、中等教育専門の養成機関は高等師範学校の研究科や専修科、選科ぐらいである。
「では授業をご覧願います。中学三年の公民です」
校長の言葉に、宇田たち四人はぞろぞろと続く。廊下にはスチーム暖房はなく、かなり寒い。外の雪は止んでいた。
村に中学校がほしいという話が持ちあがったのは春の村会である。二冬越して食と住に見通しがついたので、隊員と農場が主体だった村の運営が見直された。それまで居候同然だった江原郷の大人たちが、農場以外の収入の目途が立って自信をつけたのだ。村の運営は村会に、農場の経営は経営会と分離される。そして村会は隊員四名と団員五名と、ほぼ村の成人比率を反映したものとなった。
「村会のご要望の『一人で満州に起つ』を目標としています」
「今日は新聞の読み合わせですか」
「はい。内容読解ではなく、新聞雑誌をどう活用するかです」
「ほう」
「では、しばらく私語はご無用に」
宇田はそうっと他の三人の様子を窺う。江原郷開拓団の大人たちは四〇代から五〇代が中心で、教育は尋常小学校だけが大半、高等小学校や中学校を出ている者は二割もいない。しかし、子供には中学校までは行かせたいという。宇田には意外だったが、養子縁組をした今井たちによると、江原郷の大人たちは開拓村や隊員の実力に衝撃を受けたのだという。二百人たらずの青少年が五倍以上の人数を二年間も養ったのだ。生存の知識は深く、なにより人生観が確立している。それはしっかりとした教育と訓練の賜物だと結論付けたらしい。
宇田は複雑な気持ちだった。たしかに満蒙開拓青少年義勇隊員は高等小学校の優等生ばかりだ。三年間の訓練所では中等教育もあって時間比率は農作業三:学習三:軍事一、中学校卒業と同等程度は当然である。が、品行方正という訳ではない。あまり思い出したくはないが、生存ということでは、すでに全員が辛酸を嘗め、社会の悪い部分も覗き見ていた。飢餓や貧窮、危機や危難は何度も経験している。
義勇隊の訓練所や開拓団には所長や教学指導員、農事指導員など大人の幹部がいた。中には、地位を利用して政府補助金や公費を着服する者、食料や装備を横流しする者、指導に名を借りて私的制裁をする者もいる。隊員同士でも先輩と後輩の対立があった。身体強健で手の届くところに得物があるから、ただの喧嘩ではすまない。警察に検挙され収監される。江頭団長はそういう問題隊員を引き受けて来た。西瀛義勇隊開拓団二百名の過半がそうで、だからこそ隊員の結束は固い。
三年生十九人の教室では机が集められて四つの班ができていた。机の上には新聞や雑誌がうず高く積まれている。生徒たちはノートを広げて黒板の前の先生を注目していた。
「今日の公民は小集団学習の三回目だ。これまで二回の学習でみんな自分の意見はまとまった。これから、各自が述べて班の意見を一つにする。来週は班ごとに発表してこの教室の統一意見とする。班の意見がまとまったら手を挙げて先生を呼ぶ。わかったね。では、開始」
谷口先生が号令をかけると、一斉に喧噪が始まった。大声をあげる者、立ちあがる者、両手を振る者。それぞれの意見には根拠があるらしく、机の上の新聞を叩いたり、ノートにまとめた数字を示したりしている。先生は四つの班を回りながら進捗を見ているようだ。しかし、班と班の争いは窘めても、騒ぎ自体を止めようとはしない。むしろ、煽っている風もあった。
小集団学習では、共同作業や分業作業の他にも、集団の中で主張したり反論したり、あるいは説得することを体験する。自分の意見を通すことが主眼ではなく、他人との討論を通じて自分の考えがどう変わっていくか、集団の意思がどう形成されていくかを観察するのが目的だ。そうは聞いていたが、なかなか熱気あふれる授業だ。
日系社会では個人同士の討論は少なく、集団相手か集団同士が通常である。だから最終学年の授業には適切であると思われた。テーマも時事問題だ。
『国民議会代議員選挙はどれだけ注目を集めているか』
黒板にはそう書かれてあった。
休み時間になると、教育委員四人は校長室に戻る。校長は得意そうに聞いた。
「どうです」
「いや、なかなか。正直、ここまでとは思いませんでした」
委員はそれぞれ感想を述べる。肯定的なものばかりで、宇田もそうだった。
「自分の意見と違っても、班長は班の意見を優先しなければいけません。まさに実社会ですわ」
「根拠が薄弱だと、主張が認められないどころか全員に糾弾される。やり過ぎとは思いませんね、私は」
校長は頷いて、指先で口髭を撫でる。それから身を乗り出して四人に決断を迫る。
「それでは谷口先生でよろしいですね」
「お願いします」
「谷口先生の出された条件もよろしいですね」
「はい」
村立中学校で唯一の専従教員の谷口明は、日本大学高等師範部の修身公民科と地理歴史科を卒業していたから、中等教育の専門家だ。それまで新京第三国民高等学校にいたのを江頭少佐が口説いて、来てもらった。ところが、衣食住に関する条件の方はともかく、肝心の授業の方が反動、過激ではないかと親たちから疑念が出ていた。村が全経費を出しているから村立であって、村民の不満は無視できない。今日、教育委員四人が揃って出張って来たのはそう言うわけだ。
「次は全校合同の英語の授業で、その後、一年と二年は漢文、三年は近代史です。英語は畑中先生、漢文は私、近代史は谷口先生です」
英語は委員全員で、漢文と近代史は二人ずつに分かれることにした。畑中まさは江頭夫人の引きで、小学校の教科と兼務だ。奉天女子師範学校理科を卒業し、津田英学塾英語科に留学していたという。
「昼食はどうされますか。給食は弁当ですが」
「先生たちの隣で食べることにしましょう」
鐘が鳴って、委員たちは教室に向かう。
中学校の校舎は小学校と同じ敷地内に増築され、体練場も新設された。体練は、村会の要望で設けられた教程で、文字通り身体を鍛錬する。満州の山野を素手素足で走り抜けられる五体が目標とされた。江原郷の大人たちが望む生存術の根幹で、要するに皮膚を厚くし、筋力と持久力を養い、維持する術を学ぶ。つまり、丁稚・弟子入り奉公で子供たちを肉体的に苦労させないためだ。
体練の基本は受け身と握力とされ、これを小中学九年の間、継続して学ぶ。新入生はまず腰を落として手をついて転び、受け身の基礎を覚える。体育のマットレスの上ではじめて、怪我や事故を防ぐ。学年が上がるにつれて、膝の高さから腰の高さへと上げていく。六年生での目標は腰の高さから講堂の板間に転んで受身が取れることだ。
握力の鍛錬はお手玉から始める。中の詰めものは大豆が標準だが、何でもいい。とにかく四六時中握っては開く。詰めものの硬さではなく握る対象の大きさが肝心だ。握る力より掴む行為が大切なのだ。小学三年あたりで大きくして、さらに枕や座布団となる。手指の皮膚は握ることで厚く硬くなる。最後に、手のひらで握れないものや掴みどころのないものを、どうやって保持するかの練習に入る。
午後の学科が終わると、小学生は講堂で体練を始める。一年生はまだ可愛いもので、ごろごろとマットの上を転がっている。それでも担任の先生は張り付いて目を光らせる。お手玉を投げる子が必ずいて、当たれば痛い。恐怖心を覚えれば先に進めないから、容赦なく叱る。二年生、三年生も来ると百人を超えて教職員は総出となる。一年生から外に出して校庭を走らせる。高学年は手がかかった。板間に落ちると痛いだろうとためらう子がいるから、黒帯の先生が補助して投げてやる。宇田は感心した。
体練場は土間で中学生専用だ。もう怖がる子は少ないが、腰から肩の高さだから一人で落ちるのは無理だし危ない。柔道着に着替えた谷口先生が男子を一人一人投げていた。袴を着けた畑中先生も女子をばんばん投げている。中学生では女子の方が体格がいいから、土間の響きがいい。投げられた生徒は受身を復習した後、校庭を数周走り、戻って列の後ろにつく。それを見るのは校長だ。谷口先生と畑中先生は投げ続けで、顔も玉の汗でびっしょりである。これは重労働だと、宇田は思った。
黒河省嫩江県
宇田は嫩江県最北の圏泡村跡地にいた。夏から省内の義勇隊開拓村跡地を調査していた目黒の応援に来たのだ。目黒雄吉は内原訓練所の同期で、先遣調査と開墾に長けていた。満ソ戦争後、残留した満蒙開拓青少年義勇隊員は少なく、ほとんどの義勇隊開拓村は放棄された。黒竜江沿いの愛琿県や奇克県は激戦地でまだ不発弾も埋まっていて、調査は嫩江訓練所から北へと進められる。
村会と経営会は西瀛郷開拓村の分村を計画していた。村立中学の進路調査で農業希望者が思ったより多く、管理下の訓練所だけでは土地が不足するからだ。呼瑪河の下流では国境の黒竜江に近く、上流は蒙古自治邦興安東省の巴彦旗であって、なにより買収する金がない。鉄道の嫩漠線が使えて、拓殖公社が競売凍結中の義勇隊開拓村跡地となると、嫩江県が最も近かった。
圏泡義勇隊開拓団は三百名を超えた嫩江県最大の開拓村だった。第一次で混成は西瀛郷とほぼ同じだ。地勢をよく見てあって、整地区画は容易いだろう。だが、雲雀線の東にあって、興安嶺から直接の河川がない。嫩江県の開拓村跡地すべてに言えることで、だから北へ来た。しかし、経営会の条件には水稲栽培も入っていて、そうすると、むしろ南だ。目黒は行き詰って応援を呼んだのだが、今日はあいにくの雪で、二人は長い休憩に倦んでいた。
「・・・というわけだ」
宇田の話が終わると、それまで仏頂面だった目黒は舌打ちをする。
「ちっ、不発か。結局、谷口は残るのだな」
「そりゃそうだ。いい先生だぞ」
「いい先生って、集団学習と江頭流遁走術じゃないか。独創がない」
「見識は立派だ。実社会への敷居を低くすることと言われた。たとえば簿記会計、他にも・・・」
もういい、と目黒が手を上げた。
「ふん。女先生はどうだ」
「あ。畑中先生か。三角法や集合、確率を教程に入れた」
「三角法はすぐにでも役立つ。そうか、さすがは女先生」
「え」
目黒は腕を組んでなにやら考え込む。
「それで、谷口は何段だ」
宇田も目黒も内原の時に黒帯をとっていて、おおよその見当はついた。体練場の場面を思い出す。
「二段は間違いない。あ、鉢巻をしていた。柔術だな。おそらくは小栗流」
目黒は飛び上った。宇田は仰け反る。
「なんだと。小栗流は寝技だぞ。こうしちゃおられん」
目黒は帰り仕度を始める。
「どうした。駅に行くのか。まだ早いぞ」
「西瀛郷に帰る。これが放っておけるか」
「えーっ」
二人は睨み合った。




