5 新疆
中華民国、新疆連合自治邦、喀什
桃井はアリの店の中庭でお茶を飲んでいた。アジア横断鉄道が開通したというのに、店は繁盛しているようだ。ひっきりなしに馬と人が出入りする門の方を見ていると、アリが言う。
「不思議なものだ。馬は引く手数多だ」
「そうなのか」
鉄道は速いが、その地に寄って商売しながらあちこち回るのには向かない。それは駱駝の隊商の仕事だ。そして、馬は集積地と駅とをつなぐ。速い鉄道に間に合わせるためには、速い馬や馬車が必要だ。そう言うアリの顔は決して愉快そうではなかった。
「商売繁盛ならいいじゃないか」
「ジュンガルで油田が見つかった。トラックやペトロールは安くなる」
「カラマイか。まだ先の話だろう」
「駐屯地跡地の買収団に出資した」
中国陸軍新疆軍は再編され、喀什駅を囲むようにあった駐屯地は分譲になった。この先、トラック運送が盛んになれば、馬だけでなく市内での集積もなくなり、駅至近で一括してやるようになるだろう。それがアリの見当で、鄂大人の開発計画に参加したのだという。
「やはり信用できるのは中国商人なのか」
「中国人は信用できないが、華僑は別格だ」
個人で商うインド人たちと違って、華僑は一族で商売を請け負う。一回の利幅は小さいが、長い目で見ると得するのだという。縁戚係累は国や地域を越えて拡がっていて、手形と符牒はどこでも通用し、決済も安心だ。新疆からアフガニスタン、北インドと、国境を跨って商売しているアリにとっては顧客以上の意味があるらしい。
「いまはまだ一家だが、いずれアリ一族となる」
「それで馬商人の次を考えていたのか」
アリの父親は三次に及んだアフガン戦争で一貫して英国側で戦った。祖国に対する裏切りではないかと桃井には思えたが、そうでもないらしい。国や国境は定住農耕民のためで、遊牧民や商人はとらわれないという。実際に、シャーやハーンの宮廷にも出入りできたから、英国情報部に買われている。
「イスラエル独立をどう思う」
そう聞くと、アリはニヤリとして目を覗き込んできた。
「反対だ。インドがなぜ安定していたか分かるか?」
第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊すると、国際連盟の決議で、大シリアの一部に委任統治領パレスチナが創設された。国家建設を前提としたもので、ユダヤ人の入植が始まった。居住するアラブ人は反発し、各地で対立、衝突が起きる。第二次大戦後、紛争に倦んだ英国は国際連合に調停を依頼、米ソがユダヤ人国家の分離独立を主導していた。
「英国がうまく統治していたからだろう」
「あっはっは」
大笑いしてアリは説く。
「お互いに異邦人だからだ」
異教徒同士、同じ立場だから対立は深刻化しない。誰かが優遇されれば同じ立場は崩れてしまう。優遇とは他者にとっては差別であり、みな同じ立場の混在がいいのだ。ヒンズー教徒だけのインドとなれば、隣のイスラムを敵視し、内でもカースト間の対立が激しくなる。パレスチナも、各宗の教徒が混在していれば安定するが、一派が優遇されれば対立は激化すると言う。つまり平等のことか。桃井は愕然とした。
「ユダヤ人は新規の移住者だ。うまくいくわけがない」
「真逆だったのか。ちょっと衝撃だ」
桃井が素直な感想を言うと、アリは気をよくしたようだった。
「国境は格差を生む。差異があるから国境が作られるのではない。国境が差別そのものなのだ」
宗教や職業、貧富などの違いがあっても、往来が自由であれば流動する。しかし、国境を引くと、それらは固定化されて解決されない。アリはそういうことを言った。
「アラブとの対立が激化すれば、ユダヤが頼れるのは米英だけとなる」
「手を引くのではなかったのか、英国は」
唖然とする桃井を、アリは気の毒そうに見つめる。
「モモイはまだ付き合いが浅いからな」
桃井はあることに気がついた。
「ソ連が賛成しているのはパレスチナに自軍を展開するためか!」
「ボスポラス海峡も通れる。心配するな、ウメザワはすべて承知だ」
桃井は一服点けて残りのお茶を啜る。
「なぜ、ジューコフはアフガニスタンに侵入した」
「呼応する共産主義者はいなかった。まったくの陽動だ。囮作戦に終わったが、時間は稼いだ。極東軍の機甲部隊は撤収できた」
アリは即答し、さらに続ける。
「気になるところはあるぞ。ジューコフの軍は殺さなかったし破壊しなかった」
「だから、呼応する者がいなかったからだろう」
「違う。民衆を気にしたんだ。次があるかも知れない」
その言葉に桃井は驚いた。
「なるほど、お前は役に立つ」
「もちろん、おれは優秀な情報員だ」
「いや、戦略眼もある」
「なんだって?」
アリはびっくりしたようだ。
「どうやればジューコフを追い込める」
「民衆を追い込めばいい。飢餓と貧窮だな。モスクワからの供給を減らせば極東ソ連は干上がる」
「つまり」
「モスクワの評判を落とすのだ。ジューコフは司令官だ。少なくても軍を優先するしかない。民衆は食えるなら、中国でもいいと思う」
「やはり、アリは優秀だ」
「本当なら、ボーナスをくれ」
「やるとも。そうだ、酒が飲みたくなった」
桃井がそう言うと、アリは少し考えた。
「家ではまずい。裏路地を通ってヤンの料理屋に行こう」
「お、豚は久し振りだ」
アリは笑って、家人を呼んだ。
「日本の客人と食事に行く。裏は開けておくように」
言われた若い男は目を見開いた。満服を着た桃井を日本人とは思っていなかったらしい。
「俺の四男だ。目を見たか。畏怖だ。日本人を恐れている」
料理屋の個室で乾杯すると、アリは捲くし立てた。
「蒙古戦争では軍から騎兵一個連隊分の替馬を請け負った。出張った叔父について行って、ウルガの手前で見たらしい」
アリにお代りのビールを頼んだ。桃井は紹興酒にする。
「五十万の日本兵をあいつは見た。十日間も隊列を見続けて変わった。それまで日露戦争や太平洋戦争や満ソ戦争を言っても信じなかったのに。まさに、百聞は一見にしかずだ」
アリはそれだけ言うと、お代りの一パイントを飲み干した。そして、桃井を睨みつける。
「喜べ。日本人は鬼神に昇格したのだぞ」
アリは氷のポットから紹興酒を掴むと、桃井のグラスになみなみと注ぐ。
「蒙彊に長いのに気付かないのか」
それまでも日本人は一目おかれる存在だったが、蒙古戦争で物理的な恐怖の対象になったと、アリは言う。老若男女合わせて七十万人の外蒙古に五十万の兵隊が押し寄せた。首都とするウランバートルには守衛兵団が出払って五万もいない。十倍の兵隊は市街に入り切らず、入城凱旋は何日も続いた。首都市民、あるいは共和国人民は本能的な恐怖を感じる。発砲も徴発もなかったが、白団の占領は三ヶ月も続いた。
「そうだな。皆に避けられているような」
「あと十年は続くぞ」
「今時、何十キロも続く歩兵の行軍、空からは無防備だ」
「レシポケーティングではショーキやハヤーテに敵わない。ジェットもカツヲドリには無力だった」
桃井は興商善隣銀行の小切手帳を取り出す。ボーナスだ。しかし、アリは手を振る。
「どうした」
「金はいらない。あいつの留学を請け負ってほしい」
「まさか、日本へか」
アリは殊勝に頷く。桃井は・・・、はっとした。
「待て、父親が第一次アフガン戦争に従軍したと言ったな。百年も前だぞ」
「そうだ。俺は十番目の男子だ」
アリは大口を開けて笑う。
アフガニスタン、首都カブール、英国大使館
米川丁吉はレポートの束を抱えてウメザワの部屋に入った。
「各国軍情報部の判定が揃いました」
「そうか」
「あの作戦を飽和攻撃と判定しているのはソ連の極東軍参謀部だけです」
「ほう、いきなり本命か。影響力はどうだろう」
「参謀本部は今、ウクライナ出身が多い。留意はするでしょう」
ジューコフは元参謀総長で、当時の部下にはウクライナ人が多かった。今の参謀総長もタタール人だ。しかし、スターリンは赤軍参謀本部を陸軍参謀本部に名称変更し、国防大臣に軍人でない元帥ブルガーニンを抜擢した。あからさまに軍の政治介入を忌避したものだ。
「ジューコフへの警戒は解かれていません」
「そうだな。砂漠行軍の方は」
「ザバイカル軍参謀部が補給の少なさに着目すべきだと報告しています」
「そっちだな。ザバイカル軍管区はジューコフについた」
「はい。次はシベリア軍管区ですね」
「外蒙の次はトゥヴァとは誰もが考えつく」
「シベリア軍管区は最も戦力が小さく、戦車師団を持ちません」
「だからこそ連携したいだろう」
「甘粕機関の情報員は温存されています」
「よかろう。それも蒙古戦争の戦果だ」
ウメザワは葉巻に火を点けた。気分がいいらしい。
「それで西側はどうかね」
「仏伊は批判的です。外蒙に動員した兵力を満州に回していれば極東軍の侵入は防げたと」
「表層的だね、非常によろしい」
「英米両軍の判定が影響したようです」
「うん。うちも機能するようになった。喜ばしい」
ウメザワは天井に向かって煙を吐く。
飽和攻撃とは、敵の防御能力以上の量を用いた攻撃のことで、戦力の量的集中の模範典型である。一見不可能な堅陣を突破したり、高い防御力の敵を撃破するために用いる。砲爆撃等を圧倒的大量に集中して、戦場の時間と空間を一方的に支配することを眼目とする。攻撃の量は戦術理論で算出されるから不必要に過大な量の過飽和攻撃は、生産補給運用コストの浪費であると否定される。
しかし、必要を上回った量が別の戦果や敵の損失を生むのであれば、それは過飽和ではなく飽和であると肯定される。蒙古戦争における五十万の義勇日本兵の進軍は戦略的効果が見込まれ、だから飽和攻撃であると中米合同参謀会議は判定し、作戦発動を許可した。総司令官の蒋介石は『人海』と呼ぶ。
作戦は成功し、二重三重の戦果を上げた。動員兵力を知った外蒙古軍は抗戦を諦めたから、陸上戦闘はなく、戦死者もなく、鉄道は完成し、内外統一は成就した。市民人民は恐怖を覚えたから、この先も騒乱や暴動は考えられない。さらに、最低限の補給と携行食糧で五十万人が一千キロを踏破したという事実は、兵站上の画期、革新とされる。
だが、それは南京の中米合同参謀会議内だけの話だ。渡辺少将や澄田少佐の公式報告には失敗した過剰動員と記されてあり、英米の軍情報部もそのように調整していた。ケンブリッジリングに懲りたMI6部内も厳格にコントロールされている。
「さて、次は」
ウメザワは葉巻を灰皿に置き、執務机の上のノートを捲った。
「ほう。首相閣下はパレスチナが米ソ対立の場にふさわしいかを判定したいそうだ」
米川が目をぱちくり瞬かせると、ウメザワは嬉しそうにまた葉巻を咥える。
「では頼む。いや待て。日本語でやろう。念のためだ」
頷きながら米川は思う。大シリアの情勢判断は先週レポートしたばかりだ。ソ連進出を拒むためにも分割分離や新国家建設は急ぐべきではないと所見も加え、決裁も受けた。だから、この場に資料は持ち合わせていない。チャーチルの考えは理解できる。西欧での米ソ衝突は避けたい。戦場は遠い方がいいのだ。頭の中の記憶だけで報告するなら日本語の方がいいか。
「今、米国の外交政策は国務省政策企画室が主導しています。ケナン室長のソ連封じ込め理論は四つの先進工業地域を想定しており、中近東はこれにあたりません」
「彼は経済力こそ有効だとしている。軍事力には否定的だ」
米川はほっとする。しかし、ウメザワの眼つきは鋭くなった。
「論点が違う。閣下の課題は戦場を問うものだ。すり替えはいけない」
肩をすくめた米川は、大仰に椅子に座って煙草を点ける。ウメザワは笑った。
「米ソいずれも策源地から遠いパレスチナでは兵站維持が困難です。軍事作戦は師団ないし軍団規模に限定されるでしょう」
「そもそも米ソは衝突するのかね」
「いえ、ユダヤ人国家の建国では両国の利害が一致しています。ソ連は反革命分子を国外に追い出せる、国際的批判を一切受けずに」
「なるほど、米国は」
「百年に亘るシオニストとの約束を成就できる。ユダヤ資本との関係は強固になる」
「どちらからも移民が増えるのだね」
「国内に残るユダヤ人を通じて影響力を発揮できます」
「となると、米国が有利だ」
ウメザワはスコッチを注いでくれた。ますます機嫌がいいらしい。東京裁判で幣原が名指しされてから、ずっと御機嫌が続いている。MI6に巣食ったキム・フィルビーをはじめとするケンブリッジリングは壊滅し、RRジェットエンジンのソ連輸出は中止となった。お飾りだったメンジース長官は復権した。上機嫌も当然だ。
「不利を悟ったソ連は離反します」
「反ユダヤ、アラブ側につくことはないか」
「今のところ、その動きはありません。そもそも動機がない」
「そうか。学者によると、共産主義と最も合わないのは仏教で、その次がバチカン、イスラムの順だ」
「アラブ側にもソ連に近づく動機がない」
ウメザワはしばらく考えると、グラスを呷った。なにか思いついたらしい。
「建国を阻止するのは無理のようだ」
「なにしろ米ソが一致して推進しています」
「ユダヤとアラブの対立は回避できないか」
負けずに呷った米川は、グラスを突き出してお代りを要求する。何を言うか。そもそも、あの辺りの混迷と紛争の責任はチャーチルに帰す。一九二一年、植民地相だったチャーチルはカイロ会議を開いて英国の三枚舌外交、すなわちユダヤ人国家建設、アラブ人の居住、英仏での分割統治を確定したのだ。
「すでに衝突しています。英軍が抜ければハーシム家は義理から解放され、イラクとヨルダンはユダヤを攻撃する」
「わかった。しかし、聞く限りでは、状況はコントロールも可能だと思えるが」
真面目に問われて、米川は首を傾げる。
「ユダヤ移民の抑制と建国の見送りが可能なら、回避できるかもしれません」
「移民を減らすにはどうすればいい」
「移民はアシュケナジーです。パレスチナ出身でもイスラエル民族でもない。ユダヤ教に改宗したスラブ人が大半です。要するに、欧州による乗っ取りなのです」
「なかなか思い切った表現だ。日本語でよかった。それで」
「はい。イスラエルの民は神によって追放され、国を持つことを禁じられた。世界中の旧約聖書に書かれている。つまり、移民はパレスチナについて歴史的権利はなく、主張もできない」
ウメザワの顔つきが変わり、口元が逆三角形になった。
「それを除けば、論理上も支障はないのだね。例えば、ディアスポラでトルコを経由、南欧東欧に至った。国の名前はイスラエルではなくヘブライかカナンとしよう。どうだ」
「えーっ。建国するのですか」
「さあ、それは首相の判断だ。他にあるかね」
米川は深呼吸して息を整える。大事なことはまだあった。
「ユダヤ人は七十万を超えました。百万人に達すれば武力蜂起、さらに独立戦争へと進展します。これを沈静化するには」
ウメザワが舌を舐める。
「米ソによる大規模な軍事介入しかありません。パレスチナの総人口は四百万ですから、五十万以上、できれば百万の兵力と最新装備によって二週間以内に鎮圧するしかない」
「飽和攻撃は理解できる。が、二週間とする根拠は」
「不規則要因があります。米国民の熱狂と世論の沸騰です」
「あっ」
「異教徒に包囲された劣勢の開拓民が、降参を拒否して最後まで戦い抜く。それは米国の起源、独立戦争と開拓史そのものです。男子は義勇兵に応募し、老人女子は救援軍派遣を要請する。米国人は自国の歴史を否定できない」
米川は脱力感と無力感に襲われていた。大戦終結から二年も経った今、五十万の兵力をパレスチナまで派遣するのは米ソとも無理だ。アラブで大軍の派兵能力があるのはヨルダンとイラク。どちらの国王もカイロ裁定でチャーチルに借りがある。が、装備と練度ではヨルダンの五万ほどしか頼りにならない。一方、ユダヤ側は・・・。
「米川君、行くぞ」
英語に戻ったウメザワの声が聞こえる。
「え」
「喉が渇いた。君もビールの方がいいだろう」
「あ、はい。お供します」
そこで、持って来たレポートの束に気が付く。
「今日は他にも報告がありましたが」
そう言うと、ウメザワが睨む。
「な に 、だったかな」
「ケナンの変心、パットン日記・・・。いえ、今日明日ということではありません」
「そうだね、うん」
部屋を出て、廊下を歩いていても、ウメザワの上機嫌は変わらなかった。
「あ、米川君。砂漠に五十万人を派兵する話だったね」
「はい」
「つい最近、そういう作戦があったような気がするが」
「まさか。そんな無謀な話、聞いたことがありません」
「そうだよねぇ」




