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中編

3.義経が、平家の水夫(舟の漕ぎ手。水手。梶取)を射殺す作戦を取った説


これ結構有名な話なんですが、昭和期に降ってわいた風説みたいなものなので、特に史料的根拠はありません。


なので論外。


もともとはとある高名な学者(大変偉大な方です)の方が著作の中で書かれたことが発端のようなんですが、それが独り歩きしたのか何なのか、歴史好きの間で広まってしまいました。


なぜか小説家の方が愛好するエピソードになっており、司馬遼太郎氏や宮尾登美子氏といった、そうそうたる作家様方が採用しています。


小説内での展開として描かれる分にはいいのですが、それもあって史実だと信じてしまう人が意外に多いです。


一応似たような記述として『平家物語』の延慶本というバージョンで、「戦の趨勢がほぼ決まった後、源氏の兵が平家側の舟に乗り込んで、逃げ遅れた水夫らを斬り殺してしまう」というシーンはあります。


ただこれは勝敗がほぼ決まった後の話で、「義経が作戦として水夫を攻撃することで優勢になった」なんてのとは全然違います。

物語ですしね。



さて。

これらを踏まえて、本コラムの独断と偏見による結論としては…



4.普通に勝った


…んじゃないかなあと思います。

普通ってなんだって話なんですが、これは当時の状況と合わせてみると、勝つべくして勝ったなという感じがするのです。


壇ノ浦の戦いの前、義経は瀬戸内海の武士を味方につけ、源氏軍の弱点だった水軍を強力に保有します。


義経はよく現代の歴史好きの方から脳筋のように扱われるのですが、むしろ「勝つための準備」の能力が優れており、この時もその手腕が発揮されて段取りが取られています。


その水軍の数、『吾妻鏡』と『玉葉』で差はあるものの、平家の舟の数を上回ったことが記述されています。



さらに、この時には、さんざん泣き言を頼朝に手紙で送っていたはずの範頼が、奮闘の結果九州に渡って平家勢力を打倒しています。

つまり、彦島という島を拠点にしていた平家は、この時点で「四国の義経」と「九州の範頼」に挟まれ、退路も補給線も絶たれているのです。


なんでこんなことになったかと言うと、義経の電撃作戦で、屋島の戦いで四国を追い出されたからですね。


これがなければ平家は、九州へ渡った範頼を、彦島と屋島から九州勢と共に包囲できていたかもしれません。


義経は、人気がある半面、現代では「空気が読めない」とか「頼朝と意思疎通できてなかった」とかいろいろ言われますが、そもそも義経がいなければ範頼軍は壊滅していたかもしれないわけで、義経が勝ったからなんやかや後から言えるわけですよ。



さて、開戦です。


壇ノ浦の戦いは、『玉葉』では12時~16時頃まで。『吾妻鏡』では午前中に始まって12時頃終わったとされています。


どちらにせよ数時間かかっており、また、舟戦は矢戦です。

この数時間で両軍の矢は激しく行き交い、やがて補給不十分の平家の矢は尽きたのではないでしょうか。


この直前の屋島の戦いでは義経が奇襲戦によって平家を屋島から追い出しているため、平家は慌ただしい逃避行でその辺りもケアできなかったでしょうし。


念入りな下準備により多勢かつ武具充分の義経軍と、兵は少数で武器が尽き退路もない平家。


これは普通に戦えば、義経軍が勝つでしょう。


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