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前編

源義経は、平安末期に活躍した、有名な武将です。

しかし、義経と平家の最後の戦いとして名高い「壇ノ浦の戦い」は、その戦の具体的な推移がほとんど伝わっていません。


当時のことについて著された史料として代表的なのは、後年に鎌倉幕府公式として編纂された歴史書『吾妻鏡』と、リアルタイムで九条兼実が記した日記『玉葉』です。


しかしこのどちらも、戦が始まったことと終わったことについては書いてあるものの、「どのように義経らが戦ったか」については特に記述がないのです。


義経が平教経から逃げた時の「八艘飛び」、「海の底にも都はございます」と言われ平家一門と入水した(させられた)安徳天皇など、具体的なエピソードのほとんどは『平家物語』をはじめとした軍記物によるお話です。



今回は、この謎多き壇ノ浦の戦いについて、義経がどう戦ったのかを考えてみます。


テーマは<義経は、いかにして壇ノ浦の戦いに勝ったのか?>です。



壇ノ浦は、現在の山口線下関市近海で行われた海戦です。

舟戦を苦手とする関東武士を率いて、義経はどのようにして、舟戦上手な平家を倒したのでしょう?



1.潮流の変化を義経が利用した説


これは一番有名な説かもしれません。

大正時代に、黒板勝美氏という歴史学者(とても有名な人です)が唱えた説です。


ざっくり言うと、最初は平家側から流れていた潮流が、時間の流れと共に逆流(8ノットに達するとか)し、源氏側が上流のようになり、義経が有利になったというもの。


確かに『平家物語』では、平家が追い潮、源氏が向かい潮とあるのですが…これが逆転したとか、それによって源氏が有利になったという話はありません。

あくまで一説です。


また、近年では、「実際の戦場となった海域でコンピュータ解析を行ったところ、潮流は1ノット程度」であるとか、「そもそも潮流の向きは特に舟戦の有利不利に関係しない」とかの反証もあり、以前ほどの影響力はなくなった説かもしれません。


そもそも、義経だってそんな不利な時間に開戦するか? というのも疑問です。

この時にはもう地元の水軍を味方にしていますからね。

個人的には好きなんですが。



2.平家側に裏切り者(田口成良(阿波民部重能))が出た説


これは『平家物語』に書かれているエピソードです。

当時すでに劣勢だった平家の事情を考えると、ありそうな話です。


ただ、成良は壇ノ浦のあと、源氏側に捕虜として捕らわれています。


本当に裏切り者だったなら、平家を倒す功労者といえるわけで、そんな人を召し取るだろうか? という疑問はあります。


頼朝が「助かりはしたけど裏切り者は信用できん」と言ったのか?

別の罪によるものなのか?

そもそもこの話自体が『平家物語』の創作なのか?


真実は不明ですが、成良とは限らずとも、裏切り者は出たかもしれません。



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