倭寇の陰流
天文11(1542)年から弘治3(1557)年までの間、平戸に商館を構える徽王五峰という人は、手下2000人と数百隻の船団を持ち、平戸領主松浦隆信と与して、唐、高麗、南蛮を相手に交易を行い巨額の富を得ていた。
「早早搬运!」
今しがた到着したと思われる船からは多くの荷と多くの人が降りてくる。
「あの者たちはどこに行くのか?」
「他们去哪里?」
小袖姿に一刀差しの侍が和服姿の男に聞いた。が、その侍が話しかけているのはその和服姿の男の隣にいて、唐国の衣服を纏い、四つ脚の椅子に腰掛けている男であった。和服姿の男は通訳に過ぎない。
「被往西方卖。」
「南蛮人に売られる。」
唐国の男は言った。この男こそ、この舘の主、徽王五峰その人である。侍は何も言わず去って行った。
徽王五峰こと王直が扱っていたのは、生糸、陶磁器、胡椒、硫黄、硝石、銀、等々多岐に渡る。それらのほとんどは明国の沿岸の町村で買い、奪った物である。人間もそうであった。
「(彼らはこのようなことをし続けて生きて来たのだ…。)」
嫌悪とも思える感情が侍の中に生まれる。男の名は愛洲元香斎という。彼の養父である移香斎は伊勢の水軍の出自で彼自身も船に乗り出掛けた。彼の時代は高麗へ渡り、人、物を奪い、九州、琉球へ運んだ。
「高麗から人を連れて来て、琉球へ運ぶとそれだけで金銀になる。」
という話を聞いたことがある。高麗の政庁が琉球を通して、連れ去られた人々を金銀品物と交換するのである。彼らはその何割かをいただいていた。しかし、それから100年近く経つ今は、事情も変わり、周辺には南蛮船が出没し、明国は港を閉ざした。それでも、品物が欲しい人々は、禁令を犯して海に出た。その一人が五峰である。周辺の海には密貿易が横行していた。
移香斎は晩年になり、明、高麗の警護が厳しくなり、容易に船を出せなくなると、諸国を周り、若年から関心のあった刀法の術を磨き、日向の鵜戸権現で妙奥を極め、陰流を開いた。その後も移香斎は日本諸国を巡り、最期はこの世話になった九州肥前の地で刀法の術を教えながら亡くなった。元香斎はその弟子で、今はこの肥前平戸の地で陰流を教えている。
舘の廊下で南蛮人の一行とすれ違った。先程の積荷の話をしに行ったのかもしれない。
「弥二郎。」
元香斎が呼んだのは浦で積荷の荷卸し作業を手伝っていた男であった。
「旦那。」
弥二郎は元香斎のことをそう呼んだ。
「仕事が終わったらやるぞ。」
「へい。」
弥二郎は、今、元香斎より陰流を習っている。元来、彼は器用な男なのか飲み込みが早い。
「今日は、第四本目の月陰からだ。」
移香斎が伝えた陰流には一本目から十一本目までの術法があり、それぞれ、山陰、月陰、五月雨など名前が付けられていた。
修練は実際に刀で行われる。少し間違えれば死ぬこともあり、怪我は付きものである。もとより、彼らは船に乗り、明国、高麗の兵士たちと白刃を交えているので、今さら恐れることはない。
「espere um momento.」
「何と!?」
弥二郎は草鞋を整えた。
「少しお待ち下され。」
「そう言ったのか。」
「すみませぬ。」
この弥二郎という男はもとは薩摩の武士だという。罪を犯して、海に出て、遠く満刺加という土地にまで行ったという。
「そこで、ふらんしす様に出会いまして…。」
ふらんしすという南蛮僧と出会い彼と伴に日本に戻ったという。その途次、彼も南蛮宗徒になった。ふらんしすが国に帰ってからは、平戸の五峰の世話になっている。
「Deus me salvou.」
弥二郎はふらんしすから南蛮語を習ったらしい。他にも彼は明国と高麗の言葉も話せるという。
「今日はここまでだな。」
「감사합니다」
二人は刀を収めた。
「今のはどこの言葉だ?」
「高麗の言葉にございます。」
二人は舘に帰って行く。
「俺は其方に陰流を教え終わったら、ここを離れようと思っている。」
「離れて、どこにいかれるので…?」
「東国だ。」
「何故、東国に行かれるので?」
「俺は剣術を習いたいのだ。」
元香斎は九州廻国中の移香斎に出会い弟子になった。それは海賊行為に興味があったわけでも、海外に興味があったわけでもない。刀剣の妙技を極めたかった。
「東国には、刀法の諸流があるという。」
鹿島、香取といった土地には刀法の諸流が伝えられているという。
「(移香斎のおらぬ今、このようなところには用はない。)」
元香斎はもとは農村の出自であった。運悪く、戦に巻き込まれて、兄妹が死に孤児になった。
「(生まれるのが遅ければ、俺も南蛮人に売られていたかも知れぬ。)」
戦で働き手を無くした富裕な農村の領主などは、人買いから人を買って来て、働き手や使用人にしていた。その中には、唐国や高麗の人たちもいたであろう。元香斎もそのような領主に拾われて働いていた。同じ仲間の中に言葉がうまく話せない女子がいた。
「(あの娘もどこか遠くの国の者であったのだろうか…。)」
元香斎は筵に包まって眠った。
翌日も、元香斎は弥二郎と陰流の修練に励んだ。
「五本目の浮舟をやってみるか。」
「请」
船は一度、港に着くと、次に出航するまで間がある。
「(早く終わらせられれば良いが…。)」
「危ない!」
弥二郎の白刃が元香斎の頬を掠めた。頬から赤い血が流れ出した。
「申し訳ありませぬ。」
弥二郎は平伏して謝った。
「いや。今のは俺が悪い。」
意識がこの瞬間を離れてしまい隙が出来た。
「(勝負の場であれば死んでいたな…。)」
早く弥二郎への皆伝を終えてここを離れたいという気持ちが出てしまい注意が逸れてしまった。
「今日はここまでとしよう。」
元香斎は着物の袖で血を拭った。
「(このような場所にいても意味がない…。)」
元香斎のそう思う気持ちは強かった。彼は剣術に興味があると言ったが、それは半分本当で半分嘘であった。彼の本当の目的は仕官にあった。
「(どこかの大名に仕える武士になる。)」
といっても、元香斎は戦をしたい訳ではなかった。できればしたくなかった。剣術を習ったのも自分が死なないためであった。
「(自分の身がひとつだけ守られれば良い…。)」
他の人のことなどは知らぬ。彼らは彼らで自身で身を守れば良い。そのために剣術を教えている。そして、彼は自らが求める豊かな生活を送る。それが、大名に仕えることであった。
「(他人のことなど知ったことか…。)」
そう思いながら、今日も筵に包まって眠った。
翌日、元香斎は数十人を集めて刀法を教えた。
「そうではない…。」
とは言っても教えるのは、簡単な刀法である。刀の使い方と言っても良い。それでも、海を渡れば、それなりの役には立つらしい。
「明国の兵士を三人打ち取ったそうです。」
「本当の話なのか?」
元香斎と弥二郎は時折、そのような水軍衆たちの動向を聞くことがある。
「兵士ではなく、百姓だったのかもしれませぬ。」
彼らの言っていることは余り当てにならないと思った。五峰の配下の者たちは、姿は倭人だが、生まれはそれぞれ異なる。倭、唐、高麗、南蛮。彼らの中には刀を持ったこともない者もいる。そのような者たちを集めて刀の使い方を教えているのである。それが五峰から与えられた元香斎の仕事でもあった。
「唐、高麗では日本の刀というのがめずらしいのであろう。」
それ故に、少し扱い方を囓っただけで、有用になる。
「それは、人に鋤や鍬の扱いを教えるのと同じだ。」
鋤や鍬などは修練などしなくても少し扱い方を覚えれば事足りる。
「それは兵法とは異なる。」
「あしが、今、旦那から教えてもらっているのは兵法なのでございますか?」
「そうだな…。」
南蛮僧から南蛮の神の教えを受けたからか、時折、弥二郎は穿った問いをする。
「兵法の内であろう。だが、それだけが兵法ではない。」
「左様にございますか。」
そうした弥二郎の問いかけは、元香斎自身の眼を開かせてくれる。それが、元香斎が弥二郎に陰流の皆伝を教えている理由でもあった。
「今日はここまでにしよう。」
集まった数十人はばらばらと散って行った。
それから、しばらくして、弥二郎は海へ出た。
「行って参ります。」
行き先は分からない。五峰の命じたところに荷を運び降ろす。そして、新たな積荷を乗せて、またどこかへ行く。現地で抵抗や妨害があれば武器を手にして戦う。そんな旅が何ヶ月も続く。
「(まるで兵法者だ…。)」
諸国を流浪して、武器を手にして試合う。といっても、彼ら水軍衆の目的は交易による金銭である。
「(俺も兵法の先に仕官を求めている限り、彼らと同じか…。)」
どちらにせよ、生きるということ生活するということが根底にあるのだろう。生きるために死にに行く。世の中とはおかしなものだと思った。
「(ただし、俺には弥二郎たちのような真似はできない…。)」
似て非なる者。彼らは彼らであり、我は我である。古代の唐国の論理学者のようなことを考えつつ、元香斎は平戸の町を歩いている。
「(しばらく、皆伝は休みだな…。)」
弥二郎が帰って来るまで、陰流皆伝はお預けとなる。元香斎自身の鍛錬は別である。元香斎はいずれ、己の流派を作りたいと思っていた。
ドーン…!!
「何の音だ…?」
五峰の舘に戻ると、得たいの知れない破裂音がした。砂浜には、五峰らしき人物の他に数人の者たちがいる。
「何だそれは?」
舘の入り口のところでちょうど彼らと会った。五峰は手に細長い筒のような物を持っている。
「那个是什么」
通訳が五峰に伝える。
「枪炮」
五峰が応えると通訳が話した。
「銃砲だ。」
銃砲。先ほどの音の正体はこれだと言う。南蛮人が試しに撃ってみろという。
「こうか…?」
ひどく窮屈な姿勢である。
ダーン…!!
ぴいぴいぴい…。
音に驚いて千鳥が飛んで行った。
「耳が…。潰れそうだ…。」
このような大音響は聞いたことがなかった。
「哈哈哈…」
「hahaha…」
五峰も南蛮人も笑っていた。
「それは売り物なのか?」
「那个是商品吗?」
「不」
「違う。」
未だ数が少ないので取引はできないそうである。
「陀孟太。」
南蛮人はそう呼ばれていた。彼もまた、商人らしい。五峰と伴に各地に航海に行くという。
「Adeus」
一行は行ってしまった。
数ヶ月後に、船が帰って来た。
「早早搬运!」
船からは再び、積荷と人々が降りて来た。
「こっちだ!」
積荷は倉庫に運ばれ、人々は小屋に連れられて行く。そして、幾日後には、再び船に乗せられてどこかへ連れられて行く。
「(いつ見ても不愉快なものだ…。)」
何処より連れられて来た人々は品物として取引される。本州でも、城攻めの際などの捕虜は市で取引されたり、働き手や使用人として使われることがある。
「(このようなことがいつまで続くのであろうか…。)」
その光景を見ていると、そんな憂鬱な気持ちが湧いてくる。それでも元香斎は船が到着したときは必ず、こうして荷下ろしの作業を眺めていた。水軍衆の者たちの中にも、元香斎と同じような気持ちを持つ者がいるのだろう。たいてい彼らは、信仰を求める。それは南蛮の神、唐国の神、あるいは仏など多種多様な信仰があった。それでも、彼らは今の生活を止めることもできず海へ出続けている。そして、ある者は船の上で死に、陸の上で死ぬ。かといって、水軍衆の者が信心深いというわけでもなく、神仏などを頼むことのない連中もいる。そうした者たちは金銭だけが頼りであった。まさしく、人それぞれである。
「倭寇。」
唐高麗の国では、彼らのような水軍海賊の類を倭寇と呼ぶらしい。五峰配下の者たちは一様に和服を着て、月代を反り、和船に乗って行く。平戸の大名松浦隆信は彼らのことを認めているが、国の法を破り、武器を取る彼らは唐高麗の国からしたら賊でしかない。
「弥二郎。」
浜に弥二郎の姿を見かけた元香斎は彼のもとへ歩いて行った。今回も無事、生きて帰ったらしい。
「旦那。」
彼の皮膚の色は日に焼けて真っ黒である。南蛮人一行の中にも肌の黒い人々がいた。彼らは爪哇やそれよりも西方の大陸の者だと言う。
「(世の中は広いな…。)」
話に聞くだけでもそう感じることがある。日本の国もその中のひとつでしかない。自分などは、その日本の国のさらには肥前平戸をうろついているだけである。自分と比べたならば、弥二郎ら倭寇の衆たちは、己よりも多くの世界を知っていることになる。
「(それが幸か不幸かは分からぬな…。)」
本州などでは、生まれてから死ぬまで自分の生まれた土地以外知らぬ者は大勢いるだろう。
「(おや…?)」
船から降りて来る一人の女子に目が行った。
「(あの者…?)」
どこかで見かけたような気がする。
「どうしました?」
いつのまにか弥二郎が傍にいた。
「あの女子はどこの者だ?」
「さあ…?」
彼ら倭寇の衆にとって、国などというものはあまり意味を持たなかった。彼ら自身も、彼らの周りにもあらゆるところから人、物が集まって来る。そして、海へ出れば、一蓮托生である。そのようなところでは、それぞれがどこの国の者かということは、あまり重要ではない。その中でどこの国の者かということを意識しているのは、常に陸の上にいる元香斎くらいであったろう。
「あの女子がどうかしたのですかい?」
「いや…。ちょっと気になってな…。」
その夜、筵に包まっていた元香斎は昼間の女子のことを考えていた。
「(まさかとは思うが…。)」
元香斎が、幼くして身内を無くした後に拾われた領主の館で、伴に働いていた娘に似ていた。
「(同じ者ではあるまい…。)」
その娘も無事に成長を続けていれば、昼間の女子くらいにはなるであろう。
「(そういえば、あの館の娘はどうなったのだろうか…?)」
いまいち思い出せなかった。考えてみれば、領主の館で働いていた頃から移香斎の弟子になるまでの間のことをよく覚えていない。気がついたら、移香斎と伴に諸国を旅していた。
「(覚えておらぬな…。)」
そう考えている内に眠ってしまった。
翌日、女子のことが気になった元香斎は弥二郎に尋ねてみた。
「知人やも知れぬ。」
弥二郎は倉庫で積荷の確認作業をしていた。
「少々、お待ち下さい。」
そう言うと弥二郎は走って行った。外に見える海はきれいな青空と打ち寄せる波が変わらない。
「今日の夜に、あしが旦那の屋敷にお連れしますので。」
戻って来た弥二郎が言った。
「誰だか分かるのか?」
「昨日の女子でございましょう?」
弥二郎は荷の確認作業に戻った。
「旦那…。」
夜、自分の屋敷にいると弥二郎が女子を連れて来た。
「あしは外におりますので…。」
弥二郎は女子を残して行ってしまった。
「…。」
女子は黙ったままでいる。まだ知人と決まったわけではない。早とちりの弥二郎はいない。
「言葉は分かるのか?」
「…。」
返事がなかった。
「(うむ…。)」
あの娘も言葉はうまく話せなかった。元香斎の記憶の中の娘と比べてみるが、やはり見当がつかない。
「(なぜだろう…。)」
しかし、なぜか目の前の女子を見ていると、あのときの記憶が甦る。雰囲気が似ているのだろうか。
「(仕方ない…。)」
元香斎は弥二郎を呼んだ。が、どこまで行ったのか戻って来る気配がない。
「(困ったな…。)」
女子はずっと立っている。元香斎は身ぶりを使って筵に座らせた。女子はおびえている様子である。すると、突然、女子は着ている物を脱ごうとした。
「何をしている!?」
元香斎はとっさに女子の腕を掴んだ。
「对不起…!?」
女子は驚いて声を出した。
「(唐国の者か…?)」
女子の発した言葉からそう思った。
「そのままそこに座っておれ。」
身ぶりで伝えた。女子も分かったようで、こくんと肯いた。
「(夜伽の相手をさせられるとでも思ったのだろうか…。)」
女子は元香斎を倭寇の頭領か何かだと思い。その夜伽の相手として、この場所に連れられて来たと思ったのだろう。
「(夜伽か…。)」
元香斎は女子の肢体を見た。女子はそれに気がついたのか顔を背ける。夜伽の相手。元香斎の頭にはそのような考えはなかった。しかし、いざそう思って見てみると、目の前にいる女子の躰は妙に艶めかしく、色っぽく見えてくる。
「(もしや俺はそのような気持ちからこの女子を見初めたのか…?)」
記憶の中の娘に似ているなどというのはでたらめで、ただ単にこの女子を己の性欲の相手として見つけたのだろうか。
「(まあ良い…。)」
元香斎は女子から顔を背けた。もとより、元香斎は女子を抱くつもりはない。彼は己の兵法祈願成就のために女人は絶っていた。祈願成就とは仕官することであった。
お互い無言のまま、しばらく刻が経った。
ガサッ…。
微かな足音がした。
「弥二郎。」
「へい。」
弥二郎が顔を出した。
「どこに行っておった…。」
弥二郎を座らせた。
「生まれはどこだ?」
「出生在哪里?」
「不知道。」
「知らないそうです。」
弥二郎に通訳を頼んだ。
「唐国ではないのか?」
「是明国的出生吗?」
「不知道。」
聞くところによると、女子は幼い頃から、人買いに居場所を転々とさせられて、自分がどこにいるのかどうかも知れなかったという。
「名前は何という?」
「你的名字是什么?」
「おひさ…。」
女子は小さく答えた。
「おひさ…?」
一番最初に覚えている名前はそうだと言う。
「(日本の生まれか?)」
そのような事を考えている内に、相手の生まれたところなどどうでも良くなった。おそらく、その場でそのようなことを気にしているのは元香斎だけであろう。
「おひさか…。」
名前が分かっただけで良かった。
「この娘貰い受けることは出来ぬか?」
「頭目に頼んでみます。」
明日、五峰に頼んでみるということで、とりあえずおひさは他の者たちがいる倉庫小屋へ帰って行った。
翌日から、おひさは元香斎の下女になった。あいかわらず、元香斎は弥二郎に陰流を教えている。
「今日から七本目の獅子奮迅だな。」
「へい。」
弥二郎と朝から夕まで修練を積む。
「(やはり、二人の方が良い。)」
陰流の鍛錬は一人でもできるが、二人の方がよりためになる。その代わり、怪我が多くなるが。
「今日はこれまでにしよう。」
辺りが暗くなって来ると止める。
「おひさ戻ったぞ。」
「旦那様。お帰りなさいませ。」
もとより聞きかじったこともあるらしく、鍛錬が休みの日に、元香斎や弥二郎に教えてもらうと、おひさはすぐに和語を話せるようになった。鍛錬から戻るとおひさは魚を焼いて待っていた。
「鯵の干物か。」
元香斎もおひさも食べる物は変わらない。傍から見ると、その姿は下女と主人というよりも、兄妹のようであった。
「行って参ります。旦那。」
「無事戻って来いよ。」
陰流皆伝もいよいよという頃、弥二郎たちは海に出た。
「おひさ。稽古を始めるぞ。」
「はい。」
弥二郎が海に出ている間、元香斎とおひさは手習いを始めた。
「いろはにほへと…。」
「壱、弐、参…。」
文字の読み書きを教えた。もとより元香斎も簡単な読み書きしかできない。
「旦那様は、誰に教えてもらったのですか?」
「俺か…?」
誰であったろうか。移香斎には、陰流は教えてもらったが、手習いを教えてもらった記憶はない。あると言っても、読めない字や書けない字を尋ねたぐらいで、横に座って教えてもらった記憶はない。おそらく、もっと幼い頃に顔も覚えていない両親に教えてもらったのだろうか。
「俺は、もとより読み書きが出来たのだ。」
「それは立派なことですね。」
おひさといると、そのような他愛のない会話も出来る。
「(おひさが来てくれて良かった。)」
それまで、元香斎はこの平戸の五峰の下にいるのが嫌で溜まらなかった。生き甲斐と言えば、弥二郎に陰流を教えることぐらいしかなかった。
「(おひさがいるならこの地にいるのも悪くはない…。)」
そう思えるほど、おひさは元香斎にとっての潤いであった。
しばらくして、弥二郎は帰って来た。しかし、またすぐに海へ出ないといけないということであった。
「今度は南の方へ行くのでございます。」
大小琉球を経て、呂宋、安南にまで行くかも知れないという。
「長旅になりますので、旦那もおひさを連れて、博多にでも参られたらどうです?」
そう言うと弥二郎は袋一杯の銀をくれた。
「博多か…。」
筑前博多も平戸と同じく港町で、多くの貿易船が寄っているという。
「博多へ行って参る。」
「去博多。」
五峰にそう言うと、五峰からも弥二郎と同じように袋一杯の銀を渡された。
「(このような物はいらぬがな…。)」
人を売り買いして儲けた金になど手は付けたくなかった。とは言っても、他に金はない。元香斎は倭寇の者たちに刀法を教えてはいるが、礼金をもらっているわけでもない。ただ、この徽王五峰の舘で何不自由なく暮らしているだけである。
「(必要な分だけ使って、あとは弥二郎にでもやるか…。)」
銀の粒が一杯に入った袋を二つ持って、おひさと伴に旅に出た。
「まずは、博多へ行くか。」
「はい。」
道中、博多へ行く。とりあえず、平戸の町で、銀をいくつか銭貨に換えた。当座の支出は銭貨で間に合うだろう。おひさは徒歩の旅は余りしたことがなく、心が踊っている様子だった。のんびりしたもので、3日かけて博多に着いた。
「あれは何ですか?」
「あれは、梅が枝餅だな。」
博多の町で屋台売りがいた。昔は太宰府安楽寺の門前町で売られていたらしいが、当世は戦による荒廃でそうも言ってられず、人が多く集まる博多の町でも売っていた。
「辛いな…。」
中には味噌が入っている。博多の町は人も多く賑わっている。
「どうした?」
おひさが町中で立ち止まっていた。その目線の先には綺麗な草木染めの小袖が置いてある。
「欲しいのか?」
「はい…。」
「少し待っていろ。」
元香斎は店に入って、その小袖を買って来た。
「宿で着替えれば良かろう。」
移香斎との廻国修行のときは木賃宿であったが、今回は上旅籠である。
「俺は物を買いに行って来る。」
おひさを旅籠に置いて、町に出た。元香斎が訪れた場所は薬屋であった。
「橘皮と牡丹皮。あと虎骨をもらおう。」
博多は港町だけあって、唐国の薬の材料もそろっている。
「銀二つで足りるだろう。」
代金を払い店を出た。
「おひさ戻ったぞ。」
「旦那様。」
おひさは先ほど買った小袖に手を通していた。茜と黄肌に染められた布はおひさの肢体を包み、彼女を色美しく仕立て上げていた。
「よく似合うぞ。」
「ありがとうございます。」
博多には5日程、泊まったあと、二人は宇佐を経て、府内へと出た。
「何やら騒がしいな…。」
府内の町に宿を取ったが、城下町が物々しい。
「戦だろうな…。」
当世、どこも戦ばかりである。町の中には、戦を警戒してか店を閉めているところも多い。
「怖い…。」
「大丈夫か?おひさ。」
おひさは震えていた。
「戦が怖いのか…?」
こくん。
小さく肯いた。
「(戦で焼き出されたことがあるのだろうか…?)」
そう思ったが、深くは聞かなかった。その夜から、おひさは体を壊し寝込んでしまった。
「初めての旅で疲れたのであろう。」
宿の者に言って、しばらく泊めてもらうことにした。府内の武士たちはどこかへ出陣して行ったらしく、その後は町も穏やかになり、活気が戻っていた。
「おひさ。これを飲むと良い。」
元香斎は仕入れた材料で調合した薬をおひさに飲ませた。
愛洲薬と香薷散。どちらも移香斎から伝えられた物である。愛洲薬は気付け薬として、香薷散は暑気当たりなどのとき、疲労を柔らげ、体力を向上する薬である。どちらも諸国武者修行をする兵法者にとっての常備薬であった。
「しばらくゆっくり休むと良い。」
元香斎はおひさの体を拭い、重湯を飲ませた。
元香斎の看病もあってか、数日後にはおひさはすっかり元の通りに元気になった。
「旦那様。ありがとうございます。」
おひさは平伏した。
「無事で良かった。」
大事を取って、もう数日の間、府内に留まることにした。
「騒がしいな…?」
町の通りを見ると、怪我をした侍たちが、戸板や馬やらに乗せられて帰って来ていた。その中には矢が刺さったままの者もいる。
「傷を負った者を先に帰したのであろう。」
本隊は未だどこかで城でも包囲しているのだろう。
「おひさはここにおれ。」
元香斎は町に出た。
「お湯を持って来い!」
「血が止まらぬ!」
町のところどころの広場で怪我をした者が転がっていた。
「この者たちはどこから戻って来たのかな?」
その光景を見ている町衆の一人に尋ねて見た。
「肥後の国で御謀叛があったと聞きます。」
「肥後か…。」
元香斎らは、これから日向へ向かおうとしている。
「方角が違うから大事ないか…。」
元香斎は倒れている侍たちは放っておいて、町を見物に行った。
「(町の者たちもそれほど驚いている様子もない…。)」
大友氏の居館がある府内の町衆にとっては、このような事態はよくあることなのだろう。
「(それにしても平戸とは異なるな…。)」
平戸と比べると府内は、町としてははるかに大きい。人の数も倍以上はあるであろう。
「ふらんしす様のお伴で府内に行った折、殿様にお会いしました。」
弥二郎が言っていた。府内の殿様は南蛮人と南蛮の神を受け入れたという。
「(同じ日本でもこうも違うのだ、異国の町などは別の世界のようだろうな…。)」
一通り町の様子を見て回ると元香斎はおひさのいる宿へ戻った。
翌日、二人は府内を後にして、日向鵜戸を目指した。
「世話になった。」
宿の者には銀を一摑み渡した。
「早く行きましょう。」
おひさは倒れていた分の遅れを取り戻したいのか急ぎ足になっていた。
「そう急ぐこともあるまい。」
未だ平戸では弥二郎たちも戻ってはいないだろう。
「(彼らは今は海の上か異国の土地の上か…。)」
おひさと伴に暮らすようになってから、元香斎の倭寇の者たちに対する感情も穏やかになりつつあった。それでも、やはりお互いに、相容れることはないだろうが…。
「ここだ…。」
日向鵜戸神社に着いた。元香斎の養父移香斎は、36歳のとき、ここ鵜戸神社の岩屋に37日間、参籠し、刀法の極意を感得したという。
「それが陰流なのだ。」
「はい。」
おひさに行ったところで、剣術のことなどよく分かるまい。
「ここにはいずれ、俺一人で来ようと思っている。」
「おひさは来られないのですか?」
おひさは小さな顔を元香斎の方に向けて尋ねた。
「(美しい…。)」
夕日に照らされた茜色と黄色の小袖に光が煌めき、天女のような装いをおひさに与えた。
「…。」
おひさは無言のまま、元香斎の答えを待っていた。元香斎は大名家への仕官という祈願成就に、自ら女人を絶っている。その女人には、当然、おひさも含まれていた。それでは、仮に祈願通りに大名家への仕官が成った暁には、おひさはどうなるのであろうか。おそらく、そこにおひさはいないだろう。兵法者としての成り立つことを望むのであれば、おひさを諦めなければならないし、おひさを手にするならば、兵法者として身を立てることを捨てなければならない。そして、それは倭寇の手下としての今の生活に甘んじることでもある。
「(おひさがいれば、それでも良いか…。)」
元香斎はそう思う。逆に、兵法者として身を立てたとしても、おひさがそこにいなければ意味がないとさえ思える。
鵜戸神社は断崖の洞穴の中に本殿が建っている。そして、今、二人は、そこから離れた断崖の洞穴の中にいる。
「旦那様…。」
おひさと一緒にいると、彼女を守らなければと思う。
「兵法刀術などは己の身ひとつを守るものである。」
かつて、弥二郎に言ったことがある。
「そこに神はおられるのでございますか?」
弥二郎は元香斎に問うた。
「(どういう意味だろうか…?)」
当の弥二郎は大真面目な顔をしている。
「(あのとき弥二郎の言っていたことが分かった気がする…。)」
元香斎にとっての神。それはおひさであった。弥二郎にとっての神が生きる意味であり、彼の生き甲斐であるのと同じように、元香斎にとっておひさという存在は彼の生き甲斐であり、生きる意味であった。
もの寂しそうに震えるおひさの体を元香斎は優しく抱いた。
「おひさと離れることはない。」
おひさの小袖がひらひらと風に舞っていた。
鵜戸を後にした二人は再び、府内まで戻り、日田を経て、久留米に出た。
「脚は大丈夫か?」
「はい。」
久留米から博多へ向かおうとした途中、運悪く、戦に遭遇してしまった。
「丘の上に逃げるぞ…。」
戦は川沿いの平野にある居館周辺で起こっていた。おそらく、佐賀方面から来た武士たちが、この辺りの豪農の居館を襲っているのであろう。おひさを連れて、すぐに戦場から離れた丘の上に避難した。
「ここでしばらく、やり過ごそう。」
もしかしたら今日は野宿になるかもしれない。
「辺りはどうなっている…?」
丘の上から周囲を見渡してみた。
「旦那様…。」
急におひさが近寄って来た。
「どうかしたのか…?」
「…。」
おひさが指指した方向に人影があった。
「こっちへ来い…。」
大きな木の幹を背にした。
「人がいるなあ…。」
木の陰から裸侍が現れた。手には白刃を抜いている。
「おひさ少し離れていろ。」
おひさを木の陰に隠し、元香斎は前に出た。刀はまだ抜いていない。
「うおい!人がおるぞお。」
一人が呼ばうと、その声につられて他の者も集まって来た。
「(ひい、ふう、みい…。)」
相手は締めて5人。皆、手には白刃を抜いている。格好は皆、褌姿に胴鎧を着けただけで兜は被っていない。一人だけ古くさい半首を着けているが、それが頭であろうか。おそらく彼らは、正規の武士の郎党でも足軽でもなく、戦のどちら側にもつかず、戦場稼ぎをする野盗や野伏の類だろう。
「(どこまでいけるかな…?)」
一人ならば、逃げるのだが、おひさを連れては逃げられそうになかった。
「(人を守る剣は初めてだ…。)」
今までにも試合らしきものをしたことはあったが、それは己の身を守るだけであった。元香斎は刀を抜いた。
「(こんなに大勢を相手にするのは初めてだな…?)」
今までの試合は一体一であった。無論負けた相手は死んだ。5人もの野伏を相手にすることは元香斎にとっては初めてであったはずだが、何故か妙な違和感が襲った。
「どりゃあ…!!」
その瞬間、相手の一人が打ちかかって来た。
「(まずい…。)」
とりあえずその相手は避けた。
「(今は止めよう…。)」
違和感の正体を探るのは止めた。もとよりそのような暇はない。
「早う。殺せい。」
一人が突いて来た。
「(浮舟…。)」
その突きを流して、背中から一太刀浴びせた。
「ぐえっへ…。」
血を吹き出しながら、地面に倒れる。
「こんやろう!!」
横にいた一人が真っ向から打ちかかって来た。
「(山霞…。)」
その太刀を横から打ち下ろして、相手の喉を斬った。
「ぐはっ…。」
蹴りを入れて後ろに倒すと、宙に血を吹き倒れた。
「(殺れる…。)」
5人の内2人は倒した。弥二郎を相手にしている方が難しい。次に後ろから無言で一人が襲って来た。
「(獅子奮迅…。)」
それを避けて、胴を突く。
「(五月雨…。)」
二回、三回、四回、五回…。やがて、その男は血を吐きながら倒れた。
「(やつら三人で弥二郎一人分くらいか…。)」
なにやら分かりにくいが、元香斎にはそう感じた。弥二郎は三人力ということであろう。残りは二人。もはや、弥二郎一人より簡単である。
「(そう思うと倭寇の連中はなかなかやるのだな…。)」
何ヶ月も海を航海し、現地では兵士を相手に戦うこともある。彼らは自然と鍛え上げられているのだろう。
「猿みてえに、ちょこまかと!!」
一人が吠えた。
「(猿か…。)」
相手はまだ逃げない。
「(月陰…。)」
元香斎は攻めた。突いて、相手が防いだところを腕を斬った。
「ぎやあ…!!」
片腕と伴に刀が落ちた。
「(清眼…。)」
真っ向から斬って捨てた。
「このやろう…!」
半首を着けた一人がおひさの方へ走って行った。
「(まずい…!?)」
いつのまにか元香斎はおひさから離れていた。
「(…。)」
「ぎゃ…!」
元香斎が走りながら投げた刀が、相手を背中から串刺した。
「おひさ…!!」
「(うっ…?)」
刺さった刀を抜いて、相手を斬って捨てた。
「終わった…。」
5人全員を倒した。
「(さっきのは何だったのだろうか…?)」
おひさを守ろうとした瞬間、頭の中を何かが走って行ったように感じた。
「(そういえば、始めのときも…?)」
「旦那様。」
おひさが寄って来た。
「(まあ良いか…。)」
おひさが無事であった。それが一番の大果報である。
「おひさ、戻るぞ。」
「はい。」
二人は一度久留米へ戻った。しばらく久留米で様子を見た後、年が変わる前に平戸へ戻った。弥二郎はまだ、海から戻ってはいなかった。
年が明けて、しばらくすると弥二郎ら水軍衆が帰って来た。
「また一段と日に焼けたな。」
弥二郎の肌は真っ黒である。いつもの如く、積荷の荷下ろし作業が始まった。
「(変わり映えせぬな。この景色だけは…。)」
人や物が船から降ろされて、倉庫へ運ばれて行く。
「今回は人が少ないようだな…。」
弥二郎に尋ねた。
「南に行ったので、品物の方が多いのでございます…。」
連れられて来た人々は、南蛮船に頼まれたものだという。
「かわいそう…。」
隣で見ていたおひさが言った。
「(可哀想か…。)」
元香斎は、この人々が連れられて運ばれて行く光景を、嫌悪することはあったが、可哀想と思うことはなかった。それは、元香斎自身が、心のどこかで、嫌悪はするが仕方のないことと割り切っていたのかも知れない。
「(俺には何もしてやれることはない…。)」
『世界』という元香斎の意思とは別の動きをしているものの前には、元香斎は為す術がなかった。どんなに兵法を学ぼうと刀法に磨きをかけようと、己の慰みにはなるかも知れないが『世界』そのものをどうにかすることはできない。それ故に、元香斎は、刀法というものを自分一個の存在を守るものに留めた。そして、目の前を積荷として運ばれて来る人々とそれを運んで来る人々を、自分とは別のものと捉え、彼我を分かつことによって自分を守った。そして、元香斎は自身の目的である別の『世界』へと旅立って行く。それが、元香斎の兵法でもあった。
「(おひさは素朴なのだろう…。)」
自身が倭寇に連れられて来たことがあるからか、おひさの生来のものなのか。どちらにせよ、目の前を連れられて行く人々のことを、可哀想と思うおひさの感情は、長年、己というものを守るために生きて来た元香斎にとっては、神の御業を見るように遠く離れた感情のように思えた。
「今日はここまでにしよう。」
「gracias.」
弥二郎への陰流皆伝は順調だった。
「(この分だと、直に目録を渡せるだろう。)」
目録とは、陰流11本の刀法を記した巻子本である。免許皆伝を認められると、師からそれを渡されていた。
「(そろそろ目録作りも始めなければなるまい…。)」
いずれは、移香斎から渡された目録の写本を弥二郎に渡すことになるだろう。その写本も元香斎が作ることになる。
「旦那は、旅から帰ってから気迫が増しました。」
弥二郎がそう言った。
「そうか…。」
それは元香斎自身も感得するところがあった。久留米の村外れで野伏5人を倒した。陰流は11本の刀法を研鑽し、実戦においては、それを運用して相手を倒す。しかし、それは免許皆伝までである。師から免許皆伝を受けたあとも、個人が研鑽を重ね、果てには、陰流11本の刀法から抜け出した各人の刀法を生まなければならない。それが、独自の流派を立てることにつながる。そして、それには実戦が不可欠である。その手応えを元香斎は野伏との戦いで感じていた。
「先ほどの言葉はまた他の国の言葉なのか?」
道すがら元香斎が尋ねた。
「España.」
「いすぱにあ?」
イスパニアと呼ばれるその国は、近頃、南の海に現れるようになったという。
「ふらんしす様もイスパニアの人でした。」
弥二郎の師でもある南蛮僧ふらんしすのことである。
「イスパニア船は、遠い東の海を越えてやって来るのです。」
「世界は広いのだな…。」
「広うございます。」
屋敷へ戻るとおひさが待っていた。
「うう…。」
その夜、元香斎とおひさの寝床からうめき声が聞こえて来た。
「旦那様…。」
うめき声を上げていたのは、元香斎であった。どうやら、悪夢にうなされているらしい。
「旦那様…。」
うめき声に目を覚ましたおひさが、元香斎の体を揺すった。
「はっ…。」
元香斎は目を覚ました。
「また、うなされていたのか…?」
「はい…。」
元香斎は寝床から体を起こすと、水甕から一杯の水を汲んで飲み干した。
「また、同じ夢だ…。」
旅から戻ってからというもの、しばしば元香斎は、悪夢を見るようになった。
「おひさが遠くに行ってしまう夢だった…。」
悪夢は毎回、同じであった。それは、漠然とした夢の世界でただ、おひさが元香斎のもとからいなくなっていくというものである。
「(何故、このような夢を見るようになったのか…?)」
おひさを手放したくないという思いが、恐怖となって現れるのだろうか。
「(それとも…。何かの凶兆なのか…?)」
そうは思いたくなかった。元香斎は寝床に戻った。
「おひさは旦那様の傍から離れることはありません。」
おひさがそう言った。
「おひさ…。」
そうであって欲しい。元香斎は心からそう思う。
「おひさ。もっと近くへ来てくれ…。」
元香斎はおひさを抱いた。鵜戸神社参詣以来、元香斎はおひさを抱くようになった。
「おひさ…。」
平戸に戻って、夜半、悪夢にうなされるようになると、今日のように、おひさに起こされた後には、決まって元香斎は、子どものようにおひさを求めた。そして、おひさもそれに応えた。
「旦那様…。」
元香斎はおひさを抱き終わると眠りに着く。そして、今度は悪夢にうなされることなく、眠る。そんな日々が続いた。
「弥二郎。よくやったな。」
弥二郎への免許皆伝が終わった。
「ありがとうございます。旦那。」
弥二郎に陰流目録一巻を渡した。
「後生、大事に致します。」
「宝物ではなく、これからは己で技を磨き続けるのだ。そして、ここの連中にも、お主が教えてやれ。」
「旦那は、東国へ行かれるのですか?」
「そうだなあ…。」
かつて弥二郎にそう言ったことがある。弥二郎の皆伝を終えたら東国へ武者修行に出ると。しかし、そのときはおひさはまだいなかった。
「(もう少し、ここにおっても良かろう…。)」
ここにいれば、おひさと自身の生活に困ることはない。武者修行に出るとなると、自身だけでなく、おひさの生活も見ることになる。
「(まことにやっていけるのだろうか…?)」
近頃、元香斎は弱気になることがある。悪夢のせいかも知れない。
「おひさ。戻ったぞ。」
屋敷に戻るとおひさはいなかった。
「(また、倉庫へ行ったのか…。)」
倉庫には、この前、連れられて来た人々が、まだいた。荷を運びに来る南蛮船の出航が遅れているらしかった。人々が詰め込まれている倉庫の中は、人が居住するようなところではなかった。あくまで彼らは荷なのであって、食べ物なども最低限の物しか与えられない。人々の中には、病を発する者もいた。そのような者は倉庫の横の病人小屋に移されるのだが、おひさは度々、そこへ行き、病人の看病をしているらしい。
「旅のときにいただいたお薬が欲しいです。」
「愛洲薬と香薷散か?」
元香斎は平戸の町から材料を買って来て、調合した。
「ありがとうございます。」
おひさはそれを持って、病人小屋へ行った。
「(奇特なものだな…。)」
自分にできることは何もないと諦めていた元香斎と違い、おひさは今、自分にできることをしている。
「(まるで吉祥天女のようだ…。)」
そのようなおひさが、元香斎には理解できず、また、だからこそ尊く感じた。
そんなある日、事件が起こった。弥二郎との鍛錬も終わり、おひさも病人小屋へ行っていた昼過ぎ、屋敷で元香斎は暇を持て余していた。
ドーン…!!
「何の音だ…!?」
倉庫の方で破裂音がした。
「これは銃砲というやつだな…。」
おひさのことが心配で、元香斎は音がした方へ走った。
「(おひさに何かあったわけではあるまいな…。)」
倉庫の方へ向かうと、五峰の手下たちが騒がしく集まっていた。海岸には人が一人倒れている。
「(おひさはどこだ…!?)」
病人小屋の前におひさが膝を着いていた。その体は怯えた様子で震えていた。おひさの傍らには五峰の配下であろう男が一人血を流して倒れていた。
「おひさ。」
「旦那様。」
おひさのもとへ駆け寄った。
「何があった…?」
「…。」
おひさは黙って首を振るだけである。しばらくしてから、元香斎とおひさは徽王五峰の前に連れて来られた。
「杀那个女人。」
「その女を殺す。」
五峰は通訳を通してそう言った。おひさのことであった。
「何故だ…?」
話によると、病人小屋から男が一人脱走したという。その男は病の振りをして、おひさに連れられて病人小屋に向かう途中に、倉庫番の者の刀を奪い、殺して逃げた。
「その男はどうなった?」
「那个男人去了哪里?」
「被对枪炮打、死了。」
「銃砲で撃ち殺した。」
海岸に倒れていた男がそうだったのであろう。
「是那个女人的责任。」
「その女の責任だ。」
通訳はそう言った。
「因此杀。」
「だから殺す。」
「ならぬ。」
元香斎は動かない。
「不。」
通訳が五峰に元香斎の答えを伝えた。
「…。」
五峰は何も言わず黙っている。その場の空気が張りつめた。
「(さすがは倭寇の頭目…。)」
普段の五峰は商人のように、気さくな一面がある。しかし、彼は若い頃は大陸を闊歩したお尋ね者で、その後も、自ら倭寇と称して船に乗り、唐高麗の地を荒らした。身の丈6尺には満たないが、大柄で髭を生やした姿は、地獄の王のようである。
「剑!」
五峰が叫ぶと通訳の者が刀剣を持って来て、五峰に手渡した。
「(殺るつもりか…。)」
元香斎は刀を抜いた。五峰も椅子から立ち上がった。手に持っているのは、柳の葉のような形をした唐国の刀剣である。五峰はその刀剣をくるくると振り回して近づいて来る。
「(風の音がすごい…。)」
五峰の刀剣が空を切る音が徐々に大きくなって来る。
カン!カン!カン!
五峰の刀剣が右に左に上から下から飛んで来る。五峰は押そうとしているが、元香斎も後ろへ下がることはしなかった。
「(一歩でも下がれば、殺られるだろう…。)」
元香斎が体を退いた瞬間に、おそらく五峰はその体躯と勢いを利用して間合いを詰めて、元香斎を切る。そうならないように、元香斎は五峰の刀剣を受けながら、動じない。
「(五月雨…。)」
そして、時に応じて、元香斎は突きを出していく。それらを五峰は受けていく。
「(変わった…。)」
いつのまにか、攻守は逆転していた。
ヒュ…!ヒュ…!ヒュ…!
今では、元香斎が五峰を突きつつ、押している。五峰は必死で後ろへ退かないように元香斎の突きを受けている。
「(分は此方にある…。)」
五峰の刀剣と比べると元香斎の刀の方が長い。元香斎はこの勝負は勝てると思った。
「(だが…。)」
元香斎の勝ち。それは五峰の死を意味する。今の彼我の技量の差では五峰を死なせずして、倒すことは難しい。
「(殺すのは忍びない…。)」
唐国のお尋ね者といえど、何かと世話になった人物である。
「きゃあ!!」
そのとき後ろからおひさの声がした。
「おひさ!?」
注意が逸れた一瞬をついて、五峰の刀剣が元香斎の喉元に迫った。
「(死んだ…。)」
と思った。が、五峰の刀剣は元香斎の喉を切り裂くことはなかった。五峰が刀剣を収めて、椅子へ戻ろうとしたとき、大きな衝撃が、元香斎の頭を襲った。元香斎はその場に倒れた。
「おひさ…。」
薄れ行く光景の中、男に連れられて行くおひさの姿が見えた。
「(おひさ…。どこへ行く…。行くな…。)」
遠く離れたどこかへと連れられて行くおひさの姿は、幼い少女の姿であった。
「(どこだここは…?)」
辺りは炎に包まれている。
「(俺はどうなった…?)」
元香斎の姿は幼い少年の頃に戻り、何かを探していた。
「(幼い頃に育った家か…。)」
炎に包まれているその場所は、元香斎が幼い頃に拾われて育てられた領主の屋敷であった。元香斎の傍らには血を流して倒れている少年がいた。
「(兄上…!?)」
それは元香斎の兄だった。その隣には、元香斎の父母が血を流して倒れている。
「(父上…!?母上…!?)」
父母に突き立てられた刀を抜いているのは、日本の足軽であった。
「(ここは俺の家だったのか…?)」
長い間、忘れていた光景。それは、元香斎の家族の死に際であった。元香斎は幼い頃、父母や兄妹と死に別れて、どこかの富裕な領主に拾われて育てられたと思っていた。元香斎は自分が少年時代を過ごしたのは他人の家だと思っていた。
「(違ったのか…。)」
いつのまにか記憶をすり替えていた。そして、父母や兄たちの死に際の光景は記憶の奥底に消していた。
「お兄ちゃん…!!」
誰かの声が聞こえる。
「(あれは…!?)」
少女の姿がある。それはおひさであった。
「(おひさ…。)」
元香斎の記憶の中にあったうまく言葉を話せない娘。それは元香斎の妹であった。
「(おひさ…。俺の妹…。)」
幼い頃のおひさは恥ずかしがり屋で、兄たちとも余り話をしなかった。しかし、仲良く一緒に遊んでは後ろを着いて来た。
「お兄ちゃん。」
おひさはよくそう言っていた。
「助けて…。お兄ちゃん…!!」
炎に焼かれる屋敷の中で、おひさが足軽に連れられて行く。元香斎は自分の妹を連れて行く足軽の姿に見覚えがあった。
「(移香斎…!!)」
養父、移香斎であった。
「(おひさ…!!)」
元香斎は傍らにある刀を手にして、移香斎に斬りかかった。
「小わっぱ…!!」
しかし、幼い元香斎は簡単に蹴り飛ばされてしまう。他の足軽が元香斎をつまみ上げようとした。
「そいつは俺がもらう。」
移香斎が言った。
「(夢…!?)」
元香斎が気がつくと牢の中であった。牢と言っても、断崖の洞穴に柵を付けたものである。
「(冷たい…。)」
地面の岩肌は湿っていた。
「(おひさはどうなったのだ…。)」
辺りには誰もいない。
「(おひさ…。)」
翌日、弥二郎がやって来た。
「旦那…。」
「弥二郎…。おひさは…!?」
「それが…。」
弥二郎の話によると、あのとき、元香斎は五峰の手下によって、後ろから襲われて気絶させられたらしい。
「这干吧!」
五峰の手下はそのまま元香斎を叩き殺そうとした。
「(旦那様…!)」
おひさは猿ぐつわをさせられて捕まえられている。
「不要杀!」
五峰が叫んだ。
「那个家伙不想要杀我。」
五峰は言う。
「因此我也不杀那个家伙。」
五峰の命令で、元香斎とおひさが連れて行かれた。
「おひさは今、どこにいる…!?」
「おひさは…。」
倉庫にいた者たちと一緒に南蛮船に乗せられて行ったという。
「くそ…!!」
元香斎の拳は地面の岩肌を打ち付けた。拳からは、じわりと血が滲み出す。
「弥二郎…。俺はすべてを思い出した…。」
元香斎とおひさが兄妹だったこと。幼い頃、彼らは海辺の村で静かに暮らしていた。しかしあるとき、移香斎と仲間たちが船でやって来た。彼らは村を焼き、人を殺し、物を奪った。元香斎とおひさは彼らに捕らえられて、引き離された。そして、いつのまにか、そのことすらも忘れて、元香斎は移香斎の養子となり、彼の仲間の倭寇たちに刀法を教えていた。
「馬鹿げたことだった…。」
「旦那…。」
弥二郎は元香斎の言ったことを信じたであろうか。それとも、頭を打った元香斎の妄想だと思っただろうか。
「快点!!」
弥二郎を見張っている五峰配下の一人が叫んだ。
「旦那。また来ます。」
そう言うと弥二郎は、洞穴を出て行った。
元香斎の牢屋暮らしは続いた。
「旦那。」
時折、弥二郎が訪れて飯を持って来る。
「あしはこれで…。」
弥二郎は元香斎が飯を食べ終わると帰って行く。そのうち、弥二郎ではなく、他の者が飯を持って来るようになった。
「弥二郎はどうした?」
「빨리 먹어라!」
「(海に出たのだろうか…。)」
元香斎が飯を食べ終わるとその者も去って行った。
「(おひさ…。)」
おひさはどうなっただろうか。他の人々と伴に南蛮船に乗せられて、南方に売られてしまったという。
「(くそ…!)」
天女の如きおひさが、どこの馬の骨とも知れない者の婢になるなど、考えただけで怒りと憎しみが湧いて来ては、その相手を殺してやりたいと思った。
「くそ…!!」
何度も岩肌に叩き付けた元香斎の拳は、既に血だらけになっていた。しかし、いくら怒りをぶつけても何もならない。
「(おひさ…。)」
元香斎のいる洞穴の牢屋は、人間一人が座れるくらいである。立とうとすれば頭をぶつける。幸い奥が細まっているので、脚を伸ばすことはできた。そのうち元香斎は洞穴で参禅を始めた。最初は怒りを抑えようと、そして、後には、おひさの姿を、己の心中に感得せしめようとした。
「飯だ…。」
「…。」
五峰配下の者が飯を持って来ても、じっと目を閉じたまま動かない。
「(死んでいるのではないか…?)」
そう思って耳を傾けると微かに吐息の音が聞こえる。
「ぎゃ…!?」
そう思うとぱっと目を開けて、飯に食らいつく。
「今は幾日か…?」
「知らぬわ!」
元香斎が食べ終わると去って行く。
「(もう幾日経ったのであろうか…。)」
そのような生活が続いた。その間、外の様子は全く分からなかった。
今が夏なのか、冬なのか何月なのか、昼なのか夜なのかも分からなかくなった頃。元香斎は変わらず洞穴の中で参禅していた。
「旦那…。」
「弥二郎か…。」
元香斎は静かに目を開けた。
「旦那。ここを出ましょう…。」
弥二郎はそう言って、鍵を開けた。
「こっちへ…。」
「脚が言うことを利かない…。」
弥二郎は元香斎に肩を貸した。
「う…。」
太陽が眩しかった。弥二郎に連れられて、砂浜を出た。
「馬に乗せてやってくれ…。」
弥二郎に連れられて来た場所には、数十人の男や女たちが列を作って集まっていた。元香斎はその人たちに助けられて、馬に乗った。
「旦那。これとこれを…。」
弥二郎は刀を一振ともう一つ貝殻で作られた首飾りを元香斎に結わい付けた。
「こっちは、今までの礼とあしの形見です。」
麻の袋を一袋馬の背に下げた。
「弥二郎…。今は幾日か…。」
「それはこの者たちが道すがら説明致します。あしと旦那はもう会うことはないと思います。」
弥二郎は頭を下げた。
「そうか…。何かと世話をかけたな…。」
「旦那。御達者で…。」
そう言うと、弥二郎は一味の頭株らしき者と話をしに行った。
「よろしく頼むぞ。」
「へい。」
一味が出発した。夕方だと思っていた太陽は朝日だったらしく、時間が経つに連れて、辺りは明るくなっていった。
「どこにいくのだ…?」
「博多にございます。」
馬子はそう答えた。
「(博多…。)」
二日後。博多に着いた一味は元香斎を宿に置いて行った。
「では…。」
博多に到着した人々は、それぞれ別々の道を異なる方向へと歩いて行く。道中、聞いた話では、元香斎が牢に入れられてから1年程の歳月が流れたそうである。
「回到家乡。」
徽王五峰はそう言った。生まれ故郷の明国へ帰るという。五峰の帰郷に伴って、配下の者たちもそれぞれ、行く末を決断させられた。五峰と伴に明国へ渡る者。平戸に残って倭寇を続ける者。平戸領主松浦隆信の配下につく者。陸へ上がって他の生計を立てる者。その中の博多へ行く集団に、弥二郎は元香斎を伴につけた。
「(故郷か…。)」
元香斎の故郷はどこなのだろうか。九州、本州、明、高麗…。その頃の記憶は、もはや洞穴の生活で衰えた元香斎には残っていない。ただ、なぜか、そのことを思うと、胸が痛く、つらい気持ちが甦る。
「(俺は何をしていたのであろうか…?)」
博多の宿で日を過ごす内に、今までの元香斎の身の上に起こった過去のことなども、段々と記憶から薄れていくのを感じた。平戸での生活のことも余り覚えてはいなかった。ただ、陰流という剣術を生業としていたことは覚えている。
「(弥二郎…。)」
まだ微かに覚えている記憶を頼りに袋を開けた。その中には、銀の粒と妙な形をした異国の剣が入っていた。
「(まだ何かあったな…。)」
元香斎の腰帯には、貝殻で作られた首飾りが結わい付けてあった。
「(これは…?)」
どこかで見覚えがあるようだが、覚えていない。しかし、何故か心が痛く締め付けられた。元香斎はそれを袋に閉まった。
「(東へ向かわなければなるまい…。)」
元香斎はそう思った。それしか今の自分の生きている意味は見つからなかった。
「(まずは眠ろう…。)」
弱った体を労るが如く、博多の宿の部屋で元香斎は眠りに着いた。
元香斎はその記憶を自ら奥底へと追いやってしまったが、袋の中の貝殻の首飾りはおひさの物だった。
「何を作っているのだ?」
おひさがその物を元香斎に見せた。
「首飾りか…。」
それは平戸の浜で拾った貝殻に穴を開けて紐に結わい付けた物であった。おひさはそれを自分の首にかけた。
「綺麗だな…。」
「ありがとうございます。」
おひさはにこっと笑った。そんな日常がかつては拡がっていた。
明国の朝廷に帰順した徽王五峰こと王直は、勾留の後、2年後の1559年。明国暦、嘉靖38年12月に処刑された。弥二郎は、その後も平戸で倭寇を続けていたが、1561年。和暦、永禄4年。明国の寧波で明国兵士との戦闘中に死亡した。
「这是什么?」
「倭人有过。」
明国武将、戚継光は1561年。明国歴、嘉靖40年。戦場で戦った倭人から『陰流之目録』を獲得したとしている。戚継光が倒した倭人が弥二郎であったかどうかは定かではない。
弥二郎が明国の地で戦死したのと同じ刻、遠く、日本の常陸国に一人の兵法者が辿り着いた。
「其方、名は何と申すか?」
館の板の間に座っているのは、常陸佐竹家の若公、佐竹義重である。その前に平伏していたのは、壮年を過ぎた風貌の痩せた男であった。後年『鬼義重』と呼ばれることになるこの佐竹家の若武者を前にしても、その男は静かに目を閉じたままであった。
「愛洲元香斎。」
「(まるで、何事かを悟ったことのあるような顔だな…。)」
義重はそう思った。愛洲元香斎と名乗るこの男の過去に何があったのかを義重は知らない。ただ、彼は、自らの修得せしめた刀術である陰流を極め、さらなる新しき流派を起こさんと欲して、九州から遙か常陸国までやって来たという。
「以後、俺に仕えて、修行に励むが良い。」
「承った。」
立ち上がりその場を去ろうとした元香斎を義重が呼び止めた。
「其方、生まれはどこだ?」
官位名でも授けようと思ったのだろうか。
「ひ…。」
元香斎は何かを言いかけて止めた。
「生国は忘れ申した。」
「左様か…。」
元香斎は去って行った。
「(何か言いかけたように思えたがな…。)」
義重も立ち上がると、その場を去って行った。
『平戸』。元香斎はそう言おうとしたのだろうか。
その頃、肥前平戸でも、事件が起きていた。七郎宮という神社の前の露店でポルトガル船乗組員と平戸住民との間で生糸の取り引きを巡って口論が起きた。やがてそれは、武器を用いた喧嘩となり、ポルトガル船船長以下、14名が死傷した。『宮の前騒動』である。この事件を機にポルトガル商人は平戸を離れ、代わりに、肥前大村の領主、大村純忠の持つ横瀬浦を寄港場所として、そこで取り引きを始めるようになった。このとき既に、明国はポルトガル商人の澳門居住を認めており、この数年後には海禁政策も緩和した。明国の貿易再開により、密貿易の必要もなくなると、ポルトガル商人の明国貿易への進出に押されて、倭寇という存在は、海の上から徐々にその姿を消して行った。