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メモ書き  作者: 蒼山詩乃
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物書き病

後半は愚痴っぽくなっております。ご了承ください。あくまで個人の意見です。

 書かないと苦しい、といろんなメインであれサブであれ芸術家を題材にした作品を読んでいると出てくる。最近になって知ったのだが、僕も書かないでいると胸が苦しくなり、ほかにやる気も出てこなくなり、現実逃避みたいにほかのことで気を紛らわそうとしてやらなくてはいけないことをやらずにいたりしてしまうらしい。これが頻繁に起こるので、前まではメモ書きなんてことはしなかったのだけれど、今はして胸を落ち着かせている。書いて文字に起こす、ということが重要で、いくら頭の中でぐるぐるかき回してもそれらはずっと脳のキャパシティーを占領し続け、それが一種の澱として溜まっていく。酷い時にはそれらは頭痛をもたらすこともある。その溜まった澱を吐き出せばするっとその頭痛が無くなるので我が体のことだが不思議である。

 文章を書くこと自体は嫌いではないし、どころか好きではあるのだが、ほかにもやることが多くそればかりにかまけている時間がそんなにない。確かに時間は作るものではあるが、やり始めるとそれに一点集中する傾向が自分にはあるので、その点に関しては自分を操作することがかなり難しい。そして全力投球するので、集中が切れたころには心身ともに疲れ果てる。例外は詩を書いているときだが、僕の場合は小説では使いづらい表現を持ち込んで発散するという場所でもあるだけなのだ。

 よく誰しもが人生に一本の長編小説を書ける、なんて言葉があるが、やはり書き続けることは難しいことで、村上春樹もエッセイ「職業としての小説家」の中で書いていたように、プロであれアマチュアであれ小説家というリングは出入りが容易ではあるが、その場に留まることは難しい。小説を書くことは別に生きていくことでしなくてもいい部類に入るからでもあると思うが、おそらく前述した澱を排出することが下手糞であるからこそのこういった時間のかかる、面倒臭い作業でしか表せないのだろう。僕の場合は人に直接言う言葉は自分なりにかなり制限しているので、ぽろっとは出してしまうかもしれないが愚痴は言わないし、また周りに自分と同じような趣味を持っている人もいない。ひたすら一方的に喋ることも自分の考えがまとまらないので、やはりこうして書いているほうが安心するし、楽しい。あまり僕は読者を想定して書いているつもりはないけど、それでも読んでくれている人がいることはありがたい。たまに感想をもらうと、ちゃんと自分が想定していた感想が多いので、自分の意図が相手にも伝わっていることがただただ純粋に嬉しい。話がずれたが、小説家が小説を書き続けるためには、その澱の溜まるペースが異常に早く、またほかの手段がとりずらい、下手糞であるからなのかもしれない。

 ここからは愚痴っぽくなるが、ご了承ください。最近はweb小説がテンプレートに溢れていて、見た目は若干変わっているのかもしれないが、やっていることは同じだし、タイトルも同じだ。長文タイトルが苦手なのは僕の個人的な趣味の部分に入るからとやかく言うつもりはないが、タイトル読むだけで話の流れがすぐわかってしまって、実際そうなるとやっぱりそうなんだな、と思ってそこで読むことを止める。そしてその話を読むことは金輪際ない。文章の軽重は関係ない。軽くてもテンプレートにプラスアルファの要素があれば読むし、重くてもやっていることが変わらなければそこでつまらないものとしてぶった切る。そういったジャンルを初めて読む分にはいいとは思う。流れに乗ることも大事なことではあるが、流れに乗った結果がどこぞのコピーアンドペーストに陥ればそれは小説ではない。ただの形ある文字の群衆である。評論家を気取るつもりは無いので、具体的な作品を取り上げるつもりは無いが、それでも思うことは、それを書いていて面白いのだろうか。逆に長続きしていれば関心もするが、同じ展開になって同じような終わり方で締める。そして後日談がだらだらと続いていれば嫌になってくる。その作品の軸となる部分で終われば、ちゃんと有終の美でまだいいのだが、そこからの何を軸にしているんだと言えるような作品群はあまたにある。自分も現在は長編を書けずにいるが、いかんせん見切り発車で書いたもので設定も甘く、練り直しているし、それでも書いていて楽しい。そして多少ほかの作品を参考しているとはいえ、きちんとこれは自分の作品です、と言える。軸があるつもりではあるので、行き当たりばったりでも、極端に離れなければ書いていて楽しいのだ。

 そして終わる場面も既に決めている。作品は一定の縛りのもと書かれて、その縛りが無くなった瞬間がゴールであるのだろう。現在の機械が作品をつくろうとすると終わることができないのは、そのゴールを設置できていないからだろう。北野武もまたどこぞのインタビューでは終わりを決めてから逆算でつくっていると言っていた。作品には終わりが必要なのだ。そうでなければ機械でもできてしまう。

 そしてそういった、面白くない作品群は自らの心から出てきたものとは言い難いであろう。人間、完全なるオリジナルを作り出すことは不可能ではあるが、取り入れたものにいろんな要素を混ぜ、熟成させる必要がある。物書きとは、そんな何手間をもかけて作り出す芸術家の一人であると考えている。



村上春樹「職業としての小説家」2015年

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