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エッセイ

帰れない二人

 午前2時を過ぎたくらいだったと思う。ふと、まぶたに重さを感じたので、就寝前にゴミ出しへ行った。

 膨れ上がったゴミ袋を抱えてアパートの階段を降り、外にあるゴミ捨て場まで。ここに引っ越してきて数ヶ月、何度も繰り返し行った行為。

 滞りなくゴミ出しを終え、あくびをしながら自室へと戻ろうとしたその時、気がついた。鍵を持っていないことに。


 俺の住んでいるアパートはエントランスがオートロックになっていて、鍵を持っていないと部屋はおろか建物内へ入ることすらできない。つまりは閉め出されてしまったようだった。

 所持品は何ひとつ持っておらず、どこへも連絡ができない。時間が時間だけに隣室のインターホンを押すことも躊躇われる。インターホンに管理会社への連絡ボタンがあるか確認するものの、そんな機能はついておらず、いよいよ途方に暮れてしまった。

――――とにかく、誰かが出てくるまで待機しよう。そう覚悟するのに時間はいらなかったし、実際それしか選択肢がなかった。

 起きてる人がいれば近い内に誰かが出てくるかもしれないと考え、建物を見上げ各部屋を一覧してみたが、電気の点いている部屋は一つもない。どうやら健康的な生活を送っている人間しかここには住んでいないようだった。

 更に運が悪いことに雨が降り始める始末。自殺者が増えているニュースに対し、そんなことより雨なのに傘がないことの方が問題、と歌った人がいたが、この時の俺にとって社会問題よりも、雨なのに傘がないことよりも、何より問題なのは、鍵がないことだった。


 駐輪場に座り込み、どうしたものかと頭を抱える。妙案は浮かばず、なんとなしに目の前にある壁を見上げてみると、一匹のナメクジに気がついた。

 ナメクジといえば壁や地面を這ってるものと相場が決まっているはずだが、なんとこの個体は宙に浮いていた。大体6センチ程度の体をまっすぐに伸ばして空に佇んでいる。

 何事かと一瞬驚いたが、どうやら蜘蛛の巣に引っかかっているようだった。糸にぶら下がるその姿から断崖絶壁でビバークする登山家を重ねないでもない。しかしナメクジが蜘蛛の巣にかかって何も出来ずにいるのはそんな精悍なものでもなく、ただただ間抜けなだけだった。

 珍奇な物を見つけ興味を持った俺は、しばらくそいつを観察することにした。

 彼は十分ほど黙っていたが、どうやら脱出の気力をかき集めていたらしい。やがて少しずつ体を動かし始めた。右へ左へと体をよじり、それを何度も繰り返す。だが、それで罠から逃れられるワケもなく、滑稽さに拍車がかかる一方。

 そうこうしている内にある事が起きた。強く体を捻ることで彼の身体が一回転したのである。今までにない気づきを得た彼は力を振り絞って身体を回し始めた。最初はゆっくりであったが少しずつ勢いは増していき、やがて氷上で美しく回転するフィギュアスケート選手のような速度を手に入れた。正にそれは劇的な変化だったと言える。

 一分ほど経っただろうか、彼の努力が実を結ぶ瞬間がついに訪れた。執拗にねじられた蜘蛛の糸が千切れたのである。勢いよく地上へと、自分の在るべき場所へと彼は飛び降り、大きな音を立てて着地した。

 その一部始終を目撃し、虫ケラなりにも努力や工夫があるのだ、と感心した俺は己を奮い立たせ、なにか行動を起こそうと、具体的にはアパートの塀をよじ登ることを決心した。


 結論から言うと無駄だった。

 塀を登ることには成功したのだが、そこから建物内へ入れそうな箇所には全て鉄柵が設けられており、内部へ進入することは叶わなかった。大変ありがたいことに俺の住居はセキュリティ万全のようだ。先のナメクジのように状況を打破することはできず、小さく舌を打った。

 煮詰まってしまった俺は、雨が止んでいたので気分転換に散歩へと出かけた。

 だらだらと時間をかけてコンビニへとたどり着き、立ち読みでもしようかと考えたものの、先程の試行錯誤によって手が汚れていることと、そもそも立ち読みが嫌いという理由でやめた。わざわざやってきたにも拘わらず、時間だけ確認して一瞬で店を出た。自分の状況があまりに情けなく人の目があるところにいたくない、という気持ちも少なからずあった。何故コンビニまで来たんだと問われたなら、ゾンビがショッピングモールへ集まるのと同じとでも答えておこう。


 なんとなく傷つきながら再びアパートの駐輪場へと舞い戻ってきた。

 人はあまりにもやることがないと内省の海に沈んでゆくものだ。哲学なんてものは時間を持て余した人間がやるものだと常々考えていたが、この時の自分はまさしく哲学者になりえていたと思う。あるいは詩の一つでも書けたに違いない。つまるところが暇で死にそうだった。

 その上に眠い。そもそも眠気を帯びた状態で閉め出されてしまったので、ずっと体が布団を求めているのを感じていた。いっそのこと寝てしまえば楽だったのだが、ここで寝ると帰れるタイミングを逃すかもしれない、という考えが頭から離れず、猛烈に眠いのに眠れないというジレンマを味わうことになってしまった。

 こうして俺は座り続けた。抱えた膝に頭を埋めて、時折眠気を飛ばすように頭上を見上げる。意識を朦朧とさせながら、静かに、だが確かに時間が流れていった。


 どこからかラジオ体操のメロディーが聞こえてきて気がつく。空は白み、どことなくおどろおどろしい色になっていた。丁度ピンク・フロイドの『おせっかい』のジャケットのような感じだ。

 まぶたを必死に持ち上げながら空を眺めていると、やがて階上からドアが開く音がした。ようやく、ようやく誰かが外に出てきたらしい。待ちわびた足音に合わせ腰を上げる。


 帰るべき場所へ帰れるということ。

 その帰る場所の存在にこそ俺は苦しめられていたのかもしれない。

 そんな戯言を考えながら、足元に転がる虫の死骸から視線を外した。

1年前の夏の出来事です。つらかった。

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