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マッチ売りと婚約者

作者: 高見 雛

 ロンドンの星は、天ではなく地で瞬く。

 インクを薄めたような灰色の厚い雲の下、ガス灯の明かりが煌々と街を照らす。

 行き交う人々の表情はもちろん、軒を連ねる建物さえもどこか浮足立っているように見えるのは、クリスマスがすぐそこまでやってきているからだろうか。

「お花はいかがですか、旦那様?」

 花売り娘の呼び声に足を止める人が目立つのも、きっとクリスマスが近いせい。

気難しそうな顔をした紳士が目元をなごませて花を買い求めるのを眺めていたアナベルは、つられて口の端を上げた。

「マッチはいかがですか、旦那様?」

「いや、結構」

 向こうの花売り娘を真似て呼びかけるも、すげなく断られてしまう。めげずに、通りかかる人に誰彼かまわず声をかけるが、手籠の中のマッチはひとつも売れない。

 夜八時を告げる鐘が鳴り響く。鐘の音は、寒さも手伝ってかアナベルの小柄な身体を大きく震わせた。

「……はあ」

 テムズ川に架かる橋のたもとでマッチを売りはじめたのが、日暮れ前。四時間も経つのにまったく売れないなんて。

「物を売るって、大変なのね……」

 アナベルはストールをかき合わせ、寒さから逃れるように肩をすくめた。吐き出す息がタバコの煙みたいに白い。

 少しだけ休憩、とアナベルは石畳の上にしゃがみ込んだ。行き交う靴音、馬車が通り過ぎる音、街の喧騒が、なんだか遠くに感じられる。

 きゅるる……と、アナベルのお腹が空腹を訴えてきた。

(そういえば、晩ごはん……食べてないわ)

 こんなに苦戦するなんて夢にも思っていなかったものだから、出がけにビスケットをかじったきりだった。こんなことなら、家を抜け出す前にしっかり食べておくんだった。

(めげている場合じゃないわ。セーラと約束したんだもの。絶対に売り切るわ!)

 床に伏せっている友達の顔を思い浮かべ、アナベルは勢いよく立ち上がった。

「――何をしている?」

 お客さんを得るのに夢中になっていたアナベルは、脇から不意にかけられた言葉を「何を売っている?」と聞き間違えた。

 相手の姿がよく見えていなかったせいもあって、その声が馴染み深い人物のものであることにまったく気づかなかった。

「マッチです。おひとついかがですか、旦那さ……」

 おさげに結った金茶色の髪を揺らして元気よく振り返ったアナベルは、とびきりの笑顔を浮かべたまま凍りついた。

 上等な漆黒のフロックコートにシルクハット、ぴかぴかに磨かれた黒い靴。

 二十歳を迎えたばかりの若い紳士は氷のような美貌をたたえ、薄い唇の隙間から白い息とともに魅惑的なテノールを紡ぎ出した。

「アナベル・ハーフォード。きみはここで何をしている?」

「ジェ、ジェラルド……!」

 冷えた空気を一息に吸い込んだアナベルは、身が凍る思いで黒髪の紳士を見上げた。

「あの、これには事情が……」

「話は馬車の中で聞こうか」

 彼が視線を向けた先に、黒塗りの馬車が停まっていた。

 よりにもよって、婚約者に見つかってしまうなんて――ついてない。


     ☆……☆……☆


 ハーフォード子爵家の末娘アナベルが、イーストエンドに住む少女セーラと出逢ったのは、今年の四月。

 馬車で貸本屋へ向かう途中、大荷物を抱えたひとりの少女が路上に飛び出してきた。正確には、雑踏から弾かれるように倒れ込んできた。

 急停止した馬車から降りたアナベルは、少女に怪我がないことをたしかめ、散らばった荷物を拾い集めた。

「あ、ありがとうございます、お嬢様」

「アナベルよ。あなたは?」

「セーラ、です……」

 細く澄んだ、美しい声。着ているものは粗末だが、セーラはとても愛らしい顔立ちをした少女だった。こぼれ落ちそうなほどに大きな瞳は湖水の青、腰まで流れるやわらかそうな髪は明るい蜂蜜色。

 くせの強い金茶色の髪と、曇り空のような青灰色の瞳がコンプレックスのアナベルの目には、彼女が生きたビスクドールか、地上へ降り立った天使様のように見えた。

 おつかいの最中で、勤め先のお屋敷へ急いで戻らないと――と言うセーラの手を、アナベルは両手でしっかりと握りしめた。

「わたしたち、お友達にならない?」

 セーラはぽかんとし、アナベルの動向を見守っていた御者は「お嬢様!?」と驚きの声をあげた。下働きの娘と貴族の令嬢が親しくするなど、普通では考えられないことだ。

「いやかしら?」

 アナベルが小首をかしげて甘えるように顔を覗き込むと、セーラは夢でも見ているような表情で首を横に振ったのだった。



 アナベルと同じ十六歳のセーラは、とある夫人の屋敷で通いのメイドとして働いていた。唯一の肉親である父親は、足が不自由で働きに出ることができず、セーラが家計を支えている。

 二人は休日に貸本屋の前で待ち合わせ、アナベルが借りた本を持ってセーラの家を訪ねるのが通例となった。セーラの父親は、子爵令嬢の訪問に最初こそ驚いたが、すぐに打ち解け、今では娘のように迎えてくれる。

 アナベルはセーラに読み書きを教え、セーラはアナベルに市井で流行っている歌を教えてくれた。

 家族には内緒で、アナベルはセーラとの親交を深めていった。

 ところが先月、雇い主である夫人が病死し、セーラは職を失った。新たな勤め先はなかなか見つからず、日雇いの子守りや花売りなどの仕事を見つけては寝る間も惜しんで働いた。

 無理がたたったのか、二日前、セーラは風邪をこじらせて寝込んでしまった。雑貨屋の主人が無償で提供してくれたマッチを売りに出かけようとした、矢先のことだった。



「――それで、彼女の代わりにきみがマッチを売っているというわけか」

 夜道を駆ける馬車の中、一通りの事情を話したアナベルに向けられたのは、婚約者ジェラルド・グルーナーの冷ややかな視線と、呆れ果てたような深いため息だった。

「わたしが無理にお願いしたのよ。セーラは悪くないわ」

「その格好、別人かと思ったよ」

 着古した部屋着のブラウスに、一番上の姉が嫁入り前に愛用していた古いスカートとストール、屋敷のメイド部屋から失敬してきたブーツ。普段は背中に流している金茶色の長い髪は、両耳の下で三つ編みに結っている。

「似合うかしら?」

「ちっとも」

 こわばる頬の筋肉を必死で動かして笑みを作るアナベルに対し、ジェラルドは眉ひとつ動かさずに即答した。

「家の人は、このことを知って……いるわけがないか」

「心配ないわ。両親は留守だし、セドリックお兄様にだけは、事情をすべて話してあるの。メイドたちをうまくごまかしてくれているはずよ」

 幸いなことに、アナベルの両親は今年のクリスマスを二人きりで過ごしたいと言い出し、パリ旅行に出かけている。歳の離れた二人の姉たちはすでに嫁いでおり、家に残っているのは四歳上の兄セドリックだけ。いざという時のために隠し持っていた兄の弱みをちらつかせることで、アナベルはまんまと家を抜け出したのである。

「そのセドリックから、心配だからきみの様子を見てきてくれと頼まれたんだが」

「ええっ!?」

 アナベルの驚く顔がよほどおかしかったのか、ジェラルドの鉄面皮がほんのわずかにゆるんだ。銀に近い灰色の瞳を細め、もったいぶった口調で彼は言う。

「世間知らずな妹が、不逞な輩にさらわれて売り飛ばされやしないか心配だと、涙ながらに訴えられてね」

 兄セドリックとジェラルドは寄宿学校時代からの親友である。その縁もあって、ハーフォード子爵家とグルーナー伯爵家の間で縁談が持ち上がった。ふたりの姉たちがすでに嫁いだ後だったので、残った末娘のアナベルに婚約話が舞い込んできた。

 心配性で気弱な兄がジェラルドに泣きつく姿を想像して、アナベルは寒風にさらされた拳をきゅっと握りしめた。

「……お兄様の裏切り者」

「セディに非はないよ。いけないのは、心配性な兄上にさらなる心配をかけているきみのほうだ」

 至極まっとうな意見に、返す言葉もない。

「そのマッチはいくらだ?」

 ジェラルドはふいに、アナベルが膝に抱えている手籠に視線を落とし、問いかけた。

「え?」

「値段だよ。ひとつ、いくらで売っている?」

 アナベルがマッチの値段を告げると、ジェラルドは「ふむ」と何やら納得したようにうなずいた。

「では、僕がすべて買い取ろう」

「……は?」

 アナベルは両目をぱちくりとさせた。

「きみが友人から請け負った仕事は、マッチを売り切ることだろう? だから、僕が買い取ると言っている。さあ、これできみの仕事は終わりだ」

 ジェラルドは、まるで種も仕掛けもないことを証明する手品師のように掌を上向け、優美な笑みを浮かべた。

 狐につままれたような面持ちで、ぽかんとしていたアナベルは、はっと我に返った。

「そんなの駄目よ!」

「何がいけない?」

 ジェラルドは不服そうに眉をひそめた。

「そんなことしたら……うまく言えないけど、セーラは喜んでくれないと思うわ」

 おそらく、ジェラルドは厚意で言ってくれたのだろう。けれど、彼の申し出に甘えることは、セーラの「仕事」を軽んじることになるのではないか。

 お金を稼ぐことがどれだけ大変か。ただのひとつもマッチを売ることができなかったアナベルは、身をもって知ったばかりだ。

「ごめんなさい、ジェラルド。あなたがわたしを心配してくれているのは、わかってるわ。でも、これはわたしが言い出したことだから、最後までやり遂げたいの」

 ガタゴトと馬車が揺れるたびに、ランタンの明かりも大きく揺らぎ、ジェラルドの頬に落ちる影がまるで意思を持っているかのように弾んで見える。くっきりとした二重まぶたに縁取られた切れ長の瞳は、何か問いかけるかのようにアナベルを見すえていた。

「その心がけは評価に値するよ」

 ジェラルドは、膝の上で両手の指を組んで言った。

「だが、この数時間でひとつも売れなかったマッチを完売するには、あとどれだけの月日が必要だ? 仮に、ひと月かけて売り切ったとして、売上金はきみの友人とその父親がひと月食べていけるだけの額に届くと思うか?」

 ジェラルドは落ち着いた声音で淡々と、ナイフのように鋭い言葉を次々と浴びせかけてくる。アナベルは、心臓がすぼまる思いでうつむいた。

「それに、マッチを売り切る前に彼女の風邪は完治するだろう。そうすれば、きみはお払い箱だ」

「それは……そうかもしれないけど」

 ジェラルドの言うことは正しい。だからこそ、アナベルは何も言い返せないのが悔しくてたまらない。

「セーラの役に立ちたかったのよ。それだけじゃ、いけない?」

「中途半端な偽善は一ペニーの価値もない。僕が彼女の立場なら、同情よりも見舞金を求めるね」

 アナベルは息を呑んだ。

「知らなかったわ。あなたって……冷たい人なのね」

「僕も知らなかったよ。きみがこんなに浅はかで頭の悪い子だったなんてね」

 アナベルはこの時初めて、縁談を受けたことを後悔した。

 おこぼれとはいえ、以前からひそかにあこがれていたジェラルドとの婚約は、アナベルにとって夢のような出来事だった。少し気難しいところはあるけれど、それは彼が他人(ひと)より繊細で思慮深いからだと思っていた。

(こんな血も涙もない冷徹人間に一目惚れしたなんて、人生最大の汚点だわ!)

 婚約解消の文字が脳裏をよぎったが、双方の両親が嬉々として結婚式の準備を進めているうえに、相手は兄の大切な親友なのだ。アナベルひとりのわがままで破談にできるものではない。

 きっと、このまま家に連れ戻されて、明日からは一歩も外に出してもらえないのだろう。年が明けて両親がパリから戻ったら、こっぴどく叱られるかもしれない。セーラとの付き合いもやめさせられるに違いない。

(セーラにお詫びの手紙を書かなくちゃ。マッチも返さないといけないわね)

 もうお会いすることはないでしょう――という書き出しを思い描いたら、急に目頭が熱くなってきた。

(いやよ。こんなかたちで、セーラとお別れするなんて)

 せっかく友達になれたのに。

 涙をこらえるアナベルに声をかけるでもなく、ジェラルドは彼女をひたと見つめていた。

 ふと、馬車が停まった。外から御者が声をかけてくる。ジェラルドは小窓を開け、二言三言会話を交わすと、アナベルにこう言った。

「アナベル。道案内をしてくれないか」

「どこへ行くの?」

 てっきり、ハーフォード子爵邸へ向かっているものだと思い込んでいたアナベルは目を瞬かせた。

「きみの友人の住まいだよ」

 思いもかけない行き先を告げられ、アナベルは身を乗り出して小窓から外を覗いた。

 街灯が少なく、古い長屋が並ぶ雑多な景色は、アナベルが家族に内緒で足を踏み入れているイーストエンドのものだった。

 呆気にとられていると、ジェラルドは涼しい顔で言った。

「きみの雇い主に挨拶をしておこうと思ってね」



 夜更けの訪問にもかかわらず、セーラと父親はアナベルたちを温かく迎えてくれた。使い込まれたテーブルに載せられたのは、ひびの入ったカップに注がれた水だった。

「お茶もお出しできずに申しわけありません」

「どうかお気遣いなく。おかげんはいかがですか?」

 小さく咳き込みながら深々と頭を下げる金髪の少女に、ジェラルドはいたわりの言葉をかける。先ほどアナベルに向けた刺々しい声音とは、天と地ほどの差がある。

(美人には優しいのね)

 心の中でむくれるアナベルをよそに、ジェラルドはセーラの父親にも見舞いの言葉をかけた。

「事故で足を……。おつらかったでしょう?」

「もったいないお言葉、ありがとうございます。……アナベル嬢ちゃんは、素晴らしい婚約者様にめぐり逢えたんだねえ」

 昔は大工だったというセーラの父親は、仕事中に足を滑らせて転落したのが原因で、右足に障害を抱えている。痩せた身体を暖炉脇の椅子にもたせかけ、皺の刻まれた顔をくしゃりとほころばせた。

 まるで自分のことのように喜んでくれる彼に、アナベルは「素晴らしくなんかありません。この人は血が通っていない鉄仮面男なんだから!」と叫んでやりたいのを、ぐっとこらえた。

「アナベルには、いつもよくしてもらってるんです。今日なんて、あたしの代わりにマッチを売ってくれるって言って」

 夜着の上に穴の空いたストールを羽織ったセーラは、向かいに座るジェラルドに微笑みかけた。アナベルが午後に様子を見に来た時は、起き上がるのもつらそうだったが、今はだいぶ楽になったのだろうか。

「彼女が無責任な申し出をしたこと、代わりにお詫びします。ご迷惑をおかけしました」

 ジェラルドの物言いに内心でむっとしつつも、アナベルはセーラに詫びた。

「ごめんなさい、セーラ。今夜はひとつも売れなかったの」

「いいのよ、アナベル。その気持ちだけでじゅうぶんだから。あたしのためにがんばってくれてありがとう」

 セーラは熱でうるんだ目を細め、かすれた声で言った。

(ほらごらんなさい。あなたの考え方がひねくれているだけなのよ。真心は、ちゃんと相手に伝わるんだから)

 アナベルは少し得意になって、ジェラルドにこっそり目配せをした。ジェラルドは婚約者の視線をさらりと受け流し、セーラに問いかけた。

「ですが、売れないよりは売れたほうがいいでしょう?」

「それは……もちろん、売れるに越したことはありませんけど……」

 セーラは困ったように視線を泳がせた。

 彼はどういうつもりなのだろう。訝しがるアナベルの隣で、ジェラルドは紳士的な微笑みを浮かべてとんでもないことを言い出した。

「三日後――クリスマス・イヴまでに売り切ることを、お約束しましょう」

「ジェラルド!?」

 アナベルは思わず、すっとんきょうな声をあげた。セーラと父親は、互いに顔を見合わせて首をかしげている。

「万が一、売り切ることができなかった場合、違約金として目標売上の倍額をお支払いします」

「はあ……」

 単純に計算すれば、違約金をもらったほうがセーラは大いに得をする。しかし、当のセーラは、ますます困ったように眉根を寄せた。

「アナベルが見事、マッチを売り切ったあかつきには、雇い主であるあなたに相応の報酬を請求します」

「はあ……」

 もはや、どうしたらいいのかわからないといった様子で、セーラはひたすらに相槌を打っている。

「ちょっと、ジェラルド。いったいどういうつもり?」

 アナベルはたまらず、ジェラルドの肘をつついた。

「きみは彼女に雇われたんだ。雇用主から報酬を得る権利がある」

「わたしはそんなのいらないわ」

「ちなみに、僕は婚約者として、パリにいるきみのご両親に現状を報告する義務もあるわけだが……」

 ジェラルドは言葉を切って、研ぎ澄まされたナイフに似た色の瞳を細めた。

「きみの出方次第によっては、見て見ぬふりをしてやらないこともない」

「……脅迫するつもり?」

「取引と言ってほしいね」

 彼の意向にそむけば、セーラと友達でいられなくなってしまう。

 アナベルは、首を縦に振る他に選択肢が思いあたらなかった。

「……わかったわよ」

「では、これで契約成立だ」

 ジェラルドは満足げに手を叩いた。

「あの……?」

 困惑しきった様子のセーラに、ジェラルドは蜂蜜のように甘い笑みを向けた。

「では、どうぞお大事に」



 セーラの家を出たアナベルは、再びグルーナー伯爵家の馬車に乗り込んだ。今度こそ、行き先はハーフォード子爵邸である。

「わたし、あなたが何を考えているのかまったくわからないわ」

「三日後にはわかるよ。今年のクリスマスは、いつもより刺激あるものになるだろうね」

 ジェラルドのまわりくどい言い方に、アナベルは頭を抱えたくなった。

「だいたい、あれは何? あなたがセーラにつきつけた条件! どう考えたって、マッチが売れないほうが得で、売り切ったらセーラは大損ってことじゃないの!?」

「一概にそうとは言い切れないよ」

「だから、それがわからないって言ってるの」

「三日後にはわかるさ」

 ジェラルドは含み笑いを漏らして、同じ台詞を繰り返す。

「わたしは今すぐ知りたいわ」

「わかってしまったらおもしろくないだろう、僕が」

 セーラの家を訪れる前と比べて、ジェラルドの声は弾んでいた。アナベルをからかって楽しんでいるようにしか見えない。

(いったい、何を考えているのかしら)

 アナベルの膝の上には、ひとつも売れなかったマッチの籠が載っている。もやもやと立ちこめる煤煙のような気持ちを抱えるアナベルだったが、ふと胸の奥に小さな明かりのようなものが、ぽっと灯るのを感じた。

「……ありがとう」

 自然と、そんな言葉が口をついて出た。

 ジェラルドは、虚をつかれたように切れ長の目を大きく見開いた。

「マッチ売り……続けさせてくれて、ありがとう。それから、冷たい人だなんて言って、ごめんなさい」

 ジェラルドはきっと、世間知らずで考えの甘いアナベルを諌めようとして、言いたくないことを敢えて口にしたのだ。

「わたしのためを思って、わざと厳しいことを言ってくれたのよね?」

「いいや、あれはただの嫌がらせさ」

「……は!?」

 アナベルは、うつむきかけていた顔をがばっと上げた。

「こんなおもしろそうな……いや、大事な話を、きみ本人からじゃなくセドリックから間接的に聞かされたのが、どうにも腑に落ちなくてね」

 丁寧な言葉の端々から、「気に食わない」「ムカつく」という本音が滲み出ているような気がした。アナベルは、まさかと思いつつも尋ねてみた。

「……もしかして、拗ねてるの?」

「さあ、どうだろう?」

 ジェラルドは小さく肩をすくめ、とぼけるように首をかしげた。

「…………」

 やはり、セーラからマッチ売りの仕事をさせてもらってよかったのだと、アナベルはひそかに思った。

 マッチは売れなかったけれど、大きな収穫はあった。雲のようにふわふわしていてつかみどころのない婚約者の新たな一面を、垣間見ることができた。

「今度から、何かあったら真っ先にあなたに相談するわ、ジェラルド」

 アナベルがそう言うと、ジェラルドはわずかに目を細めて口の端を引き上げた。

「僕も、できる限りきみの手助けをするよ」


     ☆……☆……☆


 翌日――十二月二十二日の昼下がり、ハーフォード子爵邸を訪れたジェラルドは、大きなバスケットを両手に抱えていた。

「ピクニックには寒いと思うけど」

 スミレ色のワンピース姿のアナベルは、今にも雪が降ってきそうな灰色がかった空を見上げ、メイドにバスケットを預けるジェラルドの姿をまじまじと見た。

「それとも、探偵ごっこでもするつもり?」

 すらりとした長身を包んでいるのは厚手の黒いフロックコートではなく、着古されたキャメルブラウンのジャケットに、淡いグレーの木綿のシャツ、枯葉色のズボン、足元は濃茶色の編上げのブーツ。色白のしなやかな手には、茶色いハンチング帽が握られている。ここがロンドン市内でなく領地なら、狩りにでも出かけるようないでたちだ。

 しかし、身に着けている素材はどれも、お世辞にも上質なものではないし、よく見ればジャケットの袖に繕った形跡がある。

「――ええ、応接間に運んでください。それから、包み紙とリボンをできるだけたくさん用意してもらえますか」

 ジェラルドはアナベルの話をまったく聞いていなかった。勝手知ったる自分の家という様子で、メイドにあれこれ指示を出している。

「やあ、ジェラルド。アナベルに会いにきてくれたのかい?」

 胡桃材の階段を降りて玄関ホールに現れたのは、アナベルの兄セドリック。昨日、アナベルがこっそり打ち明けた秘密を、あっさりジェラルドに横流しした張本人である。

 昨夜、ジェラルドに連れられて帰宅したアナベルは文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、へらっと笑う兄から「ごめんね」と先手を打たれ、何も言えなくなった。憎めない兄なのである。

 無表情でメイドと会話していたジェラルドは、わずかに顔をほころばせて手を挙げた。

「やあ、セディ。ちょうどよかった、きみも手伝ってくれるかな?」

「なんだい?」

 成人男性にしては小柄なセドリックは、アナベルとよく似た青灰色の大きな瞳を見開いて、人懐っこい笑顔で訊き返す。まるで、飼い主に呼ばれて喜ぶ子犬のようだと、アナベルは兄にも婚約者にも失礼なことを心の中でつぶやいた。

「仕事さ」

 ジェラルドは銀灰色の目を細めて言った。

 応接間の中央にある猫脚テーブルの上に置かれたバスケットの中身は、濃厚なバターとシナモンの香りを放つスコーンだった。三十個はあるだろうか。

(ホームパーティーでもするつもりかしら?)

 グルーナー伯爵家のメイドが作る焼き菓子は何度かご馳走になったことがあるが、触れるだけでほろりとほどけるような歯触りと、甘すぎない絶妙な砂糖の匙加減が素晴らしい。ふくよかな香りを吸い込んだとたんに味の記憶がよみがえり、アナベルは喉を鳴らした。

「きみたちのぶんは別に用意してあるよ」

 ジェラルドは、アナベルの胸中を見透かしたように言った。よく見ると、すぐそばでセドリックも同じように唾を飲み込み、目を輝かせていた。似たもの兄妹(きょうだい)である。

「まずは、このスコーンをひとつずつ包んで、リボンをかけるんだ」

「どうするの?」

 アナベルが訊き返すと、ジェラルドはメイドに用意させた赤いリボンを持ち上げた。

「売るのさ」

「?」

 アナベルの頭の中で、クエスチョンマークがいくつも飛び交う。それはセドリックも同じなようで、大きく首をひねっている。

「ねえ、ジェラルド。もしかして、わたしのマッチ売りを真似て路上でスコーンを売るつもり? 営業妨害になるからやめてほしいわ」

 昨夜、マッチ売りのアナベルは花売りの娘に完敗したのだ。そのうえ、お菓子売りまで現れたら太刀打ちできるはずがない。

「それはそれでおもしろそうだけど、残念ながらきみの商売敵になるつもりはないよ」

 ジェラルドはそう言うと、スコーンをひとつ手に取った。紙で包んで端の部分をねじり、適当な長さに切ったリボンを器用に結ぶ。あっという間に、彼の手の中で小さな包みができあがった。

「これを、マッチと抱き合わせで売る。いわゆる、おまけだね」

 アナベルは目をみはった。

「マッチなんて誰でも持っているんだから、単品で売れるはずがない。花売りにまったく敵わないのは、マッチに贈りものやお土産としての価値がないからさ」

 ジェラルドは綺麗に包んだスコーンをテーブルに置き、ふたつ目に取りかかる。

「価値がないのなら、相応の商品価値を付加すればいい」

「で、でも、こういうのって、ずるいんじゃないかしら?」

「どこが?」

 即座に問い返され、アナベルは言葉に詰まった。

「セーラ嬢は、『商品におまけをつけてはいけない』とは言っていないよ」

「それは……」

 そもそも、おまけつきでマッチを売るという発想がない。セーラだってきっと、アナベルと同意見のはずだ。

「アナベル」

 急に、ジェラルドは真面目な顔つきで正面からアナベルを見すえた。切れ長の銀灰色の瞳の奥に、雪の結晶を思わせる小さな光が瞬いたように見えた。

「きみは、我が家のスコーンは好き?」

「それはもう、大好物よ。たっぷりと空気を含んだ生地の繊細な食感といい、熱い紅茶に合う絶妙な甘さといい、季節ごとに風味を変えてくる作り手の計らいといい、何もかもがわたしの心の琴線(と胃袋)をくすぐるわ!」

「ありがとう。その我が家自慢の味を、街の人たちにも食べてもらえるとしたら、素敵なことだと思わないかい? どこの銘品とも知れない幻のお菓子を届ける――まるでサンタクロースみたいだろう?」

 アナベルの頭の中に、ある光景が浮かび上がる。光り輝く炎が灯る暖炉のそばで、幸せそうな顔でスコーンを頬張る人たちの姿――小さな子ども、歳を重ねた老人、寄り添う恋人たち。部屋に明かりとぬくもりをもたらす炎の火種はもちろん、アナベルが売るマッチである。

 ロンドンのどこかで、見知らぬ人がこのスコーンを食べて幸せな気持ちになれるとしたら、とても素敵なことかもしれない。

「ええ、素晴らしいアイディアだと思うわ、ジェラルド!」

 アナベルは、胸の前で両手を組んでジェラルドの案を称賛した。

「――うん、リボンはだいたい十インチくらいに切って……」

「赤と緑のリボンを重ねて結ぶのはどうかな?」

「いいね、セディ。採用だ」

 人の話をまったく聞かない婚約者は、アナベルを無視して兄と包装云々について話し込んでいた。

「アナベル、ぼんやりしていないで手を動かして。今日は明るいうちに出かけるよ」

 ジェラルドは、二色のリボンを重ねて結びながら淡々と言う。

 アナベルがセーラから請け負ったはずの仕事は、いつの間にかジェラルドに主導権を握られていたのだった。



 昨夜と同じ古着に着替えて髪を編んだアナベルは、ジェラルドとともにマッチの籠とスコーンの包みが詰まったバスケットを携えて、グルーナー伯爵家の馬車でハイド・パーク方面へ向かった。準備を手伝ってくれたセドリックは留守番である。

 時刻は三時前。西に傾きかけた太陽が、雲を透かしてけぶるような光を放っている。

 馬車を降りると、軽い足取りで歩くジェラルドの後ろを早足でついていく。籠とバスケットをそれぞれ抱えて歩くアナベルとジェラルドの姿は、とても貴族の令息と令嬢には見えないだろう。

 けれど、貴族としての気品や優雅さに欠けているアナベルはともかく、ジェラルドはくたびれた服を着て汚れた靴を履いていても、洗練された優美な雰囲気が全身から滲み出ている。何気なく街を歩く姿も、劇場の舞台に立つ役者のように凛としていて美しい。

「このあたりでいいかな」

 ジェラルドは、ハイド・パークからほど近い教会の前で立ち止まった。

 閉ざされた扉の向こうから、厳かなオルガンの音色と澄んだ歌声が聞こえてくる。クリスマス・イヴの夜、教会に集まる子どもたちが街の家々を訪れてクリスマス・キャロルを歌うならわしがある。その練習だろうか。

 讃美歌が漏れ聞こえる通りは、貴族所有の馬車や、買い物籠と乳飲み子を抱えた女性、少し前のセーラのようなメイドの少女と、たくさんの人たちがひっきりなしに行き交っている。

 ジェラルドは、目の前の風景をひとしきり眺めると、こちらへ向かって歩いてくる中年の女性に近づいた。アナベルも後に続く。

「奥様、マッチはいかがですか?」

「結構よ、間に合ってるわ」

 声をかけたのが見目麗しい若者だからか、女性は断りながらもはにかんだような笑みを浮かべている。

「ただのマッチとお思いでしょうが、そうではないのです」

 突然、ジェラルドの口から飛び出した言葉に、アナベルはぎょっとした。

「実はこのマッチ、銀色の炎を灯す特別なものを混ぜてあるのです。とても稀少な火薬なので、百本に一本あるかないかといったところでしょう。もしも銀色の炎が灯れば、素晴らしい幸運が訪れるだろうと職人たちの間で囁かれています。運試しに、おひとついかがですか?」

 銀色の炎だの、幸運を呼ぶマッチだの、真っ赤な嘘である。よくもまあそんな嘘がすらすら出てくるものだと、アナベルは呆れを通り越して感心してしまった。

「どうしようかしら……?」

 ジェラルドの嘘に踊らされて迷う素振りを見せる女性に、彼はすかさずバスケットからスコーンの包みをひとつ取り出した。

「一足早いクリスマスプレゼントです。幸運があなたのもとへ訪れますように」

 凍てついた冬の空気が温もるほどの甘い微笑み。

「ひとついただくわ」

「ありがとうございます」

 マッチとスコーンを手に、弾む足取りで去っていく女性の背中を見送りながら、アナベルは咎めるように言った。

「あれじゃあ、まるで詐欺だわ」

「夢を与えたのさ。マッチを買い占めて一本ずつ擦ってみない限り、たしかめようもないしね。日々の生活に疲れたご婦人がクリスマスくらい夢を見たって、罰は当たらないだろう?」

「…………」

 ようやくマッチが売れたのは嬉しいけれど、どうにも納得がいかない。

「もしかして、妬いている?」

「そ、そんなことないわ!」

 アナベルは顔を真っ赤にして言い返した。

「なんだ」

 至極残念そうに吐き出された一言に、アナベルはぱちぱちと目を瞬いた。

(妬いてほしかったのかしら……?)

 心の中でつぶやいたとたん、急に身体が熱くなってきた。頬を撫でる風の冷たさもわからなくなるくらいに。



 西の空が淡い藤色に染まる頃には、籠の中のマッチは半分まで減っていた。ジェラルドの巧みな話術と端麗な笑顔を駆使して、おもに女性をターゲットに売り込んだ成果である。

 やがて、教会から聞こえていた讃美歌がやんだ。開かれた扉から幼い子どもたちが元気よく飛び出してくる。

「まさか、あんな小さな子たち相手に詐欺まがいの行為を働かないでしょうね?」

「それ以前に、彼らは持ち合わせがないと思うよ」

 ひそひそとささやき合っていると、ふたりの足元に数人の子どもたちがまとわりついてきた。興味深そうに背伸びして、籠やバスケットの中身を覗き込んでくる。

「おねーちゃんたち、なにしてるの?」

「いいにおいがするー」

「おかしやさん?」

「あ、わたしたちはお菓子屋さんじゃなくて……」

 しどろもどろになるアナベルの隣で、ジェラルドはスコーンの包みをひとつずつ子どもたちに配りはじめた。

「どうぞ、おいしいよ」

「ありがとー、おにーちゃん!」

「ちょ、ちょっと、ジェラルド!?」

 おまけとはいえ、商売道具をほいほい配っていいものだろうか。戸惑うアナベルに、ジェラルドは小声でささやいた。

「大丈夫。マッチはまた明日売りにこよう」

 時間はまだある。今日の調子だと、明日でマッチを売り切ることができるかもしれない。

「ねえねえ、おにーちゃんとおねーちゃんは、ふーふなの?」

「えっ!?」

 ふわふわの金髪をふたつに束ねた女の子が、アナベルのスカートを引っ張りながら訊いてきた。すると、他の子どもたちも「ふーふ?」「しんこん?」と、便乗してくる。

「ええと、あの……」

「夫婦になるのはまだ先だよ。今は……そうだな、恋人かな」

 ジェラルドは、年端もいかない子どもたちを相手に真面目くさった顔で答えた。

「こいびとだって!」

「きゃーっ!」

 子どもたち――おもに女の子たちが頬を桜色に上気させて、小鳥のような声ではしゃぎだした。

 ジェラルドの言ったことは嘘ではない。たしかに自分たちは婚約していて、来年の六月には結婚式をひかえている。

 でも、正面きって恋人なんて言われると死ぬほど恥ずかしい。身体じゅうの血が沸騰して、干からびてしまいそうだ。

 火照る顔を隠そうと背を向けたその時、ひとりの男の子が道路へ飛び出すのが見えた。

 石畳の上を転がるスコーンの包み、脇目もふらず追いかける幼い男の子。

 どこからか聞こえる馬車の音。

 道路の真ん中で包みを拾い上げる男の子に、二頭立ての箱馬車が迫っていた。

「あぶない!」

 アナベルは無意識に駆け出した。驚いてその場から動けずにいる男の子を守るように抱きしめる。

 石畳の路面を伝って、蹄鉄と車輪の音、馬のいななきが全身に響いてくる。今すぐ男の子を連れて逃げなくてはいけないのに、アナベルは身体がすくんでしまっていた。思わず、まぶたをきつく閉じる。

 次の瞬間、横から何かがぶつかってくるような衝撃を受けた。

 助かったのだと気づいた時には、すでに馬車は砂煙を上げて走り去っていた。

「大丈夫か?」

 顔を上げると、互いの鼻先が触れ合いそうな距離にジェラルドの顔があった。ふたりの間で、男の子は火がついたように泣いている。あたりを見回すと、通りを挟んだ向こう側で子どもたちが心配そうにこちらの様子をうかがっていた。

「あ……ありがとう、ジェラルド」

「本当にきみは、無茶ばかりする」

 ジェラルドは、ため息まじりにアナベルの身体を抱きしめた。

 アナベルは、はっと息を呑んだ。

 きつく抱きしめてくるジェラルドの両腕が、ひどく震えていたのだ。

「ごめんなさい……」

 アナベルは、おずおずとジェラルドの背中に腕を回した。衣服ごしに伝わる彼の鼓動は、早鐘のようだった。

 教会の前では、子どもたちが路上に散らばったスコーンの包みを拾ってバスケットに入れていた。

 その手前――道路の中央には、アナベルが取り落としたマッチの籠が、見る影もない状態で路面に張りついていた。



 アナベルとジェラルドは待たせていた馬車に乗り込むと、イーストエンドへ移動した。

 余ったスコーンの包みは、すべて子どもたちに分け与えた。助けた男の子は罪悪感に苛まれたのか、アナベルたちが立ち去るまで「ごめんなさい」とひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。

「ごめんなさい、ジェラルド。せっかく手伝ってくれたのに……」

 ゆっくりと進む馬車の中、アナベルは消え入りそうな声でつぶやいた。膝の上には、ストールで包んだマッチと籠の残骸を抱えている。

「きみは、あの子を助けたことを後悔しているのか?」

 アナベルは大きくかぶりを振った。ジェラルドが助けてくれたおかげで、男の子はかすり傷ひとつなく無事だった。

「それならいいんだ」

 ふたりはそれきり、セーラの家にたどり着くまでの間、一言も言葉を交わさなかった。

 馬車につぶされた籠と使いものにならなくなったマッチを広げて見せると、セーラは驚きこそしたものの、怒らなかった。

「本当にごめんなさい、セーラ。大事な売り物なのに……」

「いいのよ、アナベル。どうせ、ただでもらったものなんだから。気にしないで」

 まだ微熱が残っているのか、セーラの頬はほんのりと赤く染まっている。

「ジェラルド様も、ありがとうございました」

「お役に立てず、申しわけありません。約束どおり、違約金をお支払いいたします」

 ジェラルドがそう申し出ると、セーラと父親はそろって「めっそうもない!」と両手を振った。

「お気持ちだけでじゅうぶんです。あたしなんかのために……本当に嬉しい」

「セーラ。わたし、あなたが元気になるまで毎日お見舞いにくるわ」

 アナベルは、セーラの手を取って言った。

「……迷惑かしら?」

「そんなことないわ。ありがとう、アナベル」

 帰り際、ジェラルドはいつの間に隠し持っていたのか、懐からスコーンの包みをふたつ取り出してセーラたちに渡した。それを見たアナベルは、自分も明日は焼きたてのお菓子を持ってこようと心に決めた。

 家の前に待たせていた馬車に乗り込むと、ジェラルドが思い出したように声をあげた。

「アナベル、少し待っていてくれ。手袋を忘れてしまった」

 ジェラルドは早足で家の中へ戻って行った。彼が忘れ物をするなんてめずらしい。

(手袋……。ジェラルド、今日は何色の手袋だったかしら?)

 思い出そうとするが、脳裏に浮かぶのはスコーンの包みを彩る赤と緑のあざやかな色ばかり。考え込むうちに今日一日の疲れがどっと押し寄せてきたのか、アナベルはいつの間にかまぶたを閉じていた。

 だから、ジェラルドが馬車へ戻ってくるまでかなりの時間が経っていたことも、彼が手袋など持っていなかったことも、アナベルは気づかなかった。


     ☆……☆……☆


 翌日――十二月二十三日、アナベルはメイドが腕によりをかけて焼いてくれたミートパイを持って、セーラの家を訪れた。

「おじ様は、お出かけ?」

 いつも笑顔で迎えてくれるセーラの父親の姿が見えないと、なんだか寂しい。

「ああ、父さんは診療所へ……」

 セーラは言いかけて、はっとしたように口をつぐんだ。

「診療所?」

「じ、実はね、脚の具合を格安で診てくださるお医者様が見つかったの」

「まあ、よかったわね! でも、おじ様は脚がお悪いのだから、お医者様に来ていただいたほうがいいんじゃないのかしら?」

「そんなに遠くないから、父さん一人でも大丈夫なのよ」

 そういうものなのだろうか。アナベルは首をかしげながら、ミートパイを切り分けるために台所へ向かった。

 水差しの脇に、小さく三角形に折りたたまれた油紙を見つけた。中身が薬であることが一目でわかる。

「……ねえ、セーラ。昨日より顔色がよくなったように見えるけれど、具合はどう?」

 アナベルは、慣れない手つきでパイを切り分けながら何気なく問いかける。

「たっぷり眠ったおかげで、だいぶ楽になったわ。早く新しい仕事を探さなくちゃね」

 昨夜までかすれていたセーラの声は、見違えるように溌剌としていた。

アナベルは再び薬包に目を向けた。

(薬を安く売ってくれるお医者様なんて、このあたりにいたかしら……?)

 胸の奥に疑念が浮かんだが、詮索するのは失礼だと思い、アナベルは何も訊かなかった。

 この日のセーラは、普段より明るく振る舞っているように見えた。アナベルの目にはなぜか、セーラが無理に笑顔を作っているように映って、妙な胸騒ぎを覚えた。



 十二月二十四日――クリスマス・イヴ。アナベルは、昼食もそこそこにセーラの家へ向かった。夜は兄セドリックと過ごす約束なので、早く帰って準備をしなくてはならない。

 入口の扉の前で、アナベルは外套のポケットから小さな包みを取り出した。赤い紙と金色のリボンがかけられた包みの中身は、ブローチである。高価なものではないけれど、セーラの美貌を引き立てるデザインを選んだつもりだ。きっとセーラに似合うはず。

 アナベルは、はやる気持ちをおさえて扉をノックした。

「こんにちは、セーラ」

 しかし、出てきたのはセーラの父親だった。

「やあ、アナベル嬢ちゃん」

「こんにちは、おじ様。セーラは? ……もしかして、風邪がぶり返したんですか?」

「いや、そうじゃないんだよ」

 セーラの父親は、うつむけた顔を左右に振った。

「セーラは……実は、あるお方のところへ奉公に出ることになってね。その……当分の間、帰ってこられないんだ」

「新しいお勤め先が見つかったんですか?」

 アナベルが訊き返すと、父親は眉根をぎゅっと寄せて苦しげな表情を浮かべた。

「おじ様?」

「ある貴族の方が、セーラを買いたいと……」

「え?」

(……買う? 買うって、どういうこと?)

 言葉の意味を理解しようと、アナベルは頭の中で何度も繰り返した。

 ようやく意味を飲み込んだとたん、心臓が凍りつくような寒気が襲いかかってきた。

 ぱさり、と手にしていた包みが玄関ポーチに落ちる。

「そんな……」

 乾いた声でそれだけ言うのが精一杯だった。

 同時に、昨日の不自然なくらいに明るかったセーラの振る舞いに納得がいった。父親が通いはじめた診療所の費用や、セーラの風邪薬も、そういったお金で賄ったのだろう。

「アナベル嬢ちゃん、今までありがとう」

 搾り出すような声で言うセーラの父親に何も言えないまま、アナベルは落とした包みを拾うことも忘れて、逃げるように立ち去った。



 人生で十六回目のクリスマス・イヴは、アナベルにとってこれ以上ないくらいに悲しい夜となった。

 テーブルに並ぶご馳走やケーキも、兄が用意してくれたプレゼントも、両親が旅先から送ってくれた手紙とプレゼントも、失意の底に沈んだアナベルの心を躍らせてはくれなかった。

 アナベルはほとんど何も口にせず自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。

「セーラ……」

 ロンドンの空の下、セーラは今頃どうしているのだろう。想像すると、両目から涙がこぼれてきた。

 今までずっと一緒にいたのに、何も気づくことができなかった。

 セーラの力になりたいなんて言っておきながら、結局何もできなかった。

 ただただ悔しくて、アナベルは声を殺して枕を濡らし続けた。

 窓の外から聞こえる可愛らしいクリスマス・キャロルが、氷でできたナイフのようにアナベルの心を冷たく突き刺した。


     ☆……☆……☆


 炎の爆ぜる音が聞こえる。

 泣き腫らしたまぶたを開けると、窓から射し込む陽光の向こうに、暖炉に火を入れるメイドの姿があった。

「おはようございます、アナベルお嬢様」

 朝焼けのようにまぶしい金髪をピンでまとめたメイドは、溌剌とした声で挨拶をした。

「おはよう……」

 見慣れないメイドだが、どこかで見たことがあるような気もする。アナベルは目をこすりながら身を起こし、あらためてメイドの姿を見た。

「……セーラ!?」

 心臓がつぶれそうなほどに驚いた。

 紺色のお仕着せと白いエプロンに身を包んだ、すらりとした美しい少女は、たしかにセーラだった。

「わたし……夢でも見ているのかしら?」

「夢じゃないよ、アナベル。おはよう」

 レディの寝室に堂々と押し入ってきたのは、ジェラルドだった。

「僕からのクリスマスプレゼント、気に入ってくれたかい?」

「え? プレゼント? ……どういうこと?」

 アナベルは、セーラとジェラルドを交互に見やる。すると、ふたりは視線を交わしながら、くすくすと笑っている。

「あたし、グルーナー伯爵家で働かせていただくことになったの。通いでね」

「ある貴族に買われた、って……」

「彼女がメイドの仕事を探していると聞いてね、うちでスカウトしたのさ」

「おじ様が、セーラは当分帰ってこられないって……」

「途中でネタがばれたら大変だからね、セーラ嬢のお父上にひと芝居打ってもらったんだ」

 セーラとジェラルドが順に説明するごとに、アナベルの表情がゆがんでいく。

「僕の言ったとおり、今までにないくらい刺激的なクリスマスになっただろう?」

「まさか、あなたがセーラに要求するつもりだった報酬っていうのは……」

「きみにしては察しがいいね。そう、彼女の労働力さ」

 緊張の糸がぷつんと切れた。

 アナベルの両目から、涸れていたはずの涙が再びあふれ出した。

「ひどいわ、ふたりとも……。わたしがどんな気持ちでいたか……っく」

「ごめんね、アナベル」

「セーラもセーラよ。どうせなら、うちで働けばいいじゃない」

 アナベルが涙声で抗議すると、ジェラルドは涼しい顔でこう言った。

「やっぱり馬鹿だな、きみは。半年後には、きみも我が家へ来るじゃないか」

「あ……」

 アナベルは、はっと顔を上げた。

 窓から燦々と射し込む朝陽を浴びるセーラは、天使のような微笑みを浮かべて言った。

「精一杯お世話をさせていただきますわ、若奥様」

 セーラの胸元にはアナベルが渡しそびれたはずの、小粒の真珠を散りばめたブローチが輝いていた。


 時計塔の鐘が高らかに鳴り響く。

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