文化と暗号1
南極都市・メガラニカ。
その北東部にある探偵事務所でのことだ。
「絵でも飾ろうか、マリア」
「嫌よ」
玉髄は埃を落としていく。暖炉の上、窓縁、置物の数々。それが終われば、次は床掃除だ。事務所の主であるマリアは部屋の隅に座っている。彼女は一切、掃除を手伝わずに手元の本を読んでいる。
「僕のおごりだ」
玉髄は気弱そうな笑顔を浮かべる。
「いらないわ」
不機嫌の原因は昨日のことである。玉髄がひったくりを捕まえた。すると被害者がお礼として掃除をすると言ったのだ。マリアは社交辞令としてありがたく申し出を受けた。が、なんとか帰らせる。
しかし今日の朝、約束を果たしに来ると連絡があった。
「あの女は1ビットも意図を理解してないわ……。もう掃除したと言い張ったけど、あの調子じゃ確認しに来かねない」
「律儀な人だよね」
「行間の読めないただの馬鹿」
「まさかキミが嫌がってるとは思ってないんだろう。当然、僕が追い返してもいいわけだが。僕はキミには逆らえないという公開済みの事実があり、そのキミが表面上は彼女を歓迎している。となると、僕が彼女を追い返すのは、いささか不自然だね」
「分かってるから、手を動かしているの」
「僕が、ね」
「うるさい」
ドレスにしわが出来るのも気にせず、マリアが足を組む。その黒いドレスは舞った埃で汚れていて、クリーニングが必要なのはすでに決まっている。と、なればしわの一つや二つはどうでもいいらしい。
玉髄は一張羅のまだらのコート脱ぎ、かばんに突っ込んで避難させている。まだら模様は、もとより汚れなのかデザインなのか、はっきりしないコートだ。マリアは雑巾に似ていると形容した。玉髄自身の好みである。
「マリア、いくらクリーニングするとはいえお行儀悪いぞ」
「あのね? あなたが呼び込んだあの台風女がいつ出没するか分からないのよ。ある程度のしわ、汚れがないと、私があなたを活用していたのが露見するでしょう」
それほど察しのいい人物だとは思わない。という言葉を玉髄はぐっとこらえた。マリアの発言のささやかなズレを指摘してもろくなことにならない。
「もうすぐ昼だね、あの人が来るかも」
「急ぎなさい。私は例の殺人事件で忙しいの」
マリアがプライベートな空間を執拗なまでに保持したがるのは、今日に始まったことではない。二人が今いる事務所の応接室ですら、本来なら依頼人を入れたくないほどだ。だが、道ばたのカフェで依頼を受けるわけにはいかない。
「なんならマリアは外で待っていてくれても……」
「誰が守るの? あなたは私の側にいなさい」
事務所兼自宅でしか、マリアは一人にならない。外を出るときは絶対に玉髄を連れて歩く。
「そう危険もないと思うけどね」
「六日前に続いて、おとといも死人が出たわ」
この南極都市には、警察機関がない。法もない。住民たちに共通する道徳や規範意識のみが法のようなものを象っているに過ぎない。それでも秩序が保たれるのは、表を代表する「軍」と裏を代表する「組織」それぞれのカリスマ指導者がそう望んでいるからだ。もしも彼と彼女が混沌を望めば――。
日本人的な国民性と、カリスマの威光。
メガラニカの秩序はまさしく薄氷の上にある。
「銃や機械に安全装置があったって、ナイフで刺し殺せるなら十分よ」
「SF世界で刺殺がメジャーな殺し方ってのも、なんだか皮肉めいてるよね」
玉髄は軽く咳き込む。機械の体である以上、呼吸は必要ない。埃を吸っても咳き込む必要はないが、生身の体のくせは残っている。
「早く元の世界に帰りたいね」
「……」
マリアは組んだ足を正した。
そして、インターフォンが鳴り響く。




