ネズミの王6
子月が新しい生活を送るようになって、もう三日だ。彼女が監獄と称した工場は、軍の管轄となった。あくまでも雇用関係であり、辞めたいなら辞められる。その場合、どうやって生計を立てていくかは本人次第となる。それでも――比較すれば良い環境なのは間違いないと彼女は思う。
小さいネズミのおもちゃは、あれ以来彼女のもとに現れない。
彼女は自分の名前のこともあり、ネズミが一番好きな動物になった。友人にそれを言うと、大抵は不思議そうな顔をされてしまう。その度に自分たちを助けてくれた「誰か」のことを想像する。監獄の中にするりと潜り込んだ救世主は、いったいどんな人なのか。そして自分たちを虐げていたあの人は、どこへ行ったのか。
子月には分からない。
赤れんが探偵事務所。
玉髄はソファに深く腰掛けたまま、マリアに話しかける。
「再就職は上手くいったのかな」
マリアはさも興味がないという風に答える。
「確認するまでもないわ。ケントに直接頼んでおいたもの」
「おお、それは安心。適格者はなし?」
「なし」
「まぁ仕方ないか」
玉髄がふっと笑う。マリアはそれを見て疑問に思う。
「何を満足げに笑ってるの? せっかく適格者が見つかったかもしれないのに」
「自慢するわけじゃないけど、そうそういないから頑張って探してるんだろう」
マリアがじっと玉髄を見つめる。
玉髄は胸を張って言う。
「僕は被害者を助けられて良かったと思っただけ」
「あ、そう」
「通気口の事件も、犯人は死亡。後追いを防止できたわけだ。将来的な被害者を含めれば十数人をはるかに超える人たちを僕らは救ったことになる」
「救ったところで――」
マリアは目を伏せる。
「救ったところで、彼ら彼女らがどう生きていくかは分からないわ」
「……この先も被害に遭うと?」
「個人の意思なんて簡単に曲げられる。通気口の件なんて良い例だわ。警告の音も色彩も苦しいのに、壁を登り続けたのよ……工場内でも壁を登ることを義務づけられていたから」
遠人は一人の作業員にメガラニカの壁を登らせた。普段から工場内の壁を登るように躾けたのだ。登れば報酬を、地上に降りれば罰を、繰り返していくうちに報酬や罰を与えるまでもなく、上へ上と壁を登るようになった。
そのことを思いだし、玉髄は寂しそうな顔をする。
「意思の力を、個人的には信じたいけどね」
「好きにすれば。あなたや私がなんと言おうと事実は変わらないでしょうし」
マリアの声は淡々としている。
玉髄はふと思いついたことをそのまま述べる。
「なら、僕にも本当の意思はないのかな。キミに従うばかりだと言われたら、否定できない」
マリアは驚いたような顔をした。だが、すぐに意地悪な顔になる。
そして言う。
「――残念ながら、あなたはすくすく育ったわ」
「お、というと」
「この私に皮肉を言うようになるぐらいだもの。まったく、誰に似たのかしら」
(多分、キミだ)
主人のまれな気遣いを無下にしたくはない。玉髄は心の声をそっと閉まった。そろそろ買い出しに行こうと、コートを取りに席を立つ。
だから、
「……でも仮にそうなら」
マリアの呟きを、玉髄は聞き逃す。
「罪深いのはきっと私ね」