第八話 発作
成田からパリ、そして国内線に乗り換えて仏領ギアナ、カイエンヌ国際空港までは息つく間もない二十時間以上の強行軍だった。
そして、その間、リスクコンサルタントの皆本(と彼は名乗った)はトランジットでまごつく私を容赦なく呼びつける時と、機内食の配られるタイミングで不思議に目を覚ます以外、ずっと腕組みをして目をつぶったまま一言も発しなかった。
一方、私はといえば、緊張と不安でほとんど一睡もできない状態で、眠れないままにシートに備え付けられたタブレットでCNNのサイトをのぞいて見る。
だが、事態は依然としてこう着状態が続いていた。
事件発生から、すでに丸二十四時間以上経過した。
報道によると、いまだに犯人からの具体的な要求はなく、一体何人の人質が取られているのかもはっきりしない状態だという。
ただ、管制センターから数キロ以内の立ち入りは犯人グループによって規制されており、知らない振りを装って出入り業者の車で突入しようとした警察のチームがいきなり対戦車砲で狙撃されて数人が大怪我をしたらしい。
「すいません、会社に連絡を……」
カイエンヌ空港に到着し、ボーディングブリッジを抜けた所で例のごつい衛星携帯を取り出すと、皆本は腕組みをしたまま仏頂面で小さく頷く。
「あ、安原です」
短縮一発でコール音を聞くまでもなく室長が出た。
「最新情報は? あ、はい、そうですか」
私は短い通話を終えて皆本に向き直る。
「外務省が発表した邦人人質リストに社長の名前らしきものがあったことが確認されたそうです」
「そうか、他には?」
「今のところそれ以上は……」
「そうか」
再び小さく頷いた皆本は勝手知ったるといった様子でさっさと先に立って歩き出す。
「安原、こっちだ」
「あ、はい!」
空港ビル出口で強烈な日差しと熱気に思わず目を細めて立ち止まった私を、あっという間に車ををつかまえた皆本が手招きをする。
「彼がクールーまで送ってくれる」
そう紹介された運転手は褐色の肌。しかし目鼻立ちはどことなく白人風で彫りが深く、灰色の瞳と笑った口元からのぞく真っ白な歯がいかにも快活そうに輝いている。
彼は私の手を取り力強く握手すると、年代物のプジョー406の後部ドアを開いて私を招き入れ、駆け足で運転席に戻る。
一方、皆本はいつの間にか助手席に腰を落ち着け、シートに戻った運転手に細かく指示を始めた。
「あれ、皆本さんフランス語がお判りになるんですか?」
「当たり前だ」
相変わらず一言だけ。しかも車が走り始めてふと気が付くと、再び腕組みをしたまま居眠りを始めている。本当にこんな人に社長の安否を任せて大丈夫なのかだんだん不安になってきた。
だが、運転手は私の不安を感じ取ったのか、訛りのない流暢なクイーンズイングリッシュで私に話しかけてきた。
「問題ありません。彼は信頼できる男ですよ」
そう言いながらミラー越しにウインクをする。
「ええっと、ミスター?」
「ジャンと呼んでください」
「あの、ジャンは以前からミスター皆本を知っているの?」
「ええ、ずいぶん長い付き合いですね。彼と一緒ならいつでもオオブネに乗った気持ちでいられますよ」
わざわざ『オオブネ』という所だけを日本語で強調し、肩越しに白い歯を見せて笑った。
「それでは少しばかり急ぎます。怖かったら言ってください」
そう断ると、前をのんびりと走る路線バスの大柄な車体をかわしアクセルを踏み込んだ。
おんぼろな外観に似合わずプジョーはあっさりとバスを抜き去り、ぐいぐい加速しながら赤道直下の混雑した道路をミズスマシのように軽やかに走る。
もたつくモペットをぎりぎりでかわし、大型トレーラーのお尻を潜り抜けるように急減速しながら左車線に抜け、車線変更したミニバンの跡地にすっぽりと納まると、まるで図ったかのように真横のわずかな車間に飛び込んでさらに加速する。
それが全然危なげなく、まるであらかじめプログラムされた動きのように正確で安定している。
恐怖心を抱くいとまもない。むしろジャンの運転の華麗さに思わず見惚れてしまった。
「怖くないですか?」
「全然! それよりすごいですね。ジャンさんもしかしてレーサーか何かやってました?」
「いえいえ、長年運転手をやっているだけです」
前を向いたまま冷静に答える彼のリラックスした背中を見ていると、スピードメーターの指し示す速度(なんと110キロオーバー!)の半分も出ていないようにさえ感じられる。
「それよりあなたも少し眠ったほうがいいですよ。向こうに着いたら多分、不眠不休の持久戦になりますから」
その時になって私は初めて気付いた。
「ミスター皆本はその辺りがとてもお上手です。普段はこの通りですが、現場に入ると誰よりもタフで、しかもパワフルです」
しばらくすると、前方にパトカーらしき青い回転灯が目立ち始めた。地元警察による道路封鎖らしい。接近していくと、白と赤のバリケードが無造作に並べられ、若い警官が横柄な態度で車を追い返している。ところがチューインガムを噛みながら運転席を覗き込んで来た若い警官は、ゆっくりと徐行しながらウインドウを降ろしたジャンが掲げたエンブレムに気付いた瞬間に顔色を変え、直立不動の姿勢で敬礼を返す。
ジャンもまた、それが当然といった態度でアクセルを吹かし、警官たちが慌てて取り除くバリケードの隙間を猛然とすり抜けた。
偶然ではない。センターまでにあわせて三回、同じようなやり取りが繰り返された。
「ジャンさんって……」
訳もわからず後部座席で目を丸くする私に向かってニヤリと笑って見せながら、彼はセンターの構内に相変わらずの猛スピードで走りこんだ。
◇◇◇
「おーい、古沢、外線3番にNaRDOから電話ぁ!」
昼休みの人気の無い事務室で机一杯にスポーツ新聞を広げていた課長が大儀そうに声を上げる。
お湯を入れたばかりのカップラーメンを持ったまま給湯室を飛び出した俺は、手近の電話機に飛びつくと点滅している外線のボタンを押す。
「もしもし、古沢です!」
『古沢か? 俺だ、川口だ』
「おう、どうした? 例の件か?」
俺は受話器を右手に持ち替え、割り箸を口にくわえて割り、左手ではカップラーメンのフタを剥がしながら答えた。川口は大学の同期で、自分とは違い第一志望のNaRDOにすんなり入社した羨ましい奴だ。
『ああ、実はな、お前のところから持ち込まれた例のエンジンノズルの件だが……』
「ああ、どうだ! 大した性能だろ? 今回の入札条件にはぴったりだと思うよ。それに……」
『あの、実はその件なんだけどな……』
「どうした? 価格の件ならもう少し相談に乗ってやってもいいぞ」
『違うんだ。実は……』
川口らしくない歯切れの悪さに俺は一抹の不安を感じて黙り込む。
『あのな、落ち着いて聞いてくれよ。言いにくいんだけどな、あのノズルは不採用になったよ』
「は?」
『すまない。購買部からはA級の折り紙つきで推薦したんだが、最終選考委員の一部が猛反対したらしくて……』
「どういうことだよ! お前も評価委員なら良くわかってるだろ。NaRDOの要求性能も品質基準も軽くクリアしているんだ。それに今回はろくな対抗馬もないって話じゃないか! 一体どうして?」
『悪い。俺の所でやれることは精一杯やったつもりなんだけどな……』
「理由は? 一体あのノズルのどこが気に入らなかったんだ?」
『ああ、不採用の理由は〈実績がないからだ〉って』
「おい、そんないい加減な理由ってあるかよ! それじゃ新規参入なんて永久に出来ないじゃないか」
『……お前の言うことはもっともだ。だが選考委員の合議で決めたことだ。俺達にはどうしようもないんだよ。それにこうやって選考過程を外部に漏らす事も本来ならまずいんだ。理解してくれよ』
その先の話は全く耳に入らなかった。
ふと気が付くと、かたわらにいつの間に戻って来たのか席の持ち主の女子社員がふくれっ面で立っており、カップラーメンはすっかり伸びきっていた。
電話はいつの間にか切れていた。
俺は握り締めたままだった受話器を置き、大きなため息をつきながら立ち上がる。
ガタリと椅子が倒れ、瞬間、事務所中が息を潜めたように静まり返った。
「課長……」
「ダメだったか」
無言で頷く俺に、課長は小さく頷くと俺の肩を叩いて席に戻って行った。
ほとんど成功を確信していた案件だけに、理不尽な理由で不採用にされたことが事のほか悔しかった。
俺はホワイトボードに〈川島精機・直帰〉と激しく書きなぐると、壁に掛かっている営業車のキーを引きむしるようにしながら静まり返った事務所を飛び出した。
昼下がりの川島精機には社長と由佳嬢が顔を揃えて待っていた。珍しく工場の上にある社長宅の応接間に通され、最上級の玉露が出された時点で俺は覚悟を決めた。これ以上期待させるわけにはいかない。
「すいません!」
言うなり俺は床にひざまずき、顔を床に擦りつける。
「私の力が足りませんでした。せっかくあんなにご尽力いただいたのに……」
「古沢さん! そんなことしないでください!」
由佳嬢が悲鳴のような声を上げる。
それでもなお頭を下げ続ける俺に、社長は意外なことを言った。
「古沢君、悪いのはあんたじゃなか。とりあえず顔を上げんね」
「実は私達、今回の選考委員が発表された時から、こうなるかも知れないってことはなんとなく予想していたんです」
「え?」
そのまま由佳嬢に引き起こされるようにソファーに戻された俺に、社長は静かな表情で語り始めた。
「このノズルに使った傾斜材料は、元々はわしのオリジナルじゃなか。死んだ息子が最初に研究に手をつけたもんなんよ」
「もしかして、梶ヶ谷の……」
由佳嬢が無言で頷く。その隣で社長は玉露を一口すすり、俺の背後の壁にある阿蘇山の航空写真を眺めながら大きくため息をつく。
「古沢君にもそろそろ知っておってもろたほうがよかね。息子はね、奴に殺されたようなもんたい」
続く社長の告白は俺にとって大きな衝撃だった。
社長の息子はかつて、NaRDOの調達選考委員会の外部有識者メンバーでもある東都工大安藤教授の研究室に在籍し、材料工学を専攻する若き研究者だったという。
だが、研究方針の違いから教授との間に生まれたちょっとした軋轢が原因で、彼は次第に教授から疎まれるようになる。
「それだけじゃなか。安藤が世界的に注目されるきっかけになった超高強度傾斜材の研究論文は、実はうちの息子が実験を繰り返し、その大部分を執筆したもんなんよ」
社長は悔しそうにつぶやいた。俺は墓参りに付き合わされたあの日、どうして由佳嬢があれほど激しい反応を見せたのかがようやく納得できた。
「兄はそれでも、教授に義理立てして論文を連名で発表しようとしていたんです。ですが、教授は内容を精査したいという名目で兄から論文と研究データの全てを借り上げ、かわいがっている別の研究者との連名で学会サイトに勝手に投稿してしまいました」
「そんな……」
「兄の抗議は黙殺され、最後には研究室からも追い出されてしまいました。その事がきっかけで極度の人間不信に陥った兄は、翌年の夏を迎える頃、自ら命を絶ちました」
「……」
俺は玉露の湯飲みを両手に抱えたまま絶句した。
部屋はしんと静まり、遠くで響く電車の警笛さえ聞こえるほど。
「なあ、古沢君」
「あ、はい」
「……君まで諦めんでくれよ」
そう言う社長の目は真剣で、しかも俺に対する気遣いがにじみ出ていた。
俺は無言のまま深くうなずくと、話を聞くうちにすっかり冷めてしまった湯飲みの玉露をぐいっと飲み干した。
川島精機を出ると、日はすでに傾き、空は茜色に染まり始めていた。
玄関まで見送りに出てきた由佳嬢は俺から返された靴べらを抱えたまま何度か言いよどみ、小さくつぶやくように声をかけてきた。
「古沢さん」
「はい?」
「……ごめんなさい」
彼女の目は潤み、口元は今にも泣き出さんばかりにゆがんでいる。
「何を言ってるんですか。社長も由佳さんも、俺に謝る必要なんて全くないです」
「でも……」
「大丈夫ですから。俺は諦めません」
言いながら由佳嬢の肩にポンと両手を添える。
「俺にとっても人生のリベンジなんです。せっかく社長にもらったチャンス、このくらいで投げ出したりしませんから、安心してください」
「本当ですか?」
「もちろんです」
それだけ断言すると、それでもまだ心配そうな表情を見せる彼女ににっこりと微笑み、できるだけ自然を装いながらドアを閉じる。
そうして足早に駐車場に向かいながらいつもの癖で無意識にボイスレコーダーを取り出した俺は、一瞬悩んだあげくそのまま右手に握りこんだ。
「一体何を記録するって言うんだ」
ウインドウが半開きのままの助手席に乱暴にかばんとレコーダーを放り投げ、西日に灼かれて熱くなった運転席に滑り込むと、ハンドルを両手で握り締めながら大きくため息をついた。
(さあ、どうすりゃいいんだ?)
由佳嬢にはああ言ったものの、正直、先の当ては全くなかった。
前世紀の末、宇宙開発事業団、東大宇宙研、航空宇宙技術研の宇宙開発三団体が合併しNaRDOが発足して以降、日本の宇宙開発事業は実質的にNaRDOがその全てを抱え込んでいる。そのNaRDOに見放された以上、少なくとも国内であのロケットノズルに金を出しそうな企業に心当たりはない。
「くそっ、どうしていつもいつもこう、肝心なところで邪魔が入るんだ!」
俺は吐き捨てるようにつぶやいた。
どうしても考えがまとまらず、あの時と同じ絶望的な不安感だけが次第に高まっていく。
(やばいな、こんな状態だと)
心臓が早鐘のように拍動し、全身から冷や汗がにじみ始める。
事故の情景が不意に脳裏にフラッシュバックし、右目だけではなく一時的に左目の視力さえも失い、暗闇に突き落とされたあの瞬間の恐怖が次第に心を蝕み始める。
(やばい、来た!)
典型的なパニック発作の予兆。
俺はハンドルをきつく握り締め、歯を食いしばってそれに耐えた。全身がぶるぶると震え、まるで貧血のように急速に視界が狭まっていく。
「……さん、大丈夫ですか! 古沢さん!」
ドアの開閉音に続き、どこかで女性の叫び声が聞こえる。きつく握り締めた拳がやわらかく包み込まれ、次いで上半身全体がふわりと暖かく抱きしめられる。
「ごめん」
「大丈夫、大丈夫ですから」
「悪い。少しだけ、もう少しだけこのまま……」
頭の片隅では、自分が今、どれだけの醜態をさらしているのか良く判っていた。
声をかけてくれたのは恐らく由佳嬢。五才以上も年の離れた女の子にすがりつき、赤ん坊のようにぶるぶる震えている情けない男。
「大丈夫、もう大丈夫ですから……」
そうやさしくつぶやく由佳嬢に抱きしめられながら、俺は激しいパニックが通り過ぎるのをひたすら待ち続けるしかなかった。
「落ち着いたかね?」
社長はそう笑いかけながら湯飲みを差し出す。先ほどの玉露ではなく、レモン汁と蜂蜜を溶かした白湯がほんわりと湯気を上げていた。
「いや、悪かったね。玉露にはカフェインがコーヒーの三倍近く含まれとるっちゃ。あんたに勧めたらいかんかったんや」
「申し訳ありません。もう十年近く発作は起きていなかったものですから。本当にお恥ずかしい限りです」
俺はソファに縮こまり、冷や汗を浮かべひたすら謝りながら白湯をすする。
「別に恥ずかしがることはなか。うちの息子も研究室を辞めさせられてから何度かそげんな風になった事がある。遠慮なく頼ってくれた方が嬉しかよ」
言いながら胸ポケットから取り出したボイスレコーダーをテーブルに置く。
「車の中に落ちとった。由佳が戻って来んうちに返しとくばい」
俺は恐縮したまま無言で受け取った。
「実はね、前からなんとなく判っとった。そのボイスレコーダー、それがすべてを表しちょう。あんたは、自分の存在そのものを否定しながら、その一方で自己の存在証明をどこかに残したくてもがいとるんよ。夢を無理やり諦めされられて、表向きは平静を装って、大事な友人を傷つけた自分を自分自身で永遠に罰し続けとる」
社長は小さく頷く。
「でも、そげな無茶ば続けたら心のどこかにひずみが来るのは自分でも良くわかっちょうやろう?」
そう諭されるように尋ねられ、小さく頷く。
「この前一緒に飲んだとき、わしはあんたが相当な無理ばしちょることに気がついた。このままではいずれあんたは壊れてしまう。なら、あんたのおかげでここまで立派になった川島精機が、あんたに恩返し出来ることは何やろか。そう思ったとき、ふっと思い出したのがこれやったんよ」
彼はテレビの上に飾ってあったロケットノズルのサンプルを持ち上げ、愛おしそうに撫でながらさらに続ける。
「これがあんたの夢の助けになるんなら、わしらはこれからも全力であんたをサポートする。ばってんが……」
社長はそこで言葉を切り、俺の目を正面から見据えて言った。
「わしはいつの間にかあんたを死んだ息子の代わりに思っちょったよ」
そのまま柔らかく微笑む。
「由佳も、兄が死んで随分長いことふさいじょったけど、あんたがうちに出入りするようになってめっきり明るくなったんよ。だから、もう一度あんたを失うようなことはしたくなか。そのためにこの技術を捨てることになってもわしゃ何も惜しくないっちゃ。頼むけん、それだけはよく理解しといて欲しか」
俺は俯いたまま無言で頷いた。社長の不器用で暖かい心遣いに思わず目頭が熱くなった。
---To be continued---