第七話 転回
謎の老人に連れて行かれたのは、駅前にそびえ立つホテルの最上階にある高級和食レストランだった。
どうやら彼は顔なじみらしく、奥から出てきた女将らしき和服の女性が先にたって店の一番奥の突き当たり、一見さんには開放されていないらしい特別室に案内される。
「今回は初対面ですし、このくらいカジュアルな方が若い人は肩が凝らんでしょう?」
微笑みながら事もなげにいなす老人とは裏腹に、私の方はガチガチに萎縮していた。
(カジュアル? これで?)
まず、高級レストランというもの自体ほとんど縁がない。ごくたまに男に誘われて精一杯無理して着飾ってついて行くと、大体別れ話だったりする。
そんなこともあって、こういう雰囲気はすっかりトラウマになっていたのだ。
「そんなに緊張しなくても、捕って喰いはしませんよ」
オーダーを取り終えた店員が去り、私たちは襖で仕切られた小部屋に取り残された。森光老人は私が警戒していると勘違いしたらしく、おしぼりを手渡しながら柔らかく笑う。
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
間が持たない。こういう時は何か話題を見つけてしゃべりだしてしまうに限る。
「あ、あの、失礼ですが森光さんはどういう経歴のお方なんですか? それに、先ほどは満天の星空をご覧になったことがあるとおっしゃってましたが?」
「ああ、その事ですか」
老人はおしぼりを広げてゆっくりと両手を清めると、どこか遠いところを見るように目を細めた。
「わしは以前、中東から原油を運ぶタンカーに乗り組んでいたことがありましてね、と言っても、正式な乗組員ではなく、ほとんど行儀見習いのような立場でしたが……」
「失礼いたします」
声と共に襖が開き、若い女中が食器や料理の載ったお盆を持って入ってきた。女中は鋳物の四角い鍋をテーブルの真ん中にどかんとセットすると、小鉢を差し出しながら料理について事細かに説明を始める。どうやらここは豆腐料理の専門店らしい。
「女中さん、後は儂が自分でやるからええよ」
ひとしきり説明を終えたところで老人はこの無作法な女中にやんわりと声をかける。確かに、この店の常連らしい彼にしてみたら何度も聞かされた台詞のはずで、若い女中も指摘されてようやくそれに気付いたらしく、顔を赤くしながら恐縮して小間を出て行った。
再び二人きりになり、鍋がコトコトと煮える音だけが小部屋に響く。客席は半分以上埋まっていたはずだけど、その喧噪もここまでは届かない。
「さて、どこまで話しましたかな」
老人は湯飲みにちょいと口をつけると、再び口を開いた。
「これまで他人に話した事はないんですが、わしは学生の頃、いわゆる登校拒否児だったんですよ。病弱で、しかも過保護に育ったせいかどうしても学校に馴染めませんでな」
「はあ」
「それで、見かねた親父がどうせ学校に行かないのならと自分の会社のタンカーに儂を放り込みまして。逃げ場のない船の上で、荒っぽい海の男の中でもまれれば多少は強くなると考えたのかも知れません」
その瞬間、私ははっとした。
「あ、もしかして森光って、あの『森光興産』の? 石油元売最大手の!」
老人はいたずらが見つかった子供のように照れくさそうに頭を掻いた。
「そういう事になりますなぁ。もう、とうの昔に隠居しましたが」
身震いを抑えられず、私は思わず湯飲みのお茶をグビリと飲み干した。よりにもよって日本版メジャーのご隠居にナンパされるとは思いもよらなかった。
「まあ、そんなわけでわしは二年ほどタンカーに乗り組んで、ペルシャ湾と日本の間を行ったり来たりしてました。最初はやはりどうにも辛くてね、眠れずに夜中に船室から抜け出しては、夜空に広がる天の川を眺めては寂しさを紛らわせておったんです」
「でも、海の上で見る星空って」
「そう、陸地の明かりが全く届きませんから、それはもう神々しいほどに見事なものですよ。その後しばらくして船を降り、どうにか大学を出て働き始めてもあの頃の星空が忘れられず、しょっちゅう営業をサボっては、その頃渋谷の駅前にあったプラネタリウムに入り浸っておりました。そうでもしないと東京では星は見えませんからね。でも、やがてそこも閉鎖になり、おまけに富士の噴火で空が濁ってしまいましたから」
老人はそのまま寂しそうに小鉢ををつつく。
確かに、今の東京で星空なんてほとんど望めない。金星や月すらもどんよりと濁ってしまうほどだから、天の川なんて望むべくもない。
「あげく、数年前に大病いたしまして、今じゃちょっとした旅行すらもままなりません。生きているうちに、もう一度あの包まれるような星空を体験してみたかったんですよ。まさかそれが、こんな身近で体験できるなんて……」
私は老人のあの慟哭の奥にあったものをようやく理解した。
この寂しい老人になら理解してもらえるかも知れない。私は恐る恐る切り出した。
「実は、私もこの前、初めてあのプラネタリウムの星を見て泣いてしまったんです」
老人は(ほう?)という顔で私を見つめる。
「学生時代から宇宙にひたすらあこがれて、結局今の仕事も宇宙に関係してます。でも、いろんなしがらみでがんじがらめになって最近ちょっと辛かったものですから」
「聞いてますよ。あなたのところは軌道エレベーターを造ろうとなさってる。まさに天まで届くバベルの塔ですな」
「ご存知なんですか?」
「今、経済界であの奔放な野武士のうわさが出ない日はありません。皆、密かに注目はしておるんですぞ」」
「そうなんですか、でも、敵も多い人ですから、なかなかうまく行かないんです」
私は小さくため息をついた。
「まあ、確かに、今の日本で何かを変えようと思ったら、必ずと言っていいほど既存勢力の激しい抵抗に阻まれてしまいますな。でも、そこであきらめたら何も変えられない。儂は、彼のような人間が他でもないこの現代日本に現れてくれたことに心から感謝しておるんですよ。 彼ならば恐らく……」
「え?」
老人は鍋のふたを取り、立ち上る湯気に目を細める。
「ほら、そろそろ食べごろですな。年寄りの愚痴話はこの辺にしていただくとしましょうか」
それっきり老人は話を切り上げ、私たちはひたすら料理に舌鼓を打った。確かに彼が勧めるだけあって出てくるどの料理も結構美味で、デザートの和風シャーベットがテーブルに乗る頃には悩み事を忘れるほど満足していた。
店を出た私は立ち止まり、深呼吸しながら何気なく夜空を見上げた。ふと気付くと隣で老人も上を見上げている。
「あなた方の軌道エレベーターなら、わしのような弱い人間でも宇宙にいけますかな?」
「え? ええ、恐らく」
つぶやきのような問いに慌てて振り向くと、彼はすでに車に乗り込んでいた。
「今晩はあなたみたいな若い女性とお話できて楽しかったですよ。今後の活躍を楽しみにしてます。ではごきげんよう」
食事の礼を言う暇もなかった。蜂の羽音のようなシンクロナスモーターの低いうなりを伴い、高級セダンはまるでネオンに溶け込むように遠ざかっていった。
昨日の不思議な出来事をぐるぐる考えてなかなか寝付けず、うつらうつらしてはっと気付くとすでに遅刻寸前の時間だった。慌てて着替え髪もセットしないままアパートを飛び出すと、いきなり全速力でダッシュする。今日もカンカン照りの晴天で、見る間に汗が噴き出し、駅に付く頃にはブラウスが透けて見えるほど汗びっしょりだった。経済新聞を広げながら横目でちらちら盗み見をするオヤジを睨みつけると、右手につかんだままだったサマースーツを羽織り、ちょうど滑り込んできた満員の電車に飛び乗る。かすかにフィトンチッドの香る強力な冷房にたちまち汗は引いたものの、今度は汗ばんだブラウスが冷えて猛烈に寒い。
「ああもうっ!」
小さく舌打ちをすると、そばでスマホの画面に見入っていた若い男性がぎょっとしたように顔を上げる。
「あ、すいません」
ついていない。なんとなくささくれ立った気分のままいらいらと電車に揺られ、そのままミッションルームに駆け込んだ私は、周りの空気がいつもと違うことにすぐには気付かなかった。
「先輩」
寄って来た小松にわき腹を小突かれて顔を上げると、室長が引きつった顔をして社長室に隣接した秘書室から出てくるところだった。
「あ、全員そのままで聞いてくれ。今朝のテレビニュースですでに知っている者もいると思うが、日本時間の今朝午前五時四十分、現地時間午後四時四十分、仏領ギニアのクールー宇宙港でテロが発生した。テロリストはアリアン用の発射台を打ち上げ準備中のアリアン6もろとも爆破、その上管制施設に大量の爆弾を持ち込み、職員を人質になお立てこもっている。現在のところ、テロリストの正体は不明、規模も要求も不明、解決のめどは全く立っていないそうだ」
(え?)
私は自分の耳を疑った。
クールーと言えばフランスのCNES(フランス国立宇宙研究センター)、それにESA(ヨーロッパ宇宙機関)が運営する世界有数の宇宙港で、軌道塔プロジェクトの資材も全てここから打ち上げられる予定だった。それが発射台ごと破壊されたとなれば、計画に多大な影響が生じる。
確かに重大な事態だが、室長をはじめ周囲の緊張度合いはそんな生易しいものではない。
「え、なに、何? もしかして?!」
小松が緊張しきった表情で小さく頷いた。途端、額に冷や汗がにじみ、脈拍がいきなり跳ね上がったのが自分でもわかる。
「秘書室に確認した所、今のところ社長からの定時連絡は途絶えている。社長は現地時間の午後四時にクールー宇宙港を訪問する予定で、テロに巻き込まれた可能性が極めて高い。よって、当ミッションルームは社長の安否が確認されるまで通常業務を停止し、臨時の対策本部として機能する事になった。危機管理チームのメンバーがまもなく合流するから協力して事に当たるように。詳しくは十五分後、各セクションのリーダーを集めて会議を行うので準備する事。それまでは外部からの問い合わせに対しては箝口令を引く。全て調査中と返答すること。いいな! ……と、それから安原!」
「はい!」
「ちょっと……」
室長が手招きをしている。私は小松と顔を見合わせ、心臓をバクバクいわせたまま彼に促されるように秘書室に入った。
「ほう」
中に入った途端、部屋の中央で腕組みをしていた浅黒い顔のやたらがっちりした中年男が私を上から下まで眺め回す。
(最近こういうシュチュエーション多いよなあ)
昨日とはまた違った居心地の悪さに身体を硬くしていると、男はスカートの外からいきなり私のお尻をぺろんとなで上げた。
「ひゃっ! な、何をするんですか!」
悲鳴と共に反射的に男をぶん殴ろうとした私の拳は、しかし寸前で男の大きな手のひらでがっちりとブロックされる。
「ほお、グーで来るか」
「え?」
「反射神経と向こうっ気の強さは合格。しかし筋肉は少し細いようだな。何かスポーツは?」
「は? え? 大学で長距離を少し。何です?」
「持久力に自信は? フルマラソン出場の経験は?」
「ええ、ハーフなら以前一、二度。あの?」
男は勝手に一人で納得すると、私を無視して手近の電話を取り、何事か話し始めた。
「あの、室長? どういうことなんですか?」
だが、室長は答えるより早く私を部屋の隅に私を引っ張っていくと、プラチナ色のカードと今どきまず見ないごつい外観の携帯電話を取り出した。
「すぐに仏領ギアナに飛べ。このカード、お前の判断で金はいくらでも使っていい。こっちは衛星携帯電話で、短縮にミッションルーム直通番号がセットしてある。間もなく屋上のヘリポートから成田までヘリが出る。それに乗れ」
「え、私一人で、ですか? それにパスポートが自宅に……」
「パスポートは山本に取りにやらせた。もう戻るはずだ。それから彼は」
言いながらさっきの中年男を目線で示して、
「うちと契約しているリスクコンサルタントだ。仲良くやってくれ」
「って、室長! いまあの人私のお尻を触ったんですよ!」
「ああ、初対面の挨拶みたいなものらしい。筋肉の付き具合を見るんだと。それに、相手の反応で大体の性格とパニック耐性が判るとも言っていたよ。まあ気にするな」
「気にするなって……いきなりあんなセクハラ!」
「クレームは後だ。お前の任務は彼とテロリストの交渉を補佐する事、それからクールーの被害状況をよく見て、我々の軌道塔計画にどの程度影響するか徹底的に調査する事だ。いいな」
「でも、私みたいなペーペーが行かなくても、社内にはいくらでも優秀な人材がいるんじゃ……」
室長はそう言いかける私の顔をじっと見て、真剣な目つきで断言した。
「安原、いい加減に新人気分は捨てろ。社長がどうしてお前を主査補なんてポストに抜擢したのか、よく考えてみることだ。判ったら行け」
黙り込む私を目線で促し、室長は部屋を出て行った。
「あ、あの、ヘリが着きます」
若い女性秘書が緊張した面持ちで告げる。
気が付くと電話を終えた中年男が先ほどとは打って変わり、獲物を睨む虎のな鋭い目つきでこっちを見つめている。
私は観念した。多分これも運命なんだ。
「姉ちゃん、準備はいいか?」
「安原です!」
「よし、安原! 覚悟はいいな」
数分後、真っ白な機体にカンパニーロゴが大きく染め抜かれた高速ジェットヘリ、ベル450は私たち二人を乗せて地上を離れ、成田に向けて矢の様な加速を開始した。
---To be continued---