第六話 失意
その後の一週間、私の主査補としての初仕事は突如キャンセルされてしまった『ナノカーボロン』に替わる資材調査に費やされることになった。
カーボンナノチューブはもともと炭素繊維メーカーの多い日本で開発が先行した技術でもあり、同等品を製造しているメーカーを探すことはそれほど難しいものでもない。
少なくとも、最初はそう思っていた。
実際、単なる問い合わせのつもりで別の繊維会社へ電話をかけ、こちらの必要な材料とその量(初回発注なんと4万キロメートル!)を口にするだけで、その日のうちに担当者はおろか営業部長、場合によっては担当重役までもが顔をそろえてすっ飛んで来る。
彼らは異口同音に「弊社の生産体制は万全です。品質も量も、必ずや貴社のご希望に添えるものと自負しております」と自信満々の笑顔でセールストークを繰り広げるが、翌日、早いときにはその日の夕方、これまた判で押したように神妙な口調で、「慎重に検討した結果、弊社の生産体制では貴社の要求にお応えすることは難しく……」と断ってくる。
どうやら、帝繊の一件が業界内でアンタッチャブルになっているらしく、数日後、五社目に電話をかけた時点ではついにこちらの社名を出しただけで断られるようになってしまった。
そして、金曜日の深夜。
「だめです。ヨーロッパ全滅です」
「中東・アジアもまったくです」
休日を前にして、手分けして電話をかけ続けていた小松と山本が疲れ果てた表情で報告して来た。
最後の手段として海外までリサーチの幅を拡げた私たちだったが、そもそもカーボンナノチューブを生産しているメーカーが予想以上に少ないことにまず愕然とする。
それでも一縷の望みをかけて連絡を取りまくるが、結局戻って来たのはコレクションできそうなくらいの否定句のオンパレード。
「先輩、もう無理ですよ。何か別の方法を考えましょうよ~」
小松が机に突っ伏しながら悲鳴を上げた。
私はこの一週間で無駄に積みあがった各社の製品パンフレットの山を見上げ、びっしりと手書きのメモが張り込まれ、一面赤いバツ印だらけのメーカーリストに改めて目を落とす。
小松の言うような「別の方法」が存在し得ないことは最初から判っていた。
カーボンナノチューブが究極の繊維と呼ばれるのは、これを超える強固な分子間結合が理論上考えられないからで、これまでの素材を小手先の技術でいくら改良したところで追いつけやしないのだ。
「軌道塔を実現するためにはカーボンナノチューブでなくては駄目なの」
「でも、世界中の誰ひとり、私たちにそれを売ってくれないんですよ!」
小松の苛立ちもよくわかる。言うまでもなく、私たちは完全な手詰まり状態の中に陥っていた。
「今日はここまでにしましょう。私も休みの間よく考えてみるから」
二人を送り出し無人となったミッションルームで、私は目の前のメモ用紙に書かれた走り書きを睨みつけながら再び考え込んだ。
“Sicウイスカー”
メモ用紙にはただ一行。
カーボンナノチューブをどうしても使えない場合、それに替わる材料はないかとの問いに、研究室のスタッフが挙げた答えがそれだった。
『ただね、あくまで理論的に可能というだけで、グラフェンやナノチューブみたいな炭素系素材に研究の主眼が行っちゃってからはこっち方面の研究はちょっと停滞している。実際、ウイスカーは細長い結晶状態が関の山で、普通は金属や樹脂材料に混入して強度を増す、一種のつなぎとして使用している程度。ワイヤーに加工できるほどの長いウイスカーは未だに実現していないんだ』
電話の向こうで、研究所のスタッフは丁寧にそう説明してくれた。
つまり、製品レベルのものが出てくるまで、まだまだ十年単位の時間がかかることを意味している。
それに、もしウイスカーワイヤーが製品として存在したとしても、強度的にはまったく足りない。無理にそれを使うとすれば、軌道塔は静止衛星軌道上で直径十キロ、地上への接続点で直径十メートルという、二つの超細長い円錐形の底を張り合わせたようなへんてこりんな形にならざるを得ない。
おまけにその円錐の中身にはみっちりこのウイスカーのワイヤーを詰め込む必要があるらしく、どう考えても実用的な建築物とは言いにくい。
私は無言でゆっくりと立ち上がり、ミッションルームの片隅にある社長室へと続くドアに歩み寄る。
しばらくためらったが、思い切って小さくノックしてみた。
部屋の主は私に辞令を言い渡した後、急遽南米に飛び、まだ日本に戻っていない。だが、私はドアに向かってつぶやくように問いかけた。
「社長は私に何をさせたいんですか? それに、あなただったらこんな時どうするんですか?」
もちろん、静まり返った無人の部屋から答えが戻ってくるはずもなかった。
翌日、オーブンの中のような蒸し暑さで目が覚めたときはすでに昼を回っていた。
私はベッドの上に四つんばいになると猫のように大きく背中を伸ばし、そのままくるりと仰向けになると、足を上げた反動で一気に上半身を起こす。
富士山の大噴火で太陽光線が遮られ、温暖化のペースが多少鈍ったとはいえ、地球は着実に暖まりつつある。遠からぬ将来、夏の昼間は外出禁止令が出るだろう。
「うーん」
うなりながら目をこすり、床に転がっていたリモコンを足で押してエアコンをつけると、なぜか誤作動して年代物の液晶テレビのスイッチまでもオンになった。
小さなため息をつき、ボリュームを絞りきった音のない画面をぼーっと眺める。
一点豪華にお金をつぎ込んだ空気清浄機能付のエアコンがよどんだ空気をゆっくりとかき回し、高酸素エアが次第に室内に満ちる。
そのうちにようやく大脳が回転し始めた。
昨日は結局日付が変わるまで会社で粘った。
リストに小松たちが付けたバツ印の電話番号に改めて長距離通話を申し込むものの進展はなく、そのうち終電も過ぎ、タクシーで帰宅せざるを得なかった。
悔しかった。
どうして私が天に手を伸ばそうとすると、いつも不思議に抗えない力が私の行いを邪魔するのか。
“今度こそ!”
その想いは、この一週間の騒ぎですでに挫折気味だった。
「こんなんじゃ駄目だ!」
私は自分を叱りつけ、壁のコルクボードに目を向ける。
そこには、高校三年の夏休み、完成したばかりの全金属ボディロケットをいとおしそうに、まるで赤ん坊でも抱くように抱えた上機嫌の私と古沢。そして物理部のみんなで撮った最初で最後の記念写真が貼ってあった。
すっかり変色し、エアコンの風に頼りなさそうに揺れるその紙片は、たった一つだけ残ったあの頃の思い出。
残りの写真は、何年もかけて描きためたロケットの設計図や計算書、そして結構な数の技術資料と一緒に母に燃やされてしまった。
退院して初めてその事を知った私だが、母を責めることはできなかった。母にとって見れば大事な一人娘を傷物にされた憎い敵に違いなく、現にこうしてしっかり嫁ぎ遅れている。
同時に古沢とは直接会うことはもちろん、スマホでメッセージを送り合うことすら禁じられた。
富士山噴火で大学が長期休講になり、かといってさすがにふらふら旅行するのもためらわれ、心配してひっきりなしに電話してくる母の圧力に負けて仕方なく帰郷しようと成田(羽田は火山灰の影響で完全に封鎖されていた)のロビーでいつ乗れるかもわからないキャンセル待ちの列に並んだあの日。あの驚くような偶然がなければ、今でもお互い消息不明のままだっただろうと思う。
キャンセル待ちの長い列はいつまでも解消せず、トイレに行こうと何気なく振り向いたすぐ後ろに並んでいたのが古沢だった。
彼は相当驚いたらしく、私に気づいた瞬間片方しかない目を丸くしてあんぐりと口を開け、そのままの状態でたっぷり五秒は凍り付いていた。ただ、その次の瞬間彼の発した台詞には懐かしさを通り越した一種の安らぎさえ覚えた。ああ、彼は変わっていない、あの頃のロケッティアのままだと確信できたから。
「またランデブーできてよかった。軌道計算を間違えたのかとずっと思っていたよ」
寝起きに昔のことを思い出したから、という訳ではないけれど、午後、気が付くと私は森林公園に向かっていた。
ミスター金に星を見る余裕を持てと勧められたからというだけではなく、私自身、もう一度あの不思議なプラネタリウムの星空をゆっくりと眺めてみたかったのだ。
休日の緑地公園はあの日とは打って変わって家族連れやカップルで一杯だった。まるで公園全体に子供の笑い声が溢れかえっているようで、猛暑の中、少し傾きかけた日差しを浴びながら元気よく駆け回るお子様方のタフネスぶりに少し嫉妬する。
プラネタリウムもずっと一杯で、私が入場できたのは結局十八時の最終投影になった。さすがにこの時間になると子供連れは姿を消し、場内にはカップルの姿ばかりが目立つ。自分たちの世界に浸っていちゃつくカップルのそばに寄りたくなかった私は、白髪の老紳士のとなりにぽつんと一つだけ空いた席を見つけて腰掛けた。開始のチャイムと共に場内がゆっくりと暗くなり、ヒーリング系のBGMが控えめに流れ始める。
私はリクライニングシートにゆっくりと背中を預け、木訥とした、しかし耳に心地よい男性解説員の声に誘われるように大きく深呼吸をする。
ドームの明かりが完全に消え、夕闇の向こうに一つ、また一つと人工の星が瞬き始めた。
フライトの見込みが立たないまま、キャンセル待ちをあきらめた人が一人抜け、二人抜けして、気が付くといつの間にか私たちは短くなった列の一番前になっていた。
待ち合わせロビーに差し込む夕日は赤く染まり、ANAカウンター後ろの壁に表示されたフライトスケジュールもどんどん少なくなっていく。
心細い思いでそれを見つめる私たちの視線の先で、最後の福岡行フライトナンバーが突然「遅延」から赤文字の「欠航」に変わり、同時に受付の女性が気の毒そうな表情で近づいてきた。
「福岡行きキャンセルをお待ちの古沢様と安原様ですね。大変申し訳ございませんが本日のフライトはすべてキャンセルになってしまいましたので、明日以降改めてキャンセル待ちをお申し込みになるか、あるいは改めてご予約いただき……」
「予約を申し込むといつのフライトに乗れますか?」
古沢が彼女の言葉を遮るように質問する。
「そうですね、現時点でご予約いただきますと、一週間後の便に空席がございます。ただ、噴火や降灰の具合によっては突然空港が閉鎖になることも考えられますので、申し訳ございませんが確約はいたしかねます」
私たちは顔を見合わせた。当初の激しいパニックは収まり、一部では地方に避難していた人が戻ってきているというニュースもあったのだけど、日本一の山、富士山のいつ果てるとも知れない噴火に耐えかね、東京に見切りをつける人もまだまだ多いというわけだ。
「安原、とりあえず戻ろうか」
異論はなかった。
もともと私もそれほど切羽詰って東京を逃げ出したかったわけでもない。生まれつき神経が鈍いのか、サッシを締め切っていてもどこからか入り込んでくる火山灰で部屋中がじゃりじゃりと埃まみれになり、舞い上がる灰のせいでのどが痛む事さえ我慢すれば、この宙ぶらりんのような状況もそれほど苦ではなかった。
先行きを悲観して自殺者が急増し、円レートが一ドル四百円を超えて輸出産業はぼろぼろ、国内は総パニックで一部では略奪騒ぎまで発生している。だが。
「安原、ほら、満月だ」
空港ビルを出たところで古沢が東の空に昇ってきたばかりの満月をのんびりと指差した。
血に染まったように真っ赤な満月。
だが、それを見つめる古沢の瞳はあくまでもクールだった。まるであの頃の情熱がまるで夢だったかのように。
「とりあえず俺、車だから、よかったら都内まで送るよ」
小さく微笑みながら彼がそう提案した瞬間、私はようやく気づいた。
彼の瞳。そう、失った右目の代わりに埋め込まれた冷たい人工の瞳に引きずられるように、彼自身、昔に比べてずっと無表情になっている事に。
「古沢、きみ……」
彼は答えず、色のない寂しげな微笑を返しただけだった。
暗闇にかすかに響く嗚咽にふと我に返ると、投影はすでにクライマックス、大銀河横断の場面だった。
アルファ・ケンタウリの冷たい輝きと共に南十字が私たちの眼前に大きくせり上がってくる。まるで超高速で夜空を飛翔するような心地よい酔いに身を任せていると、再び押し殺したような嗚咽が響いた。
(何?)
すっかり興ざめした私は、星を見上げながら慟哭しているのがすぐ隣の老人だったことに気づいて内心眉をしかめた。せっかく夜空に浸ろうとやってきたのに……。
老人はさめざめと涙を流し続ける。
自身のハンカチは早々に使い物にならなくなったらしく、時折鼻をすする音までが館内に響く。
周りの非難めいた視線に(私じゃない!)と言いたいのをこらえ、バッグのなかからハンカチを取り出し無言で老人に差し出す。
老人はわずかに躊躇したものそれを受け取り、涙といわず鼻水と言わずごしごしと拭い始める。
(あー、これはもう……)
やがてドーム内が明るくなり、朝日と共に投影が終わった。
なんとなく釈然としないまま席を立った私は、老人の呼び止める声に一瞬怒りさえ覚える。
「お嬢さん、本当にご迷惑をおかけしました」
だが、振り返ってみると、確かに泣きはらして赤い目をしてはいるものの、先ほどまでの取り乱しようはすっかり影を潜め、再び上品な老紳士のイメージを取り戻していた。
「まったく面目ございません。もう終生あんな見事な星空を見ることは叶うまいと諦めていたものですから、思いがけず満天の天の川に再会して気持ちを抑えることができませんでした」
そう言われると怒るに怒れない。私自身、前回の投影では思わず涙をこぼしてしまったのだから。
「ああ、申し遅れました。私こういうもので……」
老人は電話番号とメールアドレスの他には中央にただ一行「森光重昭」と、ここだけ達筆で黒々と墨書された名刺を差し出した。
サラリーマンの性で思わず私も反射的に支給されたばかりの新しい名刺を差し出してしまう。
「ほお……、あの野武士社長の会社ですな。それにその若さで主査補とは……」
老人は目を丸くすると、改めて私を頭の先からつま先まで眺め回す。さすがに居心地の悪さを感じた私は、早々に立ち去ろうとお辞儀をして歩きかけた。
「あ、ハンカチ」
「いえ、結構です。よかったらお持ちください」
「いやいや、そうは参りません。お詫びに何か……そう、よかったらこの後夕食に付き合っていただけませんか? 無論、無理にとは申しませんが」
私はちょっとだけ考えた末、その申し出を受けることにした。
この繊細さとずうずうしさが同居した不思議な老人の話を聞いてみたいという興味が沸いたからだ。それに、立ち振る舞いは上品だし、まさか老人一人の力でどうこうされる事もないだろうし。
だが、彼と連れ立ってゆっくりと木立を抜けて坂を下り、公園の入り口に設けられた駐車場に着いた途端、私は後悔した。
「お疲れ様でした」
びしっと制服を着こなした運転手が老人に頭を下げ、ナトリウムランプの光を浴びてつややかに光る黒塗り高級大型セダンの後部ドアを恭しく開く。
「おじいさん、これ?」
「どうぞ、遠慮なくお乗りなさい」
ドアに手を添えて待つ運転手に促され仕方なく車に乗り込んだ私は、豪華な革張りシートの座り心地の良さに再び圧倒される。そんな私に構わず、車はコアレスモーターの低い唸りを響かせながら、夜の街をまるですべるように走り始めた。
---To be continued---