第五話 転属
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投影が終わり、ドーム内部がすっかり明るくなっても、私は放心状態のまま動けずにいた。
ドームを埋め尽くす人工の星々の、あまりのリアルさに魂を奪われてしまったのだ。
子供の頃見たプラネタリウムがまるで玩具に思えてしまう程の恐ろしいほどの立体感だった。
それに、満天の星々に包まれて、私はあの時捨てたはずの宇宙への憧れが今もなお、心の中心にどっかりと居座っている事に今更ながらに気づかされていた。
「大丈夫ですか?」
ドーム内が明るくなっても立ち上がろうとしない私を気遣ってか、国府田女史がコンソールから遠慮がちに声をかけてきた。
私は慌てて立ち上がり、いつの間にか頬が濡れているのに気づいて思わず赤面する。
「はい、大丈夫です。ちょっとぼうっとしてしまって……」
急いでバッグからティッシュを取り出し、ぞんざいに涙を拭いながら無理やり笑みを浮かべてみる。
「すいません、最近なぜか涙腺がゆるくて」
だが、女史はそんな私を笑うことなく、うなずきながら小さく微笑む。
「多いんです。あなたの様に、普段バリバリと仕事をこなされているような大人の方ほど、この星空を見て感動されるようですね。この前も……」
言いながらドーム中央のプラネタリウムに視線を向ける。
外のホールに展示されていた巨大な鉄アレイのような機械とは対照的な、頼りないほど小さなガラスの球体がそこにはあった。
直径三十センチほどの深いブルーに輝く球体は、有機的な曲線でデザインされた細身のアームに支えられ、まるで虚空に浮かぶ惑星のようにゆっくりと自転しながらきらきらと輝いている。球体に穴や継ぎ目はどこにもない。ドーム内の照明を受け、ただ、油に濡れたように虹色の光を反射するそれは、まるでガラス工芸のように繊細ではかなく、自分の目で見ていなければ、これがあれほど迫力のある星空を映し出していた装置だとはとても思えなかった。
「今はもう、高解像度のレーザープロジェクターで星空を映し出すシステムが主流で、ウチみたいに光学投影機と使い分けている施設は少なくなりました。この機械を作っていただいたエンジニアも、もうずいぶん前に引退されてしまいましたし……」
ガラスの球体を食い入るように見つめる私にそんな説明を加えた後、国府田女子は思い直したようにさっき言いかけたセリフを再開する。
「……そういえば、お客さんと同年代の背の高い男性で、番組が終わってもずっとこの前で立ち尽くしていらっしゃった方がいらっしゃいましたよ。ちょっと変わった外見の方で」
「変わった外見?」
「ええ、あの、初代ゴジラの映画に出てこられた科学者、芹沢博士のような……」
〈古沢だ〉
なんだそのマニアックな表現は……と思いながら、私はそう直感した。もし彼がこの星空に感じたものが私のそれと同じだとすれば、彼の反応は簡単に想像できる。
彼はたぶん、仁王立ちのまま無言で何度も頷き、感動のあまり涙をぽろぽろとこぼした私とは対照的に、満面に満足そうな笑みを浮かべていたはずだ。
私たちのロケットが初めて音速を超え、雷鳴のような轟きと共にまっすぐ天へ駆け上って行ったあの日のように。
「もしご気分が悪いようでしたら、しばらく医務室でお休みになりますか?」
再び鼻の奥がつんとして思わず眉をしかめた私に、国府田女史は心配そうに声をかける。
「いえ、大丈夫です」
私はすんと鼻をすすり、無理に笑顔を浮かべて答えた。
懐かしかった。
久しぶりに純粋だったあの頃の心のときめきを思い出して、最近もやもやしていた気持ちがいつのまにかすっきりと晴れ渡っていた。
女史に丁寧に礼を言い、私は来たときよりも確実に軽くなった足取りでプラネタリウムのドームを後にした。いつの間にか林は夜の青い闇に沈み、メタセコイヤの梢で金星がぎらりと白い光を放っていた。
月曜日、朝十時。
私は社長室の続きにあるミッションルームに立っていた。
最近まで西サハラ灌漑事業の立ち上げスタッフでごった返していた広いフロアは、新しい社長直轄プロジェクトチームの入居まで、つかの間、静寂の中にある。
「安原、突っ立っていないでとりあえず座れ」
社長の通る声が部屋中に響き渡った。
防音の効いた室内には他に人影もなく、壁のクォーツ時計の秒針の動く音が聞こえるほどしんと静まり返っている。
私はぎこちなく椅子に腰を落とし、キャスターがギシッと音を立てたのに思わず息を飲む。
社長が読み進む企画書の、ページを繰る音以外まったく物音のしない室内で、私は汗ばんだ手をぐっと握り締めたまま彼のネクタイの結び目をひたすら凝視していた。
「安原」
「はい!」
いきなり呼ばれて思わず声が上ずってしまう。
「おい、そう緊張するな」
社長は苦笑交じりに小さく笑う。しかし、一介の平社員が、いきなり伝説のカリスマ社長と二人っきりで差し向かいに座って緊張しないでなんていられるものだろうか?
「この企画書、お前一人で書いたのか?」
「はい、あ、いえ、最後に室長にお見せして、一部は手直しをいただきました」
「そうか、安原は、この企画で軌道塔を救えると思うか?」
アメリカの計画離脱を受けて、世界的に東アジア軌道塔計画そのものに懐疑的な目が向けられているのは確かだ。
華僑シンジケートの参加が不透明な今、日本を含むアジア諸国の出資だけですべての資金を調達できる可能性は確かに低い。地元の有力者、ミスター金はがんばってくれているけど、私にも正直言って百パーセントの自信はなかった。
「なんとか計画を実現したい気持ちは誰にも負けません。でも、客観的に見るとまだまだ前途多難……」
「だろうな」
社長は小さく頷きながら企画書を指先でトントンと突く。
「宇宙、低重力工学の先端研究施設、住宅、ショッピングセンター、そしてレジャーランドを軌道塔の根元に誘致して都市をつくる。企画としては確かに小奇麗にまとまっている。ただな、金の匂いが薄い」
「金の匂い……ですか?」
「そう。もっとどぎつい金儲けの匂いがしないと資本家どもは資金を出そうとしないだろう。まして赤道直下の小島に何万人もの人間を呼び寄せようというのなら、もう二ひねりくらいは欲しい。この企画だけでは正直難しい」
「そうですか……」
私はため息をついた。
「まあいい、その辺のさじ加減は俺の分野だな。検討結果は後で連絡する。よくやった」
社長は企画書をばさりと閉じると、背もたれに寄りかかってネクタイを緩め、大きく息を吐いた。
「それより安原、お前午後からこのフロアに引っ越して来い」
「は!?」
「軌道塔計画は明日から直轄プロジェクトに格上げする。これは週末の役員会ですでに決定済だ」
「え、でも今、難しいと……」
「おいおい、これがどこでも出来る簡単な仕事だったら競争が激しくて大きな利益なんて出せないだろう。そういうしょぼい仕事はよそ様にお任せして、あえて困難な道を選ぶ。うちの存在意義はそこにある。お前もこれから会社の一翼を担う立場になるんだから、その辺よく肝に銘じておけ」
「はい……え?」
社長のお説教に素直に頷きかけた私は、最後の一言にひっかっかって思わず彼の顔を凝視してしまう。社長はそんな反応が楽しかったのか、にやりと笑うと紅茶色の瞳を閃かせて付け加える。
「今日付けで辞令が出てる。東アジア軌道塔プロジェクト、主査補に任命する。簡単に言えば雑用係兼よろず調査係だ。これまでの仕事と兼務だからな。気を抜くな」
「あの、あの?」
私はいきなり言い渡された内容の重さにびっくりして口をパクパクさせるがそれ以上何も出てこない。社長は立ち上がりながら不思議な感情のこもったまなざしで私を見つめると、私の肩をぽんと叩いてそのまま部屋を出て行った。
釈然としないままデスクに戻ると、引越し担当スタッフが早々と作業を済ませた後らしく、乱雑に積み上げられていた資料や引き出しの中に放り込みっぱなしだった書類はきれいさっぱりと整理され、デスクサイドのコンピューターや電話機、机の端っこになんとなく集めていたお菓子の付録のフィギアまでもろともカートンに収められていた。うちの会社はプロジェクトごとにスタッフが離合集散を繰り返すため、社内間の席移動が多く、そのための専門部署まで存在する。社員は朝辞令を受け取って身一つで新しい部署に行くだけで、午後にはそれまで通りの執務環境が本人を待っているというわけだ。
「あ、安原主査補! サインお願いします」
自分の席とは思えないほど片付いたデスクにうろたえていた私は、聞きなれない役職で声をかけられてもすぐには気づかなかった。肩を叩かれて慌てて振り向くと、社長のニックネームでもあるツキノワグマをあしらって黒いクマのシルエットを染め抜いた作業服姿のデリバリースタッフが無言のまますっと伝票を差し出した。請われるままにサインをした瞬間、新たに数人の作業服がどこからともなく現れ、あっという間に荷物を運び去っていった。私はその展開の速さにあっけに取られたまま、呆然とその姿を見送るしかなかった。
「安原先輩、おめでとうございます」
と、急に見通しのよくなったデスクの向かい側から、私より一つだけ年下のチームメイトが声をかけて来る。
「小松、あなたも異動なの?」
「はい、軌道塔プロジェクト全体が直轄になりましたから、私もミッションルームの住人ですよ~」
彼女は憧れのミッションルーム勤務が純粋にうれしいらしく、言葉の語尾が踊っている。
「それより先輩すごいです! 私と一つしか違わないのにいきなり特別職ですよ」
「なによその特別職って?」
「え、先輩知らないんですか?」
「……知らない」
小松ははーっとため息をつき、芝居がかったしぐさでよろよろとよろめくとデスクに右手をつき、空いた左手の人差し指と親指で眉間をつまむ。
「一般職は職種に関わらず主任、係長、課長ってランクがあがっていくでしょ。でも、先輩のような職種には上下がないんです。例えば主査補の上には主査がいるだけで、その上は全部社長直轄です。社長と対等に話できるようになるんですよ」
「でも、社長なら別に今話してきたばっかりだけど?」
小松は目を丸くした。
「それより、主査って誰? うちにそんな人いたかな?」
「それが、うちの部署では空きポストなんです」
「……ということは、上は社長に直接ってわけか」
ますます社長の思惑がわからない。先日の件といい、今日の話といい、普通、入社三年目のぺーぺーに関わらせるような話ではない。それなのに、社長はともかく室長までこのイレギュラーな人事に何の疑問も抱かないなんておかしすぎる。
「……んぱい、先輩、聞いてます?」
小松はいつの間にか黙り込んでしまった私の顔を覗き込むと、
「それより、どうせ午後までは引越しで仕事なんてできませんから、早めのランチにしませんか? 先輩の昇進祝いに私、おごります!」
そう言いながらえへんと胸を張った。
女だてらに百八十センチの長身を気にして普段は猫背気味の彼女だが、はっきり言って巨乳だ。背筋を伸ばすとそのモデル並みのプロポーションがぐっと引き立つ。
身長百五十センチそこそこ、上から下まで真っ平らの私はもはや嫉妬すらする気にならない。
「え!」
「あ、信用していないでしょ? 私だってここぞと言う時には投資を惜しみませんよ」
「と、いうことは交換条件があるわけ?」
「へへー、社長とどんな話をしたのか聞かせてください」
「やっぱり、そんな事だと……」
「そんなことよりほら、早く早く」
そう急かす小松に腕を引っ張られながら、私自身、この急展開がどうしても理解できなかった。
ランチを終え、ミッションルームに新たに作られた自分の席に戻った私は、自称クロクマ引越し便のスタッフの見事さに唖然とした。今朝まで元の部屋の私の席で、まるで三次元パズルのように乱雑に積み上げられていた書類の山はここでも忠実に再現されており、絶妙なバランスでかろうじてその上に留まっている電話機の位置まで完璧だった。
だが、突然鳴り始めた電話が書類の大雪崩を引き起こしながら椅子の上まで滑り落ち、彼らのせっかくの労作はほんの一時間もしないうちに無になってしまう。
「あーあ、はい! 安原です」
崩れ落ちた書類を掘り返し、いやな予感を感じながらようやく受話器を取った私は、次の瞬間相手の言葉にそのままの姿勢で凍りついた。
「え、『ナノカーボロン03』の受注がキャンセル? 何、それ?」
電話の相手は同期の購買担当者だった。
『こっちも訳がわからないんだ。帝繊の営業担当者からさっきいきなり電話があって、すでに受け付けている百リール、千キロ分の先行発注も含めて、今後の取引をすべて白紙に戻したいと言って来た』
「どういうことなの? 一方的な受注破棄は契約違反でしょ? 先方はそれを承知してるの?」
『それが……違約金はいくらでも払うって言ってるんだ』
「は?!」
私は受話器を持つ右手が震えはじめるのを抑えることができなかった。
『ナノカーボロン』はフラーレンと呼ばれる特殊な分子構造を持った炭素繊維、カーボンナノチューブの商品名で、私が子供の頃ようやく実用化された究極の繊維だ。
その特徴は一言でいうと「とにかく切れない」事。
特にこの03シリーズは、三層ナノチューブという特別な構造だそうで、同じ太さの超高張力鋼ワイヤーの約四十倍という恐ろしい強度を持ち、重さはアルミニウムの半分程度しかない。直径たった数ミリのワイヤーで新幹線車両を一両どころか丸ごと一編成持ち上げるほどの猛烈な強度を持つ。
私たちはこのワイヤーを静止衛星軌道から地上に垂らし、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のように、それを足がかりにしてはるか3万6千キロの宇宙空間までよじ登ろうともくろんでいたのだ。他のどんな材料もこれほどの軽さと強度は実現できず、そもそも『ナノカーボロン』の存在なくして軌道塔計画の実現もなかっただろう。
だが、しかし。
『……これは未確認情報だからそのつもりで聞いてほしいんだけど、アメリカに本社のあるユニオンファイバーという会社が帝繊を丸ごと買収する話があるらしくて、どうやら向こうさんの同意がない相手には『ナノカーボロン』を売れないようになったらしい』
「それって、実質的な……」
『そうだ。ユニオンファイバーの会長は米政府高官の親族だという噂もある。東アジア軌道塔の場合は戦略物資としての輸出制限から外れているから、こんなやり方で我々にちょっかいを出してきたんだと思うよ』
それ以上の話は耳に入らなかった。目の前の風景がぐるぐると回り、頭ががんがんと割れるように痛む。よりにもよって、計画の最もかなめとなる資材をこんなやり方で押さえてくるなんて。
私は受話器を握り締めたままふらふらとその場にうずくまった。
---To be continued---